映画『ペパーミント・キャンディー』の文脈

タカマサさんにコメントをいただいた。反応してくれるのでは?と おもっていたので、うれしゅうございます。

まず、わたしの文脈をかたることから はじめよう。『ペパーミント・キャンディー』について かんがえながら想起していた映画は『殺人の追憶』だ。『殺人の追憶』は、じっさいに80年代の韓国で おこった「連続婦女暴行殺人事件」をえがいた映画である。犯人が いまだ つかまっていないだけに、観客の興味関心は、「犯人はだれなのか」に むけられる。映画自体も、そのように おもわせるように つくられている。とても、よくできた映画だ。しかし、「犯人はだれなのか」に注目を集中させることによって警察の暴力に免罪符をあたえている。くわしい映画評は つぎの機会にゆずるが、ともかく、『殺人の追憶』をみることで、わたしのなかでは「暴力がいかに免罪されるか」という着眼点が できあがっていたわけである。

それにつけくわえ、ヨンセ大学メディア研究所編『ハッカ飴[パッカサタン]』に収録されたキム・ソヨン「‘われわれ’のなまえで わたしをよばないで―「パッカサッタン」と差異の政治学」をぱらよみしたという事情もある。映画評論家として活躍するキム・ソヨンは、日本の雑誌にもいくつか論考が翻訳・紹介されている。上記の論考も、書誌情報が しるされていないが、『現代思想』に掲載されたものだという(時間をみつけて『現代思想』の収録号をみつけたい)。キム・ソヨンの評文は、フェミニズムの視点から解読するというものだ(「免罪符」についても批判的に論じられている)。

イ・チャンドン監督作品は、『グリーン・フィッシュ』と『オアシス』をみたことがある。『グリーン・フィッシュ』はそれほど ぱっとしないが、ラストの情感には感じるところがあった。『オアシス』にかんしては、それほど肯定的に評価する気にはなれない。いずれ『オアシス』にも ふれることにしよう。わたしのなかでは「イ・チャンドン監督が社会派? ほんとに そうかな」という懐疑的な先入観が できてしまっている。

『ペパーミント・キャンディー』にたいして わたしが批判したいのは ふたつだ。ひとつは、主人公を免罪することは、かれの被害者をわすれることであるということ。もうひとつは、あの「クァンジュ」がなかったら、ヨンホは純粋でありつづけたか? そうではないだろうという点だ。その疑念には、韓国の家父長性的権力にたいする認識が背景にある。イ・チャンドンはクァンジュに原因をもとめる(インタビュー183ページを参照)が、わたしはクァンジュは現代韓国における国家暴力の歴史の象徴のひとつだとみなす。

「大事件」ばかりに とらわれていては、「ささいなことに ひそむ暴力」が みすごされてしまう。それを問題化したのが韓国『当代批評』誌における「日常的ファシズム論」であろう。その問題意識は、『当代批評』を主宰するムン・ブシクの著書『失われた記憶を求めて―狂気の時代を考える』(現代企画室)をよんでも つたわってくる。国家暴力のさなかに いきるものは、暴力の被害者でありつつも、暴力の にないてとして、すでに国家暴力に同化してしまっているのである。国家暴力を批判しつつも、半分だか どれくらいだかは、その色にそまっているというジレンマ。それを問題化してきたのは、ムン・ブシクのような反省的知識人であり、フェミニストたちであった(日常的ファシズム論については、水野直樹=みずの・なおき編『生活の中の植民地主義』収録チョン・グンシク「植民地支配、身体規律、「健康」」でも紹介されている)。

「クァンジュ以前/以後」という かきかたをしたが、「『ペパーミント・キャンディー』以前/以後」という くわけもできる。たとえば、人気ロックバンドであるユン・ドヒョンバンドは、この映画に触発され映画と同タイトルの歌をつくった。自己主張しない歌詞であるが、この映画の内容が真摯に うけとめられたであろう手ごたえがある。

公開当時 韓国にいたわけでないので、社会の反応は伝聞でしか しらないし、その伝聞も記憶に のこっていない。ともかくヒット作であったことは まちがいない。

ここから以下は、ウェブ上の文章を紹介することにしたい。「光州民主化の精神を伝える表現者たち◆映画『ペパーミントキャンディ』◆ドラマ『砂時計』『第五共和国』」という記事がある。ひじょうに参考になる。

タカマサさんのコメントにある『五月―夢の国』をつくった監督が『選択』という映画をつくっている。韓国の実在する非転向長期囚をえがいた映画だ。以前にもリンクしたが、『ハンギョレ21』誌に掲載された監督/脚本家のインタビューがよめる(「[映画] 不和の時代, 暖かい響き」)。

非転向長期囚については『送還日記』というドキュメンタリーが つくられており、森達也(もり・たつや)による解説本が出版されている(森達也 編著『送還日記』)。

『五月―夢の国』にかんしては、ソチョンのホームページ 韓国映画とハングル内の記事「五月―夢の国」を参照。このサイトには、当然ながら『ペパーミントキャンディー』の記事もある(「ペパーミント・キャンディー」)。「映画の主人公と同世代の40代以上の観客を数多く集めたのも話題となった」とのことだ。

『ペパーミント・キャンディー』をみたあと、日常生活にもどった「同世代」のひとたちに、どのような変化がもたらされたのだろうか。興味ぶかいところだ。


それでは、これくらいに。
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映画『ペパーミント・キャンディー』

映画『ペパーミント・キャンディー』―それは純粋への回帰ではない

「オレは、かえる!」という絶叫。はたして、どこに。「オレをこんなにしてしまったヤツをころす」。はたして、それは だれなのか。悲劇は、かえるところなどないということ、かえることは できないということではない。かえったところで、かわるものはない、ということだ。

時代の産物、社会の産物でありながら、同時に意志をもつ存在だということ。それが、責任の所在、因果関係をぼやけたものにする。いや、「これ!」という原因など、あげられるわけがないのだ。

時代を逆にはしる列車。最後にたどりつくのは、「クァンジュ以前」である。「クァンジュ以後」は、政治犯を拷問する刑事であり、1980年5月、「クァンジュ」のさなかには、高校生を事故で銃殺してしまう。だが、「クァンジュ以前」は、組合運動に参加したこともある人物である。はたして、それや初恋が「純粋」だったあかしであり、クァンジュが「オレをこんなにしてしまったのか」。

監督・脚本をつとめたイ・チャンドンは、インタビューにこたえ、クァンジュ以前を純粋、クァンジュ以後を非純粋とみなしていることをみとめている。そしてそれは、クァンジュのトラウマが うみだしたのだという(ヨンセ大学メディア研究所編 2003 『ハッカ飴[パッカサッタン]』図書出版サミン、朝鮮語、183ページ)。

韓国が軍事独裁政権であったのは、クァンジュ以前も以後もかわらない(1987年まで)。政治犯を拷問していたのも、もちろん同様だ。ただ、主人公ヨンホは、まさに あの5月に兵役中であり、その後 刑事になったということなのだ。ヨンホのうまれが、すこし はやかったら? 70年代に20代をおくっていたら? それなら かわっていたと いえるのか。かわるというのは、なにがか?

クァンジュ以前は純粋だったというのは、幻想である。ヨンホにとっては そうだったとは いえるだろう。しかし、もうひとりのヨンホ。かずしれないヨンホをイメージしてみるとよい。ヨンホの一生は必然か? 時代の被害者か? しかたが なかったのか。

ヨンホに免罪符をあたえてしまうなら、その時点で、「ヨンホの被害者たち」は わすれさられる。「ちがうヨンホ」もありえたということは、すでにヨンホの同級生が しめしているはずである。

しかしだ。あの時代に軍人であること、刑事であることは、のがれることのできない巨大な権力の手ごまであることだったのだ。つまり、両義的なのである。

われわれは、社会の産物であると同時に、自分の意志をもっているからだ。

被害者であり、加害者であるということ。そのような存在をうみだしたのは、あきらかに国家権力である。しかし、被害者の存在を忘却するかたちでヨンホに免罪符をあたえてはならないのではないか。

なにごとも、どこに視点をおくのかによって、印象は ことなってくる。この映画には、家父長的な男性群に免罪符をあたえ、ノスタルジーに ひたらせる効果がそなわっている。その効果に ききめがあるかどうか、それに順応するかどうかをきめるのは、わたしや あなたの意志ではないか。

「クァンジュ」とは なんだったのかをとうだけで、韓国の現代史は かたれない。いや、「クァンジュとは なんだったのか」というのは、もっと ひろがりをもつ といであるはずなのだ。


もちろん、1980年うまれの多数派日本人が、えらそうな口をたたけるものではない。なんというゴタクセンだろうとも感じる。しかし、同時代に あらわれた映画にたいし、意見をのべる権利はあるはずだ。イ・チャンドンにも表現の自由があり、わたしにも批評する自由がある。ひとまず、そのことに感謝したい。それは、自由をかちとってきた人たちにだ。

また5月が すぎていきます。

グーグル:「ペパーミント・キャンディー」
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「自然」概念をかんがえる

丸山康司『サルと人間の環境問題―ニホンザルをめぐる自然保護と獣害のはざまから』昭和堂という本がでている。

たちよみして もくじをみただけだが、「自然」概念を、ちょっと ほりさげてみたくなった。まえまえから興味はあったのだけど、ては つけていなかったものでね。

以下、検索で みつけたものを列挙。著者名は、略します。

『翻訳の思想―「自然」とNATURE』ちくま学芸文庫
『一語の辞典 自然』三省堂
『神と自然の科学史』講談社選書メチエ
『「自然」概念の形成史―中国・日本・ヨーロッパ』農山漁村文化協会
『自然概念の哲学的変遷』世界思想社
『自然観の変遷』学術図書出版社
『自然の文化人類学』東京大学出版会
『自然と文化の人類学』八千代出版
『自然観の人類学』榕樹書林
『科学と自然観』東方出版
『近代的自然観と哲学―現代の科学と哲学』農山漁村文化協会
『科学は「自然」をどう語ってきたか―物理学の論理と自然観』ミネルヴァ書房

もっともっとありそうだねえ。アプローチも、翻訳語論、文化人類学、科学史/科学論、哲学、エコロジーなどなどと、いろいろあるようで。自然になにを対比させて議論しているのかにも よりますしね。

てもとにある文献では、『人類学のコモンセンス―文化人類学入門』収録の小田昌教(おだ・まさのり)「自然―ケニア人は自然の風景を見るか」と、柳父章(やなぶ・あきら)『翻訳語成立事情』の7章「自然―翻訳語の生んだ誤解」だけ。ううむ。

まあ、それだけに『サルと人間の環境問題』は おもしろそうだったのよね。どのサイトにも、くわしい もくじが のってなくて残念。

ところで、「自然観」ということばには、すでに「自然」を客体視する自然観が ふくまれているよね。 / けどさあ、「ここも宇宙だよ」(マンガ『プラネテス』のフレーズ)みたいな、「わたしたちも自然の一部」ってのも、いまでは陳腐になってしまった観もあるがね。 / って、ちゃぶだい ひっくりかえさなくても いいじゃないか(笑)。

たとえば「里山は自然であるか」って、なかなか だいじな といであろうと おもうけどね。どうですか。/ まあね。そんな、もしかしたら不毛な こたえさがしのために、自然概念をといなおすわけじゃないんだろうけど。 / それでは、なんのためですかっ。 / そんなの、あたしに きかれても こまるんだからねっ。(………。 / いや、つい…。)
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再会のしかた

学部時代のともだちからメールがきているのに気づいた。かなり感動。

ケータイの番号とメールをおしえて返信。→ケータイで はなす→あれこれ わらいばなし、その後と近況報告、「タケシマ」について解説(笑)→インターネットやってる? / やってる。→mixiやってる? / やってる / 爆笑。→じゃ、あとはmixiで、ということに。これぞ現代っこの再会のしかたなのやもしれません。ウェブに縁がないひとも、かなりいるけどね。同世代にも。

わたしが卒業をひかえた2002年の2月だと おもうんだが、わたし、おーくん、なーくん、やーくんでカラオケにいきましたやね。なーくんが尾崎豊(おざき・ゆたか)の「卒業」をうたってたのが記憶にのこってますよ。しらない曲だったので、けっこう感心したのよね。「人は誰も縛られた かよわき小羊ならば 先生あなたは かよわき大人の 代弁者なのか」っていうフレーズね。おっと おもいましたね(ジャスラックは どーぞ つぶれてください)。

そっか。なーくん、ぶじ卒業してたのかあ。卒論はフーコーですかあ。あー、うれしい再会だ。

むかし、なーくんに つげ義春(つげ・よしはる)のマンガをすすめられて、なーくんの部屋で よんだが、まったく ひっかからず。去年になって ようやく魅力に気づいた。なーくんらしい趣味だよね。

メッセンジャーとか、mixiとか、あとは まあメールとか。便利なもんですね。ことしは、あちこち旅行にいきたいものだ。
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すべての少数派は障害者である

おもわず ひざをたたいた。佐倉智美(さくら・ともみ)『性同一性障害の社会学』現代書館のことである。

もくじをみて、これは いいという印象をうけた。もくじに「トランスジェンダーと障害学~「障害者用トイレ」からノーマライゼーションを考える」をみつけて、これは?と、むねをおどらせました。

きました。きました。これこれ。
つまり「性同一性”障害”」が「障害」ではないとしたら、なんのことはない、一般的な障害者の障害も、じつは「障害」ではなかったのである。「セクシャルマイノリティ」という用語になぞらえれば、身体障害者は身体的マイノリティ、知的障害者なら知的マイノリティだったのだ(202-203ページ)
そうなのですよ。「性同一性障害」というくくりに違和感をおぼえ、「障害」というのは ちがうのではないか?という疑問をもつのは ただしい。けれども、たしかに病理的存在はいるのだという前提をゆるがすことなしに、「トランスジェンダーは障害じゃない」と いってしまうことには、あきらかな おとしあながあるのだ。

それは、「「病気じゃない!」が実体化するもの」に かいたとおりである。

障害学をやっているひと、関心があるひとに ぜひとも おさえておいていただきたい文献は、木村晴美(きむら・はるみ)/市田泰弘(いちだ・やすひろ)「ろう文化宣言以後」であります。ハーラン・レイン編 2000『聾の経験―18世紀における手話の「発見」』という、多少お値段のはる本に特別掲載された原稿である。3度にわたって活字化された「ろう文化宣言」よりも はるかに知名度が おちるが、とても重要な文献であると おもっている。
…障害者運動のほうもすでに病理的視点から社会的視点へと転換しているのだという主張がある(長瀬修氏)。しかし、そのような「社会的視点」に立てば、すべての「障害」は相対化され、誰もがある意味では「障害者」であるということになってしまう。そのような主張に異義を唱える気はないが、そこで用いられている「障害者」という言葉は、もはや「少数者」(あるいは「社会的弱者」)という言葉と同義であることに注意する必要がある。もしも、さまざまな「少数者」(そこには「言語的少数者」も含まれる)の中で「障害者」というグループを特化しようとするならば、そこには「病理的な視点」が欠かせないはずである。まず、病理的な意味での「障害」をもつ人たちがいて、その人たちが必要に応じて(本当に「必要」なのか、誰にとって「必要」なのかが問題なのではあるが)一括りにされて「障害者」と呼ばれるのでなければ、「障害者」という言葉自体、存在意義がないのである(単に「少数者」と呼べばよい)。(398ページ)
どうだろうか。社会的事実として、いま現に社会で「障害者」とみなされているということに根拠をおくならば、「病理的な視点」は障害学内部に ふくまれるのではなく、社会に属している、とはいえる。だが、障害学が社会的障壁と身体的損傷を区別し、社会的障壁=社会的に「できなくさせられていること」を問題化していくならば、障害学の課題は、「いわゆる障害者」にかんすることだけには とどまらないはずである。

現代思想編集部編『ろう文化』をよんで、学部生だった当時とても参考になったのが、長瀬修(ながせ・おさむ)「<障害>の視点から見たろう文化」だった。これをよんで かんがえたのは、視覚障害者とは情報障害者のことであるということだった。

移動障害者、情報障害者…。さまざまな表現が かんがえられるわけだが、ちょっと まってほしい。たとえば、情報障害者というのは、たんに いわゆる知的障害者、聴覚障害者、視覚障害者に限定されるものだろうか? 言語的少数派は いかに。貧困者は いかに。

まじめに障害学をするということは、ある部分において、ある意味において、「障害学をすてさること」であると、わたしは かんがえている。

障害学の用語に社会モデルというのがある。医療モデルや個人モデルに対比される概念で、障害者の「問題」とは、個々人の身体に問題があるのではなく、社会に問題があるのだという明確な主張のことだ。重要なのは、社会モデルという用語ではない。問題意識である。社会モデルという、なんだか こむつかしそうに感じさせる用語(あるいは、業界内部でだけ通用する用語)を乱用することもまた、社会モデルの精神に反することであると かんがえてきた。だから、ほかのひとが社会モデルという用語をつかうことには まったく反対しないが、わたしは、社会モデルということばは、これまでも つかってはいないし、これからも つかうつもりはない。


そんなことをいう わたしは、原理主義者なのだろうか。それはともかく、ある部分において、このように かんがえておくことも、また必要なことだと かんがえるのである。

付記:引用ミスがありましたので訂正しました(5月25日)。
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映画『マラソン』

映画評を訳した一週間後に当の映画をみた(それってどうなのって いわないでね。はぁと)。韓国の映画『マラソン』でございます。

自閉者がマラソンをするという話なのだが、母と子の関係をうまく えがいている。まだ おさないころに、母は動物園で子の手をはなしてしまう。当時、そだてていく自信をうしなっていたからという。けれど、いちど手をはなすことで、この子とは「はなれられない」と感じることになる。なにか ひとつ さずけたい。それがマラソンだった。母は、マラソンをおしえること、はしらせることが いきがいになる。

飲酒運転で200時間の社会奉仕を義務づけられ、コーチをすることになった元マラソン選手が印象的だ。てきとーで、口ぎたなく、いいかげんに主人公チョウォンと接する。肩に ちからの はいった母とは、ちがった存在だ。

チョウォンには きょうだいがいる。父親もいる。けれど、「母」はチョウォンだけを気にかける。夫やきょうだいの気もちが はなれていくのは当然のなりゆきで、関係に和解がおとずれるのは、「母」が おもいあらため、よろいをぬいだときだ。

ひとは、波のように ゆれうごく。おもいあがりもし、まいあがりもし、はたまた後悔し、くいあらためる。「執着」が ほどかれたとき、カードをうらがえすように、もうマラソンは「させない」という。ひとが、なにかをみつけるのは、自分をしばりあげていたクサリをほどいたあと、あらためて冷静になってみたあとである。

本人の意思とは関係なくマラソンさせることも、させないことも、方向にちがいはあれど、結局は おなじことをしている。「この子」がすきなことは なんだといえば、チョコパイとジャージャー麺とシマウマである。それは わかっている。では、マラソンはどうか。それは、いったんは わからないことである。本人に きけば わかる、内面をのぞいてみたら わかる、というものだろうか。

「ほんとうに すきなこと」はなにかと きかれ、すぐさま即答できるひとはすくない。「ほんとうに」というのが、やっかいなところだ。ほんとうに すきなこと。さめた目でみれば、そんなものは偶然であったり、これまで つみかさねてきたものが あるからというだけで、「ほんとうに」というのは幻想だ、ごまかしだ、いいきかせてるだけだ、という話になる。しかし、たとえ幻想であろうと、このさき どうであろうとも、「いま」わたしは こうありたい、こうしたいと おもっているというだけで じゅうぶんではないか? 「ほんとうに そうなのか」という といは、一種のワナではないか。すきだということも、きらいだということも、「すきであり、きらいでもある」ということも、そんなに オーゲサに とらえる必要はない。肩のこる話はやめて、自分をほどかなくてはならない。よくは わからないけれど、すきなのかもしれない。わたしは、そこで とどめておきたい。それ以上とらわれてしまうと、いつのまにか うそになってしまうからだ。うそといえば つよい表現になるが、ともかく、自分に いいきかせるようになるからだ。

どこかで、いいかげんにならないといけない。でないと、人間が すくわれない。

おっと、はなしが それたようです。

『マラソン』は いい映画です。きちんと感動できるラストを用意しています。「動物王国」というテレビ番組のナレーションであるセレンゲティ草原の動物たちの おはなしが、うまく物語と くみあわされている。

母親は、いろんなことをさとり、家族は和解する。映画のクライマックスでは、チョウォンの日常の断面しか しらなかった ひとびとが、マラソンをするチョウォンに拍手をおくるシーンが うつされる。奇異の目をむけていた ひとびとが、こんどは拍手をおくる。これもまた、カードをうらがえしただけのことだ。評価する側と、評価される側は固定化されたままである。評価する側は、もういちどチョウォンと対面する必要がある。こんどは、劇場やテレビのまえではなく、日常をいきる「チョウォン」と「わたし」としてである。そうすれば、なにかをさとるにいたるであろうか。「評価する われわれ自身」のありかたをみつめることが できるであろうか。

「ほんとうの」ハッピーエンドは まだ、これからだ。(ここで、「ほんとうの」がでてくるのね。やるじゃないか。わたし。(いや、ただの おもいつきです。

グーグル:「マラソン チョウォン」
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映画評ってのも むずかしいやな

金曜日に映画評を訳していて感じたんだが、なかなか むずかしいものだね。映画を論じるってのも。なんか これを検討するぞっていうのをひとつ かんがえて、それを軸に論じれば いいわけだけどもさ。いちばん だめなのは、ある問題意識が自分のなかにあるんだけど、それを映画を論評しながら かたろうとはするんだけど、映画については なにも論じてないのも同然ってことに おわってしまうみたいな。

あんま あらすじをかいてしまうのも いかんよねえ。まだ みてない人どーすんのってことになるし、だけども、それをいうてては かけなくなることが たくさんでてくるし。まあ、かきはじめるまえの構想をきちんと ねらないと、どんな文章であれ、たいしたものは かけませんわね。とは いっても、どんどん かいていくしか しょうがないわけで。まあ、努力してください。ていねいに文章をかくのが なにより だいじですよ。

ひとのことをいうてる場合じゃないな。わたしも。活字になったら おしらせしますが、翻訳ってのも むずかしいやね。わたしらしい文体には なっているが(え、それってどうなの)、つっこみどころが あちこちにあるだけに、翻訳者として自分のなまえが でるのは、ちょっと いやな気もする。まいっか。わるいのは原文ですからっ(ちょっと、それひどいじゃないの(笑))。

翻訳でも通訳でも そうなんだが、自分としては納得のいかないことを訳さないと いけないケースもでてくるわけでさ。「だめだし」を通訳するのなんて、へこみますよ。ぼろくそに いうてるのをそのまま訳すのってものさ、通訳者も機械じゃないわけで、だけども、機械に徹するくらいのが「プロ」なわけで。まあ、わたしは通訳のみを業務にしてゼニをもらったことはなくて、ボランティアか、あとは勤務するレストランで通訳「も」するくらいってだけ。学部のときプロの通訳者さんに はなしをきいていて、たいへんなのねえと おもいましたよ。

最近また北京語で通訳というか、解説をするようになったです。留学生がふたり接客のバイトに はいったものでね。なにか おしえられてるときに、あー、通じてないっぽいなというときに、こういう意味だよ、みたいな感じで。

まあ、なにをするにしてもプロであること、それをくいぶちにすることってのは たいへんなこった。って、ありきたりなことをかきたかったのかしらね。わたしは。

そのうち韓国映画『殺人の追憶』の回想文でも ちろっと かくので、ついでに ある映画評をいっしょに紹介するので、ゆるしておくれ。みなさまよ。3年くらいまえに みた映画だから、詳細は おぼえてないんだがな。まあ、わかりやすい映画であるよ。

「問題」はいかに正当化され、その「問題」に免罪符をあたえ、観客たちを「ある欲望」に さそいこむのか。「プロパガンダ」のありようを、『殺人の追憶』にみることができる。わたしのなかで『殺人の追憶』の追憶は、テグ地下鉄 火災事件とセットになっているのだよな。あれは、もとは放火だったのだけれど、問題の とび火のしかたが すごかった。ま、それも こんど かきます。そいじゃ。
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アドレナリン

アドレナリンのちからというのは、すごいですね。いやね、じっさいアドレナリンが作用したのか なんなのか しらないけどさ。

テレビですよ、テレビ。土曜の5時すぎに仕事さきのレストランがテレビにでたんですけどね、ありえないっす。6時からの お客さんの はいりよう。ゴールデンウイークだし土曜だしというのに くわえて、テレビですからねえ。で、まあ土曜は まだ よかったんだけど、日曜のひるは死ぬかと おもいましたね、ええ。ゆうがたまでにピザ70枚以上やいてるやんけ。いろんなものが なくなってて、おわれまくりでした。

でね、休憩になってねーよと いいたくなるほどの1時間休憩のあと、うわ、だるー。うごきたくねええええって感じだったのですけど、いざ注文が はいってみると、平気なのですよね。うごけるのなんのって。「めずらしく あべっち元気じゃな」などと いわれる。

たまにあることですが、アドレナリンが きいてるのだろうなと。まあ、はやいはなし、無理してるということなので、家にかえったあとの つかれっぷりが しゃれにならない。世間の連休中には結局1日しか やすみなかったし、今度の金曜まで やすみねーやんけ、あほんだら。………そんなふうにグチってる ひまはないのよと翻訳の依頼がくる。みじかい原稿だそう。まあビジネスだ。

◆障害学会が6月のあたまにあるのだけど、やっぱ いかねばーという感じ。去年の大会より、断然たのしめそうです。

あーそうそう。店長いわく、「やべえ、あべくん放送コードにひっかかった」ということで、わたしは一瞬しか うつってませんでした。ま、「お約束」ということで。ぷげら。

グーグル:「アドレナリン」
ウィキペディア:「アドレナリン」
リンク:障害学会第3回大会(長野大会)のご案内 / 障害学会第3回大会 プログラム
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本が あふれかえる

こないだと本日かってきた本をご紹介。

◆三浦耕吉郎(みうら・こうきちろう)『構造的差別のソシオグラフィ―社会を書く/差別を解く』世界思想社。執筆者がいいやね。◆エリクセン『エスニシティとナショナリズム』明石書店。網羅的でいいんじゃないかしら。辞書のように つかえそう。

◆平英美(たいら・ひでみ)/中河伸俊(なかがわ・ひでとし)編『新版 構築主義の社会学―実在論争を超えて』世界思想社。だいぶまえにチャットで「オントロジカル・ゲリマンダリング」という表現をきいて、なにそれ意味不明とか おもったことがあったのだけど、この本をよめば全貌があきらかに(笑)。上野千鶴子(うえの・ちづこ)編『構築主義とは何か』のなかの千田有紀(せんだ・ゆき)「構築主義の系譜学」にも解説はありますけどもね。ところで、◆『社会構築主義への招待』の著者ビビアン・バー(ヴィヴィアン・バー)の◆『社会心理学が描く人間の姿』というのが でてますね。教科書的な内容にみえて かわなかったのだけど。

◆鎌田明子(かまた・あきこ)『性と生殖の女性学』世界思想社。女性学の本をかうのは ひさびさのような気がするね。ていうか、ほとんど よんでない。この本は、いろんな小説、評論、映画を題材にしていて、内容も豊富。まさに ひもときたい本でありますよ。

◆小熊英二(おぐま・えいじ)『日本という国』理論社。よりみちパン!セ。わたしの巡回さきのブログでは まだ ふれられてないのが、ちょっと不思議。しられてないのか(笑)。シリーズ中、もっともオカタイ本ではないのかしら。これは、これでいい。大著をものすイメージが定着している小熊さんが、かわいい装丁の本をだすことに意義があるのだ(笑)。

◆サルツブルグ『統計学を拓いた異才たち』日本経済新聞社。統計学が もたらしたものをかんがえるには、こういう本も よまねばなるまいよ。

◆野沢和弘(のざわ・かずひろ)/北村肇(きたむら・はじめ)編著『発達障害とメディア』現代人文社。こういう本は、もっともっと出版されねばならんねえ。◆野沢和弘『わかりやすさの本質』生活人新書。「新聞記者と知的障害者が、ともに取材・執筆・編集に挑戦する「ステージ」の知恵と工夫を紹介」(とびらより)。とりあえず、この『ステージ』をよみたいよね。日本語学/日本語教育学専攻のひとらが だした◆『わたしを語ることばを求めて―表現することへの希望』という本があるのだけど、これとあわせて『わかりやすさの本質』をよんでみようと おもう。

◆小泉義之(こいずみ・よしゆき)『病いの哲学』ちくま新書。こういう哲学者のなまえが ならぶ本は あまりすきではない。けれども、すくなくとも「スキモノ」のみなさんに、「病人の生を肯定し擁護する「病いの哲学」」が とどくのならば、それはそれで意義があるのでしょう。スキモノでない わたしは、いいとこどりするだけです。

◆宮坂道夫(みやさか・みちお)『ハンセン病 重監房の記録』集英社新書。第4章「世界最悪のパターナリズム」との文言に圧倒された。「「重監房」とは、群馬県草津町の国立ハンセン病療養所栗生楽泉園[くりゆうらくせんえん]にあった懲罰施設である」(8ページ)。1938年に設置され、47年まで運用された(8ページ)。この重監房を復元しようという運動があり、それが終章で紹介されている。
重監房をわざわざ復元することのいちばん大きな理由は、私たちの想像力の限界にあるのかもしれない。重監房の「殺意」は、あの異様な建物の構造にこそ表れている。これを可能な限り復元して、暗黒と冷気に閉ざされた独房に、私たちは入ってみる必要があるのではないか。(166ページ)
マンガは、◆佐藤マコト(さとう・まこと)『サトラレneo』1巻と、◆業田良家(ごうだ・よしいえ)『執念の刑事』上下。

そんなとこです。
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そして時間は ながれてく

5月だというではないですか。

世間は、連休だそうですね。わたしは、今週やすみあるんだろかと おもったら、ふつかも やすみが ございましたよ。

漫然とすぎていく時間に あせりながらも、だからといって なにをするわけでもない、この日常の連続に、すこし いやになってしまう。大学院にいったとして、なんなんだ。時間に余裕があることで、論文は、それは もちろん かけるでしょう。けれども、それ以上に だらける自分というものをしっている。定職ではないからといって、なんなんだ。これほどラクで、たのしみながら時間をすごせる職業はない。料理の仕事が やっぱり すきなのだ。「ただのアルバイト」ではなくなったからといって、なんなんだ。自由にできる時間は からだをやすめる時間にかわり、わがままも いえなくなったが、逆にラクになったことも たくさんある。

どのような環境でも、それなりに おりあいをつけ、ときには合理化し、ときには不満をぶつけ、それでも たのしんで いきていける。それは たしかだ。わたしは そんな人間だ。無理だと おもっていたことも、いつのまにかに できている。

以前のように勉学にはげんでいなくとも、それでも これまでの蓄積というものがあり、かたることばは つきることない。だから、それをかきあげれば いいわけで。だけど、それが なかなかできなくて。

刺激が たりないのだろうと おもう。刺激のためになら、どこか とおくにいってしまえそうな気がする。けれども、そんな刺激など、ただの理想化された幻想なのではないか。そうおもってしまうところが、たぶんわたしの足かせなのだろう。

わたしは、たぶん、あまったれなのだな。それが、すこし くやしい。けれども、どんな自分でも、やっぱり自分がすきだ。まったくもって おめでたい。

べつに感傷的になってるのではないのだけどね。あ、そうか。5月病というやつか(笑)。たぶん、ちがいます(笑)。とにかく、バランスをとりたい。
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