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いま、そのとき、かんがえつつあること。

つかれても「生きよ堕ちよ」

2006-02-28 | にんげん
2月は、いろんなことが かなさってしまい、どうも しんどかった。公開の場で いうたぐいのことではないので、べつに あかさないけど(笑)。だいぶ安静をとりもどしました。そもそもダンスが…(以下自主規制(ぇ。。ダンス……w) ←スルーしてください。いあ、それだけなら わらえるんだけどね(笑)。

まあ、映画『めぐりあう時間たち』を、いろんなかたちで かみしめることになった。このまえ『ヴァージニア・ウルフ短編集』ちくま文庫をかってきたんだが、きょうは『ダロウェイ夫人』をかってみた。文体が どうも よみにくいですね…。通読する自信なし。

どうも よみかえしたくなって坂口安吾(さかぐち・あんご)の「青鬼の褌[ふんどし]を洗う女」をよんだ。かきだしが いいよね。「匂いってなんだろう?」って。しめくくりかたも気もちがいいし。この小説におけるジェンダー観というものが まったくもって共感できるというわけではない。けれども、共感できる部分が なかなか いいんだ、これが。たまには小説からも引用しよう。べつに、ここが いい!ってわけじゃないけど、あ、こんなこと かいてあったのかと おもったのでメモしますね。「ただ私には、この一つのもの、絶対という考えがない」として、つぎのようなフレーズがある。
私は「一番」よいとか、好きだとか、この一つ、ということが嫌いだ。なんでも五十歩百歩で、五十歩と百歩はたいへんな違いなんだと私は思う。たいへんでもないかもしれぬが、ともかく五十歩だけ違う。そしてその違いとか差というものが私にはつまり絶対というものに思われる。私はだから選ぶだけだ。
文脈は「好きな人」についてのはなしなんだけど、これはもう、こういう人生観なんですよね。安吾はエッセイが注目されるけど(わたしも そうだけど…)、小説にも当然のごとく安吾の思想が こめられているので、小説もエッセイも関係なく たのしめる。小説もエッセイもおなじことだとは、どこかで安吾も かいていたはず。

『めぐりあう時間たち』のなかでは、ジュリアン・ムーアが演じたローラ・ブラウンが、安吾「堕落論」の「生きよ、堕ちよ」を体現している。これなんだよね。夏目漱石(なつめ・そうせき)の『こころ』のようなのは全然よろしくない。漱石にしたって『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』ではエンターテイメントに徹していたのにね。『こころ』の「誠実さ」なんてのは共感できない。ま、それこそが安吾のいう「堕落」の困難なところなんだわね。しかし、すくわれるみちは、「堕ちぬくこと」。たぶんそれしかない。そんなときがある。そんな局面に たたされることがある。そうしむけてしまう構造にまず問題があり、そうした局面で、ある種の強制力が はたらいて、常識的に ふるまうように再度しむけられるのだ。なんとも いやらしいことだ。あいまいな表現になってしまって ごめんなさいだけど、けれども、それなりに いいたいことは通じるんではないかと、わたしは あまえている(笑)。

じゃ、はるになったことだし、復活しますか。

グーグル:「生きよ堕ちよ」

ウィキペディアはノートも みよう

2006-02-22 | 国家と権力
中国のウェブ事情が、ちょっと大変なことになってますね。

まえから いろんな規制があること、検索エンジンへの介入などが指摘されてきましたけれど、グーグルも中国当局に屈したんですよね。自由よりもカネをえらんだというわけだ(「グーグル社、中国の検閲に同意」)。グーグルは、検索エンジンほか、いろんなサービスが充実してるぶん人気なんだけども、そのぶん もーけてるようですね。マイクロソフト社が批判されてきたように、グーグル社もこれから批判の対象になってくるでしょう。ヤフーもしかりですよ(「ヤフー社、「記者のメール情報を中国当局に提供」認める」)。マイクロソフト社については、「「MSのブログ検閲は中国政府より過激」著名ブロガーが批判」という記事が。

ま、国家権力の問題、巨大企業の問題を指摘するだけってのは、わたしの趣味ではございやせん。簡体字漢語版のwikipedia「六四事件」なんですけどね、「六四事件のノート」(漢語版では「討論」と表記されている)が わりかし おもしろい。ひさしく漢語学習は放置してきたので、頭のなかで音読はだいたいできる(発音はわかる)けど、意味がよくわからない部分がけっこうありますな。

「ちょっと非中立恐怖症なんじゃないか」とか「中立さってのを正確さに いいかえると、話がとおるんじゃないか」ってのは、おもしろい指摘じゃないですか。「正確でなければならないのは たしかに そうだけど、いつになれば明白になるのか」なんてことも かいてありますね。かなり意訳ですけどもね。

って、この「ノートの過去ログ」は長文でございますね…。よめるかいな。すごい暴言が まじってるけど(台独分子うんぬん(自主規制))、基本的には冷静な議論のようだ。共産党擁護と反共産党の対立みたいになってるのかな。「擁共と反共は意見のちがいなんだけど、一方は合法で、もう一方は非合法である」。「民主中国のほうが のぞましいのはそうだけど、問題は、わたしや あなたに選択権がないことなんだ」とかね。

これは、なかなか よませる内容になってますよ。ほとんどのひとには、「よめねーよ」ってはなしで ごめんなさいです。こうやってリンクをはっておいたので、わたしは じっくり よんでみやすよ。

グーグル:「中国 言論」
リンク:「中国大陸のネット社会」タカマサのきまぐれ時評

映画『4人の食卓』とトラウマ理論

2006-02-21 | 映画
韓国にいたころに上映されていた『4人の食卓』をみた。ポスターとDVDなどのジャケットをみたうえでのイメージとは全然ちがうものだった。えぐいホラーではなくて心理サスペンス的。

わたしは『リング』で貞子(さだこ)がテレビ画面から はいでてくるシーンをみて爆笑してしまうような人間なので、『4人の食卓』でも、とくに感情が うごかされるわけでもなく、淡々と みていた。

チョン・ジヒョンさん扮するチョン・ヨンはナルコレプシーで霊感がある(と自分でおもっている)という設定。パク・シニャンさん扮するカン・ジョンウォンは7才以前の記憶がなく、ヨンによって過去のトラウマ的つらい記憶が よびおこされる…。だけど、ほんとにその「記憶」が真実だったのかは ぼかしてあるのが映画的サービスなのかな。おなじく韓国映画の『カル』のほうが、謎だらけで、なおかつ どきどきわくわくさせられたなあといった印象。

まあ、ロフタスですよ。共著の『抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって』。これ、けっこう ごついのでツンドクしてます…。よみやすい本では、『フロイト先生のウソ』、『〈傷つきやすい子ども〉という神話―トラウマを超えて』、『心は実験できるか』(8章「思い出された嘘―ロフタスの偽記憶実験」)などを参照してください。で、ですね。最近かったマイクル・シャーマー『なぜ人はニセ科学を信じるのかII―歪曲をたくらむ人々』ではロフタスが歴史修正主義者によって悪用されていることを指摘している。シャーマーは、ロフタス本人にもそれを直接しらせて、ロフタスはそれをきいてショックをうけていたようだ。とはいえ、悪用されようともロフタスの はたした功績は否定できるものではないし、問題なのは悪用する側だ。ロフタスの功績をジャーナリズムの観点、あるいは社会学的観点から論じた本などあると おもしろそうだな。とりあえずは、スレイターの『心は実験できるか』がそういう仕事をしてくれている。ありがたいことだ。

スレイターは、「ロフタスはおそらく、専門家からタレントへの一線を越えてしまった最近の心理学者の代表格である」という(301ページ)。いやはや、日本のタレント心理学者とは えらいレベルが ちがうな…と おもっちゃうのだが(笑)。無責任に みえざる「犯人」/容疑者を精神分析してしまうようなのと くらべてみるとね。ま、アメリカにも そういう心理学者は いるんだろうさ。そもそも抑圧された記憶(=カウンセラーが うえつける結果になった まちがった記憶)をめぐる虐待裁判は、アメリカで おこったことだしな。

ここで注意しないといけないのは、トラウマ理論すべてが虚構だというのではなくて、「大半のトラウマ経験者にとって、自分の身に起こったことはどうしても頭から離れない」のだということだ(『心は実験できるか』304ページ)。だから森茂起(もり・しげゆき)『トラウマの発見』や宮地尚子(みやじ・なおこ)『トラウマの医療人類学』などの著作まで頭から否定するようなことは さけないといけない。

それにしてもだ。フロイトの影響力って すごいやね。ニセ科学批判の重鎮であるガードナーの『インチキ科学の解読法』では「色あせたフロイト―夢理論という『夢物語』」という章でフロイトの夢分析を批判してるので、これも興味のあるかたは、どうぞ。

ロフタスの翻訳としては『目撃証言』、『目撃者の証言』、『人間の記憶―認知心理学入門』という本もある。あわせて よんでみたいところだ。ロフタスの本は1冊も よんだことないんだけど(笑)。

ま、『〈傷つきやすい子ども〉という神話』のもくじにも あるとおり、「トラウマ理論は映画になるほど熟している」ということで。

グーグル:「ロフタス」
ウィキペディア:「精神分析学」 / 「心的外傷」
リンク:「みんなのシネマレビュー:4人の食卓」 / なるこ会(ナルコレプシーについてのサイト)

緑茶やきめし、バジルやきめし

2006-02-18 | 料理
台湾で「緑茶やきめし」というのをたべたことがある。山のうえのほうで、かぜが きもちよく、みはらしのいいところだった。あれは、どうつくれば いいんだろうか。

すこしまえになるが、まかない料理でバジルやきめしをつくった。バジルが やまほど あまっていたもんでね。バジルとオリーブオイルをミキサーにかけて、青汁をつくる。あとは、ふつーに やきめしをつくって、すきなときに青汁を投入する方向で。わるくないですのよ。あんまバジルのはっぱを家で つかうことなんか ないだろうけども。しかも、青汁にするなんて(笑)。

緑茶やきめしの つくりかただけどね、緑茶をだなあ、油といっしょにミキサーかければ いいんじゃないのかいな。それか、抹茶か? 抹茶を油と まぜてみるか? お茶っぱをつかった料理て、どんなんあるんだろうか。牛肉だか鶏肉だかを紅茶で にこんだのをくったことあるけど、そっこまで紅茶の かおりは しないのな。

あれこれハーブをつかいたいのは やまやまだけど、お茶っぱなら いつもあるしな。

数年前に筑波で であった台湾人の おばあちゃんが、ジャスミン茶をくれました。そのお茶っぱも そろそろ なくなろうとしています。うまいお茶といえば、ちいさく まるめてあるお茶あるじゃないですか。中国の。急須つかわずにコップにお茶っぱ うかべて のむやつ。だ、だれか おみやげで くれないか(笑)。

グーグル:「お茶で料理」

家庭という監獄

2006-02-09 | 国家と権力
どうして家庭というものは、こうも おもたいのだろう。

まず、結婚式なるものが いけない。あんなに盛大にやるもんじゃないよ。おひろめだか、おしらせだか しらないが、だれと だれが いっしょに すもーが、結婚しよーが かってに しなさいよ。結婚がどうして人生の一大イベントになるんですか。たいがい わかってるんだろうにさ。5年後10年後は どうなってるやら わからないってこと、いまの関係のままでは ありえないんだってことを。もちろんね、そりゃ運よく むつまじい関係をつづけてる夫婦ってのは いるんでしょうよ。そりゃ いますでしょ。けどね、運にかかってんだよ。バクチみたいなもんだ。そのバクチで どっちが損をするならですよ、えてして女性が なきをみるならですよ、そんなバクチをするようにしむける世の中の しくみってもんが おかしいんですよ。

籍をいれると いいますね。戸籍制度。なんですか、あれは。国民統制に熱心な軍事体制の発想じゃないですか。なーにがバツイチですか。天皇制と戸籍制度。この くみあわせの すごいのなんの。宇宙やばいとか、そんな次元じゃない。「わったしたち、おばか集団なんですぅーー」っていう、なに? 能あるタカはツメをかくすっていう戦略? 「まぜるな危険」とか、「猛犬注意」みたいなもん?

とどめが経済的にやってけないから離婚できないっていう構造的暴力ですよ。さらに そのひとが病弱だったら どうなりますか。監獄ですよ。そりゃね、献身的なパートナーなら いいですよ。だーけどね、世の中そんなに できたひとばっかじゃないわけ。

現代の かけこみ寺って どこにあるの。だれに たすけをもとめたら いいわけよ。監獄にいるひとたちはさ。ん? 本人は監獄とは おもってないかもしれないじゃないか? あ、そう。そういうこともある。だけど、生き地獄だと おもってるひともいる。

結婚して3年そこらのひとがさ、もうダンナのことは どうでもいい、みたいなこと いってるわけですよ。あほらしいっての、そんな状態で同居しつづけるなんて。だけど、こどもが いるから…ってことで つながってるわけ。つながってんじゃないよね。こどもっていうクサリなんだよ。こども、世間、常識っていうね。

こそだての夫婦分担も大事だけど、ベビーシッターみたいなのをもっと活用できるようにしないといけない。もっと こそだてに他人の手をとりいれようって。あれ、どのひとが おとうさんだっけ、みたいな。親が だれなんだか あいまいになるくらいに。

ひとりぐらしよりは、複数で いっしょに生活したほうが経済的で、効率もいい。それは わかるんですよ。だけど、それが血だの愛だので つながってなきゃいけないって はなしはない。いそうろうが いてみたりですよ、下宿生がいたりですよ、近所の子が あそびにきてたりですよ、そういうクサリのない生活の場。ちょっと、そういうことになると なんだか宗教がかってくるんだけどさ。こうるさくないなら、宗教的でもいい。肩が こらないならいい。

わたしが ねがうのは、努力して がんばりぬいて、うらぎられて絶望して、みずから死んでしまうような、そんなことが おこらないような社会ですよ。自殺? ころしたのは社会だっての。

あるひとに西原理恵子(さいばら・りえこ)さんの『ものがたり ゆんぼくん』を紹介したら、えらく感動していました。もっと はやくに よんでいたらと いっていました。よみかえしてみると、なるほど すてきな こそだてマンガです。家出文学といいうる名作です。常識にとらわれずに、自分で つくりあげた価値観をつらぬく。坂口安吾(さかぐち・あんご)は「人生はつくるものだ」といいました。ひとひとりが、自分の人生をつくりあげていけるような、そんな社会環境をつくっていかねばなりません。
人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなってしまうのだから。自分一人だけがそうなんだから。めいめいがそういう自分を背負っているのだから。これはもう、人間同志の関係に幸福などありゃしない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、よく生きなければならぬ。(安吾「教祖の文学」より)
このセリフが空虚な絵空事のように感じられるひとが いるとするなら、わたしは かなしい。そんなふうに感じさせる社会のありかたが、どうしても ゆるせない。なんでも いいから できることをやらねばならん。すこしだろーが、きやすめだろーが、いやなものは「いやだ!」って いいつづけるために。

グーグル:「ものがたり ゆんぼくん」

パク・ノジャさんのブログ

2006-02-04 | 国家と権力
朝鮮語人のみなさま。特大ニュースですよ。

パク・ノジャさんのブログをみつけました→http://wnetwork.hani.co.kr/gategateparagate/。いやはやパク・ノジャさんらしいじゃないですか。内容が。

ホン・セファさんのブログもあるんですね→http://wnetwork.hani.co.kr/hongsh/

以外とコメント数がすくないなと おもったら、ログインしないとコメントできないんですね。それにしても すくないな。韓国のブログ界では「一般メディアで有名であること」はあんまり関係ないってこと? そうではないんだろうけど、まだ はじめて まもないからかな。ホン・セファさんのは去年の10月25日からだってさ。

それにしても朝鮮語だけでも、ウェブ上には掲示板にブログに新聞の記事のコメント欄にって いってたら、ほんと ものすごい かきこみがあるんだろうね。それを、ひとりが どれくらいの量をカキコしてるんだろうか。ちょっと ちらみしてみても、膨大すぎて丹念に よみたいとは とても おもえず。パク・ノジャさんのブログは、ちょくちょく よもうかなあ。まえに紹介したことのあるキム・ギュハンさんのブログは ごくたまにしか みてないです。ピョン・ジョンスさんの掲示板サイトは、わりと みてるほうかも。うおおおおおおお。ピョンさんブログもやってるやんけ。やられた。ピョンさんがやってないはずがないといえば、そうなのですが…。でも、このピョン・ジョンスさんのブログは2001年の記事で更新とまってるね。しかも、10年も前の記事まで のってる。「足跡保存ブログ」とあるから、これまで(ウェブで)かいてきた文章を保存するブログってことなんだろな。コメントがひとつだけあるのをみても、わりかし最近できたものじゃないかと おもうんだけど。まだ全部で1115アクセスしかないってのをみてもね。

まあ、朝鮮語人ではないひとには役にたたない情報なんだけども、たまには そういった排他的な情報というのもありだと おもいますです。翻訳機で よんでるひとも、けっこういますしね。

グーグル:韓国のブログ