要するに、いきたいように いきろ

あーあ。ベジタリアニズムのはなしは、しばらく うちどめ。やめた。


要するに、いきたいように いきれば いいよ。


でも、それをみいだすのは、それほど かんたんなことではないだろう。そこが肝心なところだ。

わたしは、どのように いきたいのか。いろんなことを かんがえつつ、んーーーっと なやみながら、こたえをだす。こたえが でないまま いきる。

なにが なんだか わからない。ほんとうに そうだよ。坂口安吾(さかぐち・あんご)は、
「続堕落論」で「まず裸になり、とらわれたるタブーをすて、己の真実の声をもとめよ」と のべている。「己の真実の声」というものが はたして あるもんだろうかとも おもうが、いいたいことは わかる。わかるけれども、それが なしがたいことであるということも想像できる。だから、安吾も「我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない」とする。「人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない」からである。そんなものだろう。(自己犠牲よりはエゴイズムを
これをかいたのは2年まえだが、いまでも そう おもっている。

「まず裸になる」ということは、かんたんなことじゃない。

「とらわれたるタブーをすてる」ことも、かんたんじゃない。

「己の真実の声をもとめる」ことも、なにが なんだか わからない。


わかりませんよ。わかりますか。
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種差別とは

「種差別」ってのは、あんまり日本では いわれてないね。

けど、最近は けっこう翻訳本が でてるみたい。

あたしは国粋主義者ですから、翻訳本よりは日本語で かかれた本が よみたいです。

まず、「種差別」 - ウィキペディア
種差別(しゅさべつ、speciesism)とは、性差別や人種差別などにならって作られた用語で、人間とは種が異なるとことだけを理由に異なる価値や権利を付与すること。人間のみを特権づけ他の生物をないがしろにする差別(人間中心主義)は不当だとする、ピーター・シンガーら動物の権利(アニマルライツ、animal rights)の唱道者らによって使用されている。
わかりやすい説明ですね。

で、本をご紹介しておきます。

田上孝一(たがみ・こういち)2006『実践の環境倫理学—肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティブ』時潮社

いいですねえ。題をみるだけでも。

わたしは まだ よんでないのですけどね。この本が でた当時から、注目だけは してました。

たがみさんの文章は、「動物権利論の実像」『人権21—調査と研究』2007年12月号というのをよんだことが あります。
 責任能力があり義務を遂行できる存在のみに権利があるというのならば、幼児をはじめとする多くの人間が無権利のまま放置されることになる。そうならないためには、例えば「自我がある存在は権利を有する」という程度までハードルを下げなければいけないが、そうすると今度は権利を人間以外の存在にまで拡張する必要が出てくる(19ページ)。
いいですねえ。

種差別については、ジェームズ・フィン・ガーナー『政治的に正しいおとぎ話』や『もっと政治的に正しいおとぎ話』でも とりあげられていましたね。

『政治的に正しいクリスマス物語』をまだ よんでいないことを残念に おもいます。

わたしは、人間中心主義に たっています。おそれながら。

けれども、人間中心主義に たちながら、動物との関係において めちゃくちゃ倫理的になるというのも、ありだと おもうのです。それの どこが人間中心主義なの? ってゆーくらいに。

それは、「ヒトは悪魔か」や、「かくも「正しい」動物愛護」に かきました。

紹介『動物の命は人間より軽いのか』も よんでください。
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もっと妄想しよーぜ

わたしは、空想家です。

ゆめを みるひとです。おもいえがく ひとです。想像力が ゆたかです。

わーい。


妄想するのは、たのしいことです。たのしいことを妄想するのが たのしいというより、妄想すること自体が たのしいことです。ええ、わたしにとっては。


なにをいうときにも、「わたしにとっては」という注釈をつける。それが わたしのモットーです。


「性差別と性別主義」にトラックバックをいただきました。うれしいことです。反応をかくまえに、これまで かいた記事をご紹介しましょう。

「自閉症が わからない。人間像をぶちこわせ。」

「人間は、「なるもの」とか「であるもの」なんかじゃないんだ。するものなんだ。」

「ジェンダーは行為だ、するものなんだ。」


くりかえします。

「オトコとかオンナとかってのが実体として つよくイメージされていて、それが うたがわれることがない、という状態」を、わたしは批判します。

「人間というのは ただ、「にたものどうし」ってだけのことです。「人間の概念、さきに ありき」じゃ いけないのです。」

「「人間」なんて どこに いるんですか。人間こそ、想像上の幻想にすぎませんよ。家族的類似による「人間」の ぼやけたイメージをもっていて、そのイメージに そっている ひとを人間だと認識するのでしょう。だから、さきに「人間という総体」を想定してはいけないのだと おもいます。」

「はだかになろう。人間像をぶちこわしましょう。」

さて、いただいたトラックバックに おへんじします。

「ダブルスタンダードが生み出す妄想でしかない」Kazu'Sの戯言Blog(新館)

「いやがらせじゃないよ」ってのは、「わたしにとっては」っていう それだけのことです。

同じ理屈で「いやがらせ」だと感じるのも「わたしにとっては」っていうだけのことだろう(笑) って言われたらなんて答えるんでしょうか。
当然ながら、そのとおりだと こたえます。あたりまえですよね。で、なにか問題になるでしょうか。

いやなことをされているひとが「いやだ」という。そういうもんでしょ?

「え、あ、いやだったの? 気づかなかったよ。ごめん。」とか。

「ん、いやだって? しらねーよ、そんなもん。うるせー。」とか。

「そこで自分は、どう反応するのか」という主体的な問題です。
しかし、おかしいのは性差や年齢という括りは認めていないのに、人間という括りだけは認めているという点です。完全なダブルスタンダードですね。
ですねー。わたしも、かきながら気になりました。ええ。だから、「人間というのは ただ、「にたものどうし」ってだけのことです。「人間の概念、さきに ありき」じゃ いけないのです。」とも かいたんです。

結局のところは、「人間って なんなのよ?」って問題に いきつくわけですから。
その点を修正して、性差も年齢差も人間もそれ以外も認めないとするなら、個だけが残ることになり、個だけが残ればみんな違うって考え方が成立します。違うのであれば異なった扱いを受けるのはなんら不思議じゃ無い訳で、便宜上、効率上、括りも認めざるを得ないということになります。
で、「個だけが残る」という点については、個って なにを基準にするのよ?って問題をひきおこすようにも感じます。だから、「ひとりの人間とは なにか?という問題」について、かるく ふれました。

で、「違うのであれば異なった扱いを受けるのはなんら不思議じゃ無い訳で、便宜上、効率上、括りも認めざるを得ないということになります。」という ご指摘については、よく わかりません。「便宜上、効率上、括りも認めざるを得ない」のは、だれにとってでしょうか。

多数にとってとか、管理をするひとにとってなら、そのとおりでしょう。あるいは、わたしも そういう都合で くくりをみとめることが あるかもしれません。

ええ。

で、「わたしの都合」として、そういった「だれかが つくった くくり」を批判しても、べつに いいじゃないですか。


だれかが都合で くくりをつくって、また だれかが 都合で破壊して、あらたにまた くくりが つくられ、破壊され…。永遠に つづくかもしれません。

で、それで いいじゃないですか。



いっておきますけど、わたしはファイナル アンサー、最終的な結論をこのブログに かいているわけではありません。

わたしの文章には、ただ、時代的、文脈的、瞬間的な意味しかありません。それで いいじゃないですか。

ファイナル アンサーなんてものが どこかにあるなら、もー おわったようなもんじゃないですか。

最後に、むかし かいた文章をご紹介しておきます。

「断言しても仕方がない。だけども、それでも とりあえず。」
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性差別と性別主義

いまジェンダー論で ひとつの争点となっているのは、ひとことで いえば、「性別主義という問題について、あなたは どのように かんがえるのか」ってことだと おもう。一般的には「性別二元論」と よばれている。だが、三元論なら いいのか。六元論なら いいのか。そういう問題ではないと おもう。ずばり、性別主義が問題なのである。


性差別に反対するのは、まあ、そりゃ そうだよね。性別のちがいによって差別したり されたりしたら いけないよね。これは、はなしとしては納得のいくことのように おもう。じっさいのところは、「そうは いってもねー」と、差別が合理化=正当化されているのが現状なのだけど。

でね、性別主義ってのは、けっこう意識さえ されていないわけ。トランスジェンダーとか、性同一性障害ってのが話題になっても、なお。

オトコとかオンナとかってのが実体として つよくイメージされていて、それが うたがわれることがない、という状態。

「ただのオトコ」だの、「ただのオンナ」だのは どこにも いなくて、具体的な、ある肉体をもった人間しか存在しないのだけどさ。たったひとりの人間といってしまうと、ひとりの人間とは なにか?という問題になって、また問題になるんだけどね。わかるでしょ? からだが くっついて うまれた「ふたり」は、ひとりなのか ふたりなのか。うるせー。そんなの、どうでも いい。そういうふうに うまれて、いま、そういうふうである。ただ それだけのことだ。ごちゃごちゃ いうな!って、そういう問題ね。

とにかく、さきにオンナという実体、オトコという実体を「あるもの」だと かんがえては いけないものです。人間というのは ただ、「にたものどうし」ってだけのことです。「人間の概念、さきに ありき」じゃ いけないのです。


はなしをもどすと、「ジェンダー論」で問題なのは、性差別に反対しながらも、性別主義を問題とさえ認識していないひとが あまりに たくさんいるということです。

最近では、エイジズムといって年齢差別を表現しています。あれも、そう。

「年齢」「とし」ってものをうたがう視点が必要です。

だって、あなた。

としが いくら ちがおうと、3才のひとも、69才のひとも、27才のひとも、おなじ時代をいきています。同時代を共有しているのです。

いまをいきる わたしたちに、としが ちがうってことに、なんの意味が あるでしょう。「いまを共有する わたしたち」。それだけで いいのです。

3才とか10才とか、そんなもの でっちあげの数字です。ある文化的、政治的観点からみて、人間を数字で あらわしているに すぎません。年齢主義に支配されては いけません。

オンナとかオトコってのも、ただの いやがらせです。

「えー、で、わたしは どっちのトイレにいけば いいの?」

だれかに、そんなことをなやませている「性別」なんてものは、いやがらせでしか ありません。

「いやがらせじゃないよ」ってのは、「わたしにとっては」っていう それだけのことです。

性別主義を破壊しよう。

さよなら、男女別。

さよなら、「彼ら彼女ら」。

さよなら、「彼/彼女」。



人間よ! こんにちわ。

どうも、はじめまして。
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マンガ『黒い羊は迷わない』1巻

1997年の作品。なかなか いいじゃないか。全2巻かあ。2巻も 古本屋にあるかなあ。

くみたてが うまい。

わたしは このマンガが提示するような人間観を坂口安吾(さかぐち・あんご)に まなんだので、それほど新鮮なことが かいてあるようには感じない。けれども、安吾的な人間論をよんでいると、やっぱり安心するというか、いいなあと たのしくなる。

安吾の「デカダン文学論」というのをよんでいただければ、わたしが どれほどに安吾の影響をうけているのかが、わかってもらえるのではないかと おもう。安吾だけでなくて、このブログも よんでくだされば、のはなしだが。

「デカダン文学論」をテーマや話題をずらして かきかえただけのようなことを、このブログに かいてきた。白状しておこう。

いつもいつも安吾を意識しているわけではない。けれども、気がつけば わたしのことばのなかに、安吾は いつも、そこに いる。

たったそれだけのことでもね。安心できるような気がするわけ。それだけでね。


まよわないから。まよっても、こわくないから。こわくても、いきていけるから。いきていっても、いつか死ぬのは わかっているから。死ぬのは こわくない。こわくないから、いきていけるの。
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パターナリズムが どうしたってんだ

いいですか。「ふみこむってことは、まじわるってことは、意図せぬ暴力をともなうものなの」(「悪魔の代理人」)。

支援すること、ケアすること、そこにはパターナリズムがあるだ、権力関係になっているだなんだのって、なにが いいたいのかしら。

あたりまえじゃないのよ、そんなこと。

そんなの、ふみこむ一歩手前で、たちすくんでいたら、みえてくるはなしよ。

でなに? パターナリズムは いけないって いうわけ? いいよ、いけないってことにしましょう。ええ。パターナリズムは いけません。

で、どうするの?

パターナリズムってのは、父親的に、おしえさとすようなことをいうよね。父親的に、本人の意欲的な行動にたいして、あぶないからだとか、こっちのほうが たのしいよって邪魔をすることをいうよね。

で? いらんことをするなと。はい。いいよ。

で? いらんことをするなで、すべては解消されるの? なやみは そこで なくなるの? そうじゃないわけでしょう。なやみは、つきるはずのないものよ。一度たちすくんだら、どこまでも わからなくなって、どうしようもなくなっちゃうものなのよ。

だからケアするひとが仕事から はなれていくの。まじめなひとほど、まじめになりすぎるの。

もうね、いいかげんにしてよ。なにがパターナリズムよ。わかったようなこと いってんじゃないよ。そんなもん、わかりきったはなしじゃないですか。

パターナリズムを自覚しろだ? そんなことをいうやつが いるとしたら、あきれて ものが いえません。

しかめっつらして、自覚して、反省して、自分をせめて、はいはい、どこまでやるの。

自分の手が よごれているだ、自分は悪だとか、一生いってなさいよ。自分で いいたいなら、いえばいいことよ。けどね、だれにも、そういうことをいわせるんじゃないよ。そんな いきどまりに、ひとをおいこんではいけないはずよ。

パターナリズム? そうね。たまには、たちどまってみるのも いいわ。けど、かんがえてみて、もう一度、ふみこまなくっちゃあ いけないの。


もうね、パターナリズムが どうしただなんて議論は ばかばかしく おもえるの。

誠実に いきるってことは、しかめっつらをするってことじゃない。誠実ってのはね。いい? その、んーっと。いや。そんなこと、いう必要もないことです。いつまでも、いう必要はないことです。


それでも いうとしたら。

それは。

こたえのない日常を、こたえをださないまま、いきぬくこと。自分のだした こたえに うらぎられ、ぬりかえし、また くつがえす。とらえきれない こたえをかかえて、あゆんでいくこと。

これからも、よろしく。
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コミュニケーション研究の むずかしさ(わたしを全面にだすこと)

もし むずかしいとすれば、それは、という意味です。無前提に むずかしいということでは ありません。むずかしいと感じるひとにとっては むずかしいという意味です。



言語問題を論じるとき、「わたし」という存在は、多数派に属している、あるいは、少数派に属しているということだけをかいておけば すんでしまうようなところがある。

よく いわれる表現をかりれば、わたしを主語にして かたらずとも、すんでしまうのだ。

わたしも、ブログの記事としてではなく、論文としてコミュニケーション論をかいている いま、ふっきれたように すがすがしい。ふしぎと新鮮な気もちになる。

それは いままで、論文という形式においては、自分というもの、わたしというものを全面に おしだして かいたりしてこなかった、ということだ。

よむひとの興味をさそうのは、まさに「わたし」というものを全面におしだしたときであるように おもうのだが。それが、できては いなかったのだ。


参考となる例をあげれば、生命学者の森岡正博(もりおか・まさひろ)さんの論述スタイルが理想的なのかもしれない。

というよりも。いま、重要なことに気づいた。

わたしを全面におしだした論考というものは、なにをテーマとしたものであれ、それはコミュニケーション研究にほかならないはずだということだ。とっさの おもいつきであるから検証できないが、じっさいのところ、そういうものでは ないだろうか。


そして、もし、コミュニケーション研究が むずかしいものであるとするなら、それは「わたし」を全面にだすことへの とまどいによるものではないだろうか。

わたしをだすことに とまどってしまうのは、内面化された権威主義によるものだろう。



わたしは、どこに いるのか。
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批判の対象は、「人間のありかた」であり、そこには自己批判もふくまれる。

「言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。」という文章を当直あけのテンションで かいたわけだが、いろいろと反響をいただいた。

Pravda の日記「言語帝国主義と近代国家」では、最初、わたしが ましこ・ひでのりさんではないかと かかれていた。もちろん、わたしは ましこ・ひでのりさんではない。

このブログでは、社会言語学研究者としての わたしの問題関心は、ほとんど かかずに やってきた。たまに ふれるようなことはあっても、全面的に とりあげるようなことは なかった。最近では、障害学であるとか社会言語学の問題意識を披露しているので、読者の かたに すぐわかるように、わたしの なまえをかいておこうと おもう。

わたしは、あべ・やすしと いいます。社会言語学、識字研究、障害学などをやっています。

さて、タカマサのきまぐれ時評からトラックバックをいただいた。言語学者の「さが」=「言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。」(hituziのブログ)
戦略的に、議論をもりあげようと、わざとスキをかかえこんでいるのだとおもうが、それにしても、ワキがあますぎるとおもうのだ。
そのとおりだと おもう。そして、ワキは あまいほうが よいと おもっている。すくなくとも、コミュニケーション機能をもつブログなどでは、とくにだ。

そのほうが、批判をもらえるからだ。ほんとうに そうだろうかと、疑問に感じるだろうからだ。

批判するということ、ただしさというものについて、「悪魔の代理人」というのをまえに かいた。
結局、わたしたちは みんな悪魔の代理人をやとい、また みずからも悪魔の代理人であるのなら、だれにも特権的ただしさなんて ありはしないということ、そして、だいじなのは、どれだけ世の中をよりよくしていくことに貢献できるか、ということだろう。最近、あらためて感じている。そして、その方法は、いろいろあるものだと。その「いろんな貢献」にも、もっと気づいていかねばなりますまい。
言語至上主義の批判は、その「貢献」をめざしてのことだ。

ちなみに、知的障害者施設で仕事をすることを、わたしは貢献だとは おもっていない。むしろ、悪魔の再生産だとしか おもっていない。わたしは悪魔であり、不平等を再生産している。けれども、「だから なにも いいません」とは、絶対に いわないのである。わたしは悪魔であるからこそ、世の中をよりよくしていきたいのだ。

学問というものも、そのための手段であると かんがえている。

タカマサさんの批判に もどろう。
いわば、hituzi氏の問題提起の相当部分は、「社会言語学の研究者」という本質化=過度の一般化による、ひとりずもう=幻影である。
これも、そのとおりだ。

すこしまえに、「むしろ矛盾しろ」という文章をかいた。
ひとは だれも、ひとつの定義に おさまりきらない。矛盾するのが あたりまえで、一貫性をどこかで うしなってしまうのが当然で、だれかに定義されながらも その定義を破壊するのが人間なのです。「人間は自由である」とは そういうことです。
社会言語学も、どのような規定にも おさまりきらない自由なところをもっている。そこが、社会言語学の魅力であると おもっている。

タカマサさんの批判に再度 もどる。
それと、hituzi氏の言語学批判は、同様に、氏自身の批判スタイルにも、再帰的にふりかかってくる。

外部から批判するのは、たいていの場合、かんたんなことだ。

言語学の そとから、言語学の わくぐみを批判する。かんたんですよ。言語至上主義による「健常者の言語」(健常者社会における支配言語、権威化された言語のこと)をもって言語とよびならわし、それを研究する。その研究は、だれのための、だれによる研究なのか。それは、「言語」から かけはなれたコミュニケーションを日常とするひとのための研究などではない。自分にとっては価値があると おもわれる言語だけを一般社会に認知させる研究。だから だめだと。そういう批判ができる。

言語学を外部から批判する。外部からみていると その保守的性格や排他性が よくみえる。なるほど、そうだろう。
批判が「氏自身の批判スタイルにも、再帰的にふりかかってくる」というのは おっしゃるとおりだ。ただ わたしは、なにも「言語学の そと」に自分の身をおいてはいない。

それと、「自分にとっては価値があると おもわれる言語だけを一般社会に認知させる」と よみかえてあるが、わたしは、ことばが はなせないひとの表現や声を、これも言語だとは、絶対に いわないつもりでいる。すでにコミュニケーションという包括的な概念を手もとに もっているにもかかわらず、わざわざ多数派の おもちゃである言語の概念とその定義を拡張しようとは おもわない。

もう一度かくが、「言語障害はありえても、コミュニケーションに障害はありえない」のだ。

コミュニケーションには正解もなければ、障害もない。

この ひろさ。この あたたかさを、わたしは評価したいのだ。

タカマサさんの批判にもどる。
社会言語学(=当時は「言語社会学」とよばれていたが)を最大活用するかたちで、国語学の内部から「内破」するかたちで日本語学を構想した かめい・たかし という存在と、ユーラシアの言語理論・実態という「外部」からの視線で日本語現象を革命的に分析しようとした 田中克彦、という存在を、単なる知的断絶とみなすのは、やりすぎだろう。
この ふかよみは、たしかに ただしいところも あるが、ふかよみの しすぎたところもある。

田中克彦(たなか・かつひこ)は、かめい・たかしの後継者であると いっていいだろう。そして、「国語学」を批判した社会言語学者たちは、いわば田中克彦(たなか・かつひこ)の批判精神の後継者だったわけであり、それには安田敏朗(やすだ・としあき)、イ・ヨンスク、ましこ・ひでのりなどがいる。

わたしはといえば、さらにその批判的後継者である。

わたしが したいのは、「祖に会えば祖を殺し」ということだ。わたしが尊重している権威であるからこそ、批判をするわけで、そして すでに わたしが内面に とりこんでいるという意味で、「祖を殺す」(先学者を批判するという意味)作業は、いまの自分を殺す(自己批判という意味)作業でもある。

それは すなわち自分自身を更新するということであり、また、学問を更新するということなのだ。

重要な点は、その更新作業が、自分だけではなくて ほかのひとによっても おこなわれているということだ。そこに めくばせをしなければならない。

わたしは、「かめい=「内在的」、田中=「外在的」という、二分法」は想定していなかった、と おもう。記憶にない。

あさの8時半から夜の10時半くらいまで、休憩をとりながら 仕事をして、11時すぎになって当直室で ねて、いい気もちで ねていたら、どーんと音がするので確認にいって、また ねて5時半に おきて、はい そろそろ仕事しようかなと うごきだす。それで、10時半に仕事が おわって、家にかえって、おつかれさまでした。それから、ふと批判精神が めきめきと どこからともなく わきでて、ねむたい状態のまま いきおいで長文をかく。まともな文章が かけるはずがない。べつに、いいわけをかきたいのではない。いいわけに なってしまうけれども。

あとで補足をしようと おもっていたのは、言語帝国主義という批判用語をつかっていたのは、田中よりも、あとの世代だということだ。論文集の『言語帝国主義とは何か』では、むしろ田中は、この用語を乱用することをいましめていたほどだ。

はじめ批判しようと おもったのは国語学を批判した社会言語学者のことで、田中ではなかった。たまたま『ことばと国家』の冒頭部分を引用して批判するというスタイルをとったが、テキストは『ことばと国家』ではなくとも よかった。

最初は安田敏朗を批判的に とりあげようとしたのだが、「批判するに適切な文章」が すぐには みつからなかったので、すでにチェックしてあった『ことばと国家』の かきだしを利用したのだ。

わたしは、二重の意味で「言語が知的障害をつくる」と かいた。この現実から のがれられるひとなど、それほど いないのだ。
hituzi氏は、自分の議論のつごうにあわせて、言語学者の問題意識の水準をのびちぢみさせている。おそらく無自覚に。
そのとおりだと おもう。

だが わたしが問題にしたいのは、「人間のありかたに あわせて言語の定義をのびちぢみさせようとしない言語学のありかた」にある。もちろんそれは、言語学全体ではないだろう。だが、ほとんどであるのは否定できない。

わたしは、言語の定義をひろげようとは いわない。そのかわりに、ただ、「コミュニケーションに正解はない」という。

わたしは、たくさんのひとに よんでほしいと ねがって、言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。をかいた。

そして、その目的は ある程度は達成された。
いや、批判者の想定はともかくとして、読者層の想定は、あやふやだとおもう。この文章は、一体だれにむかってかいたのか?
という疑問をいただいた。

その こたえは「読者とは、すべてのひとで ありうる」ということだ。なぜ、すべてのひとで ありうるのか。

それは不可能であると いうひとが いるかもしれない。だが、それこそが、コミュニケーションの なせるわざであるということを、わたしはここで強調しておきたい。
文字がよめなくても、よみきかせをすれば、本をよむことができる。それなら、もはや、よみかきの「能力」の問題ではなく、サービス、提供のありかたの問題である。それゆえ、識字率をあげることを目標にするのではなく、読書権を保障することを社会の課題としなければならない。(「視点をひっくりかえす重要性(少数派について)」

ところで。

わたしには こどもが いない。だれか、自分と あかちゃんとのコミュニケーションを、内省的に観察するような文章を、かいてみては くれないだろうか。

わたしが さそいこみたいのは、そういった わくわくするような作業なのだ。たくさんのひとに「自分のコミュニケーションを観察する」ことの わくわくどきどきを、体験していただきたいと おもっている。
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自分のコミュニケーションを観察する

「コミュニケーションに障害はありえない」はてなブックマークで ちょっと いい評価をもらったので続編というか、反省文をかく。仕事での反省文。いまの職場での反省じゃなくて、そのまえの高校でのはなし。高校で おしえたのは3ヶ月だったけど、それでも いろいろ感じるところは あったのでした。

反省文という意味では、「自閉者と自分勝手なコミュニケーション」に ちかいかも。ご期待くだされ。

それにしても、「自分勝手は おたがいさま」ということが わかってしまうと、ふとしたことで、だれかの一方的な態度が気になって、むかついたり、納得できなかったりしてしまう。
ということはですよ!!!!!


「あのひとは勝手だ」。


もう、こんな ことばは いえないですよ! だってね、勝手だと おもうのは、勝手にも こういうときは こう反応すべきだっていう想定を、勝手に自分のなかに つくりあげてしまっているからでしょう?
こう かんがえちゃうと、もう「勝手だ」って いわれて すなおに、「はい、すみませんでした」で すませなくなっちゃう。

だから、問題にすべきは「だれが(よりいっそう)自分勝手なのか」では なくて、「どちらに(よりいっそう)権力があるか」なんだよね。コミュニケーションを抑圧するのは、そういう権力のちがいであって、「どちらが勝手か」じゃない。

だから対等な関係をつくっていくことが たいせつなんだけど、なかなか そうも いかないわけだ。それは「対等に議論するということ」に かいたとおり。


わたしはコミュニケーションが すごく苦手で、職場とかだと、ほとんど話をしない。心をゆるすと さわぎはじめるので、そのギャップで びっくりされる。

え? コミュニケーションが苦手だなんて、そんなはずはないってのが おまえが かいてることだろって? そうなんです。さっそく撤回します。

苦手だというのは、どういう意味だか わかりますか? わたしは ただ、ほかの だれかと自分を比較して、わたしは あんな感じじゃないけど、できたら あんなふうに なりたいなあと おもっている、ということなのです。それを苦手だと表現しているだけ。そういうはなしは、「「ほんとうの わたし」」に かいた。
だれしも いろんな面をもっているもので、ある面をみせていたら、みせていない面は指摘されない。それで、「ほんとは そうじゃないのに」と感じたりもする。けど、その「ほんと」なんてのは、ほかの だれかには みせていて、そのひとには また別の面をみせていなかったりするものだ。まるい地球は いつも すべての面が太陽のひかりをあびているわけではない。スポットライトがあたれば、どこかは影に かくれるのだ。それを、「ほんとうの地球は」などと いっても しかたがない。
この、「スポットライトがあたれば、どこかは影に かくれるのだ」というフレーズが自分では気にいっている。

そういえば「身勝手な期待と想定」というのも かいた。
…相手をみるとき、いつもそこには自分自身が てらしだされているのだということ。そして、相手になにを期待しているのかによって、そのひとの みえかたが かわってくるということ。勝手に想定しておいて、それとは べつの様相をみせたから、このひとは「この程度のものだ」という評価のしかたは まちがっている。だが、そういう ものの見方を、わたしたちは、よくもまあ日常的にしている。
これも すきだな。自分でも、ほんとに そうだよなあと おもってしまう。
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ジェンダーは行為だ、するものなんだ。

「人間は、「なるもの」とか「であるもの」なんかじゃないんだ。するものなんだ。」という文章をかいたが、じつはこれ、すごく大事なことをかいている(つもりでした)。

「トリは空をとべていいよなあ」というのをよくきくが、トリは空をとぶために、それなりの代償をはらっている。苦労もしている。マラソン選手をみて、「いいなあ」「うらやましいな」と安易にいってしまえるひとは、それほど いないだろう。けれども、トリの苦労には注意をはらわない。これがトリではなくて、ほかの だれか、人間であれば どうだろう。「こどもは いいよなあ」とか、いってしまってはいないだろうか。

ええと、そういった はなしではない。

ジェンダーについてのはなしをしよう。

「人間は、「なるもの」とか「であるもの」なんかじゃないんだ。するものなんだ。」これを、ジェンダーにおきかえて、かんがえてみてください。


はい、かんがえましたね? 3分クッキングの要領で いきます。こちらをご覧ください。

もう、かんがえてあるんです。わたしが、じゃないですけどね。

三橋順子(みつはし・じゅんこ)「往還するジェンダーと身体-トランスジェンダーを生きる」『身体をめぐるレッスン1』岩波書店。

引用しますね。
東京新宿には、いわゆる女装バーに集まるアマチュアの女装者と、そうした女装者を愛好する(非女装の)男性から構成されるコミュニティがある。…中略…
このコミュニティで観察される性別認識は、女の格好をして女として振る舞っていれば「女」(女扱い)というものである。つまり、社会的性別、ジェンダー・ロールやジェンダー・パターンが性別認識の指標としてきわめて重視され、身体的な性別、とりわけ性器の形態は衣服によって隠蔽され、問われることなく「棚上げ」される。56ページ
三橋は このように のべ、つぎのように といかける。
ところで、女の格好をして女として振る舞っていれば、つまり、“doing female gender”「女をする」をしていれば「女扱い」されるという性別認識は、新宿のトランスジェンダー・コミュニティだけに特有のものだろうか? 57ページ
三橋が いうには、そうではないそうだ。

引用に たよるのは、ここまでにします。

わたしは、つぎのように かきました。「人間になるだって? まだ人間になれずにいる状態にいる だれかが いて、そのひとが人間になる条件をみたすことによって人間であると認定するのですか?」

いいかえてみましょうよ。
女になるだって? まだ女になれずにいる状態にいる だれかが いて、そのひとが女になる条件をみたすことによって女であると認定するのですか?
わたしは、つぎのようにも かきました。「「人間である」ということは、人間をする主体と その人間をみる主体とのコミュニケーション(相互作用)によって、やっと なりたつものだと おもうのです。」

いいかえてみるよ。
「男である」ということは、男をする主体と その男をみる主体とのコミュニケーション(相互作用)によって、やっと なりたつものだと おもうのです。
「自閉症が わからない。人間像をぶちこわせ。」という文章でも、にたようなことをかきました。「人間が わからない。そうとも いえるんでしょうね。けれど、人間という総体をイメージするのは まだ はやいんじゃないかしら?「人間」なんて どこに いるんですか。人間こそ、想像上の幻想にすぎませんよ。家族的類似による「人間」の ぼやけたイメージをもっていて、そのイメージに そっている ひとを人間だと認識するのでしょう。だから、さきに「人間という総体」を想定してはいけないのだと おもいます。」

わくわくします。いいかえますよ。
女が わからない。男が わからない。ジェンダーやセックスというものが わからない。そうとも いえるんでしょうね。けれど、女という総体をイメージするのは まだ はやいんじゃないかしら? あるいは「男」なんて どこに いるんですか。それこそ、想像上の幻想にすぎませんよ。家族的類似による「女」や「男」の ぼやけたイメージをもっていて、そのイメージに そっている ひとを「女」や「男」だと認識するのでしょう。だから、さきに「女という総体」「男という総体」を想定してはいけないのだと おもいます。
家族的類似というのは、ヴィトゲンシュタインの概念ですが、なかなか有効なものです。

女と男を並列的にならべましたが、べっつに わたしは性別二元論に たってはいません。便宜として うえのように かきました。どうも、すみませんでした。

こんなことをかいても、ジュディス・バトラーという権威をもちだされると、それ、バトラーじゃんと わたしの わかりやすい説明(笑)は、台なしにされる。ま、いいけど。

バトラーについては、いくつか かいたものがある。
「ジュディス・バトラー」
「人と人の間にあるもの」
「線ひき問題」
「人工物としての自然」
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はだいろ(肌色)の不思議

クレヨンのことだ。

クレヨンに、はだいろって ありましたよね。いまではペールオレンジって いいかえされてるそうなんです。はだの色は、ひとつじゃない。自分たちを基準に はだいろをかたることの問題。そういうことです。韓国でも「はだいろ問題」はありました。移住労働者が抗議運動をしてました。


で、おもうんだけどさ。

クレヨンで絵をかくでしょ。あれで、「はだいろ」をつかって人間をかくと、かなり おかしいのよね。こんな肌のひと、どこに いるんだよ、みたいな。写実的じゃない。

絵はべつに写実的じゃないと いけないわけじゃないけどさ。それにしても、どこが「はだいろ」なんだか。

アメリカ映画だと おもうけど、なんか人種対立をそのまんま えがいた映画がありました。「白人」が「黒人」に むけて いうに、「黒というより茶色だ」。それをうけて、「黒人」が「白人」に むけて いうに、「白というよりピンクだ」。たしかに。

権力関係が逆だったら、レッドとピンクで よんでたかもしれないさね。もちろん、いやらしいというニュアンスをふくんだピンクね。ん、赤じゃないだろって? そもそも黒じゃないよ。


で、こどもが絵をかくときに、まピンクのクレヨンで かいたり、赤色で かいたり。そういうのも、ありえる、ありえたと おもっている。

そして おもうのは、いろんなものが制度化されちゃってるよなと。そういうこと。
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おじいちゃんの なぞ

おばあちゃんの なぞでも かまわない。

なぜ、おじいちゃんは かわいいのか。

これは、すごく なぞである。

なぜ、おじいちゃんは かわいいことをいうのか。

老化する、としをとる、おいゆくというのは、そういうものなのか。

そうじゃあないと おもうんだ。


周囲の ひとたちが、あなたは おじいちゃんですよ。ほら、わたしはさ、おじいちゃんたるものは、こんなふうに かわいく ふるまってほしいの。だって おじいちゃんだもん。おじいちゃん、ねえ。ねえねえ。おじいちゃんってばあ。

さきに「おじいちゃんの はなしかた」を提示してみせて、それをマネをさせて、どんどん おじいちゃんトークを身につけさせる。そうして、おじいちゃんらしさをどんどん獲得していく。

そういうもんだと おもってるんだ。

おじいちゃんは つくられる。しくまれる おじいちゃん。おじいちゃんへの招待。おじいちゃんの社会的構築。そして、おじいちゃんの脱構築。おじいちゃん革命!
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人間は、「なるもの」とか「であるもの」なんかじゃないんだ。するものなんだ。

人間は、「なるもの」とか、「であるもの」なんかじゃないんだ。するものなんだ。

だから たまには人間をしないときが あったって いいし、ネコをやってみたって いいんだ。にゃああああああ。ぐーぐー。

きょうは、こういう人間をする。こんなときには、こんな人間をしてしまう。今度は、あんな人間をしてみよう。そんなかんじだ。

人間になるだって? まだ人間になれずにいる状態にいる だれかが いて、そのひとが人間になる条件をみたすことによって人間であると認定するのですか?

人間であるだって? ところでさ、植物人間ってのは、人間とは べつのカテゴリーとしての「植物人間」なの? それとも、「植物状態にある人間」ということなの? 宇宙人って いうけど、あれも なにをもって宇宙人は「ひと」だというの? その根拠となるのは、脳みそ? すがたかたち? 言語? 文明? 宇宙動物とはいわずに、宇宙人というのは、地球以外の星にも人間みたいなのが いたとしたら、なんだか おもしろいなあって、そういう願望みたいなものなの? イヌみたいなのが いたら、宇宙犬?

たぶんね。宇宙人が「人間をする」のをみて、「宇宙人」と よぶんじゃないかな? 映画だテレビだ小説だの世界でだけどね。

「人間である」ということは、人間をする主体と その人間をみる主体とのコミュニケーション(相互作用)によって、やっと なりたつものだと おもうのです。

だから、わたしが ネコをするとき、あなたも わたしをネコとして みてください。そうすれば、そのときくらいは、わたしはネコになれるのです。ネコであれるのです。

もちろん、わたしのほうも、ほんきでネコをしないと いけません。あなたのほうも、ほんきになって、ネコする わたしをみてくださらないと いけません。

ネコをしきれていない、人間をしながらネコってるのをみて、だれが「ネコをしている」と みなしてもらえましょう。みとめてもらえましょう。

ネコをしてして、しまくって、ネコをしきりたおさなければならないのです。ネコをするのは、でっかい仕事です。意外に おもわれますか? そうだとすれば、あなたは、ネコにたいする尊敬が たらないのです。ネコをするのは、そんなに かんたんなことではありません。

ネコは いいよなあって かんたんに いってんじゃねーよ。おまえに、ほんきでネコする覚悟があるのか。やる気があるのか。ほら、やってみろよ。
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人間をかんがえる

タカマサのきまぐれ時評からトラックバックをいただいた(「「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…」)。

「正論だとはおもうが…」の、あとにくるもの。つまり、しっくりこない部分をみつめることで、かんがえてみること。わたしは、そこに期待している。

それは、わたしが いままでに かいてきた議論についての議論のタイトルだけをみてもらっても、感じとっていただけるのではないかと おもう。

「つながり、ゆさぶり、ひびきあう」
「てさぐりで もがきながら」
「断言しても仕方がない。だけども、それでも とりあえず。」
「そのひとの文脈」
「不適切に いいかえろ」
「しっくり こないぶんだけ」
「文脈が ちがう」
「ほんとのことは、うそをつく」
「混乱させろ」
「うそをつくのをおそれるな」
「むしろ矛盾しろ」
「つっこみを歓迎したい」


最近かんがえているのは、一部のひとたちをながめて観察することで、そこにある人間の普遍性をみいだせるのではないかということ。というか、一部のひとをみるときに、そのありかたが、それらのひとたちだけの固有で、あるいは特殊な事例などではなくて、人間だれしも そうなんだと、わたしは かんがえていたいということだ。

それはなにも、人間の普遍性をみいだすために だれかに注目するというのではない。現に だれかと関係していて、正面から ぶつかっていかねばならない状況に おかれているとき、どのように むきあえば いいのか。それを模索したいのだ。

このまえ、スクーターに のって移動しながら かんがえていたのは、定義にかんする ふたつのことだ。

ひとつには、人間は「ひきこもり」というワクに おさまりきらないということ。それを「むしろ矛盾しろ」にかいた。それと おなじ発想で、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」に かいた内容の原案をかんがえていた。

「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは、記事のタイトルとして奇妙でいながらも興味をそそるものにしようと かんがえてのことで、おなじ要領で「むしろ矛盾しろ」も、「ひきこもりは存在しない!」にしようかと かんがえていた。

スクーターにのって かんがえていたのは、「人間とは」というはなしではなく、「ベジタリアンは肉をたべる」し、「肉をたべるベジタリアン」というのは矛盾でもなんでもないということだった。それは、ひとつの定義、ひとつの観点に、人間は すっぽりとおさまることはなく、ひとは いつも定義をうらぎり、とびだしていくものだという人間観に もとづいていた。

だから、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」「むしろ矛盾しろ」の延長線上にある。

そして、それと同時に、このブログで むかしは何度も とりあげていた「たべるということについて」の議論の延長線上にある。

ここで、「たべるということについて」これまで論じてきた記事を、すべてリンクしておく。論じるというほどの内容じゃないものをふくんでいるが、いくつか よんでみてほしい。

「野菜スパゲティ」
「そだてる、とってくる、さばく、火にかける、たべる」
「食文化とタブー、文化って なんだ」
「食文化と規範、ふつうって なんだ」
「ことばづかい」
「レッテルの はりあいは むなしい」
「おたがいのジレンマをさらけだし、みとめあう瞬間」
「こどもでも よめるということ」
「感情移入」
「世界はマクドナル化なんか しない」
「ペットフードを料理してみるテスト(予告編)」
「ブタは どこにいったのか」
「かくごしていた/していない」
「かわいそうのバランス」

人間と動物の関係については、
「「人間も動物だから」」
「ヒトは悪魔か」
「かくも「正しい」動物愛護」
「紹介『動物の命は人間より軽いのか』」
をごらんください。


わたしが かいていることは、すべて わたしの人間観、言語観、コミュニケーション観、社会観に もとづいている。あたりまえなのだけどね。

人間について かんがえる。それは、わたしが、あなたが、いろんな ひとと関係しているからなのでしょう。
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「親があっても、子は育つ」

坂口安吾(さかぐち・あんご)は、「親があっても、子は育つ」といった。どういうことか。

太宰治(だざい・おさむ)の自殺を批判した「不良少年とキリスト」から引用しよう。
親がなくとも、子が育つ。ウソです。
親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがったできそこないが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。
なんという ぼろくそな いいようだろうか。わたしは、この一節を引用したことの罪により、いろんなひとからイジメられそうである。

安吾は、死ぬまぎわに こどもが できて、たいそう よろこび、親ばかっぷりを発揮していたようだ。

「戦争論」というエッセイでは、安吾は家族制度について、つぎのように批判している。
両親とその子供によってつくられている家の形態は、全世界の生活の地盤として極めて強く根を張っており、それに反逆することは、平和な生活をみだすものとして、罪悪視され、現に姦通罪の如き実罪をも構成していた。
私は、然し、家の制度の合理性を疑っているのである。
家の制度があるために、人間は非常にバカになり、時には蒙昧な動物にすらなり、しかもそれを人倫と称し、本能の美とよんでいる。自分の子供のためには犠牲になるが、他人の子供のためには犠牲にならない。それを人情と称している。かかる本能や、人情が、果して真実のものであろうか。…中略…
家は人間をゆがめていると私は思う。誰の子でもない、人間の子供。その正しさ、ひろさ、あたたかさは、家の子供にはないものである。
人間は、家の制度を失うことによって、現在までの秩序は失うけれども、それ以上の秩序を、わがものとすると私は信じているのだ。
「誰の子でもない、人間の子供」というフレーズが、わたしは とても気にいっている。

安吾は、「私は思うに、最後の理想としては、子供は国家が育つべきものだ」と結論づけている。

この主張が ずっと わたしのこころをとらえてきた。それでたとえば、森巣 博(もりす・ひろし)の こそだて論をよむと、安吾的なものを感じてうれしくなってしまうのだ。モリスの『無境界家族』集英社文庫のことである。

モリスは、「子供に説教をするという行為そのものがわたしにはできなかった」という(9ページ)。また、「「親」という、わかったようなわからないような権威のみを持ち出し、息子に対して「偉そーに」説教することなどわたしにはできない」という(11ページ)。つぎのような一節は、親に、人間に、反省をせまるようなところがある。
自らを無辜(むこ)の位置に置くから、じつは説教というものが成立している。すなわち、他者の矛盾や不義や粗相を指摘、糾弾することによって、自分があたかもその矛盾、不義、粗相からまぬがれていると見なす想定があるからこそ、説教ができるのではなかろうか。
わたしは、その悪から、まぬがれていない。矛盾や不義や粗相だらけの人間なのである。したがって、不登校であろうが何だろうが、わたしは息子に説教をというものができなかった。
——したいことだけをしなさい。やりたくないことはやらなくてもよろしい。
無責任なようだが、これを息子への教育方針とした(12-13ページ)。
なんとも あっぱれなことだと おもう。そして、なんとも すがすがしい。

この『無境界家族』をよんだのは、何年かまえのことになるが、最近になって、またひとつ、いい本をみつけた。紹介したい。

武田信子(たけだ・のぶこ)『社会で子どもを育てる-子育て支援都市トロントの発想』平凡社新書だ。この本をかったときは、ひさしぶりに興奮しながら本をよんだ。ソーシャルワークという職業について、わたしが まったく無知だったからでもある。ともかく、よい本だと おもう。機会があれば、よんでみてほしい。

いやさ、この本をよんで、「やめなさい」とか、そういうことを連呼してしまうのは、日本のせまい居住空間ってのも背景としてあるよなあと あらためて実感させられたのでした。それにしても、「やめなさい」と「したいことだけをしなさい。やりたくないことはやらなくてもよろしい」というのは、なんという ちがいだろうか。


※ちなみに、熱心な安吾の読者だった野坂昭如(のさか・あきゆき)に『親はあっても子は育つ』という講談社文庫がある。どこに しまったっけな。
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