うなぎと いりたまごの和風スパゲティ

料理かくのなんて、ひさしぶりー。

うなぎがある。米がない。ということで、パスタに。

いりたまごをつくっておく。めんをゆでる。お湯にしっかり塩味をきかせないと、おいしくならないわよ。

オリーブ油で白ねぎと しいたけをいためる。おっきさは、すきなよーにしてくれ。酒をいれて、そのあと白だしと しょうゆをくわえ、パスタのゆでじるをたして、味加減をととのえる。ちょっと塩味がきつくなったので、汁をすてて、水をたした。

うなぎをくいやすい おっきさに きって、フライパンへ。弱火で につめながら、めんが ゆであがるのをまつ。わたしゃ、消化に わるいんじゃないかってくらい かための めんがすき。めんと いりたまごを投入し、強火で あおる。さいころトマトも いれる。しっかり、てばやく なべをふりまくりましょう。乳化させるのです。

こしょうをきかせて完成。

今回は、乳化が たりなかったのと、ふとめのスパゲッティだったので、あんまりしっくり こなかった。ううむ。なんか、めん以外、はごたえがないので つまらんね。ちりめんじゃことか あれば よかったな。

トマトはね…。生で たべるのは、あんまりすきじゃないんだが、どうも料理にいれてしまうくせが…。和風に いれるなよって感じですね。はい。
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「むいびえん」

学部でカスティーリャ語(いわゆるスペイン語)の授業をうけていたときのこと。

めのまえに講師さん。

わたし:「くあーとろ」(とか、なんとか発声練習)

講師さん:(冷静な顔で、めをみて)「むいびえん」

わたし:(ん、「もーいっぺん」ってことか)「くあーとろ」

講師さん:(おなじくしずかに)「むいびえん」

→このやりとりを4回ほど。

わたし:「くあーとろ」

講師さん:「むいびえーん」(と、すこしおおきな声で教壇に移動しながら)

わたし:(あれ。「もーいっぺん」ちゃうやん)

→「むいびえん」は、「Muy bien」(=たいへんよろしい)でした。

しらないわたしは、ペキン語の「いーびえん」(=いっぺん)や、「もーいっぺん」などから連想したのです。アルゼンチン出身の講師さんが、そんないいかたするわけないか(笑)。

でも、そういうときって、とくに、おもいこんでしまったときって、わかんないものなのよね。台湾人のともだちも、おなじ かんちがいをしたそうだった。講師さんは、ちがうひとだったけど。


◆デンマーク映画で、『幸せになるためのイタリア語講座』というのをみつけました。おもしろいのかな。

◆アゴタ・クリストフ『文盲-アゴタクリストフ自伝』白水社をかってきた。ぱらよみしたけど、まあまあかな。
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波長のあうひと

いや、歌手の柴田淳(しばた・じゅん)さんのことですけど(笑)。←公式サイトにリンク。日記がたのしい。

もうすぐ「紅蓮の月」(ぐれんのつき)というシングルがでますね(7月26日)。試聴しましたけど、まあまあかな?といったところ。「幻」の曲調に ちかいかんじ。

しばたさんは、4枚アルバムをだしてんですけど、3枚めの『ひとり』が いちばんいいですわ。「少女」、「未成年」、「コンビニ」、「今夜、君の声が聞きたい」…。最強ぞろい。

あなどれないのが1枚目のアルバム『オールトの雲』。1曲めの「なんかいいことないかな」。つづく「ぼくの味方」もそうだけど、しばたさんの ひとがらが、よくでてます。6曲めの「帰り道」。歌詞もすき。「それでも来た道」は、曲をしっているひとにとっては、ふれるまでもない名曲。2枚めのアルバム『ため息』のタイトル曲「ため息」も、あまりに よすぎて こまってしまう。おかげで『ため息』のほかの曲は ききこめてない。

4枚めのアルバムは、前半が最高にいい。1から5までのながれね。「おかえりなさい。」、「白い世界」、「ちいさなぼくへ」。これはやばい。このへんの曲をくりかえして、西原理恵子(さいばら・りえこ)さんのマンガ『ぼくんち』をよんだので、相乗効果ですきになってる。このくみあわせは、たまたまなんだけど、イメージがぴったし。波長がにてるのだと おもう。そして、わたしのつぼに ずばりなのでしょう。おふたりとも。

比較できるものではないのだが、毎日おせわになってるぶん、しばたさんに とっても ひかれている。ファンの間では、「美人歌手」ということになってるのだけど、わたしは「そこまでいうほどかなー」と(「めんくい」だという意味ではありませんぬ)。ひとがらが表情に にじみでていて、それが すきなのだけど。いや、すてきだと おもうのだけど、美人だからどうのっていうほど、低レベルな音楽じゃないだろと。あと、「月光浴」が大人気なのも、ちょっと共感できず。でも歌詞は、ほんといいね。

ともかく、わたしの日常は しばたさんの曲をききつづけることで できあがっていて、ほかのもろともは、ほんのおまけであると おもっている。すべてが。
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ヒロヒトのメモがどうした

よー わからん。どーでも いいんじゃないの。だってヒロヒトですよ。

「昭和天皇も反対してたんだ」とか、そういうのは やめましょね。「A級戦犯」がどうのというレベルの かんがえだったという時点で、ヒロヒトにみるべき思想はない。でくのぼーだ。

だいたいがですよ、ヤスクニってA級戦犯をまつらずに、だれをまつるの?

そっか。戦争に かりでてくださった少国民のみなさま?

じゃあさ。A級戦犯は、まつられる側というより、「ごくろうであった。みなのども」といって「まつる側」なんではないのかね。

んー。責任をとわれなかったヒロヒトだけが、ヤスクニに参拝すべきだったのかもしれませんね。ヒロヒトからすれば、A級戦犯もまた、「みなのども」だったのでしょうから。

よー わかりませんねえ。まつりごとの世界は。
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映画『ヒューマン・ネイチュア』

べつについ最近『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』という本をかったからというわけではない。この映画、すきなのだ。みるのは2回目だったが、いかんせん、はじめてみたときはテレビで途中からみたのだった。

ユーモアに いりまじって「かんがえさせる」部分をはさみこんでいて、なかなかいい。みる側に ゆだねられた作品というか。けど、それほど「名作」と感じさせる映画というわけではない。何度も みると、おもしろいのかも。

罰則型条件づけでテーブルマナーをみにつけるネズミが おもしろい。博士は、森のなかで野生人をみつけ、こやつを文明化させようと おもいつくのだった。ジョディ・フォスター主演の『ネル』と対比させてみるのも いいかもしれない。

結局オチはそれかい!と観客に おもわせながらも、なにか納得できないものをのこすという、なかなか にくい内容構成だ。CGを極力さけたという撮影方法も たのしい。それは、監督と主演のリス・エヴァンスの解説をみて しったのだが。映画って、こまかい しかけをいっぱい ほどこしてるものですね。ま、そういう こまかなところに気をとられずに さらりとみるのが映画のたのしみだと おもうのだけどね。で、たまに気づいて にんまり わらうという。つくるほうとしては、そんなこまかなところに愛着があったりするというね。そういうところがあると おもう。

爆笑しながら みられるかと おもったが、2回目なのもあり、そういうこともなく。「もう自然に かえらなくては」といいつつ、腕時計をみるシーンがすき。

もしもだ。自分をサルだと おもいこんでいた主人公が、女性に設定してあったら、どんな内容になったのだろうか。『ヒューマン・ネイチュア』における自然観、男性観というのは、わりかし平均的というか、ありきたりなのだけど、主人公が女性の設定だったら、どんな内容になるのだろう、などと かんがえてみたりした。

グーグル:「ヒューマン・ネイチュア」
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がんじがらめ

現実の社会環境(世界)というものは、ひとつしかないものです(「ひとつしかない」という世界観もまた、ひとつの見方にすぎないというはなしは哲学畑に うめておくことにします。ほりおこしたいひとは、どうぞご自由に)。けれど、それぞれのひとにとって、「それがどのような環境であるのか」は、ひとの数だけ ちがいが でてくるように おもいます(もう自分では いいあきたフレーズだけど、もう一回いってみることにします)。

世の中には、いろんな価値感があります。たとえば、依存症をマイナスにとらえる価値観。あるいは、依存症を個人の責任におしこめる価値観。いや、依存したっていいじゃないかという価値観。そうじゃない。「依存したっていい」とかじゃなくて、依存しないようにしようと おもいつめるあまりに、余計に依存してしまうから、少々の依存くらい かまわないじゃないかと、自分を管理するために「依存してもいい」って かんがえるんだというひと。いや、その少々というのが、くせものだというひと。「依存はいけないだなんて、だれが いいだしたんだ、このやろう」というひと。「ちくしょう、なにが依存だよ。ちくしょう」というひと。

そんなふうにいろんな価値観や発想があるなかで、それぞれのひとは、翻弄されたり、まいごになったり、自分を否定したりして、がんじがらめになっているところがあるように おもいます。「わたし」をしばる価値観、知識、社会環境。そのようなものから、いかに解放されることができるのだろうか。


ひとつのことからの解放が、あらたな拘束をうみだしてしまうことがあります。解放というものが目の前にあり、そこに たどりつけば まばゆく ひかった世界が ひろがっているというのであれば、どんなに いいことか。

しかし、そんな まばゆい世界は、空想の中にしか ありゃしない。


だめだ。こんな はなしをして、なんになるのだ。いきぐるしくなるだけではないのか。そのさきに いったところで、理想郷には たどりつけないのだなんて、「わかっちゃいるけど、ききたくないよ」のたぐいではないか。あまりにも理想をもとめるがあまり、ささやかな前進すらできなくなるなんて、本末転倒ではないか。

がんじがらめにしているのは、おまえじゃないか(つまり、わたし)。現実を固定しようとしているのは、おまえも おなじじゃないか。

なにか社会に問題があって、それを解決しようと問題提起をする。その問題が、とても強固であるように感じられることはある。だが、それを表現するときに、問題を固定化するような いいまわしを、ついついしていることがある。必要なのは、いかに強固にみえる問題であっても、それをゆるがす論理をくみたてていくことだ。

なんなの? これ、なんのはなし? 自分でも わからないので気にしないでください。
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薬物依存と社会環境

たばこには中毒性がある。いや、中毒性はないという主張もあるのかもしれない。だが、重要なのは、たんにたばこに中毒性があるということだけではなく、わたしたちが「たばこには中毒性がある」という知識をもっているということだ。われわれには知識によって左右されている面があるということである。

興味ぶかいはなしがある。ローレン・スレイター『心は実験できるか』第7章「ネズミの楽園[アレグサンダーの依存症実験]」だ。結論をさきどりすると、「アレグサンダーは薬物依存の性質の研究に専念し、依存症とは、薬理の中にあるのではなく、患者をサポートしない社会の複雑な関係性の中にあるとの結論を得た」(246ページ)。

アレグサンダーの実験がおもしろいのは、劣悪な実験状況におかれたラットが依存症になるからといって、それは薬物の作用によるものだとみなすことはできないのではないかという発想にたち、ラットパーク(ねずみ公園)をつくり、そこで依存症実験をおこなったことにある。

ラットパークはもちろん、スレイターが指摘しているように、コントロールされすぎた空間(「普通の環境」ではなく「完璧な環境」)であった。アレグサンダーは従来の、コントロールされていない=適切化されていない実験状況とは両極端の環境をつくりあげたわけだ。けれども、「理想的な環境にあれば依存症にはならない」という実験結果は、われわれの知識をゆるがしてあまりある。

アレグサンダーは、「人類の歴史の中に、依存症というものが実質的に存在しなかった時代も多くあることに注意を惹かれた」。そして、「依存症の発生率は、ドラッグが入手しやすくなるにつれて上昇するのではなく、自由市場社会の必然的結果として人の移住が一般化するにつれて上昇したのだということに」気づいたのだ(270ページ)。

知識や見解というものは、ある場合において、たいへんな力をもつことがある。それをしっていることで、すくわれたり、安心できたりするような力を発揮することがある。アレグサンダーの見解は、まさにそのような力をもっているのではないか。

つまり、「依存症の自己責任化」に明確に反論するための論理としてである。依存症は、個人の問題ではない。それは、個人の意志や努力だけではどうすることもできないことだけによるのではない。重要な点は、社会環境が依存症をうみだすということにあるのだ。

注記:「ラットは神経系が人間のそれにごく近いため、依存症の実験に適している」という(244ページ)。
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あせと たばこと禁煙と

◆きょうは、あたまが とろけるほどに あつかった。湿度も たかかったようだ。なにしろ、石釜で まきが もえさかっている厨房にいるわけですからね。しかも、コックコートをきてる。あせだく…。

なのだが、ほかのコックさんたちは、あついのは いっしょだけど、あせをかく量がちがうのよね。きょうなんか、あまりにも あせをかいてるので、わらわれましたよ(笑)。やっぱ家で冷房をつかってないのが おっきんだろか。新陳代謝ねえ。たしかに よさそうだと自分でも感じる。

◆7月から たばこをやめてるんだが、余計に健康になったような気もし。すいたかったら すうし、すいたくなくなったら やめる。「わたしにとっては」禁煙だなんだってのは、なんともないようです。いやみに きこえるひとも いるだろうから、遠慮がちにいうけど、たばこ やめたかったら、かわなければ ええやん…。

ともかく、たばこの中毒性ということが いわれすぎているために、じっさい以上にたばこの中毒性というものが あるように感じられてしまい、「禁煙できない!」とおもいこまされている面もあるのではないでしょうか。1日に一箱以上すっているひとなどは、まさに中毒であって、すぐさまやめるというのは無理でしょうが、1日にかぞえるほど すってるだけのひとは、それほど禁煙がつらいとは おもえず。というか、そういうひとは禁煙する必要があるともおもえず。ていうか、毎日何箱もすっているひとにしたって、禁煙しないといけないとは まったく おもえず。あれ? なんのはなしだ。すきなよーにしなさいってこった。

◆いやね、たばこをやめたのは何回かぶりなんだけど、今回感じたのは、たばこをすっていると、すいたくもないのに、「もう一本」すうようになってしまい、それは、たばこが すいたいと「おもいこみたい」というような状態だったなと。よく「ニコチンがきれた」とかいってるけど、それって どーなのかねえって。

いわゆる「中毒」というものは、自分の意思では いかんとも しがたいものであることをさすんだと おもいます。けれど、中毒という ことばの使用が ひろがっていくにつれて、なんでもかんでも中毒であるように感じられてしまう。そういうこともあるような気がするのです。その線ひきが むずかしいというか、線なんて ひけないんだけども。
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新刊やら

あいだが あいてしまいました。ついにアイマック(デスクトップのパソコン)をかっちゃったのです。これが なかなか よろしいですわ。マックって、べつに つかいにくいことないやん。ブラウザはサファリよりオペラのほうがいいけど(笑)。あと、はじめから搭載されてる「ことえり」という日本語入力ソフトもATOKにまけてるけど。ま、マイクロソフトのIMEよりは ましか。

できることが格段にふえたので、ついつい自分の世界に没入しておりました。あとは、プリンタをかってと(…もってないのです)。

新刊って いってもさー、けっこうあるわ。きょう かったのは、◆鈴木由加里(すずき・ゆかり)『女は見た目が10割』平凡社新書。これは、題が卑怯だよねー(笑)。本屋でみたとき、ぷぷって わらってしまったよ。あと、◆村瀬学(むらせ・まなぶ)『自閉症-これまでの見解に異議あり!』ちくま新書。

かってあったのは、◆池田理知子(いけだ・りちこ)編『現代コミュニケーション学』、◆米本昌平(よねもと・しょうへい)『バイオポリティクス』中公新書→ファン・ウソク事件についてもふれられてる。◆ネーブンほか『ADHD 医学モデルへの挑戦』→これは障害学の本というわけではないのだけど、ADHDの障害学といえるのは、たとえば、イギリス障害学会の『障害と社会』誌に「ADHDのインクルージョン?」って論文があった。こんど よみなおそう。◆佐藤卓巳(さとう・たくみ)『メディア社会』岩波新書。いま注目をあびてる研究者の本。きがるに よめそう。

あと、かわなくてもいいのに、◆『朝倉心理学講座 5 言語心理学』→こういうのって、論文に つかえるから。◆今田純雄(いまだ・すみお)編『食べることの心理学』→ちょっと、ものめずらしさに。摂食障害についても かいてある。

きょう本屋で みつけたのは、◆『料理をするとはどういうことか―愛と危機』。おもしろいかも。◆図書館から かりてきたのは、『誰が摂食障害をつくるのか-女性の身体イメージとからだビジネス』など。けっきょく、かわなかったのよね。この本。古本で みつけたら、ほしいところ。

ほかに新刊でおもしろそうだったのは、◆『病院化社会をいきる』、◆『近代スポーツ文化とはなにか』→この系統の本ってかなりでてるよね。興味ぶかそうだけど、ては つけてない。身体論にも かかわってくるので、さけては とおれないのだけどね。ま、いずれ。

◆岡山大の図書館であれこれ文献を調査・コピーしてたら、雑誌『国際交流』103号(2004年)が「本が人を動かす―国際交流の場としての図書館」という特集をくんでいたのをしる。バランスのとれた内容になってますね。『国際交流』は、あなどれない。これを機に気になってたバックナンバーをまとめがいしとこう。

◆大学図書館がムカツクのは、主要な雑誌ほど、教員の研究室においてある=学外のひとはアクセスできないというワナ。ゆるされん(笑)。『社会学評論』、『ソシオロゴス』、『文化人類学』…。しゃーないから岡山県立図書館にいってきた。『文化人類学』はね、最新号(70巻4号、2006年)に安渓遊地 (あんけい・ゆうじ)「フィールドでの「濃いかかわり」とその落とし穴―西表島での経験から」というのがのってますのよ。ざっと よんだが、ちくしょー、やるなあってかんじ。学部のときの指導教員です、このひと。わりかし有名な「される側の声-聞き書き・調査地被害」がサイトで公開されてるので、リンクしときやす。…って! 「フィールドでの「濃いかかわり」とその落とし穴・手直し版」が公開されてた。さいごに山口にいったのが、2004年の3月。はやいなあ、時間がたつのは。

◆岡山県立図書館てのは、2004年にできた図書館で、かなりの蔵書数をほこる。快適。◆山口にいたときは山口県立図書館を利用してた。歴史ある図書館なだけに、ふるい文献がそろっていて、すきだった。

やまぐちに あそびにいきたいのです、わたしは。ということで。
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『ユリイカ 特集*西原理恵子』

うー、つかれた。ねるひまも、ごはんをたべるひまも おしんで、文章をしたためておりました。

とりあえず、できたことにして、わたしはサイバラさんでも よむのです。

◆『ユリイカ』7月号と『毎日かあさん 3 背油編』。『ユリイカ』ね、ちょっとよんだのよ。
そしたらね。水越真紀(みずこし・まき)「美しい物語をいくつも越えて」。これいいよ。ジーンとしました。

てか、みんな『ぼくんち』すきなのねえ。『ものがたり ゆんぼくん』と。あと、『営業ものがたり』に はいってる「朝日のあたる家」。うむ、たしかに いい。


中村うさぎ(なかむら・うさぎ)さんをちゃんとよんでみたいと おもう、きょうこのごろであります。

(最近わかったのですが、定期的に本屋にいかないと文章をかく気にも よむ気にもならない性質のようです。うえの2冊以外は、オカタイ本をかってきたプラス注文してた本がきたので、紹介したいのだけ またこんどさらします。ていうか、立岩真也(たていわ・しんや)さんの本がでましたね。)
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