去年、
『社会言語学』第5号の紹介文をかいたように、かんたんに各論考を紹介したい。もくじは、
「社会言語学」刊行会のサイトにある
6号のページをご覧いただきたい。
◆巻頭をかざった古賀文子(こが・あやこ)の「「ことばのユニバーサルデザイン」序説」は、言語至上主義を批判する論考になっている。『社会言語学』誌は言語権をテーマにかかげ、言語差別を問題化する専門誌である。その本誌において、障害学だけでなく言語権論/言語差別論の観点からも言語至上主義を検討する古賀論文は、まさに「言語にとらわれた」研究者たる言語研究者、社会言語学研究者にとって、痛烈な批判としてひびくであろう。知的障害者とのかかわりをもつひと、言語問題に関心をもつひと、表現をするひと、表現を享受するひとなど、ほとんどすべてのひとに熟読をすすめたい。古賀の今後の研究にも注目したいところだ。
◆英語批判の論考である仲潔(なか・きよし)の「「生きた英語」と分裂的言語観」は、学校教育における英語教育の問題点を、学習指導要領の詳細な検討によって論証している。社会言語学の論考として、ひじょうに堅実な内容となっており、とくに入門者にとって社会言語学の問題意識(論点)にふれるのによく適した論文にしあがっている。力作である。
◆糸魚川美樹(いといがわ・みき)「公共圏における多言語化」は、愛知県という多言語空間の「公共圏」において、どの言語が、どのような立場から、どのようなかたちで日本語とあわせて併記してあるのかを検討している。「多言語化の内実」を批判的に検討する糸魚川論文は、『「共生」の内実』(三元社)とあわせて参照されたい。「なんのための多言語化なのか」という問題意識を土台にしたものでなければ、「われわれの自己満足」におわってしまうのである。
◆東弘子(あずま・ひろこ)「批判的言説分析としての敬語分析」は、皇族にたいする敬語/敬称の使用を分析している。東は、「客観的な言語研究」という幻想によりかかることなく、イデオロギーの問題にとりくんでいる。東論文のすぐれた点は、イデオロギー性の批判にとどまって満足してしまうのではなく、きちんと敬語の言語学的分析にしあげていることにある。
◆ましこ・ひでのり「辞書の政治社会学序説」は、安田敏朗(やすだ・としあき)の力作『辞書の政治学』を中心に、辞書に託された規範と権威の問題を論じている。ベストセラーとなった『問題な日本語』、『続弾! 問題な日本語』の検討をくわえたことで、「近年の俗流言語論点描(その4)」としての役目をはたしている。
◆角知行(すみ・ともゆき)「漢字イデオロギーの構造」は、識字研究のたちばから漢字表記の問題を論じるものである。これは、識字研究者による漢字批判として、貴重な論考であるといえる。識字研究を、日本の文脈にそった批判的学問としてたちあげるために必要な論点とはなんであり、「漢字批判のいま」はどのようになっているのか。それを概観するうえでも重要な論文である。
◆鈴木理恵(すずき・りえ)論文「近世後期における読み書き能力の効用」は、教育史の研究者による「識字の神話」を再検討する論考である。「江戸時代の識字率は世界一」などという言説がはびこる現状において、鈴木がなにをどのように論証し、また提示しているのかに注目されたい。重厚な『社会言語学』第6号において、うもれてしまってはならない論文であると、ここで強調しておきたい。
◆あべ・やすし(筆者)の論文
「均質な文字社会という神話」は、網野善彦(あみの・よしひこ)『日本論の視座』において展開された文字社会論=「日本の文字社会の特質」を批判的に検討した論文である。識字研究だけでなく、障害学の観点をとりいれたあべ論文は、識字能力と識字率のイデオロギー性を批判する。そして、よみかきをめぐる問題は、能力の問題ではなく、権利の問題であると発想の転換を主張する。文字がよめなくても情報をえる権利はある。また、情報をえることは可能でもある。それではなにが支障になっているのかといえば、社会環境の不整備なのである。
◆しばざき・あきのりによる『本のアクセシビリティを考える』(読書工房)の書評は、ひじょうに情報量もおおく、また、ふかい問題意識にうらうちされた内容にしあがっている。言語権論では、読書権という視点がとりあげられてこなかったし、さらには、「本のアクセシビリティ」、「バリアフリー出版」などが、なおざりにされてきた。ほとんどの読者にとって、はじめてふれる世界がそこにひろがっているといえるだろう。これも熟読されたい。
◆つぎは、はじめてのこころみである論文評である。ろう文化研究、おもに、きこえない親をもつきこえるこどもの研究にたずさわる澁谷智子(しぶや・ともこ)の論文「声の規範」『社会学評論』第222号を、ゴフマンの研究に立脚して吃音の社会学をたちあげている渡辺克典(わたなべ・かつのり)が論評している。社会にこだわる渡辺と、差異/文化にこだわる澁谷の、両人の問題意識がよくあらわれた評文と応答になっている。
◆2003年に出版された重厚な研究書である上農正剛(うえのう・せいごう)『たったひとりのクレオール』(ポット出版)を、手話学会長である森壮也が書評をかいている。森は、専門家として、また、当事者としての不満を率直になげかけ、上農は、大著の著者として、森の評文を「かかなかったこと」に対する非難として応答している。『たったひとりのクレオール』を通読したうえで、このやりとりに注目してみてほしい。
◆木村護郎クリストフ(きむら・ごろう くりすとふ)による大著『言語にとって「人為性」とはなにか』(三元社)を台湾在住の富田哲(とみた・あきら)が好意的にとりあげている。富田の紹介と木村の応答をよむと、木村の大著をあらためて手にとってよみかえす気にさせられる。
◆まとめ:本誌は、『社会言語学』と名のつく学術誌である。社会言語学や言語に関心をもつ読者にとってあまりに魅力ある1冊にしあがっていることはいうまでもなく、社会科学や社会問題に興味のあるひとにとっても、必読の1冊であると断言できる。
すべての論考において、「だれが、どのようなたちばから、なにを、どのように主張(行動)しているのか」がきちんと検証されている。そして、規範主義と固定観念の問題が丹念に批判検討されている。言語観をかえるということにとどまらない。『社会言語学』第6号は、よむものの世界観をかえる1冊なのである。