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いま、そのとき、かんがえつつあること。

『ワークパラダイス』DVD化

2006-09-27 | ブログ
うっひゃっひゃ。

ひさしぶりに登場なのに、こんな話題ですよ。

◆山口放送制作で、『ワークパラダイス』って深夜番組があってね、それが やったら おもしろかって、それが ついにDVDになるそうですよ、というはなし(【楽天市場】三宅裕司のワークパラダイス~生瀬勝久 伝説のひとり不可思議20職~)。完全版なのが いいやね。

◆ちなみに本日9月27日は柴田淳(しばた・じゅん)さんのライブDVDが発売なのです。前回の教会ライブのDVDは「ため息」が よろしかったでございます。歌がおわったから演奏もきりあげるぜ、というのでなしに、柴田さん うたいおわって ひとまず退場するんだけど、ピアノ、ベース、ドラムのおさんかたは もちょっと演奏するぜということで、よろしゅうございました。

◆おまけで ちがうはなしをかいておく。

たみや ともか『左ききのたみやさん』。すぐ よめるし、内容もいい。ねがわくば、『「左利き」は天才?―利き手をめぐる脳と進化の謎』と あわせて よんでください。わたしも「てがき文字へのまなざし」をひきつぐ論文をかきあげるときなのかもしれない。そろそろね。

批判的であること

2006-09-23 | にんげん
だれしも得意分野、苦手分野というものがある。得意なことには雄弁で、きびしい姿勢をもっており、苦手なことは、他人にも自分にもあまいことがある。それは当然のことなのだが、その点に注意することがなければ、ただの「えらそーなひと」になってしまう。たとえばそれ専用の知識を必要とするがために、しらないひとは、なんにも しらないということがある。思想や方向性はおなじか、よくにていても、かさならない部分もふくむものがある。ある分野にくわしいひとも、まったくちがう分野ではなく、たんに関連分野であっても、基本的なことさえしらないということがある。

自分がくわしいことに、だれかが無知で、さらには問題をひきおこしている。それはだめだということで批判をする。しらないのは いいわけにならないとかいって批判する。

だれにでも わかる。だれもが しらないうちに、ある観点からみて問題のあることをしてしまっている。だれであってもそうだ。それは、「だから、えらそーに批判してはならない」ということを意味するわけではない。「だれかを批判するなど、だれにもできないことだ」とか、「結局、みんなの責任なんだ」とか、そういうはなしでもない。

どんな わるいことをしても、自分に はねかえってくるものだと いわれる。よいことをすれば、まわりまわって自分の利益になるとも いわれる。だが。

残念なことに、はねかえってこないひとがいる。まわりまわってこないひとがいる。それが、関係の非対称性であり、力関係なのだ。

もっとも、悪事が自分に はねかえってこないひとというものは、どんどん はだかの王様になりさがっていくもので、その点で制裁をうけているということはできる。表面化しないけれども、わらいの対象になっているというふうに。しかし。

努力をしているひとが むくわれない場合、しいて むくわれたといえるようなことは、はだかの王様にはなっていないとか、その程度のことでしかないことがある。はだかの王様は、表面的には もちあげられる。それで満足することができる。だが、努力するひとは、勤勉であるとか、がんばりやさんだとか、そんなハラのたしにもならない評価をうけるだけだ。

えらそーになることは、わるいことではないだろう。なにか、自分がこだわることにたいして批判的になることもよいだろう。だが、はだかの王様になってしまっていては、すくわれない。なにも かわらない。

批判的な かたりをすることによって、いつのまにか はだかの王様になってしまわないようにしたい。

あるところと あるところに、ふたりのばかが いた。ひとりは、さんざんにけなされつづけていた。もうひとりは、ちょっとくせがあるとだけ たまに指摘されるだけだった。

このとき、ちょっとくせがあるとだけ指摘されるのは、愛されていないとか、あきらめられているだとか、そうした理由によることがある。

気をつけなきゃだわ。

映画『かまち』

2006-09-23 | 映画
むかついていたので、げんきのでる映画でもみようと おもったのだが。以下は、つながらない日々に かきとめておいたもの。

うーん、よしとするかなあ。前半から躍動感のある音楽にのせて山田かまち(やまだ・かまち)の詩が朗読されながらうごきのあるカメラワークですすんでいく。たのしい。

中盤の告白シーンが学芸会の演劇っぽいのは、まあ告白という非日常のところだからよしとする。で、舞台はかまちの時代から現代にうつる。かまちに ほれられていたひとを中心にして。塾の講師をしていて、受講生のうちふたりが「いきることにつかれた」というかんじ。「いきたいかまち」と「死にたいこども」の対比。まあ、その対比自体はいいんだけど、死ぬなというときに、その対比をもって説得しようとするシーンには げんなり。しかもそこで「先生、ごめんなさい」じゃねーよ(笑)。わたしの表現では、「死にたいこども」ではなくて、「死にたいほどに いきたいこども」なので、かまちと そうしたこどもらに、絶対的な ちがいはないのだと おもっている。ラストで、こどもに かたったセリフ。なにをしてもいいから、ほんきで やりなさいというようなことば。これは、説得力があった。

基本的に音楽がよかった。だけど、それも過去形になってしまった。最後のほうで かまちと そのともだち役が渋谷で「アイドル風ラップ」をしているシーンがある。それも、かまちの詩にのせて。それはね。まだ ゆるせた。エンドロールが ながれたときに、えーーー(これは、したむきの「えーーー」)と。うえ4人のなまえに、かっこで(lead)とある。あぁ、アイドルだったのかあ。なーんだと。ちょっとそれで げんなりしたのだが、もうすこしして、曲がかわって、そのアイドルによる「アイドルラップ」が ながれる。ぶちこわし…。どうもだめだ。「アイドルラップ」なんて ことばはないけど、わかるひとは わかりますでしょ。うけつけないんだよねえ。

エンドロールをみていて、おお?っと よろこんだのは、アイルランドの民謡っぽいアレンジで「プリーズ・ミスター・ポストマン」(ビートルズのうた)をうたっていたのが、ボニーピンクだったこと。最近うれてるね。ボニーピンクは あんまりきいてないけど、何曲か気にいった曲がある。

現代のシーンにいくつか不満をもったが、山田かまちをよんだことのあるひとなら、たのしめる映画ではないかと おもう。すくなくとも前半は。

つながらない日々・2

2006-09-23 | ブログ
あれは半年まえに さかのぼる。はやいものだ。ブロードバンドが とめられてしまったのが4月の中旬(「つながらない日々」)。これで3回めだったのね。さっぱり学習していませんこと。おほほ。

きょうは やすみだったので うろちょろしてみた。おー。ハベリというカフェは こんなとこにあるのかとか。カジュアルダイニング梵[ぼん]って おいしいのねー、とか。ハベリは こんどだな。

万歩書店の本店よこにブックオフができてた。まえから だっけな。どろどろスープでチャーシューがうまかった金八ラーメン[きんぱち らーめん]が つぶれて ちがう店になってた。あったまろうと おもったのに。

あさから はなかぜ、いや、ここ数日か。あきかぜをなめていた。あいかわらず うすぎで ぶらついてしまった。反省。

おかいものは、マンガ:◆山本直樹(やまもと・なおき)『安住の地』1、2巻。『ビリーバーズ』のつづき、でもある。あいかわらず しめくくりが うまい。ふつーにエロマンガなのに。あれ、ふつーでもないか。そんなん しらん。◆松田洋子(まつだ・ひろこ)『薫の秘話』。ではじめだけ よんだけど、やばい。すきだ このキャラ。◆こうの史代(こうの・ふみよ)『夕凪[ゆうなぎ]の街 桜の国』。かってみた。「ゆうなぎ(夕凪)」なんて よめねーよー。

音楽CD:小谷美沙子(おだに・みさこ)『i』。うわー、このアルバムすげえ いーやん。

古本:◆永江朗(ながえ・あきら)『メディア異人列伝』。休刊した『噂の真相』に連載してたやつね。あれ? こんなにも おいしい人選だったの、これ。おもしろいや。連載当時から すきだったけどもね。◆ジャック・アダ『経済のグローバル化とは何か』。わたしには めずらしい本かも。グローバル化とか、開発援助とかって識字と関係してるからねー。関係してるのは、なんでもそうだけど。◆飛田茂雄(とびた・しげお)『いま生きている英語』中公新書。こんな本あったっけ、と おもったら1997年の本。それなら しらなくても不思議ないわな。マメ知識をしいれるために。◆デイヴィッド・エルキンド『ミスエデュケーション-子どもをむしばむ早期教育』。わるくないかも。

新刊本:◆津田幸男(つだ・ゆきお)『英語支配とことばの平等-英語が世界標準語でいいのか?』。津田さんも多作ですわね。やはり英語 対 日本語という図式で、日本語のもつ権力性にも注目しようという気配がない。津田は「コミュニケーション権」ともいっていて、それは「「言語権」「文化権」「情報権」からなり、この3つの権利は、「自由」「平等」「選択」の3原則により行使されるものと私は考えている」としている(236ページ)。英語帝国主義批判だけを検討するのなら、おすすめできる本。わかりやすく かいてある。◆村松秀(むらまつ・しゅう)『論文捏造[ねつぞう]』中公新書ラクレ。「なぜ防げなかったのか」って、それは ふせげないだろーーと おもうのだが。◆たみや ともか『左ききのたみやさん-哀愁ただよう左きき爆笑エッセイ』。かわゆく かいてあるが、これをどうよみますか? 「そっかー。大変なんだねー。」とかだったら………。ともかく、こういうアプローチはあんまりなかった(はず)。右ききのひとが よんでみることから、まずは はじまる。世の中をよくしていくことは気づくことからはじまる。

◆職場に搬入にきている業者さんで、いちばん いい仕事をする担当者さんが、じつは たいへんな読書家であることが わかった。「あべさん、さいきん気にいってる作家さんがいるんですよー」。(ん、作家というと小説家か。たぶんしらないひとだな)。「小熊英二(おぐま・えいじ)さんっていうんですけど」。(は?)。きくに、『〈日本人〉の境界』も『単一民族神話の起源』も、『〈民主〉と〈愛国〉』も よんだという。全部よんだとのことだが、『清水幾太郎[しみず・いくたろう]』とかも よんだのかなあ。『日本という国』でしたら、わたしも かるく よみましたがねえ。ということで、『社会言語学』6号をおかいあげいただけることになりました。おたがい、意外なところで本のはなしができる相手ができたという(笑)。

にしても読書家さんて、ほんとよんでるよねえ。わたしは本はすきだが、とくに読書がすきというのではないしねえ。チェックするのは趣味だけど。

あー、はなみず とまらない。

映画『同じ月を見ている』

2006-09-17 | 映画
土田世紀(つちだ・せいき)原作(マンガ)ということで。土田さんのマンガは『雲出づるところ』上下をよんだことがあって、これがけっこう よかったのですよ。おとこくさい絵なんだけど、よませるマンガで感動できる。マンガ『同じ月を見ている』は7巻シリーズなのですね。よみたいような、もういいような。

映画のほうですけど、あんまり たのしめなかった。キャストもぱっとしないし、音楽もだめ。演出も気にいらなかった。テーマの関係上、月がよくでてくるのだけど、その月が満月であることのおおいこと。こういうのをね、つきなみっていうのよ(笑)。ふと空をみあげて、あら満月なのねっていう ちいさなしあわせ感がいいんでしょが。そんなにいっつも満月ばっかりで、なにそれ。

キャストはねえ、山本太郎(やまもと・たろう)はすきだし、窪塚洋介(くぼづか・ようすけ)も きらいじゃないんだけども。黒木メイサ(くろき・めいさ)は いただけませんでした。へたな声優さんみたいな しゃべりかたのところが おおかった。音楽も、全然ひびかない。

すくいだったのは、絵かなあ。まっかな絵とか すきだった。

やせた窪塚さんは わかい豊川悦司(とよかわ・えつじ)みたいで ちょっと よかったが、あー、やっぱこのひとは いつも いっしょなのねーと納得してしまった。頭のキレるクールな役柄かと おもったのに(笑)。ぶちきれてるシーンとか、『GO!』といっしょだしみたいな。しかたないので、水川あさみ(みずかわ・あさみ)さんが でてたことに みーはーしました。

最近けっこう いい映画をみていただけに、ざんねん。いつもいってるレンタル屋に『パッチギ!』がなくなったのは どうしてですか。おかしいなあ。店員さんに きけばいいんだけど。

えほんって、なんなのだろう

2006-09-16 | ほん
西原理恵子(さいばら・りえこ)さんの『いけちゃんとぼく』角川書店。

表紙に「はじめての絵本!」とあるが、絵本ふうのものは過去にたくさんあったので、はじめてという気はしない。新鮮みがあるわけでもない。

よんでみた。

なんで なけるのか わからない。なんだか、ふわりと やられてしまって、なけてしかたがない。かなしいはなしじゃない。だけど、せつないはなしではあるかもしれない。

サイバラさんの作品は、一見こどもむけのようなものが たくさんある。けれども、どうみても これは おとなむけだよなと感じられる場合がほとんどだ。この『いけちゃんとぼく』にしたってそうだろう。漢字がすくないのは たしかだけど、ふりがなは ふってないしね。

ここでは、文字づかいについては わきにおく。

作品の内容とそれを理解するということ、そして、えほんをたのしむということについて。

あいかわらずサイバラさんの絵はすてきだ。空や海の色。いえに こどもが いるサイバラさんの愛読者は、こどもにも みせるかもしれない。えほんをみせながら、よんできかせる。こどもは、よろこぶかもしれない。興味をしめさないかもしれない。じゃあ、よろこんだとしよう。なにをよろこんでいるの? きれいな絵をたのしんでいる? でてくるキャラクターに愛着をもっている? 「えほんをよんでもらう」ということをたのしんでいる? よんでもらいながら、そのひとと自分の関係に ここちよさを感じている?

なんだろうね。

ひとりで よんでいる わたしは、「こどもむけじゃない」だなんていって、へんな優越感にひたっている。ひとりで よんでいる わたしは、こどもらの たのしみかたというものをしらない。どんなふうに たのしんでいるのか。間接的にではあっても、いろんな「こどもの反応」をみききしたい。ミクシィのようなコミュニティサイトは、こんなときに、やくにたつ。

視点をずらす。ずらしてみて、自分の視点をふりかえってみる。えほんを、もういちど よんでみる。

青色が基調の『いけちゃんとぼく』に、オレンジ色がまじってる。やさしい水色につつまれて、オレンジ色をまっている。空がオレンジになったら、みんなオレンジにそまってた。

なんのことだか よくわからなくても、感じるものがある。わかるとか、わからないということに、とらわれていてはだめだ。

最近かった本など

2006-09-15 | ほん
小説『図書館戦争』を以前紹介したが、今回その続編がでた。『図書館内乱』メディアワークス。かってきました。

◆西原理恵子(さいばら・りえこ)『いけちゃんとぼく』角川書店。たぶん叙情的な えほん。かった。

◆まえから気になっていた『料理をするとはどういうことか-愛と危機』新評論。かってしまった。お? これはフランスの社会学者の本なのか。ほほう。

◆テリー・イーグルトンって初耳だけど、『文化とは何か』松拍社。かってしまいました。この本のおびには、「『文学とは何か』から数えること約20年―。あいまいなまま使われる「文化culture」という用語を徹底検証。政治性を失いつつある現代の「カルチュラル・スタディーズ」にもっと政治的になれ、と警鐘を鳴らす。」とあります。文化概念についての議論は、タカマサのきまぐれ時評に「「文化」というもの(その1)」がありますね。

◆文化概念にも料理をするということにも関連してくるのですが、渡邊洋之(わたなべ・ひろゆき)『捕鯨問題の歴史社会学-近現代日本におけるクジラと人間』東信堂。きゃーきゃー。これは すてきー。じゃあ、みなさん よんで感想をウェブでかいてくださいな。あたしは よまないから(笑)。だって…。『サルと人間の環境問題-ニホンザルをめぐる自然保護と獣害のはざまから』も かってないし、よんでもないし。ともかくね、『犬肉をくおうが くわまいが?-相対主義のまちがい』という韓国の本といっしょによみたいわね。これは、けっこうよんだけども、よみなおしたいわ。そいえば、『覚醒剤の社会史』も そそられましたね。あ、リンクさきをみると、これ やっぱ おもしろいんだろうなあ。

◆ちょっとまえに菅原和孝(すがわら・かずよし)編『フィールドワークへの挑戦』世界思想社をかった。第3章には比嘉夏子(ひが・なつこ)「生きものを屠って肉を食べる-私たちの肉食を再考する試み」が収録されてます(←いちお、こういった関連文献をあつめています。ひそかなテーマなのであります)。

◆田垣正晋(たがき・まさくに)編著『障害・病いと「ふつう」のはざまで-軽度障害者どっちつかずのジレンマを語る』明石書店も かってある。

◆熊谷高幸(くまがい・たかゆき)『自閉症-私とあなたが成り立つまで』ミネルヴァ書房。けっこう自閉症関連の本あつめてるなあ。そのうち、どがんと分析して論文にしよう。いつか。……「いつかなんて日はいつだ」!!。

『技術と身体-日本「近代化」の思想』ミネルヴァ書房も なかなか よさそうよね。

◆1999年の本だけど、鷲田清一(わしだ・きよかず)『「聴く」ことの力-臨床哲学試論』阪急コミュニケーションズをかってみた。これは、よんでおこうと。

◆わすれてた。『ブラッドタイプ』って小説が めっさ おもしろそうでっせ。

◆雑誌『社会言語学』の1号から6号までをセットで9000円で販売します。ほしいかたは、abe.yasusi@gmail.comまで連絡をくださいませ。

◆さいきん、はてなブックマークをはじめました。

『社会言語学』第6号

2006-09-14 | ほん
去年、『社会言語学』第5号の紹介文をかいたように、かんたんに各論考を紹介したい。もくじは、「社会言語学」刊行会のサイトにある6号のページをご覧いただきたい。


◆巻頭をかざった古賀文子(こが・あやこ)の「「ことばのユニバーサルデザイン」序説」は、言語至上主義を批判する論考になっている。『社会言語学』誌は言語権をテーマにかかげ、言語差別を問題化する専門誌である。その本誌において、障害学だけでなく言語権論/言語差別論の観点からも言語至上主義を検討する古賀論文は、まさに「言語にとらわれた」研究者たる言語研究者、社会言語学研究者にとって、痛烈な批判としてひびくであろう。知的障害者とのかかわりをもつひと、言語問題に関心をもつひと、表現をするひと、表現を享受するひとなど、ほとんどすべてのひとに熟読をすすめたい。古賀の今後の研究にも注目したいところだ。

◆英語批判の論考である仲潔(なか・きよし)の「「生きた英語」と分裂的言語観」は、学校教育における英語教育の問題点を、学習指導要領の詳細な検討によって論証している。社会言語学の論考として、ひじょうに堅実な内容となっており、とくに入門者にとって社会言語学の問題意識(論点)にふれるのによく適した論文にしあがっている。力作である。

◆糸魚川美樹(いといがわ・みき)「公共圏における多言語化」は、愛知県という多言語空間の「公共圏」において、どの言語が、どのような立場から、どのようなかたちで日本語とあわせて併記してあるのかを検討している。「多言語化の内実」を批判的に検討する糸魚川論文は、『「共生」の内実』(三元社)とあわせて参照されたい。「なんのための多言語化なのか」という問題意識を土台にしたものでなければ、「われわれの自己満足」におわってしまうのである。

◆東弘子(あずま・ひろこ)「批判的言説分析としての敬語分析」は、皇族にたいする敬語/敬称の使用を分析している。東は、「客観的な言語研究」という幻想によりかかることなく、イデオロギーの問題にとりくんでいる。東論文のすぐれた点は、イデオロギー性の批判にとどまって満足してしまうのではなく、きちんと敬語の言語学的分析にしあげていることにある。

◆ましこ・ひでのり「辞書の政治社会学序説」は、安田敏朗(やすだ・としあき)の力作『辞書の政治学』を中心に、辞書に託された規範と権威の問題を論じている。ベストセラーとなった『問題な日本語』、『続弾! 問題な日本語』の検討をくわえたことで、「近年の俗流言語論点描(その4)」としての役目をはたしている。

◆角知行(すみ・ともゆき)「漢字イデオロギーの構造」は、識字研究のたちばから漢字表記の問題を論じるものである。これは、識字研究者による漢字批判として、貴重な論考であるといえる。識字研究を、日本の文脈にそった批判的学問としてたちあげるために必要な論点とはなんであり、「漢字批判のいま」はどのようになっているのか。それを概観するうえでも重要な論文である。

◆鈴木理恵(すずき・りえ)論文「近世後期における読み書き能力の効用」は、教育史の研究者による「識字の神話」を再検討する論考である。「江戸時代の識字率は世界一」などという言説がはびこる現状において、鈴木がなにをどのように論証し、また提示しているのかに注目されたい。重厚な『社会言語学』第6号において、うもれてしまってはならない論文であると、ここで強調しておきたい。

◆あべ・やすし(筆者)の論文「均質な文字社会という神話」は、網野善彦(あみの・よしひこ)『日本論の視座』において展開された文字社会論=「日本の文字社会の特質」を批判的に検討した論文である。識字研究だけでなく、障害学の観点をとりいれたあべ論文は、識字能力と識字率のイデオロギー性を批判する。そして、よみかきをめぐる問題は、能力の問題ではなく、権利の問題であると発想の転換を主張する。文字がよめなくても情報をえる権利はある。また、情報をえることは可能でもある。それではなにが支障になっているのかといえば、社会環境の不整備なのである。

◆しばざき・あきのりによる『本のアクセシビリティを考える』(読書工房)の書評は、ひじょうに情報量もおおく、また、ふかい問題意識にうらうちされた内容にしあがっている。言語権論では、読書権という視点がとりあげられてこなかったし、さらには、「本のアクセシビリティ」、「バリアフリー出版」などが、なおざりにされてきた。ほとんどの読者にとって、はじめてふれる世界がそこにひろがっているといえるだろう。これも熟読されたい。

◆つぎは、はじめてのこころみである論文評である。ろう文化研究、おもに、きこえない親をもつきこえるこどもの研究にたずさわる澁谷智子(しぶや・ともこ)の論文「声の規範」『社会学評論』第222号を、ゴフマンの研究に立脚して吃音の社会学をたちあげている渡辺克典(わたなべ・かつのり)が論評している。社会にこだわる渡辺と、差異/文化にこだわる澁谷の、両人の問題意識がよくあらわれた評文と応答になっている。

◆2003年に出版された重厚な研究書である上農正剛(うえのう・せいごう)『たったひとりのクレオール』(ポット出版)を、手話学会長である森壮也が書評をかいている。森は、専門家として、また、当事者としての不満を率直になげかけ、上農は、大著の著者として、森の評文を「かかなかったこと」に対する非難として応答している。『たったひとりのクレオール』を通読したうえで、このやりとりに注目してみてほしい。

◆木村護郎クリストフ(きむら・ごろう くりすとふ)による大著『言語にとって「人為性」とはなにか』(三元社)を台湾在住の富田哲(とみた・あきら)が好意的にとりあげている。富田の紹介と木村の応答をよむと、木村の大著をあらためて手にとってよみかえす気にさせられる。

◆まとめ:本誌は、『社会言語学』と名のつく学術誌である。社会言語学や言語に関心をもつ読者にとってあまりに魅力ある1冊にしあがっていることはいうまでもなく、社会科学や社会問題に興味のあるひとにとっても、必読の1冊であると断言できる。

すべての論考において、「だれが、どのようなたちばから、なにを、どのように主張(行動)しているのか」がきちんと検証されている。そして、規範主義と固定観念の問題が丹念に批判検討されている。言語観をかえるということにとどまらない。『社会言語学』第6号は、よむものの世界観をかえる1冊なのである。

感傷のマッチポンプ

2006-09-12 | ブログ
インテルiMacをかってからというもの、たのしいパソコン生活をおくっているのです。

で、iTunesというのに いろいろ すきな音楽をいれてるのですけどね、もちろん柴田淳(しばた・じゅん)さんの曲のほとんどすべてをいれてるのですけどね、あのね、これね、あやういところもあるね。いや、わたしの つかいかたというか、そもそもの、わたしの音楽の趣味というか。いや、性格の問題かもしらんし。わからねーけども。たのしく あかるい曲よりも さびしげなのをこのむので、どうもねえ。しずんできますよ。

たぶん、きょうは いいことがあって、ちょっと よろこんで、だけど、全然よろこべない現実があって、まあ、これはこれでいいじゃないかとも おもいながら、なんだか つらいなあとも感じたりして、だけど、よくよく かんがえてみたら めぐまれてるよなとも おもえてきたりしちゃって、ひさしぶりにプリントつくって準備して、耳に ながれてくるニール・ショーンのギターソロに あつくなって、うは、やっぱジャーニーは『エスケイプ』だーと再確認して、それでまた めがしら あつくなってきて、敬愛するジョーイ・テンペストのうたは やっぱり最高で歌詞が これまた よくて、椎名林檎(しいな・りんご)の「依存症」は、うねるようなノイズのなかに 哀愁の旋律が ひかってて、フェイレイさんの「道」とか「名前」とかに しっとりして、コッコくるりのメンツのシンガーソンガーは きもちがよくて、くるりってテクノの いいとこどりが うまいよなあと感心して、そういえば、鬼束ちひろ(おにつか・ちひろ)さんが音楽の舞台に復帰しそうな はなしがあって、それで めちゃくちゃ感激で、ああまだiTunesに全然とりこんでねーやと おもいだし、じゃあ なにをいれるかなあ、「コール」っていいよなあ、あとは「レベル ラック」と「声」もいいし、「嵐ヶ丘」も いいやねえ、そうそう「茨の海」も わすれちゃいかん、と。

音楽で めがしらあつくなって、気分は しずんできて、しずんでいるのが きもちよくもあって、その状態でいろんなことをかんがえて、それでこれまた感傷的にもなって、また音楽に とりこまれてみたいな。そんなこんなで、うっひゃ、人生さいこーーーみたいな。え?

映画『メゾン・ド・ヒミコ』

2006-09-11 | 映画
いいねー。すきだよ、これは。『ジョゼと虎と魚たち』と いっしょの監督(犬童一心=いぬどう・いっしん)なんだけど、こっちのが すきだわ。いろんなキャラのひとが でていて、お得感があるのかも。

舞台はゲイの老人ホーム。カリスマ老人のヒミコが すてきすぎる。演じてるのは田中泯(たなか・みん)という おかた。公式サイトみっけた。どこかで みた顔だと おもうが わからない。舞踏家さんなのか。かっちょいい。

海に面したホームで、それだけで いい ふんいき。ヒミコのむすめの主人公(サオリ)のキャラが なんだか よくわからないが、よくわからないキャラというのもあるので、べつに これでいい。

ひとが旅行にもとめるものに ちかい気分を、みていて味わうことができた。なんでだろう? 身近にゲイの老人がいないからか? 紳士なかんじのひと、ちょっとだけマッチョなひと、いわゆる女形というおもむきのひと、みたかんじ ただのイケメンのひとなど、いろいろ いるんだけど、みんな魅力的、みたいな。

わたしは、同性愛嫌悪とか異性愛主義というのが よくわからないので、これから ほかのひとが かいたレビューやら感想文をよんでみよう。

ちょっと冗長な印象もうけるんだけど、それだけ のんびりした空気がながれていて、だけど、しずかに感情のなみが おしよせたり、ひいたりしてくれる。こういう感情の描写ってすきだな。いろんなとこで、しずかに ないた。

映画『ジョゼと虎と魚たち』

2006-09-10 | 映画
いいね。余韻の のこる青春映画(?)。キャストが いいわ。『GO!』で いい味だしてた新井浩文(あらい・ひろふみ)が バカ役ででてる。それから、音楽を担当したのが「くるり」なのもいいね。いいセンスしてる。ちょっと のんびりしてて、たいくつで、さびしげな ふんいきにしてくれてる。

よく映画をみていて気になるのは音楽のつかいかたで、あからさまなのは どうもなあと おもってしまう。あからさまというのは、いかにも「ここで感動しなさい」みたいなね。けど、いい音楽であれば気にならないけど(笑)。そこまでのながれとタイミングと音楽が あってさえいればいい。

おばあさんと ふたりぐらしの池脇千鶴(いけわき・ちづる)が「おばあさん口調」なところも なんだかいい。てか、この おばあさん、やっぱ「猫ばあ」か! 映画『ぼくんち』に ほとんど いっしょのキャラで でてたひと。

なんだか共感するところの おおかった映画。これで いいのだとも おもい、いいのかなあとも おもい、なんだかなあ わたくし、というかんじ。なんだそりゃ。

いろんなキャラだとか性格だとか気もちだとか、あとさき かんがえない感情だとか、保証できないことをいってみたり、でも、すこしばかりは自分を信じてみたいような気もしつつ、さめてるんだけど、あつくて、でもそれって突発的なものじゃないのみたいな。いあ、そうでもないぞ? あっそ。みたいな。それが人生だろみたいな。

ぶっ。

ごーやちゃんぷるー

2006-09-09 | 料理
ニガウリがあったので、てきとーに ちゃちゃっと。

なに いれたっけな。豚肉、ベーコン、白ネギ、ピーマン、ナス、エリンギ、ニガウリをいためて、塩をふって、度数のたかい酒で ファイヤーーーーして(ただの いきおいで)、しょうゆ いれて、なんだっけ? テンメンジャンいれて、トマトいれて、豆腐いれて、水たしたっけ? おぼえてねえ。塩あじをととのえて、たまごとじ。ごま油をすこし。

うひゃ、うめえ。

なんかね、もうね。塩ですよ塩! 岩塩でもなんでもいいけど、ミネラルふくんだ塩! うまみのある塩さえあれば、なんでも うまいよ。料理は塩だーとか おもうのでありました。

「日本語の範囲」

2006-09-08 | ことば
たまには寸評を。

飛田良文ほか編『日本語学研究事典』明治書院。

紹介文よむとね、なにこれ。「出版ダイジェスト.net」から引用。
●日本語の全容を知る
日本語関連本は、ずっと話題を独占している感があるが、日本語の範囲も一層広くなり(例えば手話など)、研究手法も更に深まってきている。 本書は現時点における日本語の全体像を、その歴史や、分野ごとに、重層的に引け、その文献や資料、今後の研究課題まで、一目瞭然に分かる一冊本の大事典。事項編と資料編から成り、理論分野では「音韻」「文字」「文法」などの様々な分野から引け、「メール言語」など最近の事象まで網羅。また世界の中の日本語ということで、関係外国語の項も充実。資料編は上代~近代までの言語資料の解説を収録し、研究に資する。11月末発売予定。
「日本語の範囲」がひろがって手話までふくむようになりましたか。日本手話と日本語は、べっこの言語だよ。

『現代思想』1998年8月号の「液状化する日本語」特集がすばらしいので、おすすめしておきます。あと、「ろう文化宣言」に言及するひとは、「ろう文化宣言以後」『聾の経験』も参照してみてください。

文体というもの

2006-09-05 | ブログ
◆さきほど「そのひとの文脈」というのをかいた。かきおえて、だいぶまえに「その人の問題意識」というのをかいたことをおもいだした。おもえば、「相手の話を理解するということ」とか「問題意識の温度差」というのも、よく にたことをかいている。

「その人の問題意識」をよんで、そこから「その人の問題意識」のグーグル検索にとんでみた。

そこから日本青年心理学会事務局が発行しているニュースレターの「第31号 2003.7.30」に たどりついた。

◆そこに、「研究テーマと「私」との関係」という水間玲子(みずま・れいこ)さんの文章がある。この文体。あぁ、わたしと おんなじ語呂あわせをしている。うりふたつではあれど、わたしの文章よりも断然すてきだ。それにしても。よく にている。

◆もうひとつ。つい最近、浜田寿美男(はまだ・すみお)1999『「私」とは何か-ことばと身体の出会い』講談社選書メチエを手にいれた。この文章。わたしは、現時点では、こういう文章をかきたいのだ。かこうとしているのだ。

文体よりも、内容の問題ではないのか。

たしかにそうだ。けれども、文体が内容のひどさをごかますことがあり、また、内容のよさを、文体が ぶちこわしにすることがある。自己満足のための文章ではないかぎり、どちらも よりよいものをめざさなくてはならない。

◆かつて、坂口安吾(さかぐち・あんご)は つぎのようにいった。
美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ、「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。「日本文化私観」より。1942年にかかれたもの。
そして、1951年に かかれた「戦後文章論」の冒頭では、つぎのように かいている。
言葉は生きているものだ。しかし、生きている文章はめったにありません。ふだん話をするときの言葉で文章を書いても、それだけで文章がいきてくるワケには参らないが、話す言葉の方に生きた血が通い易いのは当然でしょう。会話にも話術というものがあるのだから、文章にも話術が必要なのは当り前、話をするように書いただけですむ筈[はず]はありません。
このエッセイでは、漫画家の文章をほめており、また、大岡昇平(おおおか・しょうへい)と三島由紀夫(みしま・ゆきお)の文章を「戦後の文章に新風をもたらした」としたうえで、「小説よりも文章が濃すぎるオモムキがありますよ」と指摘している。「言葉にとらわれずに、もっと、もっと、物語にとらわれなさいよ」。このフレーズがすきだ。

◆さて、この「ブログ」の文章はさておき、今後、「まじめな文章」では、「ブンガクテキ(文学的)」な文体をとりはらうつもりでいる。淡々としながらも、内容そのものがもつ力づよさを、表現してみたい。

あーー、「表現してみたい。」と かいてすぐに、「表現してみたいのだ」に かえようかと おもってしまった。これは重症だ(笑)。どうでも いいことなのに。

そのひとの文脈

2006-09-04 | 議論
「で、結局このひとは なにがいいたいの?」というのを、ときとして第三者にたずねることがある。そして、きかれたほうも、たぶん こういうことじゃないかなと、こたえることがある。

きくほうも、こたえたほうも、それが「そのひとの かんがえ」に忠実なものであるとはかぎらない、ということをきちんと意識していれば、べつに問題はない。なのだが、ついつい きいてしまうこともあるし、きかれたほうも「そんなのしらねーよ」では なかなか すませられないときがある。そしてなにより、そのひとの文脈から どんどん はずれていくかたちで、そのひとの かんがえというものをつくりあげてしまうことがある。これは さけたい。さけたいのだが、これが なかなか むずかしい。

もとより、そのひとが じっさいに かんがえていることというのも、いつも「ひとつ」で固定的なわけではない。状況やさまざまな条件のもとに、「つくられていく」という側面が、たしかにある。だが、それでも、それはたしかに「そのひとの日常」に もとづいたものである。


理解するというのではなくて、解釈。くみとるというのではなくて、つくりあげる。自覚するというのではなくて、おもいこむ。発見したのではなくて、妄想。

本質というものはなくて、ただ実感がある。そうだなと実感できるかどうかで、「ごもっとも」か、「それはちがう」が きまってくる。そうだなと感じたとしても、「それまでの実感」が そのとおりだったとは かぎらず、その時点で あらたな方向にすすんでいるのかもしれない。わからない。なにも わからない。

でもそれは、原理的には、でしょう? こまかいことをつっこまなければ、ことはそんなに ややこしくないのではありませんか?

わからないのは、いきているから…(?)。それなら死んでしまったら? もっと わからないでしょう。わからないのは いっしょだが、そこで とまる。そのひとはね。まわりのひとは、うごいている。それなら ひとは、「ともに うごいている状態をいきている」ということ。サーカスの空中ブランコみたいな?

ほら、みてごらんよ。かいてる本人が わけわからないじゃないの。

おいおい、それ わざとだろ?

ちがーーーーう。おっと、ここに、そのひとの文脈があるじゃないか。かいてるうちに、こんなことになってしまったのだという、わたしの文脈。わざとではないんだという文脈。「そろそろ ねむたいな」という、この状態。

まとまったんだか、なんなんだか。どうにも、わからない。