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いま、そのとき、かんがえつつあること。

もういちど、あらためて

2005-07-30 | ブログ
コッコさんとくるりによるニューバンドのシンガーソンガーのCDをかってみた。

スケールのおおきい雄大なコッコさんの うたいかた。くるりの演奏。それから曲。どれも きいていて 気もちがいい。キーボードの感じとか、バッキングボーカルも いいやね。


時間をおいてみるとか、ちょっと やすんでみるのも いいことだ。だけども、もいちど再出発したときに、どれだけのことが できるのか、ってのが大事なんでしょう。あせらずに、なおかつ着々と、そしてなにより実のあるものを、活字にしていこう。

なんの話かといえば、どんどん論文かくぞということです。

グーグル:「在野研究者」

「アメリカ移民三世」?

2005-07-29 | ブログ
自分では自覚がないけれども、わたしは「日系アメリカ人の三世」ってことにもなるらしい。

というのは祖父祖母がアメリカに移住していた時期があったから。おそらく、でかせぎってことだったんだろうけど、いかんせん興味がないから いまだに くわしいことをしらない。戦争が はじまる前に一家で日本にかえってきて、それから父がうまれたそう。おじと おばはアメリカうまれで、おじは いまアメリカに すんでいる。おじは敗戦後ずっと通訳で もうけていて、おかげで敗戦まもないころから わたしの父はチョコレートをあたりまえのように たべていたらしい。

ちなみに、わたしの家の町内には朝鮮人があったそうだ。もちろん、そのまま すんでいるんだと おもう。いまでは外からみても、まったく わからないだけで。だけども、「あそこはチョーセンだから」という会話をいまでも耳にする。

移民とか移住っていっても、小金もちになって かえってくるようなのは、かなり特権的ですね。キャメルってバンドの「涙の港(ハーバー・オブ・ティアーズ)」をかってみようかな。

グーグル:「ディアスポラ」 / 「アメリカ移民 戦前」

『チャット恋愛学』

2005-07-28 | ほん
チャットについての本というのは、あんまり ないような気がする。森岡正博(もりおか・まさひろ)さんの『意識通信』なんかは かなりの労作で、すぐれたチャット論だと おもうけども。

今回紹介するのは、ご自身もチャット人間だったという室田尚子(むろた・なおこ)さんの『チャット恋愛学』PHP新書。べつにチャットは恋愛のためだけにするものじゃないけど、チャットにおけるコミュニケーションの特徴を、「チャットラブ」に注目して論じるというのは、わるくない手法だろうと おもう。チャットをする人は、この本をよんで自分がしていることをすこしばかり客観的に ながめることができるのではないかと おもう。

文字メディアについて研究する わたしとしては、チャットは文字でコミュニケーションをするということの利点と欠点をかんがえさせてくれる。パソコンで文字をうつことに なれてしまった人にとっては、声にだして会話するよりも文字のほうが楽であったりもする。そこで「楽」であるとこに安住してしまうと、不本意なかたちで人間関係をこじらせてしまうことも でてくる。チャットで あれこれ話をしているときは、よくも わるくも「いきおいに のっている」状態になっている。そこで自分の主体性をうしなってしまえば、「いきおいに のまれる」ことになってしまう。チャットのたのしさや楽なところに安住してしまわないためにも、自分なりの「チャット倫理」をつくって自制する必要があるんだろうと おもう。それはなにより、チャットをたのしむためである。そのつぎに暴言をはいてしまわないためである。

本の「はじめに」で室田さんはチャットが「負のツール」になってしまわないために「どうしたらいいのか」という問題設定をしている。わたしが かんがえるには、「状況に ながされないように自分を維持すること」だろうと おもう。

でですね、室田さんに ひとつ指摘させていただくと「移転したサトコのホームページ」をさがしあてることを、「たとえば、サトコの家の前でじっと張り込みをして、出てこないとわかると、ゴミ箱や郵便受けを漁ってサトコの現在の居場所を探し出そうとした、というのと同じことだ」とは、とてもじゃないけど いえないんじゃないですかということです。URLをみつけだすこと自体は、なにも非難されるようなことでは けっしてないと おもいます。それは「だれが、どのようなかたちで」ということに かかわらずです。問題なのは、「URLをみつけだして、それから なにをしたのか」でしょう。公開することを前提にしたホームページというものと、個人のゴミ箱をいっしょにすることは できません。このあたりの認識のちがいが、「無断リンク禁止」問題でも意見が対立するわけですけども。

グーグル:「チャットにおける」

自分に足かせをかけるのも大事なのかも

2005-07-27 | ほん
やっぱり焦点をしぼるというのも大事なのかもと おもえてきた きょうこのごろ。

きっかけは本屋で『社会生物学論争史』1・2を手にしながら、めっちゃ ほしい、よみてえええと おもってしまったこと。この本は前から しっていたし、興味をもっていた。で、じっさいに目次をみてみると なんだか すっごく よみたくなったわけです。2冊で1万円をこえるわけですけども。それはまぁ古本を注文すれば いいわけで。

問題は、手もとに おいたとしても、ちらみしか しないってのが自分でも はっきりと わかってるからなのです。もともと本なんて全部よまないといけないだなんて全然おもっていないし、辞書みたいに本をよんでれば いいと おもってきた。だけども最近たまりにたまってきた本を前にして、やっぱり自分は どあほなんじゃないかと おもえてくるのです。いわゆる飽和状態ってやつですね。

やっぱり限度をみいだすのも知恵では なかろうか。自分が文章にしようとするものは はっきりしてるわけで、そろそろ そこに集中するべきじゃ なかろうか。いまだに知識といえるものは さっぱり もちあわせていない わたくしであるけども。それでもだ。


で、今回かってきた本は◆徐京植(ソ・ギョンシク)『ディアスポラ紀行-追放された者のまなざし』岩波新書、◆円満字二郎(えんまんじ・じろう)『人名用漢字の戦後史』岩波新書、◆山口遼子(やまぐち・りょうこ)『小笠原クロニクル-国境の揺れた島』中公新書ラクレ、◆玄武岩(ヒョン・ムアム)『韓国のデジタル・デモクラシー』集英社新書←おすすめです。◆粥川準二(かゆかわ・じゅんじ)『クローン人間』光文社新書←粥川さんの本あつめなきゃ。◆慎英弘(シン・ヨンホン)『盲ろう者の自立と社会参加』新幹社。横山泰行(よこやま・やすゆき)『ドラえもん学』PHP新書←だから こういうのをかうのは…。

あとは仕事用に、◆『調理以前の料理の常識』講談社←料理の基本ってのも ふかいなぁ。◆『パティシエ世界一』光文社新書←店でミニデザートのケーキセットをやってまして、自分がつくりたいのを勝手につくって だして かまわないことになってるので、アイデアをいただこうと。これも勉強ですわ。

『トラウマの医療人類学』とか『言論統制列島』が ほしかったのにな。うってないんだもんな。あ、『フロイト先生のウソ』って文春文庫がでてるのかぁ。これは かっておこう。

ということで、『やわらかい遺伝子』あたりをかったら、しばらく生物学系の本は自粛してしまおう。迷子にならないためにも。

グーグル:「社会生物学論争史」 / 「トラウマ 神話」

わたしたちにとって遺伝子とは なにか

2005-07-25 | にんげん
現代をいきる わたしたちにとって、未来を展望しつつ あゆんでいく わたしたちにとって、遺伝子とは一体なんなのか。いやだろうと なんだろうと、その問いは わたしたちに つきつけられている。なにも関係ないことだと おもっていても、遺伝子は ひょっこりと顔をだし、わたしたちを困惑させる。

ここまで、なにか遺伝子が なにか脅威のような存在のように表現したけれども、遺伝子は「発見されたもの」であって、突然変異のように発生したものとは ちがう。だから厳密には遺伝子の発見とは なにかをとわなくてはならないだろう。

それぞれに さまざまな欲望があり、思惑がある。いろんな人がいろんな場面で遺伝子をもちだし、あるいは もちだされる。遺伝子は、つねにそうした欲望や文脈と ともにあるものである。わたしたちは人の多様性と むきあい、さまざまな状況において「遺伝子」に もたされた意味をかんがえなくては ならないのだろう。

たとえば、『ウェクスラー家の選択-遺伝子診断と向きあった家族』をどうよむのか。『それでもヒトは人体を改変する-遺伝子工学の最前線から』の提示する みとおしをどう かんがえるのか。たのんだわけでもないのに いつの間にか つきつけられた問いに、困惑しながらも むきあってみるしかないのである。

と、かった本をしっかり よむように自分に いいきかせてみる。

グーグル:「遺伝子とは何か」

韓国の本が翻訳でよめる

2005-07-22 | 国家と権力
ハン・ホングさんの『大韓民国史2』の翻訳がでていた(『韓洪九の韓国現代史 (2)』)。2は翻訳されないのかと おもったよー。1の翻訳が2003年の12月でしたからね。

さきほど、尊敬するムン・ブシクさんの本の翻訳がでたことをしった『失われた記憶を求めて―狂気の時代を考える』。翻訳された板垣竜太(いたがき・りゅうた)さん、今後ともご活躍を期待しております。板垣さんは、韓国の『当代批評』の客員編集委員。ムンさんや 先日紹介したピョン・ジョンスさんも編集委員なのです。『当代批評』とおなじく、社会問題についての本をすばらしい水準で出版しつづけているのが図書出版サミン。メンツは ほとんど いっしょなんですけどね。ともかく、『当代批評』とかサミンの本をどんどん翻訳してほしい。韓国の意欲的な言論人をしるには、チ・スンホさんのインタビュー集が いい。ねがわくば、このリストのあれやこれやが日本語で よめたらなぁ。ホン・セファさんは2冊翻訳でてるね(『コレアン・ドライバ-は、パリで眠らない』『セーヌは左右を分かち、漢江は南北を隔てる』)。

ムンさんは、韓国の左翼の英雄的存在だったけれども、のちに「自己批判」をした。それを転向だといって批判された。そのなかで、ムンさんを擁護していたのがピョン・ジョンスさんだ。そういえば、しりあいの人(運動家)もムンさんをきらっていたなぁ。友だちと ふたりでムンさんを擁護してたけど、運動家としての自負心が、ムンさんをゆるせないようだった。単純な思考で物事を解決しようとするのではなく、じっくりと自分の姿をみすえようとする人には、ムン・ブシクさんは とても魅力的だろうと おもう。

とりあえず、『朝鮮日報』の書評をご覧くださいまし。最後の部分、なんだか わらえるような、じつは ふかいことをゆうてるのかもしれないとも感じるような。まぁ、こういう「悪用」を「敵に塩をおくっている」といった批判をよんだのでしょうね(『朝鮮日報』は保守系の新聞でございます。「アンチ朝鮮」という運動があるくらい、ある人たちにとっては にっくき新聞)。

グーグル:「ムンブシク 省察 批判」(朝鮮語)
リンク:「キム・ミョンインさんの記事に対する反論(ピョン・ジョンス)」(朝鮮語)
リンク:エキサイトの自動翻訳

韓国から とどいた本

2005-07-15 | 国家と権力
韓国から本が とどいた。

まず、わたくしの敬愛する◆ピョン・ジョンスさんの『かれらだけの常識』。前作の『満場一致は無効だ』は、だめ留学生だった わたしをふるいたたせた本だといっても いいくらい。

1章の頭が「『国民』を弾劾したい」。『当代批評』に のったもので、ピョンさんのサイトでも公開していた。あの弾劾さわぎの最中、ソン・ドゥユル教授(あえて教授とする)が「北の工作員」だとして逮捕され実刑判決をうけたことへの怒りの文章だ。なんとかして言論で国家保安法の廃止させようとする、ピョンさんの意志宣言であると おもう。ふるえずには、よめない文章だ。

国家保安法が、どれほどまでに おぞましいものであるのかを、たとえば『選択』という映画を紹介する『ハンギョレ21』の記事(日本語)が おしえてくれる。なにも いうことはない。いうべきことは、山ほどある。いや、量の問題じゃない。解決されるまで、いうべきことがあるのだ。

ピョンさんがメディア論をかなり かいているのも、「言論」というものへの意志と覚悟があるからなのだと おもう。今度韓国にいったら、一度おあいしたい。以前メールおくったときは、好意的な返事をいただいたしね。

もうひとつは、◆パク・ホンギュ『アナーキズムの話』。法学者で、サイードやフーコーの翻訳もしているパクさんは、日本でも注目されるべき学者であると おもう。

本のなかでパクさんは、ジョン・レノンもアナーキストだとする。自任していなくとも、その歌の精神がアナーキズムであれば、アナーキストであると。
そうだ。アナーキストという名前は重要ではない。わたしも はっきり いう。わたしはアナーキストではない。わたしは、その なにものでもない。わたしは わたしだ。アナーキズムはいっさいの権威をみとめない以上、自分の権威も みとめてはならない。
したがって、だれとしてアナーキストを自任する必要はない。なにが本当のアナーキズムで、だれが本当のアナーキストであるかをとう必要もない。わたしのアナーキズム、わたしたちのアナーキズムは いくらでも ありうる。それはいつも、あたらしく うまれ、あたらしく変化する。
パクさんも立場も明快だ。「アナーキズムのために」この本をだしたのではなく、韓国の国家主義に抗するためなのだ(はじめに参照(する人いるのか))。

もひとつは、◆ク・スンフェほか『韓国のアナーキズムの100年』。この本は ただのおまけなので、紹介しない。

グーグル:「ソン・ドゥユル」 / 「国家保安法」 / 「アナーキズム」

「厨房」とのコミュニケーション

2005-07-14 | 議論
「厨房」というのは、2ちゃんねる用語です。「中坊」の誤変換ね。相手をするのが あほらしくなるような人だとか、初心者みたいな意味あいも あると おもいます。ここでは、「粘着」に ちかい意味に限定しておきます。

仲正昌樹(なかまさ・まさき)さんなんかは、「パブロフのワン君」と表現しています(『なぜ「話」は通じないのか』)。パブロフのワン君は、会話のひとつのフレーズに反応して、相手の深層心理をうがって よみとり、「はげしく反応」する人のことをさしているようです。まぁ、どう反応してるかよりも、「かちほこったような態度で、相手をばかにする」という特徴があると いえそうです。

どこにでも自信に みちみちた人というのは いるもので、まさに「ご高見」をたまわることが あります。「ゴタク」と いっても いいですけどね。とくに、大学のセンセなんかが そういうご託宣をさずかるように おもいます。たとえば、稲葉振一郎(いなば・しんいちろう)さんのブログ(インタラクティブ読書ノート別館の別館)には、「まがいものファン」さんが いらっしゃいます。アマゾンにすてきな書評も かかれたようです。

こういう人って、まぁ「かまってちゃん」なわけですが、どう対処したものか。ちょっと かんがえちゃいますね。チャットしてても、たまにどえらい「えらっそーな」人が いらっしゃる。たいがいの場合、わがままで自分勝手なわけですが。最初は ふざけて相手をするんですけどもね。わざと「へぇ、なるほどー」と。でも、だんだん あほらしくなってくる。

そういう人に対して 否定的な感情が おこるのは、おそらくプライドをくすぐられるからでは ないかなとも おもうわけです。自分は「たいしたことある人間」なのに、ばかにするなよと。「なんだよ、えらそーに。こっちだって えらいんだぜ」と。これってじつは、リトマス紙に反応してしまってるだけなのかも しれないですね。「ごたいそーな自信」が自分になければ、たいして感情をくすぐられないわけだし、さらっと ながしたり、ふつーに返事することも できるわけですから。

厨房が ふりまわされてるのも、自分が自分のなかで つくった相手の権威だったり、自分自身の権威だったりする(相手に権威を感じてるからこそ、こばかにしたいという欲求がわく)。その厨房の言動に腹をたててしまうのも、自分のなかの権威主義的なところが姿をあらわしたにすぎないということもある。そこで意識すべきなのは、みえない第三者の存在であったり、自分の つくりあげた問題意識や、倫理観であるのかもしれない。「コミュニケーションの自分ルール」ってやつです。

そんなこと ゆうても、相手をする気にならない人というのは いますね。

グーグル:「厨房に相手」

自分のカラをぶっこわす

2005-07-10 | ほん
高校生のころ、よく仲よしの友だちと禅問答のような議論をよくしていた。相手は、学校一の優等生さん。わたしゃ、英語だけは得意だった、やる気のない いねむり小僧だった。アメリカ先住民の文化を尊敬していた わたしは、哲学なるものが だいきらいだった。一方、その友だちは、エヴァンゲリオンをみて哲学にめざめたのこと。

そんなこんなで、いままで哲学系の本をまともに よんだことはなかった。だけども、ようやく最近 興味をもつようになってきた。まずは、ラッセルね。なかなか おもしろそうだと おもったですよ。そこで◆ラッセル『哲学入門』ちくま学芸文庫をだいぶ前に かってきた。あとは、むかしから科学論が わりと すきだったので◆戸田山 和久(とだやま・かずひさ)の『科学哲学の冒険』をちょっと前に。わりと名著だと おもう。科学的実在論の立場をはっきりと うちだしているのが いい。あとは、わりと本屋でも目についていた◆オンフレ『<反>哲学教科書』。さらには、なにを血まよったのか、◆ソーカル/ブリクモンの『「知」の欺瞞』まで かってしまう。ついでとばかり、つい先日、◆金森 修(かなもり・おさむ)の『サイエンス・ウォーズ』も。

とある人に、メルロ・ポンティをすすめられてるのですが、まだ そこまで余裕はない。みすず書房の本は、あんまり よむ気にはならないのよ(笑)。そんな読書家じゃないしね。

科学論でいえば、グールドが すごい すきなんですが、◆マークス『98%チンパンジー』は、けっこう お気にいり。まだ途中だけども。おもわず かってしまったのが、◆ワート『温暖化の<発見>とは何か』。これは、全部よまねばと。前、チャットで温暖化について議論したときに、温暖化論は原発推進派による政治的な主張だという話を紹介して、温暖化なんか してないのではないか?などと ゆうてた。けれども、いろいろ検索してみると、まぁ そこまで断言もできないようだと感じるようになった。この本をよめば、だいぶ頭が すっきりしそうだ。

ちなみに、温暖化論の政治性を指摘した本は、手もとにあるのでいえば、◆池田清彦(いけだ・きよひこ)『やぶにらみ科学論』ちくま新書と◆槌田 敦(つちだ・あつし)『<増補・改訂新版>環境保護運動はどこが間違っているのか?』宝島社文庫。まだ入手してないが、本格的なものとして、◆薬師院 仁志(やくしいん・ひとし)『地球温暖化論への挑戦』がある。あ、この人って◆『英語を学べばバカになる-グローバル思考という妄想』光文社新書の人なのね。

参考になるウェブページとしては、「地球温暖化の科学論」「『地球温暖化論への挑戦』への挑戦」など。

で、まぁ、自分のカラをちっちゃく つくってしまわないで、なんでも とりこんでいくのが いんじゃないかと、最近おもうわけです。

おまけの紹介。◆カプラン『死体の晩餐-動物の権利と菜食の理由』。この題は、あてつけだなぁ(笑)。◆山内 昶(やまうち・ひさし)『ヒトはなぜペットを食べないのか』文春新書と いっしょに よみたいところ。

グーグル:「哲学学」

「人間も動物だから」

2005-07-08 | にんげん
よく「人間も動物なんだから」って話がありますけど、ろくな話じゃないことが ほとんどのような気がする。すっごい通俗的なね。とくに社会進化論に もとづいた話が おおいように感じる。

ヒトとほかの生物のちがいは やっぱりあるし、それを否定してしまっても仕方がない。動物を擁護する主張のようでいて、じつはヒトのある集団をおとしめていたりする。「自然にそむく」とか いってね。

グーグル:「人間も動物だから」

はてなアンテナ

2005-07-05 | ブログ
ブログの巡回が めんどーになってきたので、はてなアンテナをつくった。

hituzinosanpoのアンテナ。RSSリーダー、いちおダウンロードしてあるけど、いちいち たちあげる気がしない。RSSリーダーにも いいとこ あるけど、とりあえずは、このアンテナで十分かな。

あんまり おもしろいブログをしらないもんだ。これを機に、あれこれ さがしてみよっと。やっぱ、はてなのサービスは すぐれものだなぁ。はてなダイアリーが人気なのも わかる気がする。いろいろ つかいやすいみたいで。

グーグル:「はてなアンテナ」

それぞれの「靖国神社とは なんぞや」

2005-07-04 | 国家と権力
月末に東京に いくことにしたので、ついでにヤスクニに いってみることにする。おそらく、韓国人の友だちと いくのではないかと おもわれ。「(韓国人と)靖国神社に参拝してみるテスト」ってやつですな。

靖国神社という「名前」があり、靖国神社と よばれる「施設」がある。それには、つくられた「理由」というものがあり、これまで はたしてきた「機能」と、これから はたすであろう「機能」がある。靖国は、その「時代」と ともにあり、また、さまざまな背景・立場をもつ「人」たちによって支持され、あるいは、批判されてきた。さまざまな「動機」によって靖国を「訪問」した人たちが いて、ある人は「見物」し、ある人は「参拝」したわけだ。

葬式は、死んだ故人のためにするものではなくて、のこされた人たちのために、のこされた人たちがするものだと おもう。しかしながら、葬式の参列者は「故人のために」この葬式をしているんだと、たいがいの場合おもっていることだろう。そんなもんですよね。

靖国は、どのように意味づけられているのか? さまざまな意味づけのなかから、自分にだけ都合のよいものだけを取捨選択して、「いいとこどり」できるものなのか。あるいは、すべてをひきうけるべきなのか。靖国の参拝者には、そのへんのところが とわれるのでしょう。おっと、靖国の批判者にもですかね。批判者が ひきうけるべきことって、あんまり わからないけども。

靖国は、神社なのか、そうでないのか。わたしは、「ほんとうの神社」という かんがえかたは すきじゃない。だけども、国家神道による神社は、(比較的に)政治性が つよいものだとは おもう。

ついでに、わたしは無神論者という表現をすることすら無意味に おもえるほどに、宗教に興味がない人間である。教会に いってみたり、お寺に いってみたり、神社に いってみたりはする。だけども、それは必要だからとか、「そこに宗教があるから」ではない。ただの施設として訪問するだけだ。手をあわせるのも、「そういうところだから」という安直なものでしかない。

で、靖国神社って「どういうところ」なんでしょね。いってみたら、いちお「儀礼」はするつもりですけどもね。

グーグル:「靖国神社 フィールドワーク」

ミヒャエル・エンデ『モモ』が文庫に

2005-07-02 | 障害学
RAKUGAKIというブログが新刊をずらーっと紹介している。そこで、『モモ』が文庫になったのをしる。まだよんでないのよね、あれ。てか、もっとはやく文庫にしろっての岩波書店。

おまけで、ザチャーミン『われら』とハックスリー『すばらしい新世界』の文庫も注文。まぁ、よまないんだろうけども…(笑)。設定が『アルジャーノンに花束を』のような小説の『くらやみの速さはどれくらい』も注文(これは文庫じゃない)。『アルジャーノン』は、はげしくツンドク中なわけですが。

あとは、浅野弘毅(あさの・ひろたけ)『精神医療論争史-わが国における「社会復帰」論争批判』と松山 智(まつやま・さとし)『僕はサイボーグ』、それから、グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変する』。

『それでもヒトは人体を改変する』は、最近『デザイナー・ベビー』というのをたまたま かってみたので、ついでに。わかりやすすぎるほどに おちゃめな推進派だったら つまんないだろうけど、どうなんだろ。本屋で みかけたときは、わるくなかった。思想には同意しないけど、よんでみようかなという意味で。

そいえば、森 達也(もり・たつや)さんが、またまた斉藤貴男(さいとう・たかお)さんと鈴木邦男(すずき・くにお)さんとで本をだしてた。『言論統制列島-日本の右翼と左翼』。表紙がアホみたい(笑)。

森さん、森巣 博(もりす・ひろし)さんとの対談本をだすようだ。森巣さんのサイトもあれば いいのにな。鈴木さんのサイトは すきだ。「今週の主張」とかね。

グーグル:「未来 小説 生命倫理」

「人間がわるい」という共犯化

2005-07-01 | にんげん
「わるいのは人間だ。人間が いなければ環境破壊なんて ないのだから」。

わたしの学部のときのセンセが授業で いうてたことですが、人類のなかには自然と うまく共存してる人たちも いる。それなのに「人間がわるい」というのは おかしいと。……いきなり余談ですが、「自然と共存」という表現自体が近代的で、環境破壊の思想にたつ表現・発想のような気もする。はたして「自然という他者(というか客体)」が いるのだろうかと。たとえば「風景」のように、われわれは その一部にすぎないんじゃないかと(って、文章かたすぎ)。

共犯化という暴力のしくみは、身勝手な「われわれ」意識によるのだと おもう。「われわれの拡張主義」と いいますか(なんで こんな表現つかってんだろ)。あるいは、「大小ひっくるめて無理やり でっちあげてみました的われわれ」(こういう ふざけたのも どうなんだ…)。

無批判に「わたしたち」「われわれ」といってしまうことの問題は、その「われわれ」から排除してしまっている だれかが いるって問題だけじゃない。責任がない人までも共犯にしたてあげてしまうこともあるのだ。

ということで、いまから野村浩也(のむら・こうや)さんの『無意識の植民地主義』の第三章「共犯化の政治」をよんでみます。

グーグル:「共犯化」