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いま、そのとき、かんがえつつあること。

さよならケータイ1号

2007-01-25 | ブログ
きょうは ちょっと つかれたなと おもってたら、トイレにケータイおとしちゃいました。うぐ。

とりあえず電源きって電池パックをはずしてみました。だけど、もうだめぽ。

さいわいなことに交友がすくないので たいした被害にならないところがすてきです。てか、時計と めざまし、あとはインターネットくらいしか ほとんど利用してませんのでね。てゆーか、めざましがーーー。

いちお最近はですね、iTunesで めざましが なるようにしてるのですよ。音楽で おめざめというやつです。

てゆーか、ん。このケータイをつかいはじめて(=ケータイをつかうようになって)ちょうど2年めになるのですわ。やすもんなので、でかいのです。さよなら。

うれしそうに、またきてね

2007-01-19 | ブログ
専門店にキムチをかいにいったらオンニが途中から朝鮮語で はなしてこられる。なにをかおうかと商品名を朝鮮語で つぶやいてたら気づかれちゃった。あんなにも うれしそーに はなされるのは なかなか ないことで、「テグにおったの? わたしもテグには ながいこと おってねえ」と。しばらく だべる。

うけこたえが わたしのイメージする「ソウル弁」になってしまい、ちょっと いやになる。プライベートではキョンサンドのことばで しゃべりたい。ソウル弁は、とくに わかものことばが苦手だ。あのアクセント。声のつよさ。

朝鮮語で ていねーに はなすときはソウル弁とゆーよりは、もーちょい「かたより」のない「「標準語」的な」はなしかたにしておきたい。敬語をキョンサンドのしゃべりで いうのは、それはできないのだわ。あれはあれでハードルがたかい。

それにしても、やっぱり もっといろんな朝鮮語に なれしたしみたいものですわね。

※オンニとは、女性が年上の女性をよぶときの いいかた。ねえさん。男性が年上の女性をよぶときはヌナという。「オレは男なんだ」みたいな宣言をいちいち したくありませんもの。オンニでいいじゃないのよ。「年上」てのも無視できれば もっといいな。あれ? 同志? トンジということばが ありましたね!。…なにがどう同志なんだか(笑)。じゃあ…、このひと、あのひと、そのひとで。それがいい。

新刊などなど

2007-01-17 | ほん
せんせー あのね、「ちゅーちー いーふぉあー」とか いわれて すぐには わかりませんでした。「いーほぇい」なら わかったと おもいます。これから ぺきんごを おもいだしていくようにしたいと おもいました まる


◆イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』岩波書店。かってきた。ハッキングはあと『言語はなぜ哲学の問題になるのか』が手もとにあるけど、『偶然を飼いならす-統計学と第二次科学革命』も よさげですわね。

◆亀井伸孝(かめい・のぶたか)『アフリカのろう者と手話の歴史』明石書店。よまねば。

◆河野秀忠(かわの・ひでただ)『障害者市民ものがたり-もうひとつの現代史』生活人新書(NHK出版)。おびのコピーは「バスに乗ることさえ、闘いだった」。

◆久我勝利(くが・かつとし)『知の分類史-常識としての博物学』中公新書ラクレ。

◆野家啓一(のえ・けいいち)『増補 科学の解釈学』ちくま学芸文庫。

◆『日本語の歴史 2 文字とのめぐりあい』平凡社ライブラリー。

◆去年の本だけど、金井淑子(かない・よしこ)『ファミリー・トラブル-近代家族/ジェンダーのゆくえ』明石書店。おもしろそうな論文あれこれ。

前提がうみだす結果

2007-01-17 | ブログ
ひさしぶりにスカイプで議論やら。程度のひくいはなし。


わたし「想像の共同体って ゆーやろ? あれは なにが想像ってことなん?」
あいて「国家はフィクションだって、そういうことちゃうの」

わたし「あんたも わたしも いっしょやってことちゃうん? わたしや あんただけじゃなくって、「わたしら いっしょ」ってイメージすることちゃうん。あなたが さっき ゆーてた「排除」ゆーんもな、そーゆーふーに想定することから ひきおこされるもんちゃうの。区別とか分離とか隔離がさきに なされるんじゃなくて。「わたしら いっしょよ」の発想で社会つくる。その結果として だれかが自動的に排除される。つまりは 社会のすみっこに おいやられる。そーゆーことじゃね?」

あいて「……。あたま ええな」

会話で、もっともらしく、いきいきと かたりまくると、あたりまえのはなしも なんだか すごいはなしであるかのように感じられる。…というはなしでした。

わたしはべつに、うえみたいな はなしかた しませんけどね(笑)。「あーに、くろにか むぉが さんさん でんごにゃごー」………ネコか!

いやー、そろそろアンダーソン『想像の共同体』を「まともに」よむときかなと、いまさら(笑)。あひゃ。そんときは萱野稔人(かやの・としひと)『国家とはなにか』とか小熊英二(おぐま・えいじ)『〈日本人〉の境界』もあわせて よみますけれども。バーテルソン『国家論のクリティーク』も おもしろそう…。

ともかく、なにごとも興味が わくまで ほっておくという方針で やってますもので。

『グーグル八分とは何か』

2007-01-16 | ほん
まずはウィキペディアをみていただきます。

「グーグル八分 - ウィキペディア」

うえの記述にもあるように悪徳商法?マニアックスというサイトがあるのです。このサイトが「グーグル八分」されているというのは けっこう有名だったのですよね。このサイトの運営者の吉本敏洋(よしもと・としひろ)さんが、今回『グーグル八分とは何か』(九天社)という本をだされたということで。新書サイズです。

弁護士さんだけでなく図書館員さんへのインタビューが収録されているところが なかなかいいですね。

吉本さんはグーグル八分対策センターというサイトも運営している。

ひるごはんと職業

2007-01-10 | ブログ
◆仕事はじまったお。

コックって、昼ごはんをたらふく たべられるステキな職業なんですね。

と、おにぎり2個とパンひとつをたべながら おもった。でもね、仕事中に まかないをたべようとすると、そういうときにかぎって注文が はいるのよね。あついまま たべれないことが ほとんどなのもコックなのであった。休憩にいくまえに つくっても、すぐには休憩に いけなかったりね。でも、もはやそれもゼータクなおはなし。

がまんならず、ゆうがたにケーキと紅茶。もちろん やすいやつ。おひるをパンだけで すますなんて信じられませんぬ。いつもパスタを200グラム以上たべてたものですから…。ちなみに一般的には90グラムくらいが一人前です。

そんなことを感じた初仕事。

柴田淳(しばた・じゅん)さんのシングル『HIROMI』をかってきた。いい。

けど、そろそろ坂本昌之(さかもと・まさゆき)さんの情感あふれるアレンジが また ききたいです。ピアノの ひきかたが、すっごい しっとりしてて いいのですよ。タッチが やわらかいの。つよくアピールする派手さはないけど、こちらから注意をむけたくなるようなかんじで。じんわり ひきこまれるような。

手段と目的

2007-01-06 | ほん
今年に はいってから、「構築されつつあるものとしての「自然」」と、それから「酸素の誕生から かんがえる「環境」」てのをかき、映画『レント』をみたわけだが。

『レント』をみたあとにすぐね、貴戸理恵(きど・りえ)『コドモであり続けるためのスキル』理論社をよんだですよ。

「夢」と「進路」がつぎのように説明されてるのです。
「今」は進路によって定められてしまうが、夢を定めるのは「今」だ。つまり、進路は「今」を将来そうなるための「手段」にしてしまうけど、夢を見ている「今」は、未来のためにあるんじゃない。「今」のために未来の夢があるんだ。(67ページ)
いいね。この本は かってから2週間以上はたっているはずで、貴戸さんの本だから おもしろいんだろなと おもいながら、「コドモであり続ける」というフレーズに共感しなかったので放置していた。で、たまたま『レント』をみたあとに ひもといたのだけど、こんなところにも「今」が どうだの かいてあるやと おもって奇遇な感じ。

わたしのなかでは、もう『レント』のメッセージだけで満腹だったので、「今」だけに集中しても いかんぜよと手のひらをひっくりかえしたくなる。まーバランスが大事だということで、それは だれが「いましかない」といっていようと おなじこと。それは、ないがしろにしてしまっているものを再評価しようということなんである。

「歴史的にみれば、こういった風習/制度は近代以降に定着したもので、ながい目でみれば特殊なことなんだ」という脱構築も、「へーそうなんだ、安心した」という効力をねらってのこと。でも、「そんなこと いったって、いまはこういう時代なんだもの」といわれてしまうと、「そーなんだけどね…」となってしまう。それでも ひるまず「でも、それは かえられるんだよ」と いいかえす。その反応が「じゃあ、かえてみせてよ」だったとしたら? 「………」。

歴史をみること、いまをいきること、そして、おもいえがくこと。そのバランス。

歴史をみるのも、おもいえがくのも、それは目的じゃなくて手段。目的は、いくらでも設定できるが、ともかくも不安から解放されること、わらっていられること。とにかく、自分で きめること。手段は、ひとに おしえてもらうこともできるのだ。べつに意識して自分で きめなくても いい。大事なのは、これでいいとか、これはいやだという気もちをごまかさないこと。ごまかされないこと。

ことばとしては、よくわかることだったり、そんなのあたりまえと感じることであっても、じっさいには むずかしいのよね。そんなもんだ。

…と、あくまで「どーでも いい」ことをかいていくぞ、ということで。

映画『レント』

2007-01-05 | 映画
「レント(ミュージカル)」。レント(rent)というのは「家賃」のことだそう。

有名なミュージカルで、ジョナサン・ラーソンというひとが ひとりで作詞作曲して、脚本をかいたという。

わたしはカナダでミュージカルをみたというひとからサントラのCDをかりたことが あったのです。もう6年くらいまえ。サントラだから音楽だけだったわけだけど、これが よかったのですよ。よくできてんの。

今回みたのは映画版というわけなのですが、ミュージカルから映画への移行というのは、なかなか むずかしいものですね。

ミュージカルだと、「その舞台」でいかに世界、生活空間、そして物語をつくりあげるかということになる。舞台という装置、出演者、そして観客が共同してミュージカルをつくりあげるわけですやんね。けど、映画は舞台という装置をとっぱらって、現実的な まちかどや住居で撮影する。だから、ふつーに しゃべってたり、うたって はなしてたりというのは、やっぱり奇妙なわけですよ。みていて、ん、これは いわゆるプロモーション・ビデオ(ミュージック・ビデオ)みたいに みれば ええのかなと。プロモって、つまりは録音され完成したCDの曲にあわせて映像をつくるやつね。アフレコ(くちぱく)の。

で、これもアフレコなんかいなと おもいつつ みていた。そーじゃ なかったら、すごくね?これ。ミュージカルの出演者たちがこの映画版にもでてるんですね。じゃあ、アフレコじゃあないか?

みているうちに あまりに歌がよろしいので そんなこと かんがえる ひまがなくなってくる。あと、エンジェルとミミって ひとらが でてくるんだけど、これがまた すてきなの。きゃっ。

貧乏と不治の病。けれども表現したいんだという渇望。そんな、しがないんだけど元気な芸術家たちをえがいた作品。

死にそうなひとが「過去も未来もない、「いま」しかないんだ」というのは説得力がありますやね。

中盤以降は、もう おなかいっぱいで、いつおわっても不満はございませんよ、いえ ほんとに、というかんじ。名作。

酸素の誕生から かんがえる「環境」

2007-01-04 | にんげん
酸素は いいものですか、わるいものですか。

「光合成の誕生と酸素公害」
一方で光合成の進化は他の生物に深刻な影響を与えた。 光合成により水から水素を取り出した後に残った酸素が気体分子として放出される。これは 嫌気的な環境で生まれた初期の生命体には有害な「環境汚染」として作用した。その結果、 多くの生物は死滅したが、一部の生物は嫌気的環境へ逃れ、あるものは酸素環境に適応して新しい機能である「酸素呼吸能」を獲得した。
酸素の出現って環境破壊じゃないかー。でも、酸素環境に適応できたのねー。

「酸素の誕生:地球史上最大の絶滅」
酸素のある大気は、酸素のない大気に比べると、生物にとっては大きな差となります。現在の生物は大部分は酸素を無毒化し、有効利用するシステムをもっています。それは細胞の中にあるミトコンドリアという器官のはたらきによっておこなわれています。

酸素のない時代の生物にとって、酸素のある環境は、生きてはいけない環境だったはずです。酸素が細胞内に入れば、酸化によって体内の成分が分解されてしまいます。つまり、ミトコンドリアをもたない生物にとっては、酸素は猛毒として作用しました。

20数億年前、シアノバクテリアよって、酸素が大量に生産されはじめると、その当時生きていた大部分の生物にとっては、とんでもない地球環境破壊がおこったのです。地球規模の酸素による汚染です。もちろん、汚染の行き着く先は、大絶滅です。多分、当時の生物の大半は絶滅したと思います。実態は定かではありませんが、地球史上最大の絶滅が起こったはずです。

現在、地球環境問題が取りざたされています。でも、地球は、もっとすごい大激変を経験しているのです。そして、素晴らしいことに、そんな大激変も生きぬいたいくつかの種類の生物がいたのです。さらには、多くの生物を殺した猛毒の酸素を利用して、より効率のよいシステムをつくり上げた生物もいたのです。それは、もちろん、現在の生きている生物の、そして私たちの祖先であったのです。
すごい。

ところで、これは なにを意味するのでしょうか?

酸素は猛毒だ? ちがいますよね。でも、酸素の出現以前には酸素は猛毒だったとはいえるわけですね。

いわゆる環境破壊というのは、環境の変化にすぎない? そのとおりです。

そこから環境破壊=環境変化は わるくない!が みちびだせるか? みちびきだせる!(かならずしも わるくないという限定が必要だが)

でも、だれが そんなはなしをまともに うけとめるでしょう。いや、そのとおりなんだというひとも かならず いるはずです。しかし、それでは だめなんだというひとが多数をしめるのではないでしょうか。

なぜ? それは、ひとは「いま」をいきており、悠久の時間をいきているわけではないからです。

マグロが あんまり たべられなくなるかもしれないということで、ちょっと話題になっています。それは残念だ、いやだという声も きかれます。でもそれは、これまで たべてきたものが たべられなくなるというだけのことです。ほとんどの ひとは、スズメバチが食品としてスーパーで うられていないことをなげいたりしないのです。なぜ? スズメバチをたべる習慣がないからです。でも、スズメバチって たべられるんですよ? ひとが たべられるものというのは、かずかぎりなくあります。しかし、その一部しか ひとは たべてはいません。スズメバチをたべる文化もあるが、なんでもかんでも すべからく たべている文化は、おそらくないでしょう。恣意的なもんなのです。……といっても、「とにかくマグロが たべたいんだよ」というのが「いま」をいきる人間なのです。

生物多様性の擁護といわれます。生物多様性で本を検索すると、たくさんみつかります。でもそれは、ひとが記録した生物の体系から なくなっていくということでしかありません。コレクションが なくなる。ただそれだけのことです。

じゃあ生物多様性の擁護に明白な根拠はないのでしょうか。おそらく、ありません。

だけど、生物多様性といわれると、なるほど擁護すべきものだと感じられます。

それもまた、ひとが悠久の時間をいきているのではなく、いまを、限定された時間をいきているからではないでしょうか。

坂口安吾(さかぐち・あんご)がいったように、「なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ」といえるでしょう(「堕落論」より)。
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生まれてから、死ぬまでの間です。(「不良少年とキリスト」より)
限定された時間のなかで、ひとは なにかをよしとし、なにをかを排除し、あるいは、なにかをよしとしながらも ほかのことをより重視し、なんらかの結果をむかえる。限定された時間をエゴイズムによって いきるだけなのです。そのエゴイズムをどのような方向にむけるのかの問題であって、エゴイズム自体を否定することはできない。

進化論における「進化」とは変化にすぎないように、環境破壊もまた、環境変化にすぎない。だが、ひとが しばしば「進化」によしあしの評価をもちこんでしまうように、なんらかの環境変化をよしとし、なんらかの環境変化はよしとしない。すべて、人間にとっての問題なのです。環境破壊をもたらすのが しばしば人間であるということから「環境問題をつくるのは人間」だということではなく、「ひとが環境問題を構築する」のです。

だから なんなんですか? というのは、またべつのはなしなのです。

構築されつつあるものとしての「自然」

2007-01-03 | ことば
「アプリオリに「自然」は存在するか」。

自然という名づけが言語によるものである以上、自然は人間(言語)によって構築されるものである。ガーゲンが指摘しているように、「何かは、単にそこにあ」るのだ(『あなたへの社会構成主義』328ページ)。それがなんであるかを言語化するプロセスにおいて、「それ」は言説の世界へとくみこまれていくのである。

人間界と自然界はアプリオリに存在するものではない。人間なくして自然はないのである。自然がまず事前に存在して、それからそこに人間の介入がくわえられるのではない。人間の みなし、フィルター、言語、介入、人為…表現はなんでもよい、それら人間の具体的な行為によってこそ、そのたびに事後的に「それ以前」として自然が構築されるのである。

つまり、はたらきかけ(人為)が事後的にそれ以前(自然)を構築するのであり、アプリオリに自然は存在しえない。自然はたえず構築されつつあるものであり、更新されつづけるものである。それゆえ、それ以前の人為が忘却されていく。そうしたことから、あらたな人為が意識されるとき「それ以前」が自然とみなされることがあるのである。

忘却されるのは、更新されたら「それ以前」がみえなくなるためであり、たとえば、グーグルのキャッシュのキャッシュのキャッシュのキャッシュ…によってウェブ・アーカイブができあがるわけではなく、キャッシュが更新されるごとに、それ以前は消去される。消去が忘却をひきおこすのはとくに不思議なことではない。

研究者は「それ以前」をしめしてみせることがときに可能であるが、キャッシュのキャッシュなど、ふつうは記憶も記録もしないものである。

ふつうは記憶も記録もされず、歴史が神話化されるがために、研究者が歴史を脱構築し、脱神話化することが可能になるのである。

自然の素朴実在論の脱構築もまた、自然を自然視する、つまり、自然を所与のものとする観点が定着していればこそ、意味をもつのである。「自然はアプリオリに存在するか」という設問が意味をなすのは、それが真理をついた根源的な設問であるからではない。


……。柄谷行人(からたに・こうじん)が これに関連することをいうてましたよね…。内容が おもいだせない。『日本近代文学の起源』だったはずだが…。検索してでてくるのは、「風景」についてだけ…。うう。

2006年の本

2007-01-01 | ほん
さて、2006年の本をとりあげようか。

2005年の本は「2005年の本あれこれ」「2005年の本:おちばひろい編」でとりあげてあるので、ついでに みてください。


まず、小説。◆有川浩(ありかわ・ひろ)『図書館戦争』、『図書館内乱』メディアワークス。日本図書館協会による「図書館の自由に関する宣言」に着想をえた小説で、エンターテイメントに徹しながらも図書館の自由を論じている。『図書館戦争』が話題になりヒットしたおかげで、つづけて『図書館内乱』が出版された。ことしは『図書館危機』がでるようだ。

ほかにすぐれた小説としては、◆松岡圭祐(まつおか・けいすけ)『ブラッドタイプ』徳間書店。血液型性格判断の問題に臨床心理学者がいどむという内容。小説チックではあれ、たのしめる内容になっている。ただ、最後のほうで「日本人は単一の民族なのに、血液型なんかで人格を否定したり、相性を判断したりするなんて……。」という記述があって げんなりした(422ページ)。

◆佐倉智美(さくら・ともみ)『性同一性障害の社会学』現代書館。これほど いい本は なかなか みあたらない。佐倉は「性は多様である」という言明にたいして「多様であるなら性でなくてもよい」として、つぎのようにいう。「社会がその成員を分類するカテゴリーとしての〈性別〉なら、多様であるなら意味がない。人の数だけカテゴリーがあるのなら、それはカテゴリーではないのである」(63-64ページ)。この本は、はからずもユニバーサルデザインの思想に共鳴している。必読。

◆三浦耕吉郎(みうら・こうきちろう)編『構造的差別のソシオグラフィ―社会を書く/差別を解く』世界思想社。きちんと よんではいないが、帯にかかれた「人が差別するのではない。人の置かれた社会的立場性が差別をなさしめるのである」というフレーズにつきる。

◆植田晃次(うえだ・こうじ)/山下仁(やました・ひとし)編著『「共生」の内実-批判的社会言語学からの問いかけ』三元社。うつくしきことば「共生」をとりあげた社会言語学の論集。テーマを設定してこれだけの論集をあむのは、なかなか できないことだ。

◆デイヴィッド・ウォルマン『「左利き」は天才?-利き手をめぐる脳と進化の謎』日本経済新聞社。ひだりききのジャーナリストによるサイエンス・ノンフィクションといった おもむきの本。ぜひぜひ。

出版UD研究会 編『出版のユニバーサルデザインを考える-だれでも読める・楽しめる読書環境をつくるために』読書工房。たくさんのひとに よまれてほしい本。

ユニバーサルデザインといえば、◆『共生のための技術哲学-「ユニバーサルデザイン」という思想』という本が最近でた(2006年12月)。案外やすいね。はやく よみたい。

◆ましこ・ひでのり編著『ことば/権力/差別-言語権からみた情報弱者の解放』三元社。主張する社会言語学が よみたいひとは、ぜひ!

◆市野川保孝(いちのかわ・やすたか)『社会』岩波書店。社会とは、社会的とは なんなんだ?という疑問を再検討する偉大な本。

これと、◆赤川学(あかがわ・まなぶ)『構築主義を再構築する』勁草書房。あわせて よむと いいかも。具体的な研究だけでなく きちんと理論を整理している点がすばらしい。

社会構築主義で わたしが愛読しているのは、◆ガーゲン『あなたへの社会構成主義』ナカニシヤ出版。きのう よみかえしてたのだけど、いいよ この本は。『社会構成主義の理論と実践-関係性が現実をつくる』(税込み6090円)をやっぱり かおう…と おもっていたら『もう一つの社会心理学-社会行動学の転換に向けて』という本が2006年に復刊されてたのね。こっちは まー今度でいいや。