酸素は いいものですか、わるいものですか。
「光合成の誕生と酸素公害」一方で光合成の進化は他の生物に深刻な影響を与えた。 光合成により水から水素を取り出した後に残った酸素が気体分子として放出される。これは 嫌気的な環境で生まれた初期の生命体には有害な「環境汚染」として作用した。その結果、 多くの生物は死滅したが、一部の生物は嫌気的環境へ逃れ、あるものは酸素環境に適応して新しい機能である「酸素呼吸能」を獲得した。
酸素の出現って環境破壊じゃないかー。でも、酸素環境に適応できたのねー。
「酸素の誕生:地球史上最大の絶滅」酸素のある大気は、酸素のない大気に比べると、生物にとっては大きな差となります。現在の生物は大部分は酸素を無毒化し、有効利用するシステムをもっています。それは細胞の中にあるミトコンドリアという器官のはたらきによっておこなわれています。
酸素のない時代の生物にとって、酸素のある環境は、生きてはいけない環境だったはずです。酸素が細胞内に入れば、酸化によって体内の成分が分解されてしまいます。つまり、ミトコンドリアをもたない生物にとっては、酸素は猛毒として作用しました。
20数億年前、シアノバクテリアよって、酸素が大量に生産されはじめると、その当時生きていた大部分の生物にとっては、とんでもない地球環境破壊がおこったのです。地球規模の酸素による汚染です。もちろん、汚染の行き着く先は、大絶滅です。多分、当時の生物の大半は絶滅したと思います。実態は定かではありませんが、地球史上最大の絶滅が起こったはずです。
現在、地球環境問題が取りざたされています。でも、地球は、もっとすごい大激変を経験しているのです。そして、素晴らしいことに、そんな大激変も生きぬいたいくつかの種類の生物がいたのです。さらには、多くの生物を殺した猛毒の酸素を利用して、より効率のよいシステムをつくり上げた生物もいたのです。それは、もちろん、現在の生きている生物の、そして私たちの祖先であったのです。
すごい。
ところで、これは なにを意味するのでしょうか?
酸素は猛毒だ? ちがいますよね。でも、酸素の出現以前には酸素は猛毒だったとはいえるわけですね。
いわゆる環境破壊というのは、環境の変化にすぎない? そのとおりです。
そこから環境破壊=環境変化は わるくない!が みちびだせるか? みちびきだせる!(かならずしも わるくないという限定が必要だが)
でも、だれが そんなはなしをまともに うけとめるでしょう。いや、そのとおりなんだというひとも かならず いるはずです。しかし、それでは だめなんだというひとが多数をしめるのではないでしょうか。
なぜ? それは、ひとは「いま」をいきており、悠久の時間をいきているわけではないからです。
マグロが あんまり たべられなくなるかもしれないということで、ちょっと話題になっています。それは残念だ、いやだという声も きかれます。でもそれは、これまで たべてきたものが たべられなくなるというだけのことです。ほとんどの ひとは、スズメバチが食品としてスーパーで うられていないことをなげいたりしないのです。なぜ? スズメバチをたべる習慣がないからです。でも、スズメバチって たべられるんですよ? ひとが たべられるものというのは、かずかぎりなくあります。しかし、その一部しか ひとは たべてはいません。スズメバチをたべる文化もあるが、なんでもかんでも すべからく たべている文化は、おそらくないでしょう。恣意的なもんなのです。……といっても、「とにかくマグロが たべたいんだよ」というのが「いま」をいきる人間なのです。
生物多様性の擁護といわれます。生物多様性で本を検索すると、たくさんみつかります。でもそれは、ひとが記録した生物の体系から なくなっていくということでしかありません。コレクションが なくなる。ただそれだけのことです。
じゃあ生物多様性の擁護に明白な根拠はないのでしょうか。おそらく、ありません。
だけど、生物多様性といわれると、なるほど擁護すべきものだと感じられます。
それもまた、ひとが悠久の時間をいきているのではなく、いまを、限定された時間をいきているからではないでしょうか。
坂口安吾(さかぐち・あんご)がいったように、「なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ」といえるでしょう(「堕落論」より)。
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生まれてから、死ぬまでの間です。(「不良少年とキリスト」より)
限定された時間のなかで、ひとは なにかをよしとし、なにをかを排除し、あるいは、なにかをよしとしながらも ほかのことをより重視し、なんらかの結果をむかえる。限定された時間をエゴイズムによって いきるだけなのです。そのエゴイズムをどのような方向にむけるのかの問題であって、エゴイズム自体を否定することはできない。
進化論における「進化」とは変化にすぎないように、環境破壊もまた、環境変化にすぎない。だが、ひとが しばしば「進化」によしあしの評価をもちこんでしまうように、なんらかの環境変化をよしとし、なんらかの環境変化はよしとしない。すべて、人間にとっての問題なのです。環境破壊をもたらすのが しばしば人間であるということから「環境問題をつくるのは人間」だということではなく、「ひとが環境問題を構築する」のです。
だから なんなんですか? というのは、またべつのはなしなのです。