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いま、そのとき、かんがえつつあること。

図書館かようぞ

2007-12-31 | ブログ
おおみそかに やることといえば、やっぱり検索ですよね!

成果をご覧ください。わたしの はてなブックマーク(2007年12月31日)。

まだまだ しらべるぜ。

そいえば、わたしの修士論文「ろう者の言語的権利をめぐる社会言語学的研究」だが、1章から3章までは翻訳ずみということが発覚した。よかった。

来年1月は やすみが いっぱいあるので、図書館かようぜ。というテンションでいく。

年末年始に おすすめの本

2007-12-30 | ほん
年末年始は当直2連チャンでいきますので、あんまり のんびりしません。

わたくしは べつに年末だとか年始だとか関係ないですもん。えへ。


ということで、すばらしい本をいくつか ご紹介します。


◆自分の性格とか、ひととのコミュニケーションになやみのあるひとは、サトウタツヤ/渡邊芳之(わたなべ・よしゆき)『「モード性格論」-心理学のかしこい使い方』紀伊國屋書店

このまえ よみかえしたんですけど、やっぱ いいですよ。

◆「正しい日本語」とか、「乱れ」だとか うるせえなあ、なにいってんだよ、というひとは、J. ミルロイ/R. ミルロイ『ことばの権力-規範主義と標準語についての研究』南雲堂が すばらしいです。

あまり有名ではない本なので、こんな本があったのか!と感動も ひとしおではないでしょうか。これも こないだ よみかえしました。「言語テスト」を批判したところが最高でした。初心に たちかえるのは やっぱり だいじです。

◆山本弘(やまもと・ひろし)『“環境問題のウソ”のウソ』楽工社

これは まだ手にとっていないのですが、もくじをみるだけで わくわくします。

◆高森明(こうもり・あきら)『アスペルガー当事者が語る特別支援教育-スロー・ランナーのすすめ』金子書房

やっと手にいれた。問答無用です。よむべきです。発達障害の障害学です。

おっと、そろそろ おやすみなさい。

相対主義との つきあいかた

2007-12-25 | 議論
ものごとを相対的にみる、というのは わたしのモットーのひとつであるが、わたしは べつに、相対主義の ぬるま湯で のんびりするつもりはない。「なんでもあり!」で すべてを論じた気になるつもりもない。「なんでもあり!」の解放的側面を評価しているにすぎない。

なんでもありであっても、あれやこれやの あいだには、権力関係が現にあり、その序列が固定されていること。それを無視してはいけないし、また、なんでもありだから、「このままでいい」と いってしまってもいけない。固定しては いけないのですよ。ゆるがすことが大事なんですよ。

文化相対主義についての わたしのたちばは、むかーしかいた「食文化とタブー、文化って なんだ」に のべてある。「食文化と規範、ふつうって なんだ」と あわせて よんでください。

身勝手な期待と想定

2007-12-25 | 障害学
すばらしい本を紹介しよう。

わたしが最近かきちらしている記事をすこしでも おもしろいと感じていただけた かたは、飯沼和三(いいぬま・かずそう)『ダウン症は病気じゃない-正しい理解と保育・療育のために』大月書店をよんでほしい。3章の「ダウン症の知的能力とことば」が すばらしい。

ところで。

これは、杉山登志郎(すぎやま・としろう)さんの『発達障害の豊かな世界』をよみなおしたときから感じていることだが、「自閉症へのまなざし」の再検討は必要だし、重要な作業だが、「ダウン症へのまなざし」もまた重要な課題であるということ。

また、「ダウン症へのまなざし」を再検討するうちに、「自閉症論のオリエンタリズム的性格」が あきらかになるのではないかという気がしている。もちろん、わたしの文章においてもだ。そのへんをかんがえるうえで、村瀬学(むらせ・まなぶ)『自閉症-これまでの見解に異議あり!』ちくま新書と最近になって復刊された小澤勲(おざわ・いさお)『自閉症とは何か』も参考にしないといけない。この2冊は、「ちがいがあること」をみとめるのを最大限に さけようとしているのだが、あまり賛同できない。だが、だからこそ、わたしにとって よむ必要があるのであり、たいせつな本だ。


ここで念頭にあるのは、相手をみるとき、いつもそこには自分自身が てらしだされているのだということ。そして、相手になにを期待しているのかによって、そのひとの みえかたが かわってくるということ。勝手に想定しておいて、それとは べつの様相をみせたから、このひとは「この程度のものだ」という評価のしかたは まちがっている。だが、そういう ものの見方を、わたしたちは、よくもまあ日常的にしている。

「このひとは、こういうひとだ」が、かんたんに「こうあるべきだ」に かわってしまう。それで、「そうでも なかった」というふうに感じて、手のひらをひっくりかえして、評価をさげてしまったり。どんだけマッチポンプなんだろうか。

相手をよく評価しようとも、けなそうとも、いつもその評価のことばには、自分のすがたが反映されている。「わたし」をすてさったところに、他人をみる「まなざし」は成立しない。いや、これは ことばあそびで、そのひとを「みている」のは、ほかならぬ、「ひとりの個人」としての「わたし」に ほかならないということだ。その「わたし」を、だれでもない、「みんな」だと錯覚しては だめだ。主観は、どこまでも主観だ。

わたしが なにを期待しており、なにをどのように あらかじめ想定してしまっているのか。あとになってからしか意識しえないが、それをふりかえってみる必要がある。

年末なわけだが

2007-12-25 | ブログ
最近、ちょっと内容がマンネリになってきた。おなじことしか かいてないな。すんませんでした。料理とかも かいてないし。

脱マンネリのために、あたらしいことをはじめるつもり。まだ おしえませんが。けど、けっこう たいへんな作業ではある。やっぱ日本語以外の文章をよむのは、何語であれ しんどいからなあ。ウィンドウズのパソコンで わたしのはてなブックマークをみたら、日本語以外の文字コードのものが文字化けしていた。ショック。わたしのマックだと、Operaでもサファリでも文字化けしないんですけど。そのうち、どーにかします。

それにしても、最近のウェブは なんでも破壊的に ひとを魅惑するものが おおいですね。ほめことばなんだけど、ちょっと こわいなと感じる。

わたしに やる気をださせる刺激装置があってくれたら たすかるんだけどなあと、他力本願。チャットしてたころは、刺激的でしたねえ。どん欲なまでに勉強したくなったものです。いろんな本をひもといてね。

そういえば、66キロぐらいまでに やせた。全盛期は84キロだったから、やせたものですね。妊娠3ヶ月とか いわれてたんだから。そのぶん、さむい。必要最低限しか たべないことが おおいもので、つい。

おそらく、むなしい(失礼)

2007-12-25 | ブログ
徳永英明(とくなが・ひであき)さんのカバーアルバム『ボーカリスト』は、3枚も でていて、それが けっこう うれているようですね。テレビにも よくでています。

じつは この3枚とも編曲は、わたしの愛する坂本昌之(さかもと・まさゆき)さんなのですよね。名曲ばかりを、すてきな やさしい こえの徳永さんが うたうんですから、それだけで すばらしいわけですが、ピアノひいてるのが坂本さんなのです。これは、すごいというものです。それで最近は徳永さんに ひかれている。

で、徳永さんの過去のアルバム4枚をレンタルで かりてきました。徳永さんの曲で すきなのは、「壊れかけのRadio」と「夢を信じて」だけ、ほかは ほんのりとしか しらない。いままで徳永さんのCDをかったことは なかった。

アルバム4枚だから たくさんの曲が収録されてるわけだけど、胸をゆさぶるような曲がどれくらいあるかといえば、そんなに ないんだろうなと否定的な予感。曲に めぐまれていないように おもっているから。だからこそ、今回のカバーアルバム シリーズは、いい企画だと おもう。

たぶん、ききながら うつろな気分になるのだろう。それは、曲が よろしくないからか。曲のよさに、つつまれるからか。まーあれだ。アレンジってのも おっきいよなあ。ほんと。

ちょっと まちなさいよ、CDをかりてきたのも、うつろなのも、それは ほかになにか理由が あるからじゃないですか?


ないです。

コミュニケーションに障害はありえない

2007-12-23 | 障害学
どのようなかたちであれ、ひとと ひととが接するならば、それはコミュニケーションである。「無言による応答」もコミュニケーションのひとつの ありかたであるように、どのような接しかた、応答のしかたをするにせよ、「コミュニケーションできない」なんてことは ありえないのだ。

だれもがコミュニケーションしているし、その よしあしを論じることはできない。


だれかを人質にとって、「ちかよるな! こいつをころすぞ!」と いっているひとにたいして、どのように接したら よいのか。そんなものは、よいも わるいも、正解もない。結果が うまくいけば、よかった、とは いえる。だが、そんなのは いきあたりばったりの、どのようにも評価できる しろものでしかない。

わたしは、あるとき語学の講師になり初回の授業で「コミュニケーションはなんでもあり!」とプリントに かいて くばり、「おはようと いわれて、バカと いいかえすのも、ありえることだ」などと、「一般的な語学の授業」を「なんとは なしに」おちょくったことが あるのだが、結局は そういうことだ。

「なんでもあり」だし、なんでもかんでもコミュニケーションなのだ。


だから。「コミュニケーションに障害がある」という表現は、視覚障害とか聴覚障害とか、そういうときの「障害」とは質的に意味が ことなっているということに注意したい。めが完全に みえないとか、みえずらいというのは、本質的なものだが、コミュニケーション障害というのは、相対的なものだ。

もちろん、めが みえないとか、みえずらいというのも「めが みえる」ことを基準にし、そこからの逸脱を指摘する表現であるから、相対的な側面をもっている。その点では、やはり「視覚障害」という表現にも権力関係が反映している。だが、めが みえないのは、事実でもあるのは否定できない。それに対し、コミュニケーションに障害があるというのは、事実でもなんでもない。あなたの主観による評価なのだ。たちのわるいことに、主観による評価が制度化されて、自明視されているケースがある。そうなると、もはや たんなる評価ではなくなり、絶対的な実体になってしまうのだから、おそろしいことだ。



いま現に、わたしたちは審査員です。「コミュニケーション障害」というものを、だれかから感じとってしまう以上は「審査員」に ほかなりません。けれども、審査員をやめましょう。おりましょう。たとえば、あなたはミスコンの審査員になりたいですか。なりたいひとは、そうでしたか。なるほど。なりたくないひとは、どうですか。審査員は いやでしょう? 審査員をやめましょう。

そして、コミュニケーションに点数をつけるのをやめましょう。ただ、わたしにとって こういうコミュニケーションは都合が わるい、わたしの利益に反する、だから いやだとか、そういう いいかたをしましょう。

コミュニケーションに障害は、ありえないのです。

「夢幻泡影」というブログ

2007-12-18 | 障害学
「夢幻泡影」というブログをみつけた。はてなダイアリーで、最近はじめられたようだ。「むげん ほうえい」と よめば いいんだろうか。

いきなり すばらしい記事を連発されていて、紹介したくなりました。いきなり、こんな わたしに こんなブログで紹介されることがtakutchiさんにプラスになることのようには おもえないけれど、でも、すばらしいので ご紹介。内容は「当事者」論とか、障害学について。

ちなみに、わたしのはてなRSSリーダーでは、興味ぶかいブログをどんどん登録しているので、たまーに ご覧くださいまし。

混乱させろ

2007-12-18 | ことば
わからなくていい。つたわらなくていい。

自分でも意味不明なフレーズをまぜこめるんだ。無意味に断定しろ。そうかと おもえば あいまいに ごまかせ。

深遠な意味深長さは、「わからないフレーズ」にこそ、感じられるものなのだ。どうみたって内容がなく印象だけが さきんでていて、おかたい漢字や きらびやかなカタカナをならべたてただけの文章が、どれだけ もてはやされ、また、消費され、「解読」されていることか!

こむつかしく論じるのが あなたの趣味ではないならば、わかるような わからないような、そんな微妙なフレーズを、ちょっと かくし味のように、まぎれこませるのだ。

しかし、気をつけなさい。あなたに権力が なければ、知名度が なければ、無視されるに おわるだろうから。でもね。眉間[みけん]に しわをよせて かたちだけ深刻ぶった文章よりは、ましだろうから、べつに いいじゃない?
はいはい。

文章の意味は、著者が ひとりで つくりあげるのではなくて、読者と共同で うみだすものだ。どれだけ おおくのひとに よまれるか。どのような文脈で よまれるか。どれくらい熱心に よまれるか。いろんなことが作用する。たまたま評価されたり、ずーっと無視されたり、死んでから発見されたり。

意味をかいたひとが独占してしまうのではなく、もっと自由に もまれてよいはずだ。ひとりあるきは、無条件に わるいことではない。バランスをとればよいことだ。

想像力をたくましくしていただき、自由に散歩していただけるように、あいまいさをのこし、ぼやかして かく。つたえないことで、つくらせる。

シーソーゲーム

2007-12-18 | ブログ
暖房つけなきゃ さむすぎて、つけてみたなら汗だくになる。

そんなもんなのでしょうね。これは あきらめとか、断定とかではなくて、うけいれるということではないでしょうか。

時代をみきわめ、そのときそのときの必要に かられて。あちらに いってみたなら、今度は こちらに ぶれるでしょう。シーソーシーソー。シーソーソー。シーシーソッソー、シッソーシ。シソーシ、ソーソシ。ソシシソソ。

なんべんソーソーいったやら、シーが何回すくないか。それともシーのが たくさんか。

そういうことだと おもっているのです。

韓国では もうすぐ大統領選だそうで、イ・ミョンバクとかいう保守候補が有力だとか、スキャンダルがあるだとか、そういうはなしのようです。

日本では自民が優勢だと おもえば、民主が まきかえし。アソーには ならずに、フクダになった。みみっちいシーソーゲームをしている。

えせ民主主義をつづけていくかぎりは、まあ、みみっちいシーソーゲームのくりかえしでしょう。選挙制度という、えせ民主主義をすてさり、くじびき制度による もちょっと ましな民主主義に革命しても、まあ、みみっちいが「みっちり」になるくらいで、それほどには夢世界になるわけでもないのでしょう。

坂口安吾(さかぐち・あんご)は「続堕落論」にて、つぎのように のべています。文章が すこし むずかしいですが、おゆるしください。
生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福だのを云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限また永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜[ぼうとく]ではないか。我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない。
ささいな改善であれ、大胆な改革/革命であれ、それ以前が わすれさられてしまえば、定着してしまう。そして同時に、波紋をなげかける以上は、反動をうみだす。

定着と反動のバランスによって、社会は すがたをかえる。「いま」が当然になってしまえば、どれほどに大胆な革命をしたところで、もはや「なんでもない」ことになる。それなら、「少しずつ」も「大胆」も、じつは そんなに ちがいはしない。少しずつであろうと気づかいすぎて、なにもしないことになってはいけない。


革命的に、すべてが あたりまえの社会になったとしても、やがては なにかが異常として発見されるにいたるであろう。それは、時代的/社会的要請であり、あるいは、その時代と社会の限界なのだ。

ベルトコンベアで はこばれていくように、異常がふつうに変換されていく社会にしてしまえば、それでいい。いまだ変換されざる、いまだ発見されざる、いまだネツゾウされざる さまざまな「なんでもない」ものたちが、かたちづくられ、意味をかえていく。デジタル! 二進数! プラスとマイナス!

こうなれば、もう。


「無常」。すべては すがたをかえてゆくもの。


オッパッピー?

ことばと からだの多様性から、あたりまえ革命へ

2007-12-12 | 障害学
どんなに自分をごまかして うつくしく みせようとも、がんばってみせようとも、ごまかしきれるものではありませんね。

自分に むすばれたゴムをふりきろうとしてみたけれど、やっぱりゴムの力が つよくて ばっちーん、みたいな。


ふりだしに もどる。


みのほどをしる。
ところで。浜田寿美男(はまだ・すみお)『「私」をめぐる冒険-「私」が「私」であることが揺らぐ場所から』洋泉社から引用します。第二章 「自閉症という「私」の鏡」のフレーズです。
私は、断念ということばは、とてもポジティブなものだと思っています。目の前に高すぎる不可視のハードルがあるときには、断念がなければ、相手を肯定したり、相手の居場所を認めたりすることができません。…中略…cure[治療、なおす-引用者注]を目指すことがそのまま相手を否定することにつながることがあるし、逆に、断念することが関係の回復に直結することもあるわけです。その意味では、障害を、数ある人間の複雑なヴァリエーションのなかの一つとしてとらえる視線は大事だと思います。平たくいえば、そんな性分の人もいるというていどに考えたほうが、いいのではないかと思います。(87-88ページ)
断念するのは、肯定的。なかなか いえないことです。どこかで、いやまだ あきらめてはいけない、と固執してしまうことがあるからです。

それにしてもです。「ヴァリエーション」ということばは言語学の用語でもあります。「変種」などと いわれることもあります。

どんな言語であれ、けして一定で均質なわけではない。ひとそれぞれ ちがったように使用されている。そして、言語学の理論というか理念で重要なのは、「言語に優劣なし」という言語相対主義にあり、「洗練された言語と粗野な言語」という、くだらない序列化はしない、ということにある。

言語の学では、この言語観が共有されている。

してみると、どうだろう。

身体の学では、からだのバリエーションに、どのような態度をしめしているだろうか。「障害を、数ある人間の複雑なヴァリエーションのなかの一つとしてとらえる視線」。このような観点は、言語研究においては常識のようなものなのに、身体の研究では、からだの多様性を社会的事実として うけいれる、という たったそれだけのことができていない。先進的な身体の社会学、ひいては障害学においては そういった身体を序列化する視線は解消されていることだろう。だが、身体の学は、そればかりではない。医学はどうなのだ。

障害学にしてもだ。社会的障壁の問題を全面に うちだし、身体の「損傷」(障害学では、「インペアメント」というカタカナが常用されている)の問題ではない、というふうに主張する。だが、障壁と損傷の区別に満足して、それでは損傷とは いったい なんなのか、という問題に きりこまないならば、それは不十分な議論であるだろう。それを指摘する議論はすでにあるし、それは いいことだ。期待しているし、わたしも そこをつっこんでいきたい。

身体が どのような状態であり、どんな すがたをしていようが、すべて!、ひととして あたりまえのことである。奇異にみえるのは、人間の可能性について無知なだけであり、この世界は、おどろくほどに世間しらずの予想をうらぎってくれる。人間が、なんらかの からだに生命をやどし活動する以上、その可能性は、無限大だ。いきている、生命の、生物の、あかしでしかない。

なにをおどろいている?

あなたは乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)さんの『五体不満足』をよまれたか? 文庫版(完全版)に つけくわえられた著者の苦悩に わたしは ひどく共感したのだが、あの本で感動的なのは、やはり、というか、わたしにとって感動的だったのは、つぎの一節だ。おとたけさんが水泳で25メートルおよいだら、それをみて感動していたたひとたちをクラスメイトが評したところ。
なかなか止むことのない、最大級の拍手だった。そんななか、ボクのクラスメイトは、岡先生にこんな報告をしていた。
「ほら先生、あそこのオバサンたち、泣いてるよ」
その目は、いかにも不思議なものを見るような目だった。先生は、そのことが何よりうれしかったと言う。この子どもたちは、乙武をただのクラスメイトとしか見ていない。(完全版 88-89ページ)
クラスメイトにとっては ありふれた光景だった。感動したひとたちには、そうではなかった。そういうことなのだ。

それならば。だれも、すべてのひとと であうことは できない。それならば。

はじめから しっておけばいいのだ。ほんとに、どこまでも、すっごいくらいに、人間のすがたは いろいろなんだと。「覚悟」といったら、はなしが おおげさになるから いわない。ただ、しっておけばいい。そして、それでも おどろいたなら、ひかえめに、こっそりと おどろけばいい。


もしこの文章をよんで、「障害は個性だ」というおはなしに要約してしまうなら、わたしは残念に感じる。個性でもなんでもないんだよ。「なんでもない」。なんの特徴でさえない。とりたてて障害という必要もないし、個性だと「もちあげる」必要もない。個性って いってしまえば、評価の対象になってしまうでしょ? あなた だれなのよ、審査員? ちがうでしょ!!! 人間に審査員なんて いらねんだよ。

え、わたし? そりゃわたしも こないだ面接をうけて審査されましたよ、ええ。くそいまいましい世の中ですよ。けどね、けどね。けどね。なきたくも なるけどね。

わたしたちは、これからも審査員としてありつづけるのです。残念だろうと、いやだろうと、それが社会の現実なのです。

なぜか。

わたしたちが、身体のバリエーションに とまどい、いやがり、めんどくさがり、そういうことで、施設に、病棟に、いろんなひとたちをおいやってしまったからです。

そうしてしまったからには、わたしたちは、そうしたひとたちを「むかえいれる」側で いつづけるのです。しかも、わたしたちの総意によって、です。気がむけば、うけいれる。いやなら、このまま現状維持。ああ、わたしたちは権力者です。

いや、わたしたちこそ そうしたひとたちに評価され、審査されているのだと? ひょっとすると あなたは、そう おっしゃいますか? けっ。かなしいですよ。そんな発想の転換は、しょせんは あなたの自己満足におわります。この社会を支配してるのは だれなんですか。すくなくとも、排除されたひとたちではないでしょう?

わたしとて、多様性ということばで満足するつもりはない。それはスタートにすぎない。すべてを、あたりまえにしてしまわないといけない。

すべてが あたりまえなら、だれも苦労しない。だれも弱者にならずに すむ。だから、あたりまえ革命なんだよ。

読者とは、すべてのひとで ありうる

2007-12-07 | にんげん
そういえば、「読者論」をちょっと かいたことが ありました(「おのみちで「読書」をかんがえる」)。
本をだれが いかに よもうとも自由であり、読者とは、すべてのひとでありうる。社会の公正を重視するならば、出版する側は、すべてのひとを読者に想定しているべきである。しかし現実には、日本の後進性は、一定の人しか「読者」の対象にしていない。だから、本をよめるひとと よめないひとが生じることになる。なかなか気づきにくいことだが、「本をよめるために必要なこと」は、たくさんある。

おおくのひとは、読書権がすでに保障されているが、さまざまな社会的弱者は、読書権が侵害されている。なぜに「かれら」には読書権が保障されていないのかをとうよりも、なぜに「おおくのひと」には読書権が保障されてきたのか、その「おおくのひと」は「社会的弱者」と なにが ちがうのかを詳細にみてみる必要がある。「本をよめる」とは、どういうことなのかをかんがえてみると、自分のたち位置がみえてくる。その位置は、「文化人」だの「教養人」だのという位置ではないのだ。
げ。さっき「あいまいな「わたしたち」」で「はたして、わたしは、だれに かたりかけているのだろうか。だれが よんでいるのだろうか。」と かいた わたしは。わたしは。わたしは。

過去の自分に説教されているような感覚でありました。そうですね、読者とは、すべてのひとで ありうるのですね。

あいまいな「わたしたち」

2007-12-07 | にんげん
あいまいなのは、文脈に依存するからではありますが。ともかく。

わたしたちが「わたしたち」というとき、わたしたちは、だれにむけて はなしかけているのでしょうか。その「わたしたち」とは、だれのことをさし、また、だれのことは ささないのでしょうか。

自分の文章をよみかえして、あ、やっちゃったと感じたのですが、かいてしまったものは しかたがない。
自閉者のコミュニケーションが自分勝手だと感じたとき、まさに、わたしたちは、そこに鏡に うつった自分のすがたを発見するときなのです。(「自閉者と自分勝手なコミュニケーション」より)
わたしたちというのは、人類全体をさすこともあれば、一部をさすこともある。同時代をいきているひと全体の場合もあれば、歴史上のひと すべてをさすこともあるかもしれない。

だが、社会を論じ、差別や格差の解消を論じるようなときだけは、せめて、だれかを排除したかたちで「わたしたち」をかたらないようにしたい。

ただ、社会の多数派が かかえている問題を、社会全体の問題にすりかえて、少数派にまで責任をおしつけてしまうようなかたちでの「わたしたち」も よろしくない。

責任の所在をはっきりさせながら、社会の全体、社会の構成員をすべて みすえていく、なるべく そうすることをめざしていく必要がある。もちろん、ひとりで できることは かぎられているし、ほんとうに社会全体をみわたすことなど、ひとりの個人にできるものではない。だけれども、目標としては、全体をみようとすることが たいせつなのではないかと おもう。

「わたしたち」とか、「人間は」と表現するとき、ほんとうに一般化して かたることのできる内容であるのか、ひと呼吸をおいて、検討してみることにしたい。かたりかけている対象のなかに、「わたしたち」から除外している だれかが ふくまれていないかどうかも確認してみないといけない。

はたして、わたしは、だれに かたりかけているのだろうか。だれが よんでいるのだろうか。それさえ わからないなかで、わたしは。わたしは。わたしは。

ちょっと ぼんやりとして、けれども慎重に、かんがえていきたい。

「わたしたち」で このブログを検索。たくさん つかってるね。

理論と実践

2007-12-04 | にんげん
「自閉者と自分勝手なコミュニケーション」には、はてなブックマークにて、たくさんのブックマークをいただきました。感謝いたします(「自閉者と自分勝手なコミュニケーション」へのはてなブックマーク)。

いま、このブログの記事をあれこれ よみかえしていて、わたしのなかで、いくつかキーワードがあるなあと感じました。

「コミュニケーション」「エゴイズム」「関係性」などです。

基本的な問題意識は、坂口安吾(さかぐち・あんご)の影響をうけているし、あと、相対主義や社会構築主義の発想も土台としてある。「固定的」になりがちな ものごとを、流動的にしたいと おもっている。

よく自分で よみかえすのは、「議論」についてのもので、あとは、「にんげん」カテゴリーにも、わたしらしいことが かいてある。

いろんなことをこのブログで かいているが、日常生活では、失敗と反省の連続で、コミュニケーションについて何度も かんがえさせられている。それがブログに反映されているわけだが、その成果(?)が日常生活に反映されているかというと、全然じゃないかと感じる。

理論と実践が、どれほどに一致しているかをふりかえるとき、わたしは、絶望的になる。自分が いかに だめな実践をしているのか、内面と むきあいながら さらけだしてしまわねばと おもっている。その作業は、またいずれ。

ところで、安吾の名言をここで ひとつ。
私は悪人です、と言うのは、私は善人です、と言うことよりもずるい。「私は海をだきしめていたい」より
え、なにが いいたいの? ずるいという、「わたし」は なに? どこにいるの? / いや、なんでもないです。自分に いいきかせる ことばとして…。 / だから、自分に いいきかせることばを「公開」しなくていいでしょ? / ええ、まあそうなんですけど。紹介しようかなと。だって、ブログをかくってのは、そういうことでしょ? / え、そうだっけ? / しらねーよ。