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いま、そのとき、かんがえつつあること。

おのみちで「読書」をかんがえる

2006-08-30 | ほん
2泊3日のぶらりたびにいってきた。まずは広島県にある尾道(おのみち)。

◇駅をおりて、ハーブ屋さんでケーキセットのようなものをいただく。おいしい。

◇商店街をあるく。歴史あるというか、さびれているというか。アナゴとたまごのどんぶり、そのまんまの なまえの「穴玉丼」をいただく。親子丼の肉がアナゴになっただけみたいな。うまい。

おのみち映画資料館を見物。んー。『尾道文化』という雑誌を1冊かった。おのみち歴史博物館。えーー。もーちょっと時間つぶせるようにおねがいします。

◇「坂の町」ということで、さかのぼり。8月すえとはいっても、まだあついすね。セミのなきごえ。太陽と海としおかぜ。それだけで「たびしてる気分」になれるから ふしぎ。

ということで、『尾道文化』2004年 22号、尾道市文化協会。1000円。

花本圭司「読書論の後進性について」34-38。おほ。これは おもしろいじゃないかと記念に かってみた。

花本は「日本では、本を沢山読んでいる人が教養がある人だ、という考え方がある」と指摘し、それは「日本が開発途上国だったため、学校教育を義務制にし、識字率を高め、本を読むことで先進国に追いつき追い越せという方針で進んだから、こんなことになったのだと思います」としている(34-35ページ)。そして、「「読書」というのは、文字通り「書物を読む」ことなのですが、日本の後進性は、一定の書物しか「読書」の対象にしていません」と批判している(35ページ)。

また「飛ばし読み」をすすめてもいる。とばしよみのすすめは、永江朗(ながえ・あきら)も『不良のための読書術』ちくま文庫に かいていた。両者とも、小説であっても とばしよみしていいんだと のべている(ここで、「小説であっても」というのは、わたしのなかの「後進性」のあらわれ(笑))。

花本が指摘しているとおり、読書観の貧困はいまだ根づよくのこっている。そして、ここでつけくわえておきたいのが、「読者観」の貧困だ。花本の表現をまねるなら、「読者論の後進性」である。

本をだれが いかに よもうとも自由であり、読者とは、すべてのひとでありうる。社会の公正を重視するならば、出版する側は、すべてのひとを読者に想定しているべきである。しかし現実には、日本の後進性は、一定の人しか「読者」の対象にしていない。だから、本をよめるひとと よめないひとが生じることになる。なかなか気づきにくいことだが、「本をよめるために必要なこと」は、たくさんある。

おおくのひとは、読書権がすでに保障されているが、さまざまな社会的弱者は、読書権が侵害されている。なぜに「かれら」には読書権が保障されていないのかをとうよりも、なぜに「おおくのひと」には読書権が保障されてきたのか、その「おおくのひと」は「社会的弱者」と なにが ちがうのかを詳細にみてみる必要がある。「本をよめる」とは、どういうことなのかをかんがえてみると、自分のたち位置がみえてくる。その位置は、「文化人」だの「教養人」だのという位置ではないのだ。


以上は、めっちゃくちゃ説明をはぶいています。くわしくは、『社会言語学』6号あべ論文ならびに、しばざき書評をごらんください。わたしの論文は、「読書権」については最後でふれただけにとどまっているのだけど。読書権については、今年中に文章にまとめる。まとめたい。まとめられたらいいな。


◇次回は「呉市(くれし)で水問題をかんがえる」編です。「大和ミュージアムでかんがえる不感症的ノンポリ」、「作者と鑑賞者の二分化(中原中也=なかはら・ちゅうや記念館編)」、「おいつめられる しにせ(やまぐち編)」と つづきます。たぶんね。