ユニバーサルデザイン(普遍的設計 ←無理がある訳であっても、ゆるして)は、この社会には いろんな人が生活していることを大前提におく。白人で、若者で、男性で、異性愛者で、健常者で、中流階級以上で、マッチョで……なんていう、特定の人たちだけが生活しやすい社会設計を批判する。老人だろうが、コドモだろうが、妊婦だろうが、どんな身体的特徴をもっていようが関係なしに、だれも無力感をあじあわなくてすむ社会をめざすわけだ。
これは、ことばの表現様式の問題についても いえることだ。
たとえば、文字をかくこと=「筆でしたためる」っていう常識が一般化した社会では、字がかけない人が でてくる。まったく「かけない」ことはなくても、劣等感にさいなまれる人もでてくる。筆がきには、ある文化資本(文化的素養)と肉体資本(もってうまれた体)が条件として要求されるからだ。
本というメディアにおいても、拡大図書をよむ人がいたり、機械で字を拡大し、白黒を反転させて よむ人もいる。パソコンの画面で よむのが楽な人、スクリーンリーダーをつかう人もいる。老眼鏡をかけつつ読書する人もいる。しかしながら、ひとつのメディアだけが提供されている現状では、さまざまな排除が生じているわけだ。そうした制限された状況のなかで、なにが できるのかを検討するわけだ。とりあえずは電子テキストの提供によって、かなりの程度、問題を緩和することができる。文字をかくことにしたって、パソコンを最大限 活用すれば、かなりの程度、問題は解消するわけだ。
それでは、「ことば」をせまく定義して、言語ならどうだろうか。
同一性という観点にたってみよう。上記の例は表現形式にこそ ちがいはあれ、すべて表現内容は おなじである。だが、言語のユニバーサルデザインにおいては、問題は表現内容にかかわってくるのだ。ひとつの情報をつたえるのに、表現の仕方をかえた文書を複数つくったりできるかといえば、おのずと限界がみえてくる。コストを度外視したとしてもだ。気力がつづかないだろう。
そこで ふりかえっておくべきことは、どのような表現の仕方をすれば、どのような人が排除されるのか?ということである。そもそもだ、「ユニバーサル」だなんて意味しらないよ!という人もいるのである。文化資本なんて表現をみるだけで、こいつは表現に「つかわれてる」だなんて印象をもつ人もいる(あ、これは ちがう次元の問題か)。それは、こむつかしいという印象をうけるからであって、やはり排他的なのだ。さらに、「まったく理解できません」ということであれば、なんのために かいたんだ…と、かいた本人も がっくりすることになる。そうなのだ。なにかを表現するということは、だれかに なにかをつたえるということなのだが、同時に、だれかには つたえないということでもあるのだ。読者の選別だ。英語をまじえて文章をかくような人は、英語がダメな人を排除する。なおかつ、「英語がダメな人」を実体化する。いかにも罪な行為だ。こむつかしい漢字だらけの文章をかく人も、おなじような選別をやらかすわけだ。
ただ、原理的にいえば、完全に漢字ぬきの文章でなければ排除されてしまう層もいる。こどもや、ひらがなだけ学習した非識字者、ほかさまざまな漢字弱者などだ。こうした人たちは、ある意味では対処しやすい層だ(「対処しやすい」だなんて いってる時点でバリアフリー思想の問題点をひきずっており、差別的で対処療法的な発想であることを明記する必要がある)。けれども、いまだかつて きちんと対応されてきたことのない層でもある。
今回の障害学会で議論になっていたのは、知的障害者のケースだ。言語至上主義をこえて、絵による表現の可能性にも注目すべきだということだ。ひとつの表現形式と表現内容では、きちんと つたえることはできない。だから、表現形式を多様化することが重要だ。なおかつ、表現内容に気をくばり、完全に再現できないなんてことや同一性なんてことを度外視してでも、つたえる方法を模索する。それが どのようなものであるかは個別に検討していくとして、出発点は、「いまここで、どのような排除があるのか」におく必要がある。
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