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いま、そのとき、かんがえつつあること。

うちに ひびくもの

2006-08-04 | ブログ
かたいことばでいえば、感受性。やわらかくいえば、うちに ひびくもの。

19才になろうかというころに、坂口安吾(さかぐち・あんご)をよみはじめた。たしか、そのはずだ。まだ自分のなかに確立されたものが なかったころのこと。世界観がひらかれるような感覚。よまずには いられなかった。

去年のことだろうか。敬愛するひとに金子光晴(かねこ・みつはる)をすすめてもらった。だいぶまえに文庫本をかった(たしか『絶望の精神史』講談社文芸文庫)。ほとんど、よんではいない。ちかごろ金子光晴エッセイ・コレクションという3冊シリーズがでた(ちくま文庫)。『反骨』というのをつい最近かってみた。解説が森達也(もり・たつや)であるのに、すこし おどろいた。森さんの本は、2004年に いっしょうけんめい よんだ。すこし、あきるほどに。森さんの文章には、わたしのなかで ひびくものが、たしかにあった。

金子光晴。はたして、わたしはなにか衝撃なようなものをうけることができるのだろうか。

なにかをうけとり、それに感動したり、しなかったりする。それは内容のいかんだけによるのではなく、そのときの状況にも左右されているということを、このごろ痛感している。時間帯や疲労度、気分のよしあしで、ひびくものも、ひびかなかったり、過剰に感激してしまったり。

いいたいのは、こういうことだ。そのひとは むかし、安部公房(あべ・こうぼう)、辻潤(つじ・じゅん)などをよくよんだらしく、わたしは それをよみたいと かんがえている。でだ。よんでみるまえに、不安になってしまうのです。わたしの感受性に、まだ、ひびくなにかが のこっているのだろうかと。

のこっていなくとも、それはべつにかまわない。成長したのだとか、もうオトナなのだとか。納得するすべは、いくらでもある。けれども、うちに ひびくものがあることに、こしたことはないではないか。

ちゃんと ひびくためにも、余裕をうしなってはならない。

うだうだ いってねーで、よめよ、ということで。