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いま、そのとき、かんがえつつあること。

権力者は、バカであることから にげることができる

2008-05-30 | 議論
mojimojiさんのバカ論議によせて、ちょっと おもったことを かいておきます(バカへの信を問う - モジモジ君の日記。みたいな。)。

権力者は、「バカであること」から にげることができる。なぜなら、権力者であるから(笑)。いや、じょうだんでなしに、そういうもんですよ。

まえに「才能って なんだ」って文章をかきましたけどね、けっきょくさ、才能にせよ、能力にせよ、権力をにぎっていることで、確保できるものです。

時間やお金に余裕があればこそ、いろんなことを いうことができる。ただ「いう」のでなしに、「論じる」ことができる。

『理解のおくれの本質』という著書もある村瀬学(むらせ・まなぶ)は、2006年に『自閉症-これまでの見解に異議あり』ちくま新書で、つぎのように主張している。
 文明の中では、私たちは例外なく「おくれる存在」なのである。障害があろうがなかろうが、そんなことには関係なく、私たちは「おくれる存在」なのである。私たちの「前」に文明がある以上、私たちはそれにつねに「おくれ」まいとしてきているのだが、すでに後から「文明世界」に入るものとして、私たちは本質的に「世界」からは「おくれ」ているのである。…中略…
…世界の中に「おくれる人」と、「おくれない人」がいるなどと考えるのは馬鹿げている。「おくれない人」がいるというのは、「いる」のではなく、「いる」ように見せかけているだけで、そういうふうに見せかける権力機構の中で「おくれていないように見せる位置」をキープされているだけにすぎない。…中略…一見すると「世界」の最先端をすすんでいて、「おくれ」とは無縁のように見えている人たちがいるが、彼らもりっぱに「おくれ」ているのである。ただそれを隠して、自分は誰よりもすすんでいるんだと見せかける術(権力的な位置)をもっているにすぎない(224-225ページ)。
「バカじゃない人」というのも、そういうふうに「見せかけているだけ」なんですよね。

関連する記事:「おのみちで「読書」をかんがえる」

責任とか、うえから目線とか

2008-05-24 | 議論
おもしろい記事を紹介します。ニセ科学批判は いいけど、その やりかたをかんがえようよという内容だと おもう。

十字軍はバカに勝てるか - モジモジ君の日記。みたいな。

この記事に、わたしははてなブックマークで「観客席に いこうとしてませんか。/そんなことはない。んだろうけど。/"バカと向き合いながら暮らす覚悟を"というのは、やさしいようにみえて、神様やろうだよ。十字軍の上から、おまえもバカ、あいつらもバカって」とコメントしたのですが、どうにも いごこちが わるいです。

わたしがmojimojiさんにたいして感じたのは、ニセ科学批判を自分の課題として、ひきうけたら いいんじゃないかなあということです。mojimojiさんも、自分なりにニセ科学批判をしているわけでしょうし。自分と きりはなす必要はない。

で、自分は どういうふうにやるのか、その やりかたを提示すればいい。


ともかく、mojimojiさんの問題提起を、「こういう視点もある」というふうに うけとめるなら、なるほどなあと納得ができるものです。もちろん、いや、この点に関しては異論があるよ、と意見をなげかけることも、もちろん あるでしょう。ともかく、ひとつの視点を提示するものとして、うけとめるようにしたいなあと、あとになって おもいます。

じっさい、mojimojiさんは この記事でニセ科学の批判を「自分は どういうふうにやるのか、その やりかたを提示」している。で、自分は自分、他人は他人と つきはなすのではなく、かかわろうとしている。とてもじゃないけど、「うえから目線」ではない。


わたしが かいていることだって、ほかのひとが かいていることだって、ある視点を提示するものでしょう。

どのような視点にたつか。どのような方向に議論をすすめるか。

どのような議論であれ、ある視点や方向性を提示する議論は、たし算の論理で とらえる必要があるのではないでしょうか。

ある論点が だされたとき、だれかが「それだけじゃ解決にならないよ」ということがあります。

「それだけじゃ解決にならない」というのは、「論点の総体」、「かんぺきな議論」をもとめる視点に たっています。

もちろん、その論点をだしているひとが、これが こたえだ! これで かんぺきだ!と いっているなら、それは批判されても しかたないかもしれません。

けれども、ある視点、ある論点をだしているだけなのであれば、それは ありがたいことであって、感謝してしかるべきなのではないだろうか(わたしは感謝されなくても いいけど)。そんなふうに おもいました。


「うえから目線」の議論を批判することは、けっこう ありますよね。わたしも、している気がします。けど、どうなんでしょうか。

結局のところは、「いま、この社会をかたちづくっている社会の一員である以上、どのようなことにも それぞれに責任がある」ということを、きちんと意識することが必要なのではないでしょうか。そして、それさえ意識されていれば、あとは、なにをどんなふうに いおうとも、全然かまわないのではないでしょうか。

うえから目線だという批判は、なるべくしないようにしようかな、と おもうような、おもわないような、よく わからない地点に わたしは います。

自分の問題として かたっていないようにみえる議論でも、それについて見解をのべているという時点で、そのひとは社会の一員として責任をひきうけている。そのように かんがえるなら、だれも、問題を自分から きりはなしてなんか、いないのではないか。


いま、わたしは、自問自答として、この文章をかいています。それを公開することによって、ある視点を提示しています。その時点で、わたしは どのような問題からも きりはなすことのできない、責任をおびた個人であるのでしょう。


………。程度のひくい作文のように自分で感じますが、わたしが かんがえうることは この程度なので、「きょうは こんなことを感じました」という文章として、みなさまに公開します。

自己批判なんか するな

2008-03-30 | 議論
いやだなあと おもいながら、「わたしは悪魔であり、不平等を再生産している。」だなんて かいてしまった(「批判の対象は、「人間のありかた」であり、そこには自己批判もふくまれる。」)。とんだコメディーだ。わらわせるな。

なにが自己批判だ。「だいじなのは、どれだけ世の中をよりよくしていくことに貢献できるか」ということなのだ。

もう一度、坂口安吾(さかぐち・あんご)の名言をひいておく。
私は悪人です、と言うのは、私は善人です、と言うことよりもずるい。「私は海をだきしめていたい」より
自分を悪人だと いったところで、なんにも ならない。「社会につつまれた人間において、どこにも「外部」などはなく、安全地帯というものは存在しない」(「問題意識の温度差」)。それなら、善人など いるはずがないのだ。

それはつまり、「だれにも特権的ただしさなんて ありはしない」(「悪魔の代理人」)ということだ。
だれもが犯罪をおかす可能性があり、犯罪をおかすべく うまれた ひとなど どこにも いない。だとしたら、殺人も自殺も強盗も「くじ」に あたったようなものだと おもう。(「くじびき」
性差別でも なんでもよい、自分の おかれた特権的位置というものをふりかえり、自己批判をしようとも、そこには ある種の快感がともなう。
「男」が「男であること」をかんがえるとき、どれほどに ふかく ほりさげようとも、「自分のありかた」をつきつめようとも、いや、そうすればするほど、そこには快感がともなってしまう。そして、安心されてしまう。ほめられてしまう。そうして、自己批判は自己陶酔へと はまりこんでゆく。(「中村うさぎ入門 - 『私という病』」
理解をしめすというのは、ときとして危険をともなうが、それでも、共感しようとする姿勢をたもつことは、なにも危険なことではないはずだ。
役割分担。それぞれの社会貢献。おまかせしたり、まかせられたり。

すべてをひきうけることも できないわけで、結局のところ、ただ、自分の居場所をさがしながら、そのときその場所で、自分の仕事をこなしていくだけだ。そのとき、その場所で埋没するときもあれば、わかれ道で迷い子になるときもある。そんなこんなで、ひとつや ふたつのことを、ひきうけていくだけだ。

やさしい ひともいれば、おこりっぽい ひともいる。

けれど。

よくみてごらんなさい。どちらも、そういう役を演じてるにすぎないでしょう。「演技」ってことじゃない。そういう役まわりをあたえられているってことです。いやがおうにも、そのようにならざるをえない状況にいるってことです。

すきで やさしいわけじゃない。すきで声をあらげるわけじゃない。もちろん、度をすぎては いけません。バランスが とれていなけりゃなりません。

けどね。少々のことでしたら。

おこる気もちを、わかってあげねばなりません。やさしすぎる よわさに、理解をしめさねばなりません。

だから。

たぶん、あなたは あなたで、それでいい。バランスだけは みうしなわずに。状況を把握して、役まわりをさがすのです。状況に支配されずに、いや、支配されつつも、状況を支配する。いや、支配できなくとも、状況に参加し、ともに つくりだすのです。なにをって、社会をでしょ?(「ひきうける」
そろそろ まとめようか。
だれしも得意分野、苦手分野というものがある。得意なことには雄弁で、きびしい姿勢をもっており、苦手なことは、他人にも自分にもあまいことがある。それは当然のことなのだが、その点に注意することがなければ、ただの「えらそーなひと」になってしまう。たとえばそれ専用の知識を必要するがために、しらないひとは、なんにも しらないということがある。思想や方向性はおなじか、よくにていても、かさならない部分もふくむものがある。ある分野にくわしいひとも、まったくちがう分野ではなく、たんに関連分野であっても、基本的なことさえしらないということがある。

自分がくわしいことに、だれかが無知で、さらには問題をひきおこしている。それはだめだということで批判をする。しらないのは いいわけにならないとかいって批判する。

だれにでも わかる。だれもが しらないうちに、ある観点からみて問題のあることをしてしまっている。だれであってもそうだ。それは、「だから、えらそーに批判してはならない」ということを意味するわけではない。「だれかを批判するなど、だれにもできないことだ」とか、「結局、みんなの責任なんだ」とか、そういうはなしでもない。

どんな わるいことをしても、自分に はねかえってくるものだと いわれる。よいことをすれば、まわりまわって自分の利益になるとも いわれる。だが。

残念なことに、はねかえってこないひとがいる。まわりまわってこないひとがいる。それが、関係の非対称性であり、力関係なのだ(「批判的であること」)。
こうした現実をうけとめることでしか、みえてこないものがある。
どうすれば生産的な議論ができるのだろう。どうすれば おたがいのためになる対話ができるのだろう。わからない。わからないからこそ もがきつづける。ときおり不安になったとしても、それで いい。

だれもが すっきりとした生活をおくってないのだから、すっきりとした主張というのは どこにも ありえない。単純にAとBとに分類できるほど、人間は単純じゃない。でも、ある程度は単純化も必要だ。それぞれの役まわりを演じることも必要だ。相手のはなしをあえて否定することも必要だ。でも、自分を中立な安全地帯におくことでは議論はすすまない。

おたがいが自分をさらけだし、なやんでいることをすべて うちあけるような対話であれば、そこには共感がうまれる。信頼がうまれる。安心がうまれる。そして なにか変化がうまれる(「てさぐりで もがきながら」)。
もっと、おりていかないと いけない。もっと、かるいことばをつかっていいはずだ。かたくるしく かくのではなくて、もっと ことばをひらいて いかないと いけない。いまよりはもっと、わたしは おりていたい。てさぐりで、もがいていたい。

つっこみを歓迎したい

2008-02-15 | 議論
3年ほどまえに このブログで「信じることから希望は うまれる」という文章をかいた。

そのコメント欄で、つぎのように かいた。
「糾弾」の否定のもとに、「糾弾」の再評価は なりたつ。断定することで、「そうかなぁ?」という疑問も なりたつ。読者の主体性をかんがえるなら、あえて すきだらけの文章をかくという戦略もありうる。活字は ともかく、ブログのような読者参加型なら(…ブログやってない人は あんまり「参加」しないですけどね。笑)。

読者に かんがえる機会を提供するという意味では、あえて断言する、否定する、すきをみせる、というのも「かたりかた」の ひとつでしょうね。自分が ばかにされたり、誤解されるという心配なんか、しょせんは みみっちいプライドですから。
このスタンスは、これからも維持したいと おもっている。わたしがブログに かく文章を完成させるのは、読者の みなさんである。わたしは素材を提供しているだけのことだ。議論をよびこみ、かんがえさせ、批判をいただく。もちろん、「そのとおり」だと評価していただければ、それは ものすごーーーく活力になるけれども、意欲をますます刺激されるのは、挑戦的な反応だ。もちろん、まったく主義主張のことなるひとからの批判は、「ひびきあう」ところが すくなすぎるために徒労感が ともなってしまう。だけれども、それをも原動力にできるならば、たのしいブログ生活になるのではないでしょうか。

つっこみをさそいこむような文章をかけるようになれば、なかなか すてきだろうなあと空想するのです。

むしろ矛盾しろ

2008-02-15 | 議論
ひきこもりは存在しない!

どこに いるんだよ、ひきこもってる ひとなんて。絶対に自分の部屋から外に でないひとなんて いないんじゃないの? しらないけど。夜は外にでるとかさ、その部屋はインターネットにつながっていて、いろんなひととコミュニケーションをとってたりさ。

全然ひきこもってないんだよ。メールとかチャットとか掲示板の かきこみとかしているのに「外にでない」ってだけで、なんで「ひきこもり」ってことになっちゃうの? 基準が おかしいよ、基準が。夜に「外にでる」んなら、ひきこもりじゃないってば。

なかにはさ、パソコンも電話も もってなくて、部屋の外にも全然でないひとってのも いるのかもしれませんよ。そういうひとは、ええ、たしかに ひきこもりかもしれませんね。もし、そういうひとも いるんでしたら、わたしの発言は不適切でした。さっそく謝罪しておきたいと おもいます。

ええと、ここで いいたいのは どういうことかってーとだな。ひとはだれも、「ひきこもり」っていうワクに おさまりきらないってことなんだよ。定義に すっぽり おさまりきるほど人間は単純ではないし、人間をみる観点も一様ではないのですよ。観点が多様であるなら、ひとつの定義は、たったひとつの観点にすぎないものになり、相対的で一面的なものでしかなくなります。もはや定義は「はかないもの」になります。そして、それで いいのです。それが、いいのです。

一回かぎりの定義を、なんべんも つかいまわしてると どうなるか。想像してみなさいよ。ひとつのコンドームをなんべんも つかっちゃいけないように、定義は一回かぎりのもので、つかいまわしちゃいけないのです。

だれかが なんらかの目的で くだした定義や観点を、ほかのひとが文脈のちがうところで流用してはいけないのです。定義をなくせとは いいません。もっと いろんな定義をくりだしましょう。定義をぬりかえましょう。定義をならべたてましょう。

そうすると!

もはや、支配的だった ひとつの定義は、ちからをうしないます。たし算の勝利です。

ひとは だれも、ひとつの定義に おさまりきらない。矛盾するのが あたりまえで、一貫性をどこかで うしなってしまうのが当然で、だれかに定義されながらも その定義を破壊するのが人間なのです。「人間は自由である」とは そういうことです。

破壊するとは つくりあげるということで、つくりあげることは破壊されることをさそいます。矛盾を指摘するのは ばかげた倫理で、人間の自由を、人間の多様性を、人間の観点や価値観の多様性を、かろんじているのです。そんな あまっちょろい発想の もちぬしに、批判される いわれなどありません。安心して矛盾しよう! それこそが、価値体制をぶちこわし、社会をつくりかえる原動力では ありませんか?

相対主義との つきあいかた

2007-12-25 | 議論
ものごとを相対的にみる、というのは わたしのモットーのひとつであるが、わたしは べつに、相対主義の ぬるま湯で のんびりするつもりはない。「なんでもあり!」で すべてを論じた気になるつもりもない。「なんでもあり!」の解放的側面を評価しているにすぎない。

なんでもありであっても、あれやこれやの あいだには、権力関係が現にあり、その序列が固定されていること。それを無視してはいけないし、また、なんでもありだから、「このままでいい」と いってしまってもいけない。固定しては いけないのですよ。ゆるがすことが大事なんですよ。

文化相対主義についての わたしのたちばは、むかーしかいた「食文化とタブー、文化って なんだ」に のべてある。「食文化と規範、ふつうって なんだ」と あわせて よんでください。

「こどもあつかい」について

2007-11-15 | 議論
「こどもあつかいするな」。

こどもあつかいは、わるいことだとされています。たとえば、おとなの身体障害者にたいして、こどもあつかい。20代後半のひとにたいして、50すぎのひとが こどもあつかい。「ちゃん」で よんでみたり。

けれども、こどもと おとなの平等という観点にたってみると、なぜに「こどもあつかい」が よくないことだと いわれるのか、すこし不可解になってきます。なんなんでしょうか。

おとなは こどもではない、ちがう、ことなっている。なのに、とりちがえている。だから、いけない。イヌをネコと よんではいけない。そういうことでは ないように感じるのです。

おとなと こどものあいだに、はっきりと、序列といいますか、上下関係が成立している。それは こどもが つくったものではない。「こどもあつかいするな!」という、おとなの側が つくりだした序列だ。

でだな、「こどもあつかいされている」と どのように感じるのかといえば、あきらかに相手が自分をしたに みている、かるくあつかっているという印象が つたわってくるからだろう。もちろん、相手の本心は わからないものでは あるけれども、「こどもあつかい」された(と感じた)経験というのは、おおくのひとが もっているだろう。

「もっと おとな」(だと自分で おもっているひと)が だれか(便宜として、ここでは「ちょっと おとな」としておく)にたいして、えらぶり、かるく あつかう。それが いやだと感じる。そこで、こどもあつかいするなと きりかえす。あるいは、頭のなかで反発する。

けれども、それでは「おとなより程度のひくい存在」、つまりは「こども」の存在をどちらの側も みとめてしまうことになる。「こども」なるカテゴリーは、社会的な人間関係のなかで「つくられたもの」である。「こどもなんて いない」といえば、いない。ただ、ひとだけが いるのだから。合理的に定義し、線をひくことは できないのだから。

だれかをこどもあつかいする「もっと おとな」。そのひとに こどもあつかいされた「ちょっと おとな」。その両者が かろんじている「こども」。こどものなかにも、序列や程度の上下が成立している。連鎖といいますか。

この序列の まんなかにいるひとは、どのように きりかえしたら いいのでしょうか。「ばかにするな」? それも ちがうでしょう。「えらそうに いうな」?

えらそう…。えらそうというのは、全然えらくないのに「えらいふりをする」、「えらいと かんちがいしている」ということでしょうか。それなら、どこかに「ほんとうに えらいひと」がいるのでしょうか。そして、そのひとには「えらそうに」いわれても、仕方のないこと、ゆるせることなのでしょうか。

上下を「たいらにする」ためには、どうすれば いいのでしょうか。

まず、認識において。「ひとに上下はない。役割がちがうだけだ。」 このように かんがえるのは どうでしょうか。一社員と社長の関係は、上下関係などではなく、役割のちがいにすぎないのだ、と かんがえるわけです。どちらの役割もなければ、おそらく その会社は成立しないのですから、どちらが えらいということは できないはずです(もちろん、社長がほんとうに必要なのか、給料の大小は合理的に決定されているのかは、重要な問題です)。ちがうのは、役職にすぎません。もちろん、責任のおもさは ちがうかもしれません。ですが、そのへんも ひっくるめて、役割が ちがうということであり、また、それだけのことなのです。おとなと こどもも おなじことです。役割が ちがうだけです。もちろん、おとなと こどもというカテゴリーと分類が、それぞれ必要なものであるとすれば、ですけれども。

つぎに、きりかえしかた。こどもあつかいするな! の かわりになる きりかえし。「(この世に だれかより えらいだれかなんて どこにもいないのに)ずいぶん ご立派なんですね」、「(役割が ちがっても、ひとは みんな平等なのに)さすがだなあ」というのは どうでしょうか。カッコの部分は くちには ださず、そのようなニュアンスをほのめかす、ということです。ほのめかすというのは、コミュニケーションにおいて なかなか むずかしい部類の技術でありますから、だれにでも できることではありません。ですが、できるひとは やってみましょう。

「ずいぶんと ご立派なんですね」というのは、いかにも皮肉で、印象が わるいかも しれません。まあ、それも よしとするのも よし。あるいは、相手につたわらないように、こちらの頭のなかだけで相手を「えらそうに あつかう」のも いいでしょう。さすがだなあというのは、相手には ほめことばに きこえるかもしれませんが、こちらとしては、「平等原則に反するひとは、やっぱり いうことが ちがうなあ、さすがだなあ」ということです。えらそうにするひとには、きちんと えらそうに あつかう。けれども、それは平等原則に違反しているということなので、きちんと処罰する。処罰というのは、なんだか きびしく きこえますが、やることは単純。まともに相手にしない、ということです。はいを一回だけ いいながら、頭のなかでは「はい、はい」とも いわず、ひたすら無視してしまう。それで いいのではないでしょうか。

まあ、いやな いいかたをされて、むかついた。というのが実態なわけですから、むかついたところを「無視する」、というのは なかなか できないことですけどね。結局、感情のコントロールの問題になっちゃうから、対処のしようは、いくらでも あるにせよ、これ!というのはない。

と、まとまらずに おわる。

学校、教育、よみかき計算

2007-09-27 | 議論
ひとつの主張として「学校をなくす」という議論があり、それについてのmojimojiさんの議論「学校を廃棄したその後」があり、x0000000000さんは「「世界を了解するためのスキル」としての教育」といっている。よみかき計算にたいする態度に違和感をもったのでコメントした。けど、わたしも よくわからない。

学校廃止論については、韓国の本の『学校をこえて』とか、翻訳本の『学校のない社会への招待』現代書館くらいしか もってない。イリイチは まだ ちゃんとよんだことがないし。

よみなおそうと おもったのは、桜井哲夫(さくらい・てつお)『「近代」の意味-制度としての学校・工場』NHKブックス、『現代思想 教育のパラドックス』1985年11月号、『知のモラル』東京大学出版会に収録の森政稔(もり・まさとし)「「学校的なもの」を問う」、スタッキー『読み書き能力のイデオロギーをあばく』勁草書房、菊池久一(きくち・きゅういち)『<識字>の構造』勁草書房、茂呂雄二(もろ・ゆうじ)『なぜ人は書くのか』東京大学出版会。

『教育の臨界-教育的理性批判』という本をひらいてみると、「教育なんかいらない」という文章がのっていた。林隆造(はやし・りゅうぞう)というひとによるもので、林さんは同タイトルの本もだしているのだそうだ。ことばをはなせない こどもさんをもったことをきっかけに「教育なんかいらない」と かんがえるようになったのだという。漢字の問題に理解があるようで、訓よみ漢字はほとんど つかわれていないのが印象的だ。林さんの本をよんでみます。

学校がいるのか、いらないのか よくわからない。近代教育をふりかえると、おぞましい歴史で ぬられていることくらいは わかっている。西洋型の「教育」のグローバル化で第三世界は うまい具合に よりいっそう搾取(さくしゅ)されるようになっていることも なんとなく わかる。教室にイスとツクエをならべて、いっせいに授業をうけさせるという光景が異様なものだということも感じている。「全国共通」のカリキュラムなど、きもちわるいだけだとも おもっている。

しょせん、訓練させられることを訓練させられる空間にすぎないじゃないか、だけども「そこに ともだちが いるから」かよってるだけじゃないかとも おもう。

よみかき計算は まなばなくちゃあ いけないじゃないかという。教育させねばならないという。けれども、何語で、どのような文字表記で、字のおおきさは何ポイントで、照明のあかるさは どれくらいで、教室の人数はどれくらいで、テストはどんなふうにして。なやみは つきないはずだ。ひとのかずだけ なやみがあるはずだ。けれども、それを無視しつづけないかぎり、学校制度なんて もたないんじゃないか。

だから、「強制的にでも おしえるべきことがある」というのなら、自分にとって たまたま都合よくカスタマイズされていた教育方法のありかたに感謝しながら、うしろめたさを感じるべきだ。自分に都合よいかたちで配慮されつづけてきたことをふりかえり、そんなことだからこそ、「教育なんかいらない」だとか、「学校をなくす」べきだなんて発言せずにすんだことを、わかっておかなければならない。

説教くさいな、おい。

いらぬ心配ごと

2007-05-02 | 議論
小説でも映画でも なんでもいいんだけど、ある ひとびとをえがいた作品が、批判的にとりあげられ、「このような描写は偏見を助長するんじゃないか?」と。

こむつかしい論評の世界では「表象」ということばが よく つかわれている。ある集団をえがく。それは実在の人物をあつかおうと、どうだろうと、その集団の一部であって、全体ではない。一部をえがくことによって全体を表現しようとする、そのような作品もあることだろう。そして、一部をみて それが全体だと みなそうとする、そんな鑑賞者もいることだろう。

けれども、作品は作者の手をはなれていく。どのようにも消費されうる。どのようにも読解できる。作品の力は、作者の力でもあり、それをたのしむ側の力量でもある。いかすことも できるし、ころすこともできる。

「これこれの作品は偏見を助長するからダメだ」というような発言は、わたしはそんな偏見をもったりしないけどね」という、おめでたい態度だ。わたしは ちがうけど、世間の連中は おばかさんだからねと。

「差別的だから」絶版を主張するようなひとたちも おなじだ。自分はすでに それをよんでいる。よんだうえで判断している。「判断できるわたし」という おえらい立場から、「世間のひとたちをまどわす作品」をけしさろうとする。

作品に政治的ただしさを要求するひとは、小説なり映画なりに、ひとつの回答をもとめている。ひとつの結論をもとめている。自分が よみとった解釈を絶対視する。

批判的であることが だめだとか、作品を尊重しろだとか、そんなことをいいたいのではない。柔軟に かんがえ、バランスをとれということだ。

ひとつの作品は、ある提示であり、その消費のしかたも、あるひとつの観点なのだ。

作品は作品としてあっていい。そして、批評は批評であっていい。みるか みないか、よむか よまないか。ほめるか、けなすか。たちどまるか、無視するか。すべて自分で きめることだ。他人に いらぬ心配はしないでよろしい。

この一文も、ひとの行動を制限しようと意図するものではなく、わたしの不満をのべているにすぎない。けれども、わたしの意図をはなれることも当然あろう。とはいえ、ひらくために かいていることで、とじるためではない。

…ひらく、とじるって なにをだろう。コミュニケーションかな? ともかくだ。わたしたちに必要なのは、たし算なのではないだろうか。たし算のための議論をしたい。

ウェブで議論する

2007-04-27 | 議論
「ウェブに「他者」は現われるのか?」(kanjinaiさん、G★RDIASより)
私が道を歩いていたときに、私の前で倒れていたホームレスの人は、そのとき私にとって都合の悪い「他者」であった(これは私の事実体験であるということは前にも書いた)。私はその「他者」からの問いかけから逃げた(と私は思った)。私はこの生身の体でその人を助け起こしたり、救急車を呼ぶことはできた。が、しなかった。そのことが私をいままで追いかけてくるという意味でも、それは「他者」であったと思う。
ここでいう「他者」と、ウェブの掲示板やブログでの粘着的なコメント屋さんは ちがっていて、粘着コメントさんを、kanjinaiさんは「他者」とは みなさないんだ、「そこにあるのは、粘着的な自己確認の応酬でしかない。」というはなし。

さらに勝手に要約すると、ウェブで議論するのは、なかなか むずかしいことで、そんなに期待していない。また、コメントはその掲示板やブログの運営者が自由に削除できるものだというはなし。

そうでしょうね。すべてのコメントに ていねいに応答することは できませんわ。人気者さんや注目をあびているひとは、そうでしょう。

だけど、他者だ/他者でないというオレルールな区別は、あたしの趣味じゃない。こういうのって「哲学的」な論述のイヤなところが でていると、わたしは感じる。
ということで、わたしなりに かんがえてみる。ウェブで議論することについて。

ブログや掲示板は、議論する場として、しばしば みなされている。運営者の側は、身内が議論したり、情報交換したりするのが基本という位置づけにしているかもしれない。けれども、ウェブに公開しているなら、「道場やぶりさん」が登場する。不思議な現象なのだけど、「通りすがり」という なまえでコメントをかきこむひとは、ほぼみんな、相手をばかにした一言をかきのこして さっていく。

顔のみえるコミュニケーションでは、ここは議論する場所ですよ、時間ですよということが おたがいの同意のもとにない場合、いきなり「道場やぶり」はないのですよ。粘着しないんですよ。相手が目の前にいることによって、下手なことはできない、毒は はけないという「常識」が はたらいて、ほとんどのひとは、きっついことは いわないし、からんだりもしない。ウェブでなかったら「通りすがりさん」は毒をはけないのです。

しかも、ウェブとは ちがって、顔のみえるコミュニケーションでは、フィルターが かけられている。研究者にむかって、高卒の わからずやが議論をふっかけたりしない。研究者は、そんな低学歴とは つきあわないからだ。高卒の みなさんもしかり。

ウェブでの議論が不愉快だったり、不毛だったりするのは、そういったバカに でくわすからだ。

わたしは ふだん、院生や大学教員と顔をあわせて はなしをしたりすることが ほとんどないので、バカに ばっかり でくわして、無口になるのです。ま、年に何度かは研究者のあつまりに いくことが あるのですけどね。けれども、そのへんのバカと交友をもっていると、それはそれで参考になることが たくさんある。てゆーか、バカにされるのは、いつも こちらのほうだったりする(笑)。フリーターは してみるものである。

わたしは、ひとと あそんだりすることが ほとんどないので、メールをふくめてウェブくらいでしか議論するような場所がない。そういう立場からすると、ウェブで議論することができて、たいへん たすかっている。チャットを毎日のようにしていたときがあったが、あのころは、自分のしらない分野に くわしい ひとたちと議論をかわすことができて、いろいろと参考になった。貴重な体験だ。

最近は、ミクシィでたまに議論している。わるくない。

このブログは、そんなに読者がいないし、トラックバックをおくったりも ほっとんどしないので、コメントをいただくことは ほとんどない。粘着コメントも全然ない。だから、ウェブで議論することに わるい印象をもっていない。


そのひとが どのような日常をいきており、どのような社会的地位にあり、その掲示板やブログが どれほどの知名度があるか。ウェブでの議論にたいする印象は、それらによって きまる。あたりまえのことだ。

※そういえば2年前に「文字文化論からみたチャット」というのをかいた。くだらない文章だ。
付記(4月28日): このブログでも にたようなことを何度か かいた。リンクしておきます。

「『チャット恋愛学』」
「「厨房」とのコミュニケーション」
「荒らしとは、なにか」
「コミュニケーションに「限界がある」ということ」

募金箱の背景にあるもの

2007-04-22 | 議論
ゴルディアス(G★RDIAS)という共同運営のブログがある。おもしろい。

ここで、id:x0000000000さんが「「本当は、できるでしょう?」の原初的風景」という記事をかいている。疑問を感じた。いろいろと議論になっているようだが、よんでいない。もとの記事に感じたことだけ列挙する。まとはずれの批判かもしれないが、とりあえず。

x0000000000さんは、たとえばなしをしている。

【目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。】

募金「できない」のではなく、「しない」のだという。そのとおりでしょう、それは。

つづけて、x0000000000さんは【それは、「おやつを買ったからあの人たちが死んだ」ということを、それがもし事実だとすれば受け入れなければならないことを、論理的には要請する。】という。

もし事実なら、うけいれないとでしょうね、ええ。

だけど、「200円」をはらうか、はらわないかは、どうでも いいんじゃないか。大事なのは、この世界に歴然たる貧富の格差がいま現にあり、日本では「おかし」が かえる金額で4人家族が1日くらすことができる地域があるということ。そしてなにより、その地域では そのお金が たりていないということだろう。

募金箱の「200円」は、「わたし」にそのような現実があることをおしえてくれた「きっかけ」にすぎない。わたしにとっては、募金箱をみた そのときが「はじまり」かもしれない。だが、そのような現実が できあがったのは、「わたし」が しっていようと いまいと、もっとまえからである。

想定として「200円」をもちだすのは、そのような格差の現実に「気づかせるための方便」として とらえておくべきではないか。200円すら はらわない わたしたち、ということなのか。「はらわない」ことを「はらえない」のだと自分をごまかすような「わたし」や「わたしたち」だというはなしなのか。そんなのは、やすっぽいはなしのように感じる。

それに、200円をはらわなかったら死んだというのは、なんだか おかしい。

問題は、わたしたちにとっての「きっかけ」などというものと、毎日の生活が おびやかされているひとたちの「歴史」とは、比較しようがないほどに、ことなっているということだ。ひとことでいえば、ことばどおりの意味で「生活水準」が まったくちがうのだ。

わたしたちが きのうきょう現実に気づきました、あるいは、かんがえるようになりましたということと、うまれたときから たべるものに こまっていましたというのでは、天と地のちがいだ。

200円がどうしたこうしたという議論も大事かもしれないが、あるひとには、ちゃんちゃら おかしく みえるだろう。

もちろん、わたしは たらふく たべている側の人間であるし、議論は議論として あっていいので200円の議論をとがめるつもりはない。だが、議論は議論として、「肝心なのは200円ではないだろう」くらいは、感じたままに かいておきたい。

【「間接的ではあろうが、私は人殺しである」】というのは、もっとまえから そうなのであって、募金箱をみても募金しなかった瞬間から「人殺し」になるのではない。

200円をはらわなければ「人殺し」などという想定は、「極端な例」をぶつけられたような印象をあたえてしまう。だが、この世界の現実は、「すでに極限状態にある」。わたしたちは、たえず、いきるか死ぬかのひとをこの世界に かかえている。みんなでこの世界をわけあっているのだとみなすなら、その責任は、みんなにあり、なによりも、ぬくぬくと いきている側の責任がおおきい。この現実に、もったいぶったはなしは いらない。


募金箱は、わたしたちがふだんは意識しない「過酷な現実への窓」なのである。

おもさくらべ

2007-03-21 | 議論
ひとが なにかについて「こだわる」とき、それは ほかのものよりも重大なことであるように感じられる。よくあることだし、あたりまえのことだと おもう。

だが、それと ほかのものを比較して、ほかのものの重要性をかろんじてみるならば、問題があるように おもう。

わたしは、これについて論じたいんだ、問題提起したいんだ、というだけで本来は じゅうぶんなはずである。だが、なんで?と いやがおうにも きかれてしまうから、こちらとしても理由を準備する。

わたしは、これに注目している。注目している理由も用意してある。この状態で、ほかのものをながめるとき、わたしたちは、しばしば おもさくらべをしてしまう。

「おもさくらべをするために」それに注目したのではなかったはずなのに。

わたしが 「これ」に注目する必然性や、「これ」のアプリオリな重大性などは、ない。ある基準をもうけ、ある観点から「これ」の問題を論じる。それが、わたしが したかったことだ。

もちろん、ある基準をもうけ、ある観点から、あれと これの おもさくらべをすることもできる。だが、「あれ」も「これ」も ほかの要素や、ほかの比較対象を想定するだけで、その重大性は いくらでも うごく。

恣意的な おもさくらべ、一般化することは できない おもさくらべなのだ。けれど、それには気づきにくい。なぜなら、わたしはすでに「これ」に こだわっているから。だから、いっぺんくらいは、つきはなしてみないといけないんでしょうね。

批判に ふくまれた前提

2007-03-07 | 議論
きょうの よふけに かいた「アイデンティティなんて」なのですが。

これをよんで、納得したり共感したりするひとも、なかには いるのかもしれません。ですが、おおくのひとは、なんだか違和感が のこるんではないでしょうか。しらないけど。

批判とか言明には2種類あって、ひとつには、「ともかく自分の意見をいっておく」というもの。もうひとつには、「ある前提にたって こうあるべきだという主張」、あるいは、「こうあるべきであるのに そうでないという批判」。

ただ のべるのであれば、どんな意見でも「わたしは このように かんがえるのだ」ということで、べつにいいのです。だが、すこし ふみこんだ、ある種の規範的な批判には気をつけるべき点があるように おもいます。

たとえば、わたしの文章を例にしますと、「アイデンティティは どうでもいい」の根拠として、自主性の欠如をあげています。つまり、アイデンティティは自主的に獲得するようなものではないということを指摘し、なおかつ批判しています。

これは奇妙な論理です。積極的だとか自主的という概念に疑問をなげかけながらも「積極的、あるいは自主的であるほうが よい」としているからです。

完璧になれるか、どうかということと、完璧をめざす、めざさないということには関連がありません。自主的になれるかどうかということと、自主的であるべきかどうかということも、同様に関係がないのです。

ひとは、なにかを批判的に かたるときに、価値観や評価の基準に なんらかの前提をおいてしまっていることが しばしばあります。それに気がつけないのは、それが自分にとっては あまりに自明なことであるためです。

ですから、ひとつの対策として、こちらの前提をさきに公開してしまうという方法があります。つまり、これこれこれであることをみとめ、それはこれこれこうである必要があると かんがえるのであれば、このようになす必要があるのだ、というふうに のべるわけです。ここでは、「のであれば」の まえに かかれた説明が、「こちらの前提」を公開している部分にあたります。つまり、限定をもうけるということです。

このように限定することで、なんだかカヤのそとに おかれたような気になる ひとも でてくるでしょうが、勝手にそんな前提おいてんじゃねーよ、きめつけんじゃねーよ、オレルールをおしつけてんじゃねーよ、という反発は、おさえることができるのです。

このような注意点をふまえたうえで、あらためて、いろんな意見の言明や批判的な言論に注目してみてください。なにかが、みえてくるかもしれません。


と、うさんくさい文章をかいてみました。

議論のよしあし

2006-11-12 | 議論
最近、どうしようもない議論を展開するひとに でくわした。ミクシィというコミュニティサイトでのことだが、失礼なのと非論理的なのと自信たっぷりが あわさったかんじ。勉強家なのは わかるんだけどねー。もーちょっと、いうことに説得力をもたせましょうねー。ひとつのことをのべるのに関係ないことをもちだすのは やめましょうねーという。

こういうひとに対する反応として、「謝罪しなさい」といった批判が でてくることがある。だーけどね。わたしが おもうに、態度の問題にしてしまっては いけないのよね。戦略的には。

失礼じゃないかといった批判は、しごく まっとうなのだけど、そういうひとには「情緒的で感情的な反応」と みなされてしまうのです。挑発的で独善的なひとは、そういった反応には なれっこなわけで、いたくも かゆくもない。「あー。なんか いってるな」というので おわる。

態度や口調はいっさい無視して、論理展開が おかしいことや、認識が あやまっていることを指摘するだけでいい。けど、指摘しても、結局きちんとは よんではくれないので、さらなる反論などをみて がっくりすることになる。自分が 指さしているところしか みえてないと、そうなっちゃいますね。

そのひとが なにをなやんできたか、なにを経験してきて、なにをいま かんがえているのか。そんなもん、他人は しらないんですよ。すこーしだけ解説してみても、共感できるほどには つたわらないんですよ。しったこっちゃねーというやつです。なんで理解されないのかと疑問にもつまえに、いろいろ計算して議論しなさいよと いいたい。いっておきたい。自分に いいきかせたい。

偏見の根っこにあるのは、「論理的じゃない」ということなんだろうか。だめな三段論法をみせられて、ちょっと かんがえさせられた。

なんだか、論理的なひとなら偏見をもたないんじゃないかとか、結局、ぜんぶ知識の問題なんじゃないかとか、最近そんなふうに感じることがある。議論のよしあしも、関係のむすびかたの よしあしによって きまるもので、それはコミュニケーションのとりかた、つまりは、そういう能力の問題なんじゃないかと。知識や能力なんてのは、たんに個人の問題に帰することはできないものだ。環境の影響がおおきいわけだし、たまたまというのもあるし、そのひとに そなわった能力というのもあるし。

罪をにくんで ひとをにくまず。ということにしたら ええのかな。まー。あるひとの「意見に対する批判」を人格攻撃のように みなすひともいるしねえ。感情が まじってくると、どうも めんどくさい。だーけど、完全には排除できないのが感情ってもんですわね。わたしも、そゆこと けっこうあるし。気をつけることにする。