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いま、そのとき、かんがえつつあること。

言語学と社会言語学の関係

2008-03-30 | ことば
言語学と社会言語学との関係については、「語用論の意義」に かいた。
最近の言語学のテキストには たいてい語用論について一章もうけられている。語用論は要するに、ことばの意味は じっさいの発話が なされる状況や相互作用によって つくりだされるという着想による発話やその意味の研究だ。

語用論をやるには、社会的文脈を無視するわけには いかないので、語用論を言語学の一分野とかかげる以上、社会なき言語学は成立しえない。もちろん、語用論を無視したところで社会を射程にいれない言語学は限定された問いを発することしかできず、その こたえも おのずと限定されたものになり、結局のところ言語学とは社会言語学のことだ(ラボフや田中克彦=たなか・かつひこの主張)。それは、語用論を例にあげなくとも おなじことだ。

「そんなの全体主義じゃないか!」という、ひとことを例にあげよう。そのひとが どのようなものを全体主義と とらえているのかが不明であれば、なんのことやら わからない。その社会で全体主義がどのように とらえられているのかも しる必要がある。そのまえに、どのような会話がされていたのかも おとせない情報だ。なにより、全体主義にたいして、どのような評価をあたえているのかが重要になる。一見なにか否定的に とらえているようには推測されるが、かならずそうだとも断言できない。

たとえば敬語論をやるさいに社会論ぬきには やれないのは当然のことだが、「そうなると もはやそれは「言語学ではない」」なんてのは まちがいだ。それは語用論の範囲で できることだ。社会のありかたをきっちりと研究することなしに語用論の意義などない。それでは従来の意味論に毛が はえただけのものになってしまう。

「社会言語学」を自称することの利点は、研究の自由度が保障されることにある。従来のいわゆる言語学にとどまらない言語現象の研究を「社会」という おおきな観点から せまる。そういう共通認識があれば すむからだ。社会なき言語学を「ゆるしてあげる」ために社会言語学をやるのではないし、言語学は社会をとりあげないからだめなんだと固定観念で きめつけて、社会言語学の優位をとなえるためではない。

日本の社会言語学は語用論をないがしろにしてはいないか。語用論をふまえた議論の仕方が できていないのではないか。そんなことを念頭において、社会言語学をふりかえってみるのも いいかもしれない。
社会言語学を言語学の外部に位置づけるのは、さけたいと おもっている。

社会言語学とは なにかという議論は あれこれと あるのだが、すこしまえに、ひとつ最適の定義をみつけた。

ルイ=ジャン・カルヴェによる『社会言語学』クセジュ文庫だ。カルヴェはこの本で、つぎのように強調している。

「言語学の研究対象は、一つの言語ないし複数の言語であるにとどまらず、言語の観点から見た社会共同体にまで及ぶ」(156ページ)。

そして、つづけて つぎのように のべている。
こうした視点からすれば、社会言語学と言語学を区別する余地はもはやない。ましてや、社会言語学と言語社会学を区別する余地など、あるわけがないのである。
なんとも すがすがしい論述であると おもう。

さて、コミュニケーションの民族誌研究としてハイムズの『ことばの民族誌』を紹介しておいたが、ほかにも紹介すべき文献はある。ただ、言語至上主義をこえたコミュニケーション研究ではない。

ジョン・ガンパーズ『認知と相互行為の社会言語学-ディスコース・ストラテジー』松柏社
井上逸兵(いのうえ・いっぺい)『ことばの生態系-コミュニケーションは何でできているのか』慶應義塾大学出版会株式会社

あとは、ゴフマンの諸文献がある…。ゴフマンには、いまだ手つかず。

というか、わたしが よみたいと おもっているコミュニケーション論は、どこにあるのだろうか。それが なかなか、みつからない。みつけられないでいる。

じゃあ、つくる? いっしょに。

「ひとつの論文」の文脈(「漢字という障害」と「漢字という権威」)

2008-03-11 | ことば
自分が かいた論文をよんでもらう。そして、感想をもらう。ありがたいことだ。発表したものであるから、おねがいしなくても よんでもらえることがある。感想まで もらえることがある。めったにないことだが、いつでも うれしいことだと おもいます。

ひとつ、おもうのです。なにか論文をひとつ かきます。その文章は、どれほどにオリジナルで あたらしい内容であろうとも、これまでの議論の蓄積のうえに なされるものです。これまでの土台があってこその、一文なのだと おもっています。だから、ひとつの論文は、それで完結するものではなくて、そこから「ひろがっていくもの」、「つながっていくもの」だと おもいます。けれども、その論文の内容に ものすごく興味がそそられるというのでなければ、読者は そこで満足をします。ひとつの論文をよんで、そこからさきへは すすみません。それが残念なことのように おもうのです。

もちろん、それは しかたのないことでしょう。なかには興味をもってくださり、そのさきへと ずんずん すすんでいく ひとも いらっしゃることでしょう。だから、ひとつだけで満足されるひとが いようとも、それは しょうがないのかなと おもっているのです。しょうがないけれども、しょうがないからこそ、なるべく、できるかぎりは、みじかい文章であろうとも、あることについて はなしを完結させるのでなければ いけないのでしょう。

ひとつの論文の文脈は、かいたひとの文脈もあり、よむひとの文脈もあり、その両者の いきる時代と社会の文脈というものもあります。


2002年に「漢字という障害」という論文をかき、2006年に改訂版をかきました。

「漢字という障害」の着眼点は、「漢字が ひきおこす さまざまな問題」にあります。
これを補足する論文として、2004年に「漢字という権威」という論文をかきました。
「漢字という権威」のねらいは、漢字不可欠論の相対化にあります。いいかえると、「漢字は すばらしい」という観念について再検討したものです。つぎのページでPDFが公開されています。
「社会言語学」刊行会のウェブサイト第4号http://www.geocities.jp/syakaigengogaku/abe2004v2.pdf

これをよんでいただければ わかると おもいますが、この論文は、漢字不可欠論の相対化であって、漢字廃止論ではありません。「漢字という障害」でも「漢字をつかわない自由」ということをかきましたが、それも漢字廃止論ではありません。「漢字で かかないと絶対にだめ」というのをやめましょうという はなしです。

「漢字をやめるなんて できないよ」と おっしゃてくださっても、まったく かまいません。わたしは つぎのように かえします。

あなたの なまえを漢字でかくのを、できるかぎり やめてください。

人名漢字の問題を指摘するのは、なにも わたしや、梅棹忠夫(うめさお・ただお)、野村雅昭(のむら・まさあき)、ましこ・ひでのりに かぎりません。漢字を擁護する 井上ひさし(いのうえ・ひさし)や鈴木孝夫(すずき・たかお)までもが、程度のちがいはあれ、人名漢字を問題にしています。

そして、もうひとつ つきくわえます。

だれかの なまえを漢字でかくときは、かならず よみかたをそえてください。

わたしが といかけたいのは、漢字をやめるか、やめないかという「おおきな はなし」ではない。そういう「おおきな はなし」も、こういった ささいに みえる「ちいさな はなし」をクリアすることなしに、さきに すすめるはずがない。

このふたつの提案/要求が「ささいなこと」であるか、そうでないかは、この一文をよんだ それぞれの読者が こたえをだすことになります。

3月28日:「「山上少将」を何と読む」(ルビを付けよう)にトラックバックします。

うそをつくのをおそれるな

2008-01-31 | ことば
しばらくブログをおやすみすると かいておいて、わたしは まもなくブログを再開するだろうことをしっていました。わかっていました。

わたしは、つむじまがりです。これだ!といえば、いやー そうかなあと ぶりかえしたくなります。やすみますといえば、やすみたくなくなります。

ことばは、ひとをうらぎります。なにかを断言すると、断言したことによって、不安になり、懐疑的になります。だから最初から断言するのは やめようというのは、あさはかな かんがえです。ひとは、断言しないことには、つぎに すすめないのです。

ぶれるために断言するのです。自殺したくないから死にたいって いうんです。死にたいのは いきたいからで、いきたいのは死にたいからです。

ぶれるのは いきているからで、断言するのは その瞬間は確信したからです。けれども時間は とまりません。ひとは、いきをすることをやめられません。死ぬときまで、ぶれつづけます。

うそをつくのを、おそれては いけません。

あけー

2008-01-02 | ことば
年賀状とか、謹賀新年(きんが しんねん)とか、「年賀状」で つかうことばは むずかしいね。

「としあたまの お約束てがみ」とか、そういうのは だめですか。「お約束」はいらないですね。「あけおめーる」は だめかな。ともだちから きのうメールがあって、返事しましたよ。題のところは、「あけー」。

いや、なにが いいたいのかというと、不特定多数、けれども それほどには おおくはない ひとにたいして、まあ、なんていいますか、ごあいさつをと。

ことしも、よろしく おねがいします。やるき満々ですから、ごゆるく おみまもりくださいまし。


どういう あいさつだ。しらない。



ちなみに、きょう、わたしは? 当直? 「あけー」。


「あけおメール」て、けっこう定着してる ことばなんだな。グーグル:「あけおメール」

混乱させろ

2007-12-18 | ことば
わからなくていい。つたわらなくていい。

自分でも意味不明なフレーズをまぜこめるんだ。無意味に断定しろ。そうかと おもえば あいまいに ごまかせ。

深遠な意味深長さは、「わからないフレーズ」にこそ、感じられるものなのだ。どうみたって内容がなく印象だけが さきんでていて、おかたい漢字や きらびやかなカタカナをならべたてただけの文章が、どれだけ もてはやされ、また、消費され、「解読」されていることか!

こむつかしく論じるのが あなたの趣味ではないならば、わかるような わからないような、そんな微妙なフレーズを、ちょっと かくし味のように、まぎれこませるのだ。

しかし、気をつけなさい。あなたに権力が なければ、知名度が なければ、無視されるに おわるだろうから。でもね。眉間[みけん]に しわをよせて かたちだけ深刻ぶった文章よりは、ましだろうから、べつに いいじゃない?
はいはい。

文章の意味は、著者が ひとりで つくりあげるのではなくて、読者と共同で うみだすものだ。どれだけ おおくのひとに よまれるか。どのような文脈で よまれるか。どれくらい熱心に よまれるか。いろんなことが作用する。たまたま評価されたり、ずーっと無視されたり、死んでから発見されたり。

意味をかいたひとが独占してしまうのではなく、もっと自由に もまれてよいはずだ。ひとりあるきは、無条件に わるいことではない。バランスをとればよいことだ。

想像力をたくましくしていただき、自由に散歩していただけるように、あいまいさをのこし、ぼやかして かく。つたえないことで、つくらせる。

『社会言語学』第7号

2007-10-23 | ことば
「社会言語学」刊行会から『社会言語学』第7号がでた。第5号第6号の紹介文も このブログに かいている。あわせて よんでください。

タカマサさんが紹介文「『社会言語学』VII」をかいているので、リンクしておきます。

さて、7号には立岩真也(たていわ・しんや)さんによる『ことば/権力/差別-言語権からみた情報弱者の解放』三元社の書評が のっています。編著者ましこ・ひでのりによる応答と あわせてご覧ください。立岩さんの原稿は、ご自身のサイトに全文「多言語問題覚書――ましこひでのり編『ことば/権力/差別――言語権からみた情報弱者の解放』の書評に代えて」を公開されています。

立岩さんの文章で気になったことを指摘しておきます。まず、こちらをみてください。
例えば、ある言語、具体的には英語、イングランド語の支配、専制(ましこ[2006])を批判しようと私も思う。さてどのように批判するのか。その根拠の一つが、人々が既に使っている言葉を大切にしよう、使用されてきたものを「保存」しようということであるとしよう。「言語権」という発想にしてもそんなところがあると思う。だが、とすると、よりよいものにしようという「変更」はよくないことになるかもしれない。では現状を「保存」すればよいのか。もちろんそれもよくはない。とするとどうなるのか。こんなところを考える必要があると思う。(124ページ)
大切にしよう、「保存」しようと、だれが いったのか? 言語権も、「そんなところがあると思う」というのは、なにを根拠にしてのことか。根拠が理解できない。

少数言語の「保存」ということであれば、「危機言語研究」は、そういった性格がつよい。危機言語研究者もたしかに言語権を論じてはいるが、『ことば/権力/差別』の執筆者には、ひとりも そのような発想をもつものはいない。

ましこなどは、『ことばの政治社会学』三元社において、「言語学者がすべきことは、学術調査のもとに、「危機にある言語」を保存することではない」と いいきっている(137ページ)。ましこは、
少数派の尊厳をまもり、ほこりを回復させ、現存する差別/抑圧が改善消滅するようデータを収集/整理に「協力」し、正書法や標準化などの問題にモデルを提供することだ(しきることではない)。
としている。『社会言語学』紙上でも、創刊号の ましこ論文だけでなく、第4号第5号でも「危機言語」研究の問題点が とりあげられている。ぜひ参照されたい。

また、言語権の根拠としては、木村護郎(きむら・ごろう)の「言語は自然現象か-言語権の根拠を問う」『社会言語学』創刊号を参照されたい。なぜ木村らによる言語権研究会 編『ことばへの権利-言語権とはなにか』三元社が、「ことばの権利」ではなかったかが、簡潔に説明してある。

わたしの論文「漢字という障害」へのコメントをみると、立岩はつぎのように のべている。
[前略]ある言語が難しいという問題がある(cf.あべ[2006])。それで、やさしくすることは必要ではあるだろうと思うし、できることも多々あるとは思うのたが、しかしどこまでできるのか、また必要なのかと思うこともある。
 まず、人が大切にしているものを大切にすべきだというところから現状を見たり批判したりしているとすれば、それとの整合性が問われる。たしかに頭の固い日本文化主義者が日本語をもちあげるとそれは困ったことだと思う。古来から変わらないものだとしばしば言われることが事実として間違っている、言葉はどんどんと変わってきたという指摘も正しくはある。ただ、それは伝統墨守主義者に対する十全な答にはならないだろう。既にあるものを大切にすることと、より簡単で便利な言語を目指すことは両立するのか。これは答えられる問いだと私は思うが、人々はどのように答えるのか。(134-135ページ 注の11)
どこまで、という質問にたいしては、すこしずつ改善すると こたえたい。どのようにか。

ひとつ、固有名詞の漢字は、人名・地名いずれも、かながきを「かならず」そえる。賛同者は、ぜひとも実践されたい。わたしは政策という「おおきなアプローチ」には あまり積極的でなく、草の根運動としてやっている。だから、ひとりずつ賛同者をふやせていけばよいと かんがえている。つまり、だ。逆にいえば、だれにでも、いますぐ できることを要求しているにすぎない。

ふたつ、一部であれ、全体的にであれ、わかちがきをとりいれる。これは、活字媒体では困難であるかもしれない。だが、ウェブでなら、だれでも導入できる。ひらがなばかりが つづいたり、漢字が連続してしまった場合など、とりいれてみてほしい。日本語をわかちがきして かく韓国人であるとか、日本語の文章を辞書をひきながら「解読」している日本語学習者の悪戦苦闘をみる機会があれば、わかちがきの有用性が わかるだろうし、わかちがきもまた「なれの問題」であることが うかがえるだろう。

「整合性が問われる」「両立するのか」という非難については、立岩の根拠のない想像によるものであるのだから、こたえようがない。

ひとつ いいうるのは、「言語は変化するもの」であり、「表記は変化させるもの」であるという点だ。いわゆる「歴史的かなづかい」が、「どんどんと変わってきた」結果として「現代かなづかい」に変化したのだろうか? ちがう。言語政策によって、かえたのだ。英語は文字で表記されるようになったころから わかちがきされていただろうか。ちがう!

もちろん、言語を変化させることも多々あるし、言語の近代をふりかえれば、言語の構築性は かんたんに確認できる。また、こまかな点でいえば、表記も変化しうるものである。ここでの論点は、いくら言語が変化しても、表記は変化せずに そのまま かわらないことがあるということだ。だから、文字表記にはメンテナンスが必要であるということなのだ。

その根拠は、「ことばへの権利」である。わたしの ことばでいえば、文字情報にアクセスし、自分の意見や情報を発信する権利である。それは「情報障害からの解放」と「漢字をつかわない自由」の確立によって保障される。

立岩の文章で気になったのは、もうひとつ、言語をデジタルにとらえてはいないか、という点である。もちろん、議論を単純化させて整理するためであるとはいえ、多言語問題を論じるさいに、言語A・言語B・言語Cというようにしてしまうと、言語Aのバリエーションが捨象されてしまう。比較言語学でいう「系統」のことなる言語同士の言語的葛藤であれば、ABCとしても問題はない。だが、言語的連続と政治的断絶(あるいは、その逆)が ふたつの集団をつくっけてしまったり、ひとつの集団を分割してしまったりすることによって生じている問題は、みえなくなってしまう。いわゆる黒人英語(エボニクス)とアメリカの標準英語でもいい、琉球諸語と「日本語」でもいい、あるいはケセン語と「日本語」でもいい、そういった問題を無視しているわけではないだろうが、どうしても、気になってしまった。言語学をまなんだひとなら、しっているはずだ。「ひとつの言語とは なにか」という といが、どれほどに やっかいなものであるのかを。それは、線をひきようがないから やっかいであるというよりは、現実に、さまざまな問題が ひきおこされており、そこに どのような態度をとるのかによって、自分の政治性が うきぼりになってしまうからだ。

「黒人英語が言語でないというのなら、じゃあ一体なにが言語であるのか おしえてほしい」。いつまでも記憶にのこるフレーズだと、わたしは感じる。もちろん言語ですよ。と、第三者は いえる。黒人英語による教育、そして標準英語の二言語教育。わたしは支持する。あなたは、どうか。支持します、だけでは無責任であることも、しっておかねばならない。差別の解消に協力することなしには、ただの放言になってしまうのだから。

黒人は標準英語を支持しがちで、白人も黒人英語なんかを学校にもちこむなんて!という。差別の蓄積のなせるわざである。「学校で英語教育に補助的に黒人英語を利用する」ことでさえ、大論争になったのだから(「エボニクス論争」のこと)。

「言語A」という「無機質化」は、言語の政治性をそぎおとす行為になりはてる。そのような側面もある、ということを指摘しておく。


※ ちなみに、表記が変化している例として、「わたしワ」といった文字づかいが あげられる。これを非難するむきもあるが、これは一貫性のかける現代かなづかいを改良させているとも いえる。

もっと自分を信じよ

2007-07-15 | ことば
グーグル先生が もっと自分を信じなさい。と、胸をはって ほほえんでくれました。なので わたしは、ちょっと安心しました。

ひとりの見識に没入するよりも、数しれないひとたちの知識の集合にこそ、うかがいたててみるべきでした。それはなにも、「ひとり」の知識や感覚をおとしめるものではありません。社会はバラエティに とんでいるということなのです。

「ここ」って どこだよ

2007-07-02 | ことば
「ここをクリック」とか、「こちらをクリック」とか意味わかりません。だめです、そんなふうにリンクをはっちゃあ。わかってんですか、わかってないんですね。

わかりましたよ、おしえてあげますよ。他人のちからをかりて(笑)。

「ここ」というリンクについてのリンク集曉に死す

ここをクリックは、手口として「オレだよ、オレ」にちかい。詐欺だ。ワンクリック詐欺(=「ワンクリック契約 - ウィキペディア」)かも しれねーぜ。おまえなんか信じないぞ。信じてやらないからなっ。

言語至上主義をこえる

2007-07-02 | ことば
言語至上主義をこえるコミュニケーション論の文献案内を、そのうちサイトに公開します。けっこう ありますからね。

最近みつけたのは、アンディ・ボンディ/ロリ・フロスト『自閉症児と絵カードでコミュニケーション』二瓶社。

よくにた本として、坂井聡(さかい・さとし)『自閉症や知的障害をもつ人とのコミュニケーションのための10のアイデア』エンパワメント研究所がある。

かんがえをめぐらすのに ちょうどいいのは、浜田寿美男(はまだ・すみお)さんの著作だろう。『「私」とは何か-ことばと身体の出会い』講談社選書メチエ、『「私」をめぐる冒険-「私」が「私」であることが揺らぐ場所から』洋泉社新書など。

秦野悦子(はたの・えつこ)、やまだようこ 編『コミュニケーションという謎』ミネルヴァ書房も おすすめします。

そして、『社会言語学』6号も よろしく!

国語学から日本語学へ名称が うつりかわりゆく この時勢のなかでこそ、あらためて、国民国家論/社会言語学によってたつ「国語」学が必要であるように、言語(能力)を自明視し、あるいは「多数派の言語」をもってして「人類の言語」と称してきた言語学を、徹底的に ひっくりかえしていく言語研究として、かっこつきの「言語」学が必要なのだといえるでしょう。

社会「言語」学、「言語障害」学をはじめよう。てゆーか、はじまってますから。

文脈が ちがう

2007-05-30 | ことば
文脈が ちがうってことをついつい無視して、安易な比較や批判をしてしまうってことをかこうとしたんだが。

こないだ かいた「映画『陽のあたる場所から』」の内容が自分で気になってしまっていたので、それをかいておく。

映画のセリフの「僕は理解するより生きるのを手伝おうと思う」ってのと、わたしの先輩が いった「世話をするのは簡単だ」ってのは、ぜんぜん文脈が ちがうんだよね。それをわかっていながら、かいてしまった。結局、居心地のわるさを感じることになった。けれど、かかないことには なにも はじまらないので、かいてよかったと おもっている。

文脈が ちがうってのは、すべて そうなのですわ。わたしたちが だれかに忠告だのアドバイスだの助言だの いえてしまうのは、そういう文脈を無視してのことなのですよ。だって、そのひとの人生なんて しらないもの。内面なんて わからないもの。あたしの人生と あなたの人生は ちがうんですもの。

たとえば、あるひとに いわれて うれしかったことをだれかに いいますよね? ありがちでしょ。それって、そのひとが「わたし」に いってくれたのは、いろんな背景があるわけですわ。おたがいの関係もあれば、気分もあれば、わたしの状態もあれば。二番煎じで それを流用するなら、そういう文脈は全部ちがっているわけですから、その効果も ちがってきますね。そもそも話術も ちがいますわね。でも、いってみないと わからないことがある。

民主主義はどうだとか、だめだとか、必要だとか、なんだとか。そういう いろんなはなしが あるわけですけど、それも全部ね、文脈が ちがうはなしなので、なにが どういう意味で「民主主義」であるとされ、どういう理由で いいとか だめだとかという議論になるのかをとりあげないと いけないのですよね。

年配からの助言ってやつが うっとおしいのは、おまえは「わたし」をいきてないからなのよ。おまえなんかと人生を共有してないからなのですよ。時代が ちがうんだよ、時代が。おまえが いきてきたぶんをあたしは しらないかもしれないが、あたしが「はじめてみた世界」をおまえは、なにも しらないんだよ。


たとえばだ。なんで このひとは、オトコであるらしいのに「あたし、あたし」と かいてるんだろう、なんて おもうひとも いるわけなのですよ。意図をしらないから。わからないから。なにより、わたしをしらないから。まー、「いろんな意味で そういうキャラ」なのだろうと感じさせるだけの文章にしているつもりではいるが、そんなもん通じるとは かぎらない。ここに かいている「おまえ」は特定のだれかなのか、どうなのかってのも、わかりようがない。わたしはただ、「あなたと わたし」というふうに かくのが すきってだけなのだが、こういう文章をかいていて おもわず頭にうかぶ「むかつく だれか」が いないとも断言できない。そんなものでしょ?

つらづらと かいてみた。きょうは、そういう日なのだろう。そういうことにする。ちなみに機嫌は すごくいい。

語用論の意義

2007-05-30 | ことば
おもいついたままに かく。

最近の言語学のテキストには たいてい語用論について一章もうけられている。語用論は要するに、ことばの意味は じっさいの発話が なされる状況や相互作用によって つくりだされるという着想による発話やその意味の研究だ。

語用論をやるには、社会的文脈を無視するわけには いかないので、語用論を言語学の一分野とかかげる以上、社会なき言語学は成立しえない。もちろん、語用論を無視したところで社会を射程にいれない言語学は限定された問いを発することしかできず、その こたえも おのずと限定されたものになり、結局のところ言語学とは社会言語学のことだ(ラボフや田中克彦=たなか・かつひこの主張)。それは、語用論を例にあげなくとも おなじことだ。

「そんなの全体主義じゃないか!」という、ひとことを例にあげよう。そのひとが どのようなものを全体主義と とらえているのかが不明であれば、なんのことやら わからない。その社会で全体主義がどのように とらえられているのかも しる必要がある。そのまえに、どのような会話がされていたのかも おとせない情報だ。なにより、全体主義にたいして、どのような評価をあたえているのかが重要になる。一見なにか否定的に とらえているようには推測されるが、かならずそうだとも断言できない。

たとえば敬語論をやるさいに社会論ぬきには やれないのは当然のことだが、「そうなると もはやそれは「言語学ではない」」なんてのは まちがいだ。それは語用論の範囲で できることだ。社会のありかたをきっちりと研究することなしに語用論の意義などない。それでは従来の意味論に毛が はえただけのものになってしまう。

「社会言語学」を自称することの利点は、研究の自由度が保障されることにある。従来のいわゆる言語学にとどまらない言語現象の研究を「社会」という おおきな観点から せまる。そういう共通認識があれば すむからだ。社会なき言語学を「ゆるしてあげる」ために社会言語学をやるのではないし、言語学は社会をとりあげないからだめなんだと固定観念で きめつけて、社会言語学の優位をとなえるためではない。

日本の社会言語学は語用論をないがしろにしてはいないか。語用論をふまえた議論の仕方が できていないのではないか。そんなことを念頭において、社会言語学をふりかえってみるのも いいかもしれない。

てゆーかだ。権力という観点をきりおとした社会言語学が おおすぎるのですよ。力関係をとりあげない敬語論って でまかせですやね。

語用論で論文検索してみたけど、おっと感じるようなのはないね。じっくり さがさないと だめみたい。

『現代のエスプリ 臨床の語用論1』『現代のエスプリ 臨床の語用論2』は かってみようかな。

論理への あこがれ

2007-03-21 | ことば
論理的に かくとは、いったい どういうことなのか。

論文をちょっと かいてみても、よくわからない。ひとの試作原稿をよむと、むちゃくちゃなところが たくさんみつかって、よくメッセンジャー(一対一のチャット)で ひとつひとつ指摘したりしている。ここが おかしい、これは ちがうと かきながら、自分の かいたものにも これだけ問題点が 自分で わかったら いいのに、と おもう。

そもそも論理について まなんだのは、木下是雄(きのした・これお)『レポートの組み立て方』ちくま学芸文庫ぐらいなもので、あとは坂口安吾(さかぐち・あんご)のエッセイから まなんだものが たくさんあったように おもう。だが、それだけだった。

あるとき感動したのは「形態と機能の区別」という、マーシャル・アンガーの指摘だった(『コンピュータ社会と漢字』サイマル出版会、44から59ページ)。2000年のころだから、いまから7年まえのことだ。

それが どのようなかたちをしているかと、それが どのような機能をはたしているかは、ちがうし、分別できる、区別しないと錯覚をおこすという指摘は、わたしには「かっこよく」うつった。感動した。

それから しばらくして、2006年あたりから すこしずつ論理にかんする本をよんでみたのだが、なかなか すぐには身につかない。これだという本も みつからない。けれども、ともかく すこしずつ まなんできた。「論理学」と名のつく本であれば わたしが もとめていることが かいてあるわけではないことも まなんだし、論理をわきまえているひとの文章をじっくり よむ必要も感じた。

ハッキング『何が社会的に構成されるのか』、ガーゲン『あなたへの社会構成主義』は、どちらも わたしの頭を整理するのに役だった。ヴィトゲンシュタインが晩年かいていたことが示唆的だというから、言語ゲーム論の「わかりやすい説明」をかじってみた。

結局それは、意味とは なんぞやという議論だった。ということで、意味論と語用論の本をかってみた。

児玉徳美(こだま・とくみ)『意味論の対象と方法』くろしお出版。
ジェニー・トマス『語用論入門-話し手と聞き手の相互交渉が生み出す意味』研究社。

トマスの本が よみやすい。

これだ!という本をひとつ、みつけた。三浦俊彦(みうら・としひこ)『論理学がわかる事典』日本実業出版社。

じつは、『言語哲学を学ぶ人のために』世界思想社をもっていたことに気づいた。
もひとつ、『数学ビギナーズマニュアル』日本評論社という本も手もとにあったのだった。レカナティ『ことばの意味とは何か』新曜社も あわせてよめば、ひとつ、おおきくなれるような気がする。

けど、ちょっと おそかったかな。ひさびさに べんきょうしているような気もする。ああ、すでに美化されるだけの「あのころの わたし」は、まだ死んでいなかった。と おもうと、すこしは すくわれる。

しっくり こないぶんだけ

2007-03-15 | ことば
いつも いいかげんで、一方的で一面的なことをかいてばかりいて ごめんなさいですが、こうみえても わたしは、いつもバランスをとろうと意識しているのです。いちお。


おおきな円があります。もひとつ おおきな円があります。よくみると、ちょっと ちいさな円もあります。あらまあ、たくさん円があります。

円と円が ほとんど完全に かさなりあっていたり、完全に はなれていたり、部分的に かぶさっているのも あるようです。円のなかに ちいさな円があったりもするようです。ちょっと とおくからみてみると、もっと でっかい円も ありました。じゃあ顕微鏡(けんびきょう)で みてみましょうか。わあ、すごいよ これ。うじゃうじゃあるけど、これ全部マルのかたちをしているよ。


なんの はなしでしょうか。

一度いいかえてみて、もう一回、もとの いいかたに もどしてみよう。そうしてまた、ちがう いいかたをしてみよう。

そのうち、「しっくり こないなあ」って おもうでしょうね。しっくり こないところに、わたしたちの生活があり、いまがあり、これからがある。

しっくり こないぶんだけ、わたしたちは ひらかれている。

しっくり させないぶんだけ、わたしたちは、ひらかれたままでいる。

とじたものをひらくために、不適切に いいかえてみろ。何度も、何度か、いいかえてみろ。

不適切に いいかえろ

2007-03-15 | ことば
まえ論文に かいたことあるんだけど、朝鮮語で「識字運動」は「文盲退治運動」って いいます。最近は、日本語の「識字運動」と ほぼ かさなる意味あいの「ムネウンドン(文解運動)」といいますけどね。

ペキン語でも「サオマン(掃盲)」といいまして、「文盲を掃除する」という表現です。

ことばは適切な表現をつかったほうが よいと、わたしは おもっています。けれども、「うつくしい ことば」によって「その性質」のありようが おおいかくされている、ということも、けっこう あるんではないでしょうか。それはまた、べつの問題として あるような気がします。


いいように ごまかされてないか?

そんなふうに感じたとき、不適切に いいかえてみろ。

言語は社会的産物であるということの意味

2007-03-12 | ことば
言語をふたつに分類します。

1. 観察対象としての言語
2. 行為としての言語

まず、1の「観察対象としての言語」って なんでしょうか。

目的: 科学みたいに「言語」を研究したい。法則をみつけたい。分類とかしてみたい。
方法: 連続する音のラレツ(言語音)を観察し、分解してみました。じゃあまず、「きのーおこのみやきおたべにいったらみせがしまってたよ」という文を観察するよ。これって「きのー、おこのみやきお、たべにいったら、みせが、しまってたよ」って分解できるんじゃないかな。そーに ちがいないよ。とりあえず、そーゆーことにするよ。しかも、これは「意味のまとまり」によって分解したってことにするからね!

ではつぎに、音をちいさく こまぎれに分解します。そしたら、「kinoo okonomiyakio tabeniittara misega simattetayo」って分解できるみたいだよ。こまかい手順はテレビで おなじみ「3分クッキング」みたいに省略するよ! とにかく言語音を「k」とか「o」とかって音までに分解できました。それを「音素」ということにします。音素って、なんだか「元素」みたいでしょ?

ソシュール先生は、これを「二重分節」って よんだんだって。言語ってのは連続する音のラレツなんだけど、それは「意味のまとまり」によって構成されていて、さらにそれは「音素」っていう音の「素材」によって できてるんだってことね。ぼくや あなたが はなしてる言語を観察すると、それは かぎりある音の素材をつかって意味のまとまりをつくっていて、それから その「意味のまとまり」をくみあわせて意思の伝達をしているみたいなんだ。音の素材を限定して、だけど、音の素材は あれこれ くみあわせて、意味のまとまりをつくる。そして、意味のまとまりをくみあわせて いろんな会話をする。こうすることのメリットは、かぎられた素材で いろんなことについて はなせるようになるってことなんだよ。

「意思の伝達が さきか、音素が さきか?」なんて哲学的な質問はしないでね! 言語は、部分(音素や意味のまとまり)と全体(意味をなす音の連続)のセット商品ってことにしたら いいと おもうよ。セット商品としての言語なんだよ。たぶんね。

ところでさ、数式ってあるでしょ? 「1+1=2」みたいな。これってね、ここでいう「1」とは「どのような1なのか」ってことは無視するんだよ。「1に1をたそうとしてたら、かたっぽの1が死んじゃった」みたいなさ、時間の概念も無視するんだよ。これはね、ノイズをとりのぞくってことなんだ。この世界には「いかなる1でもない1」なんて存在しないけど、お約束として、「ただの1」ってのを想定するの。どのような社会的で歴史的な色あいも もたない「1」、とか「2」、をイメージするんだ。なんでかって? 便宜のためだよ。

でね、ソシュール先生は、言語をラングとパロールに分類したそうなんだ。ラングはね、「なんかしらないけど話が通じあう人たち」の間で共有されてる、その会話(言語)についての知識のことなんだ。知識だから目には みえないんだよ。ラングは抽象的な概念だってことだね。パロールってのは、「ひとが じっさいに はなしてる」言語のことなんだ。だからパロールは具体的で物理的だと いえるよね。

でね、ソシュール先生は、ラングのほうを研究したかったんだ。てか、ほかの科学みたいに、抽象的ではあってもノイズをとりはらったかたちでの「言語そのもの」をソシュールさんは研究したかったそうなんだ。だから、ラングってのは数式のようなものってことだよ。

説明をいそいだけど、観察対象としての言語ってのは、うえに かいたようなことだよ。

じゃあ、2の「行為としての言語」って なんだろね? うえでいうパロール? パロールってことにするね?
◆言語を観察すると、「ハダカの言語」をとりだすことができる。

ひとが はなしているのを観察すると、記号の体系としてのラングのありようが あきらかになる。音素のくみあわせによって意味のまとまりをつくり、そして、意味のまとまりをくみあわせて意思の伝達を可能にする。そのような組織だった構造が観察できるのだ。

ハダカの言語とは、ノイズをとりさったものであり、ソシュールはそれをラングと よんだ。

ハダカの言語をラングとよぶ

ハダカとは、自然状態のことである

ラングは自然である

言語は自然物である

このような論理が もっともらしいか、論理的であるか、そうでないかに かかわらず、「ラングは自然である」と「するとしても」、言語知識としてのラングは、「人と人とのあいだにあるもの」であり、その意味で、

ラングは社会的産物である。

つまり、ここで「社会」とは、「(抽象的な)ラングの基盤としての(抽象的な)社会」なのである。

◆言語活動なしに言語は存在しない。

ラングは、じっさいに使用されることなしに観察できない。

言語とは、じっさいに使用され、いま使用されつつあるものである

言語が使用されつつある場所は、社会である

ゆえに、言語は社会的産物である。

ここでいう社会とは、「(具体的な)言語を使用する場所としての(具体的な)社会」のことである。
観察対象としての言語も行為としての言語も、どちらも社会的な産物であるには ちがいない。だが、その意味あいは、ことなっているのである。

どのような意味で社会的産物なのか?ということを、わすれてしまってはならない。

「言語は自然物である」という観点も、ある意図や目的が背景にある。ひとつには、言語を科学研究の対象にしたい、ということだ。ラングを「自然」とするのは、これはそもそもが お約束として、なのだ。研究するための お約束である。便宜のためである。

自然科学が、相対主義や構築主義の観点から論じられ、再検討されるようになったのは、それほど むかしのことではない。ともかくも、クーンのパラダイム論や知識社会学によって、自然科学の自明性をゆるがすようになった。それによって自然科学が敗北したということではないが、ともかくも、もはや「自然科学の全盛期」などではない。たとえば、「遺伝子決定論者」など、元気よく「自然科学者」を批判してみせる社会科学者の頭のなかにしか、ほとんど存在することはない。ドーキンスの発言をみよ。「この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである」(『増補新版 利己的な遺伝子』311、506ページ)。比喩表現をたくみに あやつるドーキンスの「利己的遺伝子」論は いかにも決定論的に みえたりもする。だが、ドーキンスもまた、「人間とは本能がこわれた動物である」という社会学的な人間観を肯定しているのである。

田中克彦は、『ことばと国家』(1981年、岩波新書)において、つぎのように のべている。
あることばが独立の言語であるのか、それともある言語に従属し、その下位単位をなす方言であるのかという議論は、そのことばの話し手の置かれた政治状況と願望とによって決定されるのであって、決して動植物の分類のように自然科学的客観主義によって一義的に決められるわけではない(9ページ)。
近代的な分類学をたちあげたリンネの手法が、それほどに客観的ではなかったことを、われわれは かんたんに確認することができる(「リンネの分類学へ」)。

自然科学に敵対的な態度をとるひとのなかには、なぜか、どこかで自然科学に幻想をいだいていることがある。「決定的で、真理であり、うごかせない」。だから、こわいと。信仰のうらがえしで反感をもつだなんて、「ツンデレ」じゃあるまいし!

自然にたいしても、「決定的で、うごかせない」ようなイメージをいだいていることがある。だが、それは まちがいである。自然は自由にあやつることができるし、いくらでも介入することができる。人間の歯が雑食できるように できているからといって、人間は雑食でなければならない必然性などない。人間には自由があるのだ。

自然観のあやまりは、社会観のあやまりを意味するのである。

さとりをひらけないでいては、すべてが敵にみえてしまう。なにか ひとつでいいから、さとってしまうべきだ。

と、最後の最後で いいかげんな結論をかいてみる。「ツンデレ」発言については、反省しています。

付記:ちょっと手をいれた(3月23日)。