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いま、そのとき、かんがえつつあること。

自閉者と自分勝手なコミュニケーション

2007-11-29 | 障害学
このあいだね、職場にきてた実習生3人が、めずらしいことに最終日に ぼろなきしてたんですよ。おお、めずらしいなあと。利用者さんをみて、なみだ。職員に あいさつして、なみだ。3人そろって ないてるもんだから、相乗効果。共鳴する感動…。

福祉施設の実習は いやだったけど、いろいろ かんがえが かわったということをおっしゃっておられたようです。

印象的だったのは、自閉症の利用者さんに、わかれの あいさつをしているときで、なきながら こえをかけているんだけど、いわれてるほうは、かおをそむけて、てきとーに うなづいているのでした。いかにも そのひとらしくて、わたしは ほほえましかったのですけれど、実習生さんたちは、すこし さみしそうにしていました。

その利用者さんは、くちうるさく いわれると ほかのひとをつきとばしてしまったり、みみをふさぐ ひとなんですけれど、ひととのコミュニケーションは だいすきなんです。けれども、それは自分が満足できれば それでいいという、あくまで一方通行が基本方針となっています。ひとからの指示が きけない、わからないのではないけれども、たとえば だきつかれたりすると、おそらく いやがって おいはらうであろうということで、つまりは自分のテリトリーをまもって生活している。けれども かまってほしくて いちいち ひとのところまで はしっていって、「だめ?」と きいて「だめ」とか いわせようとする。

そういう性格が、全部ひっくるめて わたしは すきなのですが、そのひとの人間性が あまり まだ みえていないひとにとっては、わかれの あいさつをかるく ながされるのは、さみしいものでしょう。

自閉症はコミュニケーションに障害があると いわれます。うまく他人とコミュニケーションが とれないということで、ひとつには他人の気もちというものが理解できないということが あるわけです。他人に「感情」があるというのが想像できないというか。

自閉症は孤立症ではありません。たしかに孤立傾向のつよい ひとも いますが、それは自閉症のひとつの類型であって、すべてではありません。ひととの かかわりが、かなり すきなひとも おおいのです。ただ、その かかわりかたが、「奇妙にみえる」ということです。

自閉症は病気じゃないと いわれることがあります。ですが、わたしの かんがえでは、自閉症だけが病気ではないのではなくて、なにひとつとして、病気など存在しないのです。かぜも、白血病も、ダウン症も、自閉症も、心臓病も すべて、生物として、人間として あたりまえのことであって、なにか特別なことではない。ただ、なにか目的があって、病気と病気ではない状態が区別されることがあり、それは それぞれの文脈において正当性があり、あるいは不当な区別なのであって、なにかを病気だとすることも、病気でないことも、それぞれの観点と目的に即したもので、相対的な議論です。

ひだりききが障害でないならば、視覚障害も知的障害も障害などではありません。逆に、性同一性障害を障害とするならば、ひだりききも色盲も学習障害も障害として さしつかえありません。たんに身体的/知的マイノリティを便宜として障害と よんでいるに すぎないのですから。

自閉症が病気であろうと、なかろうと自閉者と非自閉者には ちがいが あります。そのちがいを把握することこそが、自分勝手で一方的なコミュニケーションをしないために 必要なことなのです。

自閉症のひとと接していて、おお、なんて このひとたちのコミュニケーションは自分勝手なんだろうと感じたことが ありました。それが わるいと おもったのではなくて、ただ そう感じたのでした。

そして、しばらくして気づいたのです。なぜ、わたしは「自分勝手だ」と感じたのでしょうか。それは、わたしが このように接したら、このように反応してほしいと想定していたからに ほかなりませんでした。このようなとき、ひとは「ふつう」このように反応するものだし、それが あたりまえだ。そうしないのは勝手だと、ごーまんにも わたしは かんがえていたのです。

そこで わたしのあたまは ひっくりかえりました。おお、なんて わたしは自分勝手なコミュニケーションをしていたのだろうかと。文化人類学の用語でいえば、自文化中心主義に とらわれていたのです。わたしの常識は、自閉者の非常識であり、わたしの ものさしを、身勝手にも おしつけていたのです。

もちろん、わたしは なにかを物理的に強要したわけではなくて、わたしのあたまのなかでの判断/評価を勝手に くだしていたということに すぎません。とにかくも、わたしは自閉者の世界に乱入して、自閉者の論理をおとしめてしまったのです。


ということはですよ!!!!!


「あのひとは勝手だ」。


もう、こんな ことばは いえないですよ! だってね、勝手だと おもうのは、勝手にも こういうときは こう反応すべきだっていう想定を、勝手に自分のなかに つくりあげてしまっているからでしょう?


わたしは、「漢字という障害」という論文で、つぎのように かいた。
知的障害者のなかには、ことばでコミュニケーションをとること自体に困難をもつひともいる。コミュニケーションとは、相互行為によってなりたつものである。それゆえ、その「困難」の原因を一方だけに課すことはできない。いうなれば関係性の問題である(151ページ)
おお、なんと しらじらしいことでしょう。自分でも よく わかっていないことを、あたかも自分は「理解ある」人間であるように みせかけて「論じて」います。

まあ、わかる、というのは、なにか失敗してみないと肉体的には わかりえないのかもしれません。

さて、まとめます。

身勝手なコミュニケーションとは、片方だけが身勝手であることによって成立するのではありません。双方ともが ひとしく身勝手で、自分さえ よければ よいという態度にもとづいて行動していることによって うまれるのです。そして、さらに大事なことは、わたしたち人間すべてが、いつも、どこでも身勝手に いきている、ということです。

ひとの社会化というのは、そういうことであり、生活習慣や文化というものもまた、そういうことなのでしょう。なにが身勝手かというのは、ひとそれぞれで相対的であり、ひとはみな ひとしく身勝手だということです。ただ、「身勝手」のありかたが ちがうというだけのことなのです。

自閉者のコミュニケーションが自分勝手だと感じたとき、まさに、わたしたちは、そこに鏡に うつった自分のすがたを発見するときなのです。それをみのがしつづけるかぎり、うまくいかないコミュニケーションの責任を、片方だけに おしつけつづけてしまうのです。

その片方とは、いつも、少数者、社会的弱者では なかったでしょうか。

新刊どんどん

2007-11-29 | ほん
いやはや、いろんな本がでていますね。

◆西川和久(にしかわ・かずひさ)/保坂稔(ほさか・みのる) 編『入門 グローバル化時代の新しい社会学』新泉社

いただきました。ありがとうございます。65のキーワードについて解説があり、べんきょうになります。言語についての記述がとくにないのが残念です。が、それは現状としては しかたのないことです。

◆『月刊言語-語用論の新展開』2007年12月号。語用論が注目されるのは、たいへん よいことだと おもう。するどい問題意識によって活用されていけば、意欲的な語用論研究が登場してくるだろう。

◆安田敏朗(やすだ・としあき)『国語審議会-迷走の60年』講談社現代新書。
「終章 文字論をめぐって」において、わたしの論文「漢字という障害」が紹介されている(263-264ページを参照)。ありがたい。

◆ウヴェ・ペルクゼン『プラスチック・ワード-歴史を喪失したことばの蔓延』藤原書店

最近では、もっとも興味ぶかい本では ないでしょうか。柳父章(やなぶ・あきら)さんの「漢字のカセット効果」論も意義ぶかい指摘だったですが、これも いい本のようです。カセット効果については、柳父さんの『翻訳語成立事情』岩波新書などを参照ください。

◆田尻英三(たじり・えいぞう) ほか『[増補版]外国人の定住と日本語教育』ひつじ書房

田尻さんによる文献案内が補充されている(169-199ページ)。日本語教育に関する本は、かぞえきれないほど でているが、これを片手に よみすすみ、ほりさげていきたい。

◆土岐哲[とき・さとし]先生還暦記念論文集編集委員会 編 『日本語の教育から研究へ』

◆石田敏子(いしだ・としこ)『入門 書き方の指導法』

うえのふたつで、学習障害(読字障害)が とりあげられていた。とりあえずは、それだけをもって歓迎すべき傾向と とらえたい。内容の検討は、またいずれ。

◆ことばとジェンダーを論じる本が あれこれでてますね。『ことばとジェンダーの未来図』、『「女ことば」はつくられる』、『〈性〉と日本語―ことばがつくる女と男』

これだけだっけな。みつけたら、かきくわえます。

◆横須賀俊司(よこすか・しゅんじ)・松岡克尚(まつおか・かつひさ) 編著『支援の障害学に向けて』

福祉から障害学へのアプローチ。

◆綾部恒雄(あやべ・つねお) 編『文化人類学20の理論』

スチュアート・ヘンリさんの「文化(社会)進化論」がいい。

◆久保田正人(くぼた・まさひと)『ことばは壊れない-失語症の言語学』

これも よまないとなあ。

「こどもあつかい」について

2007-11-15 | 議論
「こどもあつかいするな」。

こどもあつかいは、わるいことだとされています。たとえば、おとなの身体障害者にたいして、こどもあつかい。20代後半のひとにたいして、50すぎのひとが こどもあつかい。「ちゃん」で よんでみたり。

けれども、こどもと おとなの平等という観点にたってみると、なぜに「こどもあつかい」が よくないことだと いわれるのか、すこし不可解になってきます。なんなんでしょうか。

おとなは こどもではない、ちがう、ことなっている。なのに、とりちがえている。だから、いけない。イヌをネコと よんではいけない。そういうことでは ないように感じるのです。

おとなと こどものあいだに、はっきりと、序列といいますか、上下関係が成立している。それは こどもが つくったものではない。「こどもあつかいするな!」という、おとなの側が つくりだした序列だ。

でだな、「こどもあつかいされている」と どのように感じるのかといえば、あきらかに相手が自分をしたに みている、かるくあつかっているという印象が つたわってくるからだろう。もちろん、相手の本心は わからないものでは あるけれども、「こどもあつかい」された(と感じた)経験というのは、おおくのひとが もっているだろう。

「もっと おとな」(だと自分で おもっているひと)が だれか(便宜として、ここでは「ちょっと おとな」としておく)にたいして、えらぶり、かるく あつかう。それが いやだと感じる。そこで、こどもあつかいするなと きりかえす。あるいは、頭のなかで反発する。

けれども、それでは「おとなより程度のひくい存在」、つまりは「こども」の存在をどちらの側も みとめてしまうことになる。「こども」なるカテゴリーは、社会的な人間関係のなかで「つくられたもの」である。「こどもなんて いない」といえば、いない。ただ、ひとだけが いるのだから。合理的に定義し、線をひくことは できないのだから。

だれかをこどもあつかいする「もっと おとな」。そのひとに こどもあつかいされた「ちょっと おとな」。その両者が かろんじている「こども」。こどものなかにも、序列や程度の上下が成立している。連鎖といいますか。

この序列の まんなかにいるひとは、どのように きりかえしたら いいのでしょうか。「ばかにするな」? それも ちがうでしょう。「えらそうに いうな」?

えらそう…。えらそうというのは、全然えらくないのに「えらいふりをする」、「えらいと かんちがいしている」ということでしょうか。それなら、どこかに「ほんとうに えらいひと」がいるのでしょうか。そして、そのひとには「えらそうに」いわれても、仕方のないこと、ゆるせることなのでしょうか。

上下を「たいらにする」ためには、どうすれば いいのでしょうか。

まず、認識において。「ひとに上下はない。役割がちがうだけだ。」 このように かんがえるのは どうでしょうか。一社員と社長の関係は、上下関係などではなく、役割のちがいにすぎないのだ、と かんがえるわけです。どちらの役割もなければ、おそらく その会社は成立しないのですから、どちらが えらいということは できないはずです(もちろん、社長がほんとうに必要なのか、給料の大小は合理的に決定されているのかは、重要な問題です)。ちがうのは、役職にすぎません。もちろん、責任のおもさは ちがうかもしれません。ですが、そのへんも ひっくるめて、役割が ちがうということであり、また、それだけのことなのです。おとなと こどもも おなじことです。役割が ちがうだけです。もちろん、おとなと こどもというカテゴリーと分類が、それぞれ必要なものであるとすれば、ですけれども。

つぎに、きりかえしかた。こどもあつかいするな! の かわりになる きりかえし。「(この世に だれかより えらいだれかなんて どこにもいないのに)ずいぶん ご立派なんですね」、「(役割が ちがっても、ひとは みんな平等なのに)さすがだなあ」というのは どうでしょうか。カッコの部分は くちには ださず、そのようなニュアンスをほのめかす、ということです。ほのめかすというのは、コミュニケーションにおいて なかなか むずかしい部類の技術でありますから、だれにでも できることではありません。ですが、できるひとは やってみましょう。

「ずいぶんと ご立派なんですね」というのは、いかにも皮肉で、印象が わるいかも しれません。まあ、それも よしとするのも よし。あるいは、相手につたわらないように、こちらの頭のなかだけで相手を「えらそうに あつかう」のも いいでしょう。さすがだなあというのは、相手には ほめことばに きこえるかもしれませんが、こちらとしては、「平等原則に反するひとは、やっぱり いうことが ちがうなあ、さすがだなあ」ということです。えらそうにするひとには、きちんと えらそうに あつかう。けれども、それは平等原則に違反しているということなので、きちんと処罰する。処罰というのは、なんだか きびしく きこえますが、やることは単純。まともに相手にしない、ということです。はいを一回だけ いいながら、頭のなかでは「はい、はい」とも いわず、ひたすら無視してしまう。それで いいのではないでしょうか。

まあ、いやな いいかたをされて、むかついた。というのが実態なわけですから、むかついたところを「無視する」、というのは なかなか できないことですけどね。結局、感情のコントロールの問題になっちゃうから、対処のしようは、いくらでも あるにせよ、これ!というのはない。

と、まとまらずに おわる。

そのサカナ、凶暴であるからして

2007-11-13 | ほん
ブラックバスとかブルーギルが問題にされるのは、「凶暴なイメージ」によるものかもしれない。

かよわいメダカが、凶暴なブラックバスに たべられてしまう!!!!! なんて かわいそうなの! ブラックバスって、なんて おそろしいんだ!!!!


ていうか、まあね。ブラックバスをつるってのも よくわからん。サカナをつって、家で たべるのが たのしいと、わたしは おもうものだから。ま、価値観の ちがいか。いわゆる「キャッチ アンド リリース」は、ばっかみたいと おもっちゃう。つって、また放流って、つりばり ささったら、サカナだって いたいに きまってんだろ(笑)。

とはいえ、ふつーにトマトたべながら、「外来種」が どうのとか いってんじゃねーよと おもうんだが。

固定しようとしても

2007-11-13 | ブログ
なにかを固定的にとらえ、その状態から ずれていくことを問題とする。ということについて。

「外来種の流入」を問題視するのも、そういった発想によるものだ。それにしてもさ、ヒト以外の生物にまで国境線をもうけて、こちらさんと あちらさんで区別しちゃうのか。あほほほ。じゃなかった、おほほほ。

んなもん、うごくに きまってんじゃん。飛行機とんでるし、船は あちこち うごいてるし。生態系が どうのとか、ヒトにとって どれだけ都合のよい自然環境であるかどうかだけが大事なんだから、「ニッポンの生物」が どうなろうと、どうでもいいじゃないのさ。ニッポンってなに? なんでもかんにでも国境線をひいてんじゃねーよ。たとえば「オクラ」って いかにも「日本古来」の野菜みたいに感じるかもしんないけど(そうでもないかな…)、あれは北アフリカ原産だぜ?

環境破壊っていっても、どんだけ地球が汚染されようとも、地球は太陽のまわりをぐるぐる まわりつづけるやないの。たいしたことではないのよ。だけど、それだけどヒトは たのしく いきていきたいから、ある程度は きれいな空気をすいたい、おいしい水をのみたいから、環境汚染は こまるなあってことでしょう。環境問題ってのは、人間のエゴによるエゴのためのエゴイズム宣言なんですよ。もっと環境破壊的に現代生活をたのしみたいエゴと、それよりは持続可能な生活に きりかえたいっていうエゴの対決。それだけのこと。

ヒト以外の いきものに、ニッポンだアメリカだなんて意識が あるわけねーじゃねーか。よごされて いやだとか、そんな意識も ねーよ。

人間中心主義を厳密に追求せねばなりません。ヒトのエゴをあくまで肯定しつづければ よいのです。その内実だけ、しっかりと検討すれば よいことです。生態系は あくまで「うごきつづけるもの」として とらえておけば よいのです。固定し、「こういうものだ」と きめつけてしまうから、「ズレ」が気になってしまうのです。

そして『図書館革命』

2007-11-12 | ほん
有川浩(ありかわ・ひろ)さんの小説ですが。

『図書館戦争』、『図書館内乱』、『図書館危機』ときて、『図書館革命』で完結なんですね。はやく よみたい。

みなさまにはむすびめの会(図書館と在住外国人をむすぶ会)を紹介しておく。ご注目あれ。

むすびめの会は、図書館サービスのたちばから言語権に言及している。わたしは、言語権/読書権の観点から図書館サービスに注目している(「均質な文字社会という神話」「漢字という障害」)。社会言語学と図書館サービス論と障害学が、うまいぐあいに接合できればと おもっている。賛同者をこころまちにしている。わたしも、ネットワークをひろげていきたい。

だれかの生活空間であり、かつ、だれかの職場であるということ

2007-11-05 | 障害学
入所施設の問題について かんがえる。わたしの職場は知的障害者の入所施設だ。以下、「利用者さん」とは施設を利用しているひと、入所者のことをさす。

わたしの職場は人里はなれた山奥にあるわけではないので、「施設」といっても それほどに「とざされた空間」ではない。いやむしろ、あるひとたちにとって、とても開放的な場所である。研修生だ。

テレビのある「みんなの部屋」でマスターベーションをする。それは、わるいことだろうか。わるいことだなんていう概念がないひともいて、そういうひとだから入所施設に「いれられている」のだし、法的には処罰されないのだ。

施設にもプライベートな空間があり、そこで自由にマスターベーションできればよい。それがベストだ。

利用者さんのなかにも、知的能力と感情の波の面で、あれこれ差があるわけで、「こら!」などと だれかのマスターベーションをしかりつけることがある。そして、それでいながら自分は すき放題やっているということもある。

環境セクハラという問題もあると感じる。女性の実習生がいるなかでマスターベーションを放置するかどうかといったことだ。わたしは いつでも放置しているが。

だが、本来ならば自分だけの空間があればよいのだ。オープンなところでマスターベーションをするひとがいれば、それをみなければよい。めをそむければよい。その程度の娯楽がなくて、なにが利用者本位のサービスといえようか。

生活するひととしては、私的な空間であるにもかかわらず、そこを職場とするひとにとっては、そこは あきらかに、公的な空間である。実習生に あれこれ説明するようなとき、「施設の論理」で行動するわけにも いかない。だが、施設とは こういうところですよというのを、ありのままに みせるのが当然だという意見もある。いつもハダカでいるひとがいるとして、そのひとの自由にまかせるのか、どうかなど。なぜに実習生は、ハダカをみないといけないのか。いや、ハダカが どうしたんだよ?という観点にたつこともできる。

プライベートな空間であるのだから、すべてが許容されるべきだ。生命の危険にかかわることでなければ、なんでも やっていいことだ。

利用者を意のままにしようとしてはいけないと、ベテランの職員が いっていたが、まさに そのことだ。生活支援員は、あくまで、生活の おてつだいさえすればよい。利用者さんがマスターベーションしていようと、それが みたくないものであっても、そのまま うけいれるのが当然だ。それは、プライベートな空間を提供できていない、サービス提供者の問題であるのだから。