このあいだね、職場にきてた実習生3人が、めずらしいことに最終日に ぼろなきしてたんですよ。おお、めずらしいなあと。利用者さんをみて、なみだ。職員に あいさつして、なみだ。3人そろって ないてるもんだから、相乗効果。共鳴する感動…。
福祉施設の実習は いやだったけど、いろいろ かんがえが かわったということをおっしゃっておられたようです。
印象的だったのは、自閉症の利用者さんに、わかれの あいさつをしているときで、なきながら こえをかけているんだけど、いわれてるほうは、かおをそむけて、てきとーに うなづいているのでした。いかにも そのひとらしくて、わたしは ほほえましかったのですけれど、実習生さんたちは、すこし さみしそうにしていました。
その利用者さんは、くちうるさく いわれると ほかのひとをつきとばしてしまったり、みみをふさぐ ひとなんですけれど、ひととのコミュニケーションは だいすきなんです。けれども、それは自分が満足できれば それでいいという、あくまで一方通行が基本方針となっています。ひとからの指示が きけない、わからないのではないけれども、たとえば だきつかれたりすると、おそらく いやがって おいはらうであろうということで、つまりは自分のテリトリーをまもって生活している。けれども かまってほしくて いちいち ひとのところまで はしっていって、「だめ?」と きいて「だめ」とか いわせようとする。
そういう性格が、全部ひっくるめて わたしは すきなのですが、そのひとの人間性が あまり まだ みえていないひとにとっては、わかれの あいさつをかるく ながされるのは、さみしいものでしょう。
自閉症はコミュニケーションに障害があると いわれます。うまく他人とコミュニケーションが とれないということで、ひとつには他人の気もちというものが理解できないということが あるわけです。他人に「感情」があるというのが想像できないというか。
自閉症は孤立症ではありません。たしかに孤立傾向のつよい ひとも いますが、それは自閉症のひとつの類型であって、すべてではありません。ひととの かかわりが、かなり すきなひとも おおいのです。ただ、その かかわりかたが、「奇妙にみえる」ということです。
自閉症は病気じゃないと いわれることがあります。ですが、わたしの かんがえでは、自閉症だけが病気ではないのではなくて、なにひとつとして、病気など存在しないのです。かぜも、白血病も、ダウン症も、自閉症も、心臓病も すべて、生物として、人間として あたりまえのことであって、なにか特別なことではない。ただ、なにか目的があって、病気と病気ではない状態が区別されることがあり、それは それぞれの文脈において正当性があり、あるいは不当な区別なのであって、なにかを病気だとすることも、病気でないことも、それぞれの観点と目的に即したもので、相対的な議論です。
ひだりききが障害でないならば、視覚障害も知的障害も障害などではありません。逆に、性同一性障害を障害とするならば、ひだりききも色盲も学習障害も障害として さしつかえありません。たんに身体的/知的マイノリティを便宜として障害と よんでいるに すぎないのですから。
自閉症が病気であろうと、なかろうと自閉者と非自閉者には ちがいが あります。そのちがいを把握することこそが、自分勝手で一方的なコミュニケーションをしないために 必要なことなのです。
自閉症のひとと接していて、おお、なんて このひとたちのコミュニケーションは自分勝手なんだろうと感じたことが ありました。それが わるいと おもったのではなくて、ただ そう感じたのでした。
そして、しばらくして気づいたのです。なぜ、わたしは「自分勝手だ」と感じたのでしょうか。それは、わたしが このように接したら、このように反応してほしいと想定していたからに ほかなりませんでした。このようなとき、ひとは「ふつう」このように反応するものだし、それが あたりまえだ。そうしないのは勝手だと、ごーまんにも わたしは かんがえていたのです。
そこで わたしのあたまは ひっくりかえりました。おお、なんて わたしは自分勝手なコミュニケーションをしていたのだろうかと。文化人類学の用語でいえば、自文化中心主義に とらわれていたのです。わたしの常識は、自閉者の非常識であり、わたしの ものさしを、身勝手にも おしつけていたのです。
もちろん、わたしは なにかを物理的に強要したわけではなくて、わたしのあたまのなかでの判断/評価を勝手に くだしていたということに すぎません。とにかくも、わたしは自閉者の世界に乱入して、自閉者の論理をおとしめてしまったのです。
ということはですよ!!!!!
「あのひとは勝手だ」。
もう、こんな ことばは いえないですよ! だってね、勝手だと おもうのは、勝手にも こういうときは こう反応すべきだっていう想定を、勝手に自分のなかに つくりあげてしまっているからでしょう?
わたしは、「漢字という障害」という論文で、つぎのように かいた。
まあ、わかる、というのは、なにか失敗してみないと肉体的には わかりえないのかもしれません。
さて、まとめます。
身勝手なコミュニケーションとは、片方だけが身勝手であることによって成立するのではありません。双方ともが ひとしく身勝手で、自分さえ よければ よいという態度にもとづいて行動していることによって うまれるのです。そして、さらに大事なことは、わたしたち人間すべてが、いつも、どこでも身勝手に いきている、ということです。
ひとの社会化というのは、そういうことであり、生活習慣や文化というものもまた、そういうことなのでしょう。なにが身勝手かというのは、ひとそれぞれで相対的であり、ひとはみな ひとしく身勝手だということです。ただ、「身勝手」のありかたが ちがうというだけのことなのです。
自閉者のコミュニケーションが自分勝手だと感じたとき、まさに、わたしたちは、そこに鏡に うつった自分のすがたを発見するときなのです。それをみのがしつづけるかぎり、うまくいかないコミュニケーションの責任を、片方だけに おしつけつづけてしまうのです。
その片方とは、いつも、少数者、社会的弱者では なかったでしょうか。
福祉施設の実習は いやだったけど、いろいろ かんがえが かわったということをおっしゃっておられたようです。
印象的だったのは、自閉症の利用者さんに、わかれの あいさつをしているときで、なきながら こえをかけているんだけど、いわれてるほうは、かおをそむけて、てきとーに うなづいているのでした。いかにも そのひとらしくて、わたしは ほほえましかったのですけれど、実習生さんたちは、すこし さみしそうにしていました。
その利用者さんは、くちうるさく いわれると ほかのひとをつきとばしてしまったり、みみをふさぐ ひとなんですけれど、ひととのコミュニケーションは だいすきなんです。けれども、それは自分が満足できれば それでいいという、あくまで一方通行が基本方針となっています。ひとからの指示が きけない、わからないのではないけれども、たとえば だきつかれたりすると、おそらく いやがって おいはらうであろうということで、つまりは自分のテリトリーをまもって生活している。けれども かまってほしくて いちいち ひとのところまで はしっていって、「だめ?」と きいて「だめ」とか いわせようとする。
そういう性格が、全部ひっくるめて わたしは すきなのですが、そのひとの人間性が あまり まだ みえていないひとにとっては、わかれの あいさつをかるく ながされるのは、さみしいものでしょう。
自閉症はコミュニケーションに障害があると いわれます。うまく他人とコミュニケーションが とれないということで、ひとつには他人の気もちというものが理解できないということが あるわけです。他人に「感情」があるというのが想像できないというか。
自閉症は孤立症ではありません。たしかに孤立傾向のつよい ひとも いますが、それは自閉症のひとつの類型であって、すべてではありません。ひととの かかわりが、かなり すきなひとも おおいのです。ただ、その かかわりかたが、「奇妙にみえる」ということです。
自閉症は病気じゃないと いわれることがあります。ですが、わたしの かんがえでは、自閉症だけが病気ではないのではなくて、なにひとつとして、病気など存在しないのです。かぜも、白血病も、ダウン症も、自閉症も、心臓病も すべて、生物として、人間として あたりまえのことであって、なにか特別なことではない。ただ、なにか目的があって、病気と病気ではない状態が区別されることがあり、それは それぞれの文脈において正当性があり、あるいは不当な区別なのであって、なにかを病気だとすることも、病気でないことも、それぞれの観点と目的に即したもので、相対的な議論です。
ひだりききが障害でないならば、視覚障害も知的障害も障害などではありません。逆に、性同一性障害を障害とするならば、ひだりききも色盲も学習障害も障害として さしつかえありません。たんに身体的/知的マイノリティを便宜として障害と よんでいるに すぎないのですから。
自閉症が病気であろうと、なかろうと自閉者と非自閉者には ちがいが あります。そのちがいを把握することこそが、自分勝手で一方的なコミュニケーションをしないために 必要なことなのです。
自閉症のひとと接していて、おお、なんて このひとたちのコミュニケーションは自分勝手なんだろうと感じたことが ありました。それが わるいと おもったのではなくて、ただ そう感じたのでした。
そして、しばらくして気づいたのです。なぜ、わたしは「自分勝手だ」と感じたのでしょうか。それは、わたしが このように接したら、このように反応してほしいと想定していたからに ほかなりませんでした。このようなとき、ひとは「ふつう」このように反応するものだし、それが あたりまえだ。そうしないのは勝手だと、ごーまんにも わたしは かんがえていたのです。
そこで わたしのあたまは ひっくりかえりました。おお、なんて わたしは自分勝手なコミュニケーションをしていたのだろうかと。文化人類学の用語でいえば、自文化中心主義に とらわれていたのです。わたしの常識は、自閉者の非常識であり、わたしの ものさしを、身勝手にも おしつけていたのです。
もちろん、わたしは なにかを物理的に強要したわけではなくて、わたしのあたまのなかでの判断/評価を勝手に くだしていたということに すぎません。とにかくも、わたしは自閉者の世界に乱入して、自閉者の論理をおとしめてしまったのです。
ということはですよ!!!!!
「あのひとは勝手だ」。
もう、こんな ことばは いえないですよ! だってね、勝手だと おもうのは、勝手にも こういうときは こう反応すべきだっていう想定を、勝手に自分のなかに つくりあげてしまっているからでしょう?
わたしは、「漢字という障害」という論文で、つぎのように かいた。
知的障害者のなかには、ことばでコミュニケーションをとること自体に困難をもつひともいる。コミュニケーションとは、相互行為によってなりたつものである。それゆえ、その「困難」の原因を一方だけに課すことはできない。いうなれば関係性の問題である(151ページ)おお、なんと しらじらしいことでしょう。自分でも よく わかっていないことを、あたかも自分は「理解ある」人間であるように みせかけて「論じて」います。
まあ、わかる、というのは、なにか失敗してみないと肉体的には わかりえないのかもしれません。
さて、まとめます。
身勝手なコミュニケーションとは、片方だけが身勝手であることによって成立するのではありません。双方ともが ひとしく身勝手で、自分さえ よければ よいという態度にもとづいて行動していることによって うまれるのです。そして、さらに大事なことは、わたしたち人間すべてが、いつも、どこでも身勝手に いきている、ということです。
ひとの社会化というのは、そういうことであり、生活習慣や文化というものもまた、そういうことなのでしょう。なにが身勝手かというのは、ひとそれぞれで相対的であり、ひとはみな ひとしく身勝手だということです。ただ、「身勝手」のありかたが ちがうというだけのことなのです。
自閉者のコミュニケーションが自分勝手だと感じたとき、まさに、わたしたちは、そこに鏡に うつった自分のすがたを発見するときなのです。それをみのがしつづけるかぎり、うまくいかないコミュニケーションの責任を、片方だけに おしつけつづけてしまうのです。
その片方とは、いつも、少数者、社会的弱者では なかったでしょうか。