2005年の本あれこれ

今年よんだ本で、これは!というのは それほどなかった。てか、そもそも あんま よんでない。記憶にも のこってない。

◆ローレン・スレイター『心は実験できるか―20世紀心理学実験物語』紀伊國屋書店。これは かなりのお気にいり。ことあるごとに よみかえすことになるだろう。にんげんってのは どーゆー存在なんだってのをかんがえなおすには、格好の本だ。文体も ここちよい。

貴戸理恵(きど・りえ)常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』理論社。わりきれない問題をわりきれないままで うけとめよ、納得なんかするな。たまには よみかえしたい。おどらされるのは ごめんだし、だれかにオリのなかで おどらせるようなことはしたくない。いい本だ。

◆ムン・ブシク『失われた記憶を求めて―狂気の時代を考える』現代書館。翻訳されたことに感謝感激。これも文体をふくめて だいすきだ。あんまりひとを尊敬したりはしないが、ムンさんのことを、わたしは尊敬している。

◆森達也(もり・たつや)『ドキュメンタリーは嘘をつく』草思社。今年もあれこれ森さんの本がでたが、やっぱこれが力作。森巣博(もりす・ひろし)さんとの対談本(『メディアご臨終』集英社新書)も いいかな。

◆最相葉月(さいしょう・はづき)『いのち―生命科学に言葉はあるか』文春新書。いまよんでるところ。最相さんは今後とも要チェックですね。

◆浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』医学書院。固定観念から自分を解放するには もってこいの本。おすすめ。

◆戸田山和久(とだやま・かずひさ)『科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる』日本放送出版協会。おもしろい。参考になる。刺激的。なおかつ やすい(笑)。

◆伊勢田哲治(いせだ・てつじ)『哲学思考トレーニング』ちくま新書。新書ででたってのが なにより いいやね。

◆『ユリイカ 特集 ブログ作法』(4月号)。現代におけるウェブ上のメディアとコミュニケーションをしるうえでは、とても参考になる1冊。

◆ばるぼら『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』。マニアックな1冊。手もとにおいといて損はなし。

以上、有名どころからマイナーなものまでバランスわるくあげておく。かったけど あんまり よんでない本、まだ かってない本にも いいのは たくさんあるわけだが、ま とりあえず。

来年はちゃんと論文をかいていくぞ。ということで2006年もよろしくです。よいお年を。

グーグル:「2005年の本」
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また国家保安法か

年末は やすみなしですわ。本も ろくすっぽに よめない生活。ううむ、しんどい。ま、いいけど。

韓国の友人に「カンジョング」で検索してみろと いわれる。朝鮮語で検索したあと、「カン・ジョング」でもしてみた。また国家保安法か。あほじゃねーのか。なにが したいんだ、なにが。みみっちー あほたれどもが、その程度のことしかできないのか。カン・ジョングさんの被害をふみだいにするような発言はすべきじゃないが、はからずしも「国家保安法」廃滅への序曲に おどりだしたようなもんだと いえるだろう。国家保安法がある時点で すでに強烈に恥しらずだが、恥のうわぬりに余念がない ごくつぶしども、ということで。

まったく くそくらえな話だ。

グーグル:「カンジョング」(朝鮮語) / 「カン・ジョング」(日本語)
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鼓膜の調子がわるい

ううむ。ここしばらく、また右の鼓膜がおかしい。

最後に耳鼻科に いったの いつだったか。去年の1月? おとどしの1月? わからん。耳鼻科って かよいだすと来週また きてとか いわれるけど、そんなに かよえるわけないやないの。1年も2年も放置するのも なんだけど。

耳鼻科のセンセが いいにくそうに、かなり耳が わるくなるかもしれないって いってたですよ。「え? どれくらいですか?」って きいたら、まあ「どれくらい」ってのは予測不可能なんでしょうし、納得のいく説明は なかったんだが。

アレルギー性の鼻炎だと、はなづまりってのは ほとんど どうしようもなくて、とにかく口呼吸は あんまりしないようにするだけ。むかしはずっと口呼吸だったけど、鼻で いきするように意識してやると、どうしようもないくらい つまってるとき意外は なんとかなるもんだ。わたしの場合はね。

鼓膜が おかしいってのは、いきしてると鼓膜のあたりの なにかが かさかさ音をたてて うごくわけですよ。これ、けっこう うざい。 そろそろ鼓膜マッサージしてもらいに耳鼻科にいかねばならんのかもしらん。鼓膜マッサージするまえと あとでは、けっこう聴力かわるのよね(聴力検査の結果とかみるとね。実感はあんまりない)。いままで、2回ほど右の鼓膜に穴があいたのか、空気がすーっと ぬけることがあった。はげしい運動したときにね。しばらくすると ふさがるという不思議。なんなんだ(笑)。これが人体の神秘か??

いちお聴覚学的には、鼓膜が 内側に へこんでる状態ということになり、鼓膜マッサージをすることによって 耳管の状態をととのえてやるということなのだろう。生半可に おべんきょしただけなので、よくは わかんない。ともかく、鼻をつまんで空気ぬきしてやると場合によっては音がしなくなるので、放置したりもできるんだが。まあ、あんまり病院ぎらいなのも よろしくないのかもしらん。そういえば手術しようかとも いわれてたんだが。どっちみち いつかは蓄膿の手術をすることになるんだろう。うみをとりのぞくやつね。

聴力も、そこまで おちてるわけじゃないし(医者が「平均すれば『正常』」とか いってた(笑))、視力も そんなに おちてもいない。けど、ちょっとした近視と乱視があるだけで、「めつきが わるい」と みなされて、しばしば忠告をうける。べつにガンとばしてんじゃありませんので! 顔にまつわる問題ってのは石井政之(いしい・まさゆき)さんの本などをよむと あれこれ かんがえさせられるが、「めつき」についての研究って あるんだろうか。斜視の人の経験をかいた本とかは ありそうだなぁ。

グーグル:「鼓膜がへこんで」 / 「乱視 目つき」
リンク:「斜視の掲示板」
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生命科学の時代とはいっても

生命科学、生殖にまつわる技術の進歩は めざましく…。という話があるようだが、錬金術じゃないんだから基本にあるのは ごくありふれた事実だけだ。

粥川準二(かゆかわ・じゅんじ)「ヒトクローン・ウォーズ」『現代思想』2004年11月号から引用。
「原理的に考えてみよう。実際のところ、ヒトクローン胚の形成には、どうしても大量の――おそらく数百個単位の――卵子が必要になる。それを倫理的な問題を起こすことなく入手できるのだろうか。卵子は精子や体細胞と違って、採取するには提供者に肉体的・精神的負担をかけざるをえない。しかもその負担が女性だけに一方的にかかることをどう考えるべきなのか。」(227ページより)
韓国であれだけの大量の卵子をつかってヒトクローンES細胞(胚性幹細胞)作成にとりくめたのにも背景がある。不妊治療がかなり推進されており、卵子に関する倫理規制が「柔軟」だったからだ。こづくりが夫婦、ひいては一族の一大事であり、さらには息子をうまねばならないという発想がいきづく社会だから可能だったということだ。ファン・ウソク氏が国民的英雄じゃなければ、卵子提供しますって人が1000人もあらわれなかったわけだし。まぁ、今回は黒影さんのブログの記事「黄教授捏造を認める-存在しなかったクローンES細胞-」をご覧になれば わかるように、大変なことになってしまったわけだが(そもそもファン氏は倫理の りの字も わかってなかった)。

ともかく、なんだか自分のなかで いきおいづいてしまった。日曜に かってきた本をメモ。

小泉義之(こいずみ・よしゆき)『生殖の哲学』河出書房新社、松原洋子(まつばら・ようこ)『生命の臨界―争点としての生命』人文書院、坂井律子(さかい・りつこ)/春日真人(かすが・まさひと)『つくられる命―AID・卵子提供・クローン技術』NHK出版、福本英子(ふくもと・えいこ)『人・資源化への危険な坂道―ヒトゲノム解析・クローン技術・ES細胞・遺伝子治療』現代書館、中村桂子(なかむら・けいこ)『生命科学者ノート』岩波現代文庫、佐藤文隆(さとう・ふみたか)『科学と幸福』岩波現代文庫、廣重 徹(ひろしげ・てつ)『科学の社会史(上)戦争と科学』/『科学の社会史(下)経済成長と科学』岩波現代文庫、米山公啓(よねやま・きみひろ)『医学は科学ではない』ちくま新書。

んー、生命やら科学やらと関係ない本は、鈴木貞美(すずき・さだみ)『日本の文化ナショナリズム』平凡社新書だけか。ま、そういうときもある。ぬ、この鈴木さん『「生命」で読む日本近代』って本だしてるのね。

小泉義之さんの本は、はじめてだ。これから あれこれ よんでいこうかと おもう。意欲的で、いうべきことをいっている感じがする。意欲的部分が、どれだけ わたしでも共感できるのかどうかという、なかなかスリルある読書になりそう。

あと、まだ そろえていないが、やはり不妊治療についての議論をよまないといけないと おもった。まさの・あつこさんの『日本で不妊治療を受けるということ』(岩波書店)くらいは よんで手もとにおいておかねば。

とりあえず、坂口安吾(さかぐち・あんご)の一節を「戦争論」から引用しておく。
両親とその子供によってつくられている家の形態は、全世界の生活の地盤として極めて強く根を張っており、それに反逆することは、平和な生活をみだすものとして、罪悪視され、現に姦通罪の如き実罪をも構成していた。
私は、然し、家の制度の合理性を疑っているのである。
家の制度があるために、人間は非常にバカになり、時には蒙昧な動物にすらなり、しかもそれを人倫と称し、本能の美とよんでいる。自分の子供のためには犠牲になるが、他人の子供のためには犠牲にならない。それを人情と称している。かかる本能や、人情が、果して真実のものであろうか。…中略…
家は人間をゆがめていると私は思う。誰の子でもない、人間の子供。その正しさ、ひろさ、あたたかさは、家の子供にはないものである。
人間は、家の制度を失うことによって、現在までの秩序は失うけれども、それ以上の秩序を、わがものとすると私は信じているのだ。
やっぱり安吾が わたしの ふるさとだ。イ・ドゥクジェ『家族主義は野蛮だ』とキム・ウンシル『女性のからだ、からだの文化政治学』あたりをよみなおしてみよう。かみしめるべきは、「少しずつよくなれ」という安吾の信念のごとき ひとことだ。

グーグル:「生命科学 卵子」
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映画『GO!』と『血と骨』

『パッチギ!』って映画が みたいんだけどな。近所の古本屋のなかにあるレンタルビデオ屋で かりようと おもったら、中古ビデオ・DVD販売だけになってた…。『血と骨』のビデオを300円で購入。

ううむ。『血と骨』は、こんな映画もあるのかという感じ。怪物が怪物として いきた半生を怪物として えがいている。ブタの解体シーンには なんとも おもわなかったけど、あれがダメだという人がいるみたいね。けっ。くだらん。高校のセンセのことばをおもいだす。「冷蔵庫みてみろ、死体おきばじゃないか」。

暴力というのも、あそこまで いくとポカーンとなってしまう。でも、こわいけど。

なんとも印象的だったのは、『GO!』で朝鮮学校の教師役だった人が『血と骨』では戦時中「内鮮一体」の推進者で、戦後=解放後/敗戦後(立場によって ちがうぞえ)は「民族反逆者」として糾弾されリンチされているシーンだ。

塩見三省(しおみ・さんせい)さん演じる『GO!』の教師は主人公が日本の高校にいくという話をきいて、「民族反逆者」といって なぐりかかる。そこで、主人公の親友ジョンイルの名言が とびだす。あえて、そのセリフは かかないでおこう。

『血と骨』では糾弾されながら、「国のない俺たちにどんな道があったというんだ(나라 없는 우리들에게 어떤 길이 있었단 말이야)」という。

「国がなかったら、つくればいいじゃない」という単純な話ではありえないところに、国民国家の暴力があり、残存している日本帝国主義の原罪もまた、そこにある。

『GO!』はヒロインなんかよりも(失礼!)ジョンイルの魅力が きわだっている。だからこそ、それをみる わたしは、やりようのない気もちになる。ジョンイルに胸をはれる日が いつか おとずれるのだろうか。そんな他人まかせな話ではないし、社会の一員としての責任もあれば、わたしなりに はたしていくべき役割もある。

「他者」をアイデンティティの政治の隘路(あいろ)に まよいこませる多数派の生活。だれでもなく、属性もないという権力。アイデンティティからの自由。『GO!』の最後で主人公が だした結論のようなものが、じつは多数派日本人が毎日、当然のこととして享受している日常なのだ。この非対称性をみつめる必要がある。

グーグル:「国民国家の暴力」
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mixiとブログとウィキペディアと読書

mixiをはじめたというのをこのブログに かきましたが、mixiの感想などは まだ かいてなかった。とじた空間(mixi)の、そのなかのコミュニティにたてられたスレッドで議論をするというのは、案外たのしいもんだと感じた。現時点で142のコミュニティに参加している(そのうちひとつは自分でつくったもので、なおかつ参加者ゼロ(笑))。

とりあえず あれこれ参加してみたという感じなのだが、議論をする場としては わたしはチャットのほうが すきだし、参加者が かぎられている以上、それほど注目すべき議論というのはない。もちろん、なかには すんばらしいのもあるが、玉石混淆だし、「みてるだけー」のひとには それほどまでには魅力もないだろう。きめてになってくるのは、自分がどこまで ふみこむかということかな。

で、いま、あるコミュニティで「クローンの是非」という議論をしている。クローンと いってしまうと漠然としすぎていて人の数だけ想定するものが ちがってくるという諸刃の剣。素人にはオススメできない…と いえたら いいが(笑)、わたしも ふくめて、ほぼ みんな素人なわけだ。そこで議論に参加しつつ感じたのは とじられた空間での議論というのは、いまここで どのような議論があるのかという、つまり外=社会への視点が ぬけおちてしまうことがあるということだ。とじられていて、なおかつ2ちゃんねるほどには放言のできない環境であるということは建設的な議論がしやすくなる。けれども、奇想天外な話ばかりが展開されて、あらぬ方向にいってしまうこともあるなぁと。

それでも議論ずきで挑戦的な人というのは、ためになる刺激をあたえてくれる。おかげで、粥川準二(かゆかわ・じゅんじ)『クローン人間』集英社新書やマッキベン『人間の終焉』、『現代思想』の関連論文、はてなアンテナに登録してあるブログの記事などなどを熱心によみこむことになった。

この1年ほど、すこしは おさえておこうと科学論の本をよんでいるが、きのうは、放置していたスタンジェール『科学と権力―先端科学技術をまえにした民主主義』をよみはじめた。なかなかよい。

「ファン・ウソク シンドローム」についてブログに かいたのも、そのながれだ。

で、ウィキペディアなんだけど、「ノート:副島隆彦」が たいへん おもしろい。これも科学論的だし、なおかつ、意見が わかれるものについて いかに合意をえるかという民主主義とも通ずる話だと おもう。

amazonの書評をよく よむ人は、わたしだけじゃないだろう。自分がみた映画の映画評をあれこれ よもうとする人も、けっこういるだろう。いろんな人がもっている意見や知識というものが かいま みれるということは、なかなか便利なことだ。ということで、バークの『知識の社会史―知と情報はいかに商品化したか』をそろそろ よもうかと おもう。

他者との かかわりを通じてしか、わたしは本をよめないのだな…ということで。

グーグル:「知識社会学」
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激動のさなかにある韓国、そして社会運動

激動というのが適切かどうか わからないが、現代の韓国社会は変革のただなかにあるといえる。さまざまな社会運動が展開されており、ハンギョレ新聞やオーマイニュースといった「進歩的」なメディアによる挑戦がさまざまな成果をあげてきた(「進歩」というのは現代韓国のキーワードのひとつだ)。

1988年に民主化したといわれる韓国だが、それまでは軍事独裁の、はげしい管理国家だったわけだ。うがった いいかたをすれば、韓国の選挙運動が日本人にとって魅力的にうつるのは、それだけ「最悪な国家体制」であったということでもある。

日本で出版されている『たたかう新聞―「ハンギョレ」の12年』、『『オーマイニュース』の挑戦』、『韓国のデジタル・デモクラシー』はまさに熱気あふれた韓国社会のありかたをつたえてくれる。

日本でよく いわれているのが、韓国のブロードバンドの普及率であり、それを基盤にしたネチズンの力だろう。しかし、なぜブロードバンドがあれだけ普及しているかといえば、韓国では かなりの割合の人がマンションに すんでいるからだ。それは、暴力的な都市建設の産物なのだ。高層アパートの蔓延については『われわれのなかのファシズム』におさめられた「韓国の建築、ファシズムの増殖炉―影のない建築の朝にかく手紙」でも論じられている。

韓国の障害者運動が本格的になったのは、移動権連帯によるバスや地下鉄の路線の占拠などによる移動権保障運動だと いえるだろう。移動権連帯が結成されたのが2001年4月20日のことだから、まだ最近のことだ。日本で青い芝の会が1977年にバスを占拠できたのも、韓国との対比でいえば、さいわいにも(!)軍事独裁体制ではなかったからなのだ。「停戦状態」でも分断国家でもなかったからだ。

現代韓国では、外国人労働者差別の問題もある。もはや帝国主義の被害者とだけ自称することはできなくなった。しかし、そこで話をおわらせることはできない。さまざまな労働運動や差別撤廃運動との連帯によって外国人労働者もまた社会運動の にないてとして存在しており、もはや一部のメディアでは「移住労働者」という表現が定着している。

キム・デジュン以降は死刑執行も おこなわれていない(「死刑廃止法案の行方と受刑者の人権」『インパクション』149号を参照)。戸主制も廃止の はこびとなった(2008年から)。

国家保安法の廃止も時間の問題だろう(10年は かかるかもしれないが)。だが、住民登録証と住民登録番号は、どうなんだろうか。指10本、つまりあるだけ全部の指紋を強制的に押捺する制度であり、住民登録証にも その指紋がコピーしてある。わたしも外国人登録をしたときに指紋全部とられた。しかも、黒のスタンプで。けども、外国人特例(!)なのか外国人登録証に指紋のコピーはなかった。そんな皮肉は どーでも いいが、ウィキペディアの「韓国のインターネット」にも かかれているように、登録番号は排他的でもある。

すべてとは いわない。けども、どれもこれも日本の植民地支配の産物(ナショナリズムをみよ)か、分断に起因するものだ。いったい、どの位置から反韓をかたるのか。

けども、わたしは、それでもまだ韓国は最悪の国家体制だと明言する。賛美なんかしてたら、わたしの大事な友人たちが直面している現実が、みえなくなるじゃないか。くそったれ。

グーグル:「韓国の社会運動」
付記:「激動のさなかにある韓国、そして障害者運動」という題をかえた。予定より障害者運動についての言及がすくなくなってしまったので。
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韓国の学術研究における問題

こーゆーことをかくのは、よろしくないんだと自分でも おもう。けども被害をこうむっている人たちのなかには、わたしの大事な友人たちも ふくまれているわけで、いちお かいておく。テグという韓国でも保守的な地域で大学院の修士課程の2年間をおくった人間による印象ということで。

韓国は権威主義的な社会であると感じる。「教授」のもつ権力、ソウル大の権威、英語圏の研究に対する依存度、男性のもつ権力、先輩・年長者がもつ権力…。教授になるためにお金をつみあげたり、博士論文の審査者に対する審査料とは べっこの謝礼が慣例化していたり、院生にテストの採点をさせていたり、皿をあらわせていたり。

わたしの目には大学院生は「教授さま」の奴隷であるように みえた。「師匠の日」というのがあり、「お世話になっている」先生方に感謝をするということでプレゼントをささげたり、その日の授業では感謝の気もちをこめた歌をうたったり。院生にとって教授さまは「ご奉仕すべきお方」ということになっていた。わたしが くつろいで気楽に会話できたセンセは、3人ほどだった。酒の席では、「のめよ」「つげよ」が通用し、そのあとカラオケにいこうものなら、肩をくんだり…というのが横行していた(ソウルの大学に留学した友人は、「そんなこと全然ないよ」ということだったが…。テグはだめだ…)。

論文で剽窃(ひょうせつ=盗用)をしている人が周囲に5人ほどいたし、なかには日本の重要な文献を翻訳したものを自分の「編著」にしている人もいた(この人は、身近だったわけではなく、何度か顔をあわせた程度)。剽窃で博論をだした人が ふたり。

有名なのはイ・ミョンウォンさんの事件でしょう。イ・ミョンウォンさんは教授の剽窃を暴露してソウル大をおわれてしまった。なんとか評論家としての地位を獲得できたから それでも さいわいだったものの、かなしい事件であることには かわりない。日本ではこの話はまったく つたえられていないようだ。なんだか つらくなってきたので、ここまでにします。

「ファン・ウソク シンドローム」のひとつの背景ということで。

グーグル:「パワハラ」 / 「パワーハラスメント」

いちお反韓の人むけに かいておくが、韓国では日本のパクリが かなり多方面にあるということを重々わかっていて、若者たちは それをはずかしいことだと認識している。てか、こんな話を韓国と日本というふうに国家で対比させることが わたしには いまわしく、不愉快でしょうがないので、かいていて なんだか自分をいじめているような気分になってくる。こういうときは、韓国の名著をよむにかぎる。つぎは、そーゆーのを紹介します。

w3cの指示にしたがい、グーグル検索結果のURL中の&は「&」と表記することにしました。もちろん半角で。ソースでは、そうなってます。)
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問題意識の温度差

なにかを批判的に論じている人にたいして、「そんなに あつくならなくても…」という反応をすることがしばしばある。

わたしがそんな反応をされることもあるし、あるときには、わたしもそんな反応をしているのかもしれない。「よくあること」ではあるのだが、すなおな感想として感じたということと、それを口にするということには距離があるように おもう。

そのように感じるということは、ほとんどさけられない性質のもので、問題意識や かたりかたが それぞれ方向やら方法やら ふんいきなどが ことなっているのだから当然のことであろうかと おもう。

ともかく、問題意識をある程度共有しつつも温度差を感じたり違和感をいだくということはある。けれども、それをもとに非難をしようとすることには すこし慎重でありたいと おもう。戦略的にそのような かたりかたは、マイナスなのではないか?という議論は ちかしい間柄では おおいにしたら よろしい。けども、距離のある間柄であれば、外側の安全地帯からの冷笑という意味あいをおびてこないだろうか。

社会につつまれた人間において、どこにも「外部」などはなく、安全地帯というものは存在しない。その点に注意したい。

なぜ温度差があるのか? なぜその人は「あついように自分にはみえるのか?」ということをみつめる発想と姿勢をたもつこと。そうすることでしか、社会はみえてこないのではないか。

たえず といつづけていく必要があるのは、「わたしは いま、どこに どのようにして たっているのか?」であろう。自分もまた この社会の内部にいて、社会全体の関係性のなかで生活している。

同調しなくてもよい。おなじ かたりかたをしなくてはならないわけでもない。ただ、「いかにして温度差が生じたのか」をかんがえることなしに自分の規準を「標準のものさし」にしてはならない。

「してはならない」…? それは人に強要できるごもっともな規範だということ? / いやあ、ごもっともであろうとなかろうと強制力なんて もてないしね。とりあえず、そんなふうに おもうってことだよ。 / じゃあ そうかいたら? / ことばのあやですよ。ことばのあや。たまには「べきだ」とか「してはならない」とか いいたいやないの。 / それは、わからんでもないが。じゃあ ちょっとした介入だとか非難になろうとも いいたいことは いっていいんじゃね? / べっつに くちふーじするって いってないやん。安易なのは だめだという話さね。 / ま、くちふーじするような かたりかけってのは まさに、冷笑や つめたい反応だよね。人を無力感にあたえるようなね。ま、そんなことで めげるようなら「あつい人」とは みなされないだろうが。 / あのね、その人の問題じゃないのよ。その人が問題提起していることについて改善されることもなく ただ放置されてしまうことの問題なの。 / つまり、あれだな。自分の政治性に無自覚な やからの放言というやつ。 / あぁ、まさに放言だね。


さて、Operaとfirefoxで一発で表示されないことがあるのは、やっぱりグーグル検索結果へのリンクとは関係なさそうだ。やっぱ、なんでもググる!ということで。

グーグル:「問題意識の温度差」
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ブラウザ:firefox

Operaではglobal IMEが つかえないので、なおかつ いまさらIM(インターネット・エクスプローラー)をつかう気もないので、firefoxをおとしてみた(グローバルIMEはハングルと簡体字漢語の入力に必要なのです。ハングルはかささぎでも入力できるけどねぇ。てか、そろそろ繁体字漢語も入力できるようにならないと。ピンインでも入力できるそうだし)。

単純に比較してみるとOperaのほうが かるい感じがするような? firefoxはドラッグしてコピーはりつけが できるのが うれしい(意味不明なことをかいてるような気もする。あんま通じない予感)。

で、Operaだと かきこみ途中の状態で まちがってリンクをクリックしたりしても、元のページにもどれば かきこみが きえてないという うれしい機能があるけど、firefoxは無理なのね。基本はOperaで いこう。けども、firefoxも つかう頻度たかくなりそうだ。

ていうか、このブログはOperaとfirefoxでは はげしく更新しまくらないと表示されない………。たぶん、グーグルの検索結果にリンクしてるのが わるい…(笑)。ほかに理由あるかな。ネットスケイプでは そんなことなかったけどねぇ。

とりあえずググるの やめてみるテスト。
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賛美するひまがあったら…

議論をしていて、どうも違和感をいだいてしまうことがある。

多数派と少数派の話をしているのに、差別されている少数派は、じつはこんなにも魅力的だとか、おしえられるものがあるとか。そんな賛美はどーでも いいでしょうに。それだって結局は多数派による身勝手でご都合的な消費にすぎないじゃないですか。

フェリシモ左きき友の会/大路直哉(おおじ・なおや)編著『左ききでいこう!』をちょっと よんでみてほしい。「左ききカタログ」のアンケートから一部引用。
「左ききの人って器用よね」とよく言ってくださるんですが、あえて声を大にして「器用にならざるを得ないんです」と反論します。(213ページ)
この一文を記憶にとどめておくだけでも、だいぶ ちがうと おもうんですよ。

人の生活は美術館の展示品ではない。他人の生活を消費したり賛美するひまがあったら…。 / あったら、なんだ? / 自分の特権というものをみつめろ。 / なんだそれ。深刻ぶって しかめっつらしてたら問題が解決するのか。 / いや、そんなことは いってないけど。 / あのね。しかめっつら、つまり まじめで真摯な態度というのも制度化されうるんだよ。 / ふうむ。どゆこと? / コピペだよ、コピペ。「まじめに左翼、人権保障のガイドライン」みたいな。 / そんなの どこにあるの? / この社会だよ、いまここにある社会。みえないのか? ちまたに ころがるコピペ集が。 / まぁ、どんな理念も形骸化されうるわね。 / じゃ、形骸化しないようにするには、どうすれば いいのさ? / 自分のあたまで かんがえて、自分のことばで かたる。 / そーゆーと もっともらしいけどな。それって、ごもっともなようでいて、内容ない話だぞ。 / 自分のことばってのも陳腐なのか。そうかもしれない。じゃあ新鮮さをたもつ。 / 鮮度の問題なのかな? そうかもしれんね。 / じゃ、こんなこと いってみようよ。わたしが かたることばを、ふるくさいだの、時代おくれだの いってくれるな。あいもかわらず旧態依然としたこの社会が、わたしに おなじことをいわせるのだと。すきで こんなこと いってるんじゃねーよと。

よし、一貫した自分のことばなんてのを否定してやる。それが とりあえずのオルタナティブ(かわりになるアプローチ)だ。

グーグル:「ライオンは自分 GO 在日」
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