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いま、そのとき、かんがえつつあること。

ベジタリアニズムは、思想にもとづく生活実践

2008-05-24 | 料理
タカマサさんにトラックバックをいただいたので、一点だけ おかえし。

資源消費という次元でくらべれば、農産物/畜産物/魚介類は連続体である - タカマサのきまぐれ時評2
■問題はだね。こういった問題をかんがえるために、「ベジタリアニズム(vegetarianism)」といった思潮群をもちだす必要があるかだ。■はっきりいってないとおもう。「動物性たんぱく質消費の政治経済学」とでもいうべき問題群は、「ベジタリアニズム」といった理念・実践とは別個になりたつし、せいぜい健康問題について参考になる程度じゃないか?
ベジタリアニズムは、なんらかの根拠にもとづく生活実践ですよね。たんに思想にとどまるものではない。わたしは、問題をかんがえるだけで満足したいのではなく、問題に とりくみたいわけです。ご承知のとおりね。
政治経済学的な貧困問題、格差問題、収奪問題として、「肉食」の個々の是非をとえばよく、そこに、地理学・民族学・歴史宅・社会学等による食文化の歴史問題を参考程度にからめればすむだろう。
それこそ、ベジタリアニズムだと おもうのですが。

それがベジタリアニズムでなければ、「政治経済学的に肉食をとう」という作業は、なんというものでしょうか。

わかった。

「肉食の政治経済学」ですね? わかります。そして、そこに とどまることなく、「環境の政治経済学」に つきすすむわけですね? すっごく いいと おもいます。

わたしには、あんまり じょうずにできそうにないですが、ものすごく賛同します。
あ、タカマサさんの記事に「動物性たんぱく質消費の政治経済学」って明確に かいてあった。ともかく、わたしが いいたかったのは、いま現に「動物性たんぱく質消費の政治経済学」をやっているのは、まさにベジタリアンです、ということ。
わたしはベジタリアンなんですから、ベジタリアンがベジタリアニズムをかたるのは、当然というか、そうなるほかはないものです。「もちだす必要があるか」と いわれたら、ちょっと(笑)。

畜産物と農産物は、質的に ちがうものだ

2008-05-22 | 料理
「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」という記事で、一見さんに「「人間は誰もが選択的に食事をしている。ベジタリアンもその一に過ぎない。」という主張は正しいと思いますが」というコメントをもらいました。

タカマサさんは、トラックバックの記事で(「「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…」)で、「「ベジタリアニズムは人間集団に普遍的で、むしろ これから完全に自由な存在はほとんどかんがえられない」というべきだとおもうんだね。」とコメントされています。

あと、コメント欄では、
■ただ、「ベジタリアンである程度が、それぞれ ちがう」という論理は、食文化の連続性をのべただけで、性差などとならんで、思想的に一見ラディカリズムにみえても、現実の政治性には全然影響力をもちえないかもしれないような予感がする。■はっきり境界線があるって信じている層にとっては衝撃的でも、そういった虚構にきづいている層にとっては、「みんな、それぞれ恣意的に肉食タブーをかかえている」っていう、現実的次元では、ほとんど政治性をもちえない結論と同義になりかねないからね。
というコメントや、
「みんな自由放題に肉食できているわけではなく、無自覚なタブーにとらわれている」っていう、実に正論な人類学的総括は、結果的に、「みんな人類おんなじだ」という、きわめて非政治的なメッセージと大差なくなり、逆説的に、ものすごい政治性を発揮しかねないという、不安がぬぐえないね。
というコメントをもらいました。

ここで、フレーズをならべてみたいと おもいます。
「人間は誰もが選択的に食事をしている。ベジタリアンもその一に過ぎない。」

「ベジタリアニズムは人間集団に普遍的で、むしろ これから完全に自由な存在はほとんどかんがえられない」

「みんな、それぞれ恣意的に肉食タブーをかかえている」

「みんな自由放題に肉食できているわけではなく、無自覚なタブーにとらわれている」
どれにしても、どうでも いいはなしですよね。わたしが いいたいことが、こんなことであるなら。この程度のレベルであるなら。

こんな どうでもいいことを、わたしは いちいち論じたり、あれこれ放言したりはしません。
こんなふうに解釈されてしまったという意味で、わたしは 頭が わるいのでしょう。もうちょっと、きちんと つたえていくようにしたいと おもいます。


わたしが いいたいのは、「あなたもベジタリアンになれる」ということです。そして、すでにベジタリアンであるひとが、「なんちゃってベジタリアン」とか「エセベジタリアン」と自嘲的に自称する必要なんかないということです(「なぜ「ただのベジタリアン」には なれないのか」)。

つぎのタカマサさんのコメントは、ほんとうに そのとおりだと おもいます。
■だって、言語体系の連続性=非連続性と同様、微細な差異の蓄積による決定的な断絶とか、微細な差異自体が、ものすごい政治性をおびてきたのだから。■「よくみれば、みんな大差ない」という普遍的総括は、徹底的にラディカルに追及されればいいが、中途半端におわったときに、逆に最悪の差別化装置に転化しかねない。
どういう意味でか?


「資源を消費するという意味では、農産物も畜産物も、みんな大差ない」


こういう発想を、わたしは ぶっこわしたいのです。


スーパーに いってみましょう。いろんな商品がありますね。野菜もあれば、肉もある。どれも値段が ついてますね。そうです。野菜も肉も商品です。どちらにしたって、「たべもの」という点で おなじです。

そうです。そういう発想で、わたしたちの日常は なりたっています。農産物と畜産物のあいだに、質的断絶をみいださずにいます。これが、わたしたちの「たべるということ」の、いびつな政治性です。

『世界の水危機、日本の水問題』というサイトの畜産と工業製品とバーチャルウォーターのところに ご注目ください。

バーチャルウォーターとは、仮想水と訳されます。ウィキペディア - 仮想水をご覧ください。「仮想水(かそうすい、virtual water)とは、農産物の生産に要した水の量を、農産物の輸出入に伴って売買されていると捉えたものである。ヴァーチャル・ウォーターともいう。世界的に水不足が深刻な問題となる中で、潜在的な問題をはらんでいるものとして仮想水の移動の不均衡が指摘されるようになってきた。」とあります。

ここで、「農産物」とあるのは、仮想水の議論の一部であって、工業製品や畜産物の生産に要した水の量も ふくみます。

ウィキペディア - 肉食には、
牧畜は、大量の資源を消費する。特に、直接間接を問わず水資源の消費が膨大である。例えば、小麦を1キロつくるには2トンの水が必要で、10キロの小麦から1キロの牛肉が採取できるため、牛肉1キロを生産するには20トンもの水を使用している。
と説明されています。

これは、常識的なはなしのはずです。あれだけ おおきな動物をたべるのですから、それだけの資源を消費することくらい、だれだって、おりこみずみでしょう。「そんなの しってるよ」という声が きこえてきそうです。

それでいて、それでもウシをたべるんですから、おそろしい、いびつな社会だと おもうのです。現代人の生活というのは、ほんとうに、なにに注目してみても、おそろしいものです。


ベジタリアンも肉をたべると いいましたけど、「ニワトリとかは たべないけど、ウシだけは たべるベジタリアン」というのは、あんまり いないと おもいます。

なぜって、農産物と畜産物のあいだにある断絶を意識しているからです。けっして、それを連続体とは、みなさないからです。


草をむしるようには、動物をころせないというベジタリアン。

あるいは、大量に資源を消費してしまう肉食には、制限をおきたいというベジタリアン。


どちらでも いいです。そういうベジタリアンに、なりましょうよ。

「ウシは たべない」だけでも十分です。ベジタリアンするのは、「たまに」でも いいです。「なるべく」でも、「なんちゃって」でもいいです。

農産物と畜産物を同列に とらえるのは、もう やめましょうよ。


これを いうためにでなくて、どうして、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」とか「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」とかって いう必要があるでしょうか。

わらって ころそう、ニワトリを!

2008-05-22 | 料理
高校生のとき、ある教員が矢ガモ(矢がささったカモが報道されて、「かわいそう」だと注目をあびていた)をさして、「あんなの かわいそうでも なんでもない。冷蔵庫みてみろ。死体置き場じゃないか」って いってました。だよねーと おもいました。


かんがえてみてください。

目の前に、いきたニワトリが います。さあ、ころして、たべようじゃありませんか。


そのときに、「命に感謝して」とか「ごめんなさい」とか、そういうことを いうのは やめましょうよ。

毎日さ、わらって肉をたべてるんだから、わらって ころしましょうよ。ほんと。たのしいから。これは、あてつけで いってんじゃないの。


だって、肉たべるの すきでしょう? わたしは、うほ!肉が くえる!って興奮しながら ころしますよ。わらいながらね。

いざ ころすときになって、気まずい気分になるなら、あなたは肉なんて、たいして すきじゃないんですよ。

いや、そんなことない。肉は おいしい。あなたは そう おもったに ちがいありません。ちがったら、ごめんなさいね。

けどね。だってさ。毎日さ、肉をたべててさ、「命に感謝して」とか「ごめんなさい」とか おもってないでしょ? そんなもんで いいよ。しょせんは、動物でしょ。たかが動物ですよ。

これは、皮肉では ありません。

だって、毎日たべてるじゃないですか。たかが動物だから、たべてるわけでしょ?


「ほんとうに、ごめんなさい。ご冥福をおいのりします。」とか、感じたことある? ないよ(笑)。しょせんは、動物なんですよ。


これを、ひどいはなしだなんて おもわなくて いいんですよ。


そーゆーもんだよねー。って、納得できるはなしじゃないですか。

ちがいますか? かわいそうだから肉をたべないってのは、わたしの趣味じゃない。

なぜ「ただのベジタリアン」には なれないのか

2008-05-21 | 料理
みなさん、グーグルの時間です。検索の時間です。

「ニセベジタリアン」

「エセベジタリアン」

「なんちゃってベジタリアン」

「菜食趣味」

「ちょっとだけベジタリアン」

そんなこと、いわなくて いいのに。ただのベジタリアンなのに。なんで、自分で「なんちゃって」とか、「ニセ」とか「エセ」とか いわなくちゃ いけないのでしょうね。

『わたし、菜食と出会う』という本がでているようなのですが。本の説明が。

「友人の離反、家族の反対。それでも菜食に踏み切った人々の、真の目的は何か。菜食で生きる道を模索する人々の、自己に厳しく地球にやさしい体験集。」


「それでも菜食に踏み切った」と いわせるほどのことなんですね。この社会では。


リンク:「肉食 - ウィキペディア - 肉食と環境・食料問題」

牧畜は、大量の資源を消費する。特に、直接間接を問わず水資源の消費が膨大である。例えば、小麦を1キロつくるには2トンの水が必要で、10キロの小麦から1キロの牛肉が採取できるため、牛肉1キロを生産するには20トンもの水を使用している。

実際に大規模な畜産業が発達しているアメリカでは牛肉を大量生産するために地下水を大量に使用している。オガララ帯水層はこの牛肉生産を支えるための穀物生産により急激に水位が低下している。このように肉食は環境破壊へつながる場合がある。また他国から食肉を輸入する国は、すなわち水資源を輸入しているのと同じことになるため関連がある(仮想水)。

一方、先述の様に肉を得るにはその10倍の重量の穀物が必要であり、単純に考えて肉食は直接穀物を食べるのに比べて1/10の数の人間しか養えない事になる。特に欧米の大規模畜産による穀物の大量消費は食糧問題の観点からも問題になっている。

つけたし。

「なるべくベジタリアン」

いいね。けど、「なるべくベジタリアン」だって、ただのベジタリアンだよね。ま、ともかく まえむきだから、いいと おもいます。

「ゆるベジ」

そうそう。ゆるベジも あったね。これも ただのベジタリアンなんだけどさ。

シチメンチョウ(七面鳥)は すごかった

2008-05-21 | 料理
2002年の ふゆだったでしょうか。

わたしは「ニワトリをしめる あつまりが あるんだけど、こないか?」と さそわれ、えーーー いきます!!!!と よろこんで参加したのでした。

わたしが はじめて脱肉食(ビーガン)をやっていたのが高校1年のときからで、高校3年のころからビーガンから「サカナをたべるベジタリアン」になりました。

大学に はいってからも、しばらくはサカナをたべるベジタリアンだったのですが、チューカ料理店でアルバイトをはじめてからは、肉をたべることに制限をおかない生活になりました。

あのとき、わたしが おおきく誤解していたのは、ベジタリアニズムを二者択一で とらえていたということです。べつに、毎日 肉をたべてもベジタリアニズムに矛盾しないのに。「肉食に制限をおくのは、もう やめた」。そんなふうに かんがえてしまったのです。いま ふりかえると、残念なことをしました。

なぜなら、わたしは肉に たよらない料理をつくるのが、かなり上手だからです。


はなしをもどしましょう。

わたしはベジタリアンで、鶴田静(つるた・しずか)さんの『ベジタリアンの文化誌』という本の愛読者でした。いまでは文庫版が でています。おすすめです。


この本で、死んでしまった愛犬をたべた おじさんの はなしが紹介されていて、感動して よんだのです。鶴田さんも、肯定的に紹介しているのですよ。もちろん。(追記:愛犬じゃなくて、野犬でした。「家畜を殺した野犬」をつかまえて、「その犬を食べようと決心」し、そうしたというはなしです)


肉をたべることに制限をおくのをやめても、わたしが こだわりつづけたのは、肉をたべるひとは、動物を、なんのためらいもなく ころすべきだということでした。ここに、わたしの内なる「神様やろう」な発想をみつけて、いまでは苦笑しています。

韓国に はじめていったときも、なにが たべたいと きかれて、わたしはイヌが たべたいと いったのです。だから、たべるためなら、わたしはイヌを平気で ころすことが できます。わたしにとって、イヌをたべるということは、そういうことでした。そういうこととして、イヌをたべました。


だから、ニワトリをころす機会をもらえて、たいへん感謝したのです。「まえから夢だったんですよー」と、お礼をいいました。

で、その当日、わたしは遅刻しました。

いってみたら、ほとんど おわってるのです。それでも、ておくれでは ありませんでした。わたしはニワトリを一匹ころしました。首の両側に包丁で きりこみをいれて、さかさに つるすんですね。そしたら、ばーーと血がでる。しばらく つるしておいて、それから熱湯に いれて、毛をむしる。内臓をとっておく。内臓も たべるんですよ。もちろん。

とても たのしかった。

で、シチメンチョウも のこっていたので、だれかが ころしたんですね。そしたら、血の量がニワトリより断然おおいわけですよ。あれは圧巻でした。

ぶわーーーーっと。


宮沢賢治(みやざわ・けんじ)は、つるたさんが『ベジタリアン宮沢賢治』という本をかいているように、菜食の思想をもっていました。その宮沢賢治が、「毒もみの好きな署長さん」という小説をかいていることに、わたしは ものすごく共感するのです。

署長さんは、法律で禁止されている毒もみをやってたんですね。川に毒をながして、サカナをころしてしまう毒もみを。そして、それが ばれて、署長さんが いうのです。ああ、たのしかったと。そんな短編小説です。

わたしは、いきものをころすのが だいすきです。おもしろいから。けれども、だいすきだからこそ、なるべく ころさないで いようかなと、あるとき おもうようになったのです。


ベジタリアニズムは、一枚岩では ありません。いろいろ あります。だから、ベジタリアニズムとは なにか?なんて議論は したく ありません。

わたしは、どうするのか。その主体的な一点だけ、かんがえたいと おもいます。


けれども、肉をたべるとは、どういうことなのかは、じゅうぶんに議論の意義があるはずです。

いったい、肉で腹をみたすために、どれほど ゼータクなことをしているのでしょうか。肉の値段は、もっと たかくて いいはずです。それこそ、金もちだけが たべてれば いいんです。なんで肉がファーストフードに なりえるんですか。

わたしたちは、いびつな社会をいきています。
追記:野犬をたべたはなしは、田島征三(たしま・せいぞう)『土の絵本』という本に かいてあることです。そのうち、よんでみます。かさねて、『ベジタリアンの文化誌』を、おすすめしておきます。

わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ

2008-05-19 | 料理
きのうも肉をたべたように記憶しています。けれども、わたしはベジタリアンです。

読者のみなさんも、きのうも きょうも肉をたべたかもしれませんが、ベジタリアンです。

まえに、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」という文章をかきました。

これにたいし、タカマサのきまぐれ時評2さんからトラックバックをもらいました。いまさらながら、補足をかねて、おへんじをかきます。

「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…の後半部分をとりあげます。タカマサさんは、わたしの記事に、つぎのようにコメントしています。
■たとえば、「ひとは すべて、倫理的、宗教的、健康的、体質的、味覚的な理由から たべるものをえらんでいる。すべての食材をたべるひとは どこにも いない」「人間すべての本質でもある」という記述は、人類学的には ただしい。■しかし、だったら、「ヒト=ベジタリアン」ということになってしまう。なにしろ「すべての食材をたべるひとは どこにも いない」んだし。
■でも、「ベジタリアン」というのは、限定形容詞でしょう? つまり、「全体」よりちいさな「部分」であるはず。つまり、hituziさんの立論は、「全体=部分」という、パラドクス(逆説)の言明になってしまう。■同様に、「肉をたべるベジタリアン」という表現も、論理階梯に混乱を生じさせているとおもう。「ヒト=ベジタリアン」のなかで、限定しているってことはわかるんだが、「ヒト=ベジタリアン」って素描が意味があるか、問題なんだから…。
■とするとだね。「ベジタリアニズムは人間集団に普遍的で、むしろ これから完全に自由な存在はほとんどかんがえられない」というべきだとおもうんだね。以前、ヒトはなぜペットをくわないか? みたいな、くだらん立論してよろこんでいる先生がいたが、それと全然ちがった、ふかい人類学的考察ではあるとおもう。■しかし、「ヒト=ベジタリアンであるがゆえに、差別・異端視するな」という差別論におわるとしたら、つまらない。
■もちろん、「イヌくうな」「クジラくうな」式の暴論を検討するなんて、ちいさな課題にとどまらない。■「動物性たんぱく質をこのむ人間存在ってなんだ?」「植物さえも殺生することをいやがるタブー意識ってなに?」「食糧の配分の正義はもちろん、動植物を殺生するヒトの権利はどこまでまっとうといえるか?」なんてこともふくめて、とても射程のながい提起であることは、あきらか。
「ヒト=ベジタリアン」ということになってしまって、全然いいじゃないですか。とっても いいじゃないですか。

「「ヒト=ベジタリアン」って素描が意味があるか」。あるに きまっています。なにって、政治的な意味があります。社会運動的な意味があります。「南北問題」的に意義があります。

タカマサさんは、「「ベジタリアン」というのは、限定形容詞でしょう? つまり、「全体」よりちいさな「部分」であるはず。」と いいます。

だれにとって限定形容詞なのでしょうか。「やつらにとって」なら、わたしは そんなもの気にしません。「「全体」よりちいさな「部分」」になんか させません。

野菜をたべるという点において、あるいは、あかちゃんなど、肉をたべていないという点において、わたしたちは、みんなベジタリアンです。

ベジタリアンである程度が、それぞれ ちがうということです。

わたしが問題にしたいのは、つぎのような潔癖主義です。


「肉をちょっとでも たべているならベジタリアンではない。」「その資格はない。」「そう名のるべきではない。」

とんだ たわごとです。

潔癖主義にたつことで、たくさんのベジタリアニズムを否定し、排除する。おとしめる。エリート主義です。


ははは。


うそうそ。


そうじゃない。


反ベジタリアニズムの思想の もちぬしが、ベジタリアンを限定形容詞にしてしまうのだ。なぜか。そうすることによって、ベジタリアニズムを他人ごとにしたいからです。にげたいからです。自分から、きりはなしたいからです。自分とは関係のないことにしたいからです。


きょうは、野菜をたべよう。そんなとき、あなたは すてきなベジタリアンです。

きのうは肉をたべました。それでも、あなたはベジタリアンです。


そういった ゆるい思想。ゆるい連帯。資格をとわない社会運動が必要なのです。


きょうは、これだけする。きょうは、やすむ。けれども、めざすところは、脱肉食である。野菜をたべることをたいせつにする。


わたしたちは、すでに みんなベジタリアンです。そして、思想的ベジタリアンになるならば、脱肉食に、さらに ちかづきます。わたしたちは、脱肉食に もう すでに あゆみよっています。そこを、さらに あゆみよることができるのです。

肉食の不合理を意識することによって、ベジタリアンの思想を獲得できるのです。


肉をたべるには、動物をそだてなければなりません。さて、どうやって そだてましょうか。水をあたえるだけでも、たいへんな資源を消費します。水は ただではありません。動物は、水だけでは そだちません。穀物などの野菜が必要となります。

わたしをふくむ、先進国のひとたちは(=不当にだれかに経済的に まずしい生活をおしつけているひとたち)は、あらまあ おいしそうに肉をたべます。

経済的に まずしい生活をおしつけられているひとたちは、なにをたべているでしょうか。そのひとたちの生活環境は、どのように なっているのでしょうか。


肉食は破壊だ。


おおきな動物をたべずに、ちいさな生物をたべよう。ムシを積極的にたべるのも、ベジタリアニズムです。わたしたちは、すでにベジタリアンです。そこから にげるのは、とりあえず、やめましょう。



え、なに?

いま、批判的な こえをききました。

おまえは、おまえたちは、破壊的な肉食者なのだと。

だれでしょうか。このこえは。神様?

おまえは、だまってろ! この神様やろう。

いきものを ころす

2008-04-29 | 料理
このまえ、職場のトイレにムカデが いたんですよ。まあまあ おっきいかな。10センチくらい? おおー、あぶねえ。ふんずけて ころしちゃうぜっと あしをふりあげて、まー いいや、にがしちゃえ。トイレのスリッパに はわせて手のほうに はってくるので うおとか いっぺん ほうりだしたりしながら、ともかく そとに にがしました。さようなら。

ムシにしろ、なんにしろ、こどものころ、やたらと ころしまくったので、いまさら ころしまくる気にも ならないのですよ。ヘビとかカエルとかコオロギとか、いっぱい ころしました。チーン。


きょうは流しで食器とか ちょっと あらってたら スポンジに ちっこいムカデが ひそんでいたらしく、ちょろちょろ はってるんですよ。ばしゃばしゃ水かけたりしながら、んー、どうしようかな。めんどくせえ(笑)と、ふんずけて ころしました。チーン。


だから どうしたというはなしでもなく。小学校のころ、家まで40分以上は あるかないといけなかったので、よく かえりに あそんでたんですよ。田んぼや川で。カエルつかまえるばっかりして、スズメバチふんずけて ころしたり、ヘビみつけたら みんなで石なげて こっぴどく ころしたり。


ころしあきてみようか。それで博愛の精神を発揮しようか。

それとも、もっと、俗悪になろうか。


どっちでも いいと おもってる。


けど、おとなになってからは ともかく、あんまり ころさなくなった。部屋にクモが いても、あ、クモだ。おわり。

いるに きまってるもの。


まえから おもってんだけどね、自然とか いうけど、そういうもんは、どこかに うつくしい自然があって、そこに いってこそ「いやされる」、「すがすがしい」気分になるってのは、どうも おかしいと おもうわけです。アスファルトに、草が ちろっと はえてて、そこに自然を感じる、自然をみいだす、というのが、わたしは だいじだと おもうのですよ。

べっつにアスファルトが すばらしいものだとは おもいませんよ。けれども、自然なんてものは、そのへんに ころがっているわけで、そのへんの どうでもいいもののなかに なにか感じるものが なければ、つまらないと おもうのです。


いきものをころすのは、基本的に すきです。たのしいから。

けど、べつに必要以上に ころすのも あきましたね。

もっといえば、ころす必要をうみだしつづけるのも、あきてみましょうか。


肉なんて たべなくても いきていけます。肉をたべるのは、ただのゼータクです。穀物を大量に消費しないと維持していけないゼータクです。


いきものをころすのは、たのしいことです。だから、みなさん、もっと ころしてみてください。ほんと。うそじゃない。ニワトリをころすの、めっちゃ たのしかったですよ。血が いっぱい でてさあ。シマヘビの皮をはいで さばいて たべるのも めっちゃ たのしかったですよ。うそじゃありません。

もっと ころしてみながら、同時に、肉をたべるのをやめていきませんか。やめてみませんか。

ひとは みんな俗悪なんだから、俗悪な どろどろをキープしたままで、ちょっとしたところでバランスをとってみても、それはそれで いいじゃないですか。


動物をころしてみよう。

そして、肉をたべるのをやめてみよう。

ムシだのヘビだの、あんなもん、いくら ころしたって、たいしたことは ないんですよ。けど、ウシみたいな でっかい動物をたべるのは、あまりに効率が わるいんですよ。

人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ

2008-02-15 | 料理
肉をたべるベジタリアンというフレーズに奇妙な印象をもったひとは いませんか? いないことをねがっているのですが、いたとしたら、あなたは、いま わたしに ぶっこわされます。きのうとは ちがう自分に なっていただきます。


ベジタリアンを菜食主義者ということがあるが、これは単純な翻訳の問題ではない。それぞれ微妙に ちがった定義である。

ベジタリアンとは、なんらかのかたちで肉食に制限をおいているひとのことである。英語で「まったく肉をたべないひと」は、ビーガンという。ベジタリアンには いろいろと類型があって、サカナは たべるベジタリアンとか、トリ肉は たべるベジタリアンなどがいる。

菜食主義といってしまうと、肉食を完全に拒否しているひとというふうに感じられてしまう。だから、菜食主義者はベジタリアンの一部をさす表現であるとはいえるけれども、ベジタリアンの全体をよびならわす表現には なりえない。ベジタリアンも肉をたべるのだ。肉を まったく たべないベジタリアンもいるということなのだ。

なぜ肉をたべないか。それは、倫理的、宗教的、健康的、体質的、味覚的な理由から、ある肉や あらゆる肉をたべないことにしているのだ。それがベジタリアンの実態である。


そして!

人間すべての本質でもある。

つまり、ひとは すべて、倫理的、宗教的、健康的、体質的、味覚的な理由から たべるものをえらんでいる。すべての食材をたべるひとは どこにも いないのだ。

もし、紙をたべているひとが いるとして、そして、紙には栄養分が ふくまれているとして、あるいは空腹が みたされるとすれば、紙もまた食材になる。その要領で あれやこれやを食料ということにしてみよう。そうすれば、人間が たべているものなど、ほんとうに選択的で、ごく一部だけであることが実感できるだろう。

肉をたべないのは、やせがまんだとか、不幸だとか いうのならば、ヘビやカエルやネズミやミミズやスズメバチをたべない自分の食生活をふりかえってみることだ。

食材は ほら! あれもこれも、ほら! すごいよ、ほら!

たべようよ!!!!

ベジタリアンは なにも特別なひとたちではない。あきらかに人間の本質の延長線上にいる。どこにでもいる、そのへんの ひとたちである。肉をたべるベジタリアンは矛盾じゃない。ベジタリアンは、人間そのものだ。


えーっと、このように かくと、逆にベジタリアンが特殊なひとたちかのような印象をあたえてしまうんじゃないかという危惧をもっちゃったのは、わたしだけでしょうか。おかしいな。そういうつもりじゃないんだけど。ま、いいや。ゆるせ。

ちなみに わたしは高校生のころベジタリアンでしたよ。

「にぎりずし」なんだから

2007-08-03 | 料理
先日、仕事まえに どこかで たべようと店をさがしていたのだが、不本意ながら回転ずしへ。カツ丼かラーメンが たべたかったのだが。

ひと皿 105円ってやつだった。たべはじめて すぐ気になったのは、サカナとごはん(シャリ)が一体化してないってこと。ただ のっけてるだけのような、そんなかんじ。これだから やすいところは…と おもったのだが。いやね、すごいわ。

つくってるところをみてみると、シャリは機械で つくってる。それはね、べつにいいよ。けど、それにサシミをぺろん、ぺろんと「のっけてる」のをみたときは…、あぜんとしたね。おい、まてよと。それは さすがに ないだろと。すしでも なんでもねーじゃねーかと。にぎって なんぼなんだよ、にぎりずしは。

おしずしだって、おしてなんぼなんだよ。いやあ、NHKだったかな。テレビでみた うけうりですけれどもね。にぎるのが大事ってのは。

ひどいよ。のせるだけなんて。低コストにするためには、そうなるんだろうけど、まがいもんには ちがいない。形骸化ってやつだな。もう食文化なんて、すたれるだけなんだ。うまいもんは、自分で つくるしかないんだ。と、おもいました。

夜に、どうしても確認してみたくて ほかの回転ずしに いってみました。ひと皿150円から200円ちょいの店。ちゃんと にぎってた。けど、べつに おいしくはない。あーあ。

資本も味も重要で

2007-07-23 | 料理
近所にできたイタメシ屋にいってきた。スパイといっしょにいったので、だれだれがオーナーで どのひとが店長なのかが わかってよかった。

内装は すばらしい。こんなとこで仕事したかったと おもった。ドリンクバーのかんじも よろしかった。

値段は たかいね。デザートつきのをえらんだよ。スープぬるいぜ。サラダは たんまり豪華だったぜ。サラダとほぼ同時にパスタが きちゃったぜ。いそがしいときは、そういうこともあるわけだが、気をつけてほしいでつ。生麺のパスタ屋が けっこう人気のようだが、よくわかんねーや。乾麺のプリプリで歯ごたえあるのが いいんじゃねーか。うどんだってそーだぜ。乾燥の手延べ麺って めっさ うまいんだぞ。保存だってきくんだぜ。

まあ、今度くるときは麺をかためにしてもらおう。ボロネーゼにしたのだが、ランチ用なので こんなもんですよ、ゼータクいわないでくださいね、こってりじゃなくて あっさり味ですよ、ご了承くださいまし、という感じの味。

で、ピザは まってくださいと いっておいたのだが…。店長が つくったわりには、やきかげんが微妙。下が やけてないんだよ、確認してねーのか。まきの火加減だいじょうぶか、味も酸味ばっかり きついんだよ、石窯の床をちゃんと ふいてないから 黒い すすが いっぱい裏についてんじゃねーか、ピザの生地自体に味が ないやんって感じ。ピザって むずかしいよねえと あらためて おもう。いつもピザをたべるときは とりあえずマルゲリータをためすってのが定番になってるが、ろくなマルゲリータにありつけたことがない。今回のは、石窯ピザの店としては最低。デザートは よかったよ。タルトはべつに おいしいとまでは おもわなかったけど、あんなもんじゃないでしょか。スパイとは、もう きたくないなと確認しあって店をさった。

わたしに料理の指導をしてくれたひとが洋食屋をひらいたので、そちらに期待しておこう。いっぺん顔をみせにいったが、なかなかよい内装だった。

飲食店は、たいへんに むずかしい。もうかる店なんて、なかなか つくれない。でもなんで、ひとは料理人になろうとするのだろう。店をひらこうとするのだろう。わたしの近所は、はかない夢の展示場のようだ。すぐに つぶれてしまうから。そして、また あらたな夢が。はかない。はかないゲームだよ。まあさ、つよいのは麺屋じゃなくて、ごはんものの店だよ。これは、はっきりしてる。まちがっても、麺類の店をだすもんじゃないよ。あんたの料理なんて、たかが しれてるんだ。そんなふうに、つぶれそうな近所のラーメン屋をみていて感じる。もう つぶれたのかもしれない。

きょうはチューカ料理屋にいったのだが、これがよかった。タンタン麺にパージャオ(八角)をしっかりつかってたりして、妥協してなかったのが好印象。日本ではあまり つかわれてない香辛料だからダメなひとも おおいかと おもうのだけどね。マーボー豆腐も安心の味。ま、いったのも3回目だし。

わたしゃ魚料理をひきつづき練習するぜ。

業務用食材店

2007-07-13 | 料理
うほ! 雨ふってんのに業務用の食材うってる店に いってきたよ。なにこれ、宝の山だぜ。

バリラ(Barilla)のスパゲティ5キロ。ちょっと たかいが、バリラは やっぱり うまいので。

◆板ゼラチン300グラム。これが ほしかった! スーパーに うってるゼラチンは、どうしようもないほど すくない量。ままごとに つかえというのかってほど すくない。300グラムあれば、なんでも できますぜ。へへ。

◆バルサミコ酢。これは まあ、ちょっと おっきいスーパーで うってるけどね。

◆重曹。これも どこでも うってるけどね。まあ、いま話題の万能生活用品。

ギャバンの あらびき黒こしょう。たしかこれは、けっこう あらびきだったはず。こしょうずきには たまらないぜ。

◆いつもつかってる紙パックの白ワイン2リットル。800円くらいなのだが、料理に つかうぶんには全然いい。

◆ほしかったけど うってなかったのは、サーレ・インテグラーレというイタリアの塩。これは、ほんとうに うまい。1キロが400円弱だから、やすいよねえ。ウェブ通販で かうことにしよう。

◆ほしかったけど、かわなかったのはモッツアレラチーズ。100グラムで300円ほど。牛乳じゃなくて ちゃんと水牛で つくったモッツアレラって たべてみたいな。

もうすぐ近所にイタメシ屋が できるよ。うまい店であっておくれよ。なんちゃってベジタリアン生活を満喫中ではあるが、ボロネーゼが くいたい。

きのうは下津井(しもつい)産のイイダコで和風冷製スパゲティをつくった。
2年以上も世話になった店が なくなってしまうと、かえるところをひとつ うしなったような気分になる。だから、あたらしい店は、おいしい店であってほしい。だれも しってるひとのいない店では あっても、そこは わたしが汗水をながした空間なのだから。

山口のチューカ料理屋では4年ものあいだ お世話になったが、いつまでも ずっと、そこに いてほしいものだ。

サワラ

2007-07-09 | 料理
岡山人(おかやまじん)はサワラが だいすき。年がら年中、サカナといえばサワラなのであります。サワラのさしみをたべるのは岡山人くらいだというはなしも あります。なぜだ。なぜ くわない。→いたむのが はやいそうだ。

日本全国で とれたサワラのほとんどを岡山人が たべているというはなしまであります。で、いま「サワラの消費量」でググったわけですよ。

そしたら、平成18年8月30日発行の毎日新聞に「サワラの消費量本当に日本一?」の記事が紹介されました。という新聞記事を紹介するページが でてきた。これは爆笑ものだ。みだしを紹介すると、「"出典"は新聞コラム」「根拠オフ名のまま一人歩き」「ミスター・サワラ「感覚的には一番」」。ちょっ(笑)。

ミスター・サワラの写真のよこに、「消費量は調べようがない」というミスターのコメントが紹介されている。

たしかに(笑)。そして、「感覚的には一番」というのに、くっだらないほどに納得できてしまう。

サワラは岡山人が「さわらじゃ、さわらじゃ」と よろこぶために この世に存在するのでありますから、どうか、そっとしておいてください。はあと。

さっきも たべたんだが、サワラとキノコをいためて、バターと しょうゆ、塩、砂糖などで味つけ。うまい。

やせた/魚料理

2007-07-06 | 料理
韓国にいたとき、体重がピークでして あんときが84キロ。日本に かえってきて1年くらいで74までは おちたのだが、そこでキープしてた。4月から たべる量が へったので、ささっと やせちゃった。69キロ。身長が185なので、ちょっと ほそいかな。

大学生のときが64キロとかだったから、いまが ちょうど いいのかも。むかしは図書館などにいると、もう たちくらみしまくって あぶなかったのだが、最近ちょっと ぶりかえしてきた。朝ごはんをちょっと たくさん たべよかな。

高校1年のとき177センチほどの身長で48キロだったから、かなり いっちゃってました。

昼ごはん、どうしようかねえ。弁当をかって たべる気には なかなか ならず、おにぎりとパンなどで すませてしまう。朝イチで弁当を自作するのは さすがに無理なので、前日の晩ごはんを弁当にしてるが、最近は外食が ふえてしまって、なかなか つくれない。だが、最近は魚料理をいっぱいマスターする気で満々なので、時間さえあれば料理に いそしもう。
バターをつかった魚料理

魚を油でパリッと やいて、そのフライパンで野菜をバターと白ワインで いためて、につめる。粒マスタードをくわえたり、くわえなかったり。ちゃんと うまみのある塩をつかう。魚は、野菜といっしょに火をとおしても いいし、魚だけ とりだしてオーブンで火をとおしてもいい。ともかく、野菜を皿のまんなかに あしらい、そのうえに魚をのっけて、フライパンに のこったソースをまわしかける。なんか葉っぱをかざってみたり。

いっておくが、まじで うまい。粒マスタードのかわりに、生クリームでソースをつくっても よかろう。野菜は、タマネギ、ブロッコリー、パプリカ、アスパラガス、セロリ、小松菜、トマト。そのへんで どうだ。あれこれ くみあわせてみるべし。

アボガドをつかうと、みためは あんまり よろしくないが、ほんまに うまい。うれすぎていない、ちょっと かためのアボガドにするべし。料理人生が かわるであろう。

魚のアラ

2007-06-28 | 料理
ハマチのアラをやすくかって、煮物にした。

にぼし、昆布、干しシイタケ、カボチャ、サトイモ、ジャガイモ、白ネギ、チンゲンサイ。塩、砂糖、みそ、しょうゆ、タカノツメ、粒マスタードとかで味つけ。うまい。

イカに 片栗粉と卵白、塩をまぶして油で いため、別のフライパンで タカノツメ、ショウガ、カシューナッツ、タマネギをいため、白ワインをぶっかける。生のトマトひとつとトマトジュース、水をいれて につめ、塩あじをつけてソースを完成させる。そのなかにイカをまぜて なじませる。うまいな。

最近ちょっと脱肉食ムードにいる。とくに理由はないのだが、べつに くわないでも こまらないというわけで。ムードにいる=実践しているってわけではありません。ともかく、魚料理が上手になれば こわいものなしだわな。

やすく うってる「アラ」で なんでも うまいものをつくれるようになれば、いうことなしじゃあ あーりませんか。

「かわいそう」のバランス

2007-04-14 | 料理
とある掲示板で議論したことをちょっと修正して転載しますとですね。

「わたしたち」は教育やメディアによって動物をころすのは「かわいそう」といった意識ができあがってしまっています。ですが、おさないころからトサツが身近であれば、そのようには感じないでしょう。世界に目をやれば、現実はそうです。ですが都市化がすすんだ日本では どうしてもトサツは「とおいところ」にある(屠場[とじょう]の立地も!)。そして「食肉産業従事者=被差別出身、だから両者を差別する」という図式が固定されたままになる。
要するに、屠場を公開することは「トサツをみせるだけ」では おわらない。差別をする側にとっては、差別の対象がチンレツされている状態でもある。

「わたしは差別者ではない」ということを根拠に、全面公開してほしいというのは、ちょっと無責任だということです。

屠場をタブーにしてしまえば、差別が強化されてしまうのも たしかです。ですが、なぜ屠場がタブーになってしまっているのかの根源は、被差別者や屠場労働者には ありません。

反差別だけでなく、動物をころすのは「かわいそう」という、あまっちょろい発想をひっくりかえすような教育や報道も必要ではないかと おもいます。そのながれにおいてこそ、屠場を公開する意義がでてくるのであって、動物福祉というきりくち「だけ」から屠場の公開を論じるのはバランスがとれていないし、弊害をふくんでしまうということです。
文脈が ぱっと つたわらないかもなので、さらに文章をかきたします。

肉をたべるなら、動物をころさねばならない。だが、わたしたちは、血をみることなくパックにつめられた「商品」を調理するだけで、そこに、血のにおいはない。「商品」が つくられる過程なら、たとえばパン工場の見学がある。わたしも いったことがある。パン工場の様子がテレビで紹介されることもある。だが、屠場は そうではない。

バーナード・ショーが つぎのように いっているそうだ。「傲慢なアメリカ国民は……黒人に自分の靴をみがかせ、次に彼が靴みがきだという事実によって黒人の劣等生を証明する」(マーティン・ガードナー『奇妙な論理1』)。

差別者にとって「都合のよい堂々めぐり」である。

動物をころすのは「かわいそう」という発想は、いったん完全に なくしまう必要があるのではないか。すくなくとも、かわいそうという気もちを「もってしまわないように」したい。とはいえ、都市化された日本では、こんなはなしは机上の空論のような気がしてしまう。一度めばえた感情は、すぐにすぐ かわるものではない。だが、じっさいにニワトリをつぶす経験をもつことで、平気になるひとも いるわけで、ひとは そこまでに固定的なわけでもない。けれども、大多数をかんがえるとき、むずかしいものを感じる。よく指摘されるように、そんなに「かわる」のが かんたんならば、とっくに社会は かわっているのだから。

それでも、「だからやるんだ」と、「かわいそうじゃねーよ」と いってみないといけない。「かわいそう」を否定してしまったあとに、あらためて「かわいそう」は なりたつ。バランスをとるために、「かわいそう」を否定するのだ。ひとの感情を支配したり、固定するためではない。わたしたちの感情を支配している社会の現実を改善するためなのである。