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いま、そのとき、かんがえつつあること。

文脈が ちがう

2007-05-30 | ことば
文脈が ちがうってことをついつい無視して、安易な比較や批判をしてしまうってことをかこうとしたんだが。

こないだ かいた「映画『陽のあたる場所から』」の内容が自分で気になってしまっていたので、それをかいておく。

映画のセリフの「僕は理解するより生きるのを手伝おうと思う」ってのと、わたしの先輩が いった「世話をするのは簡単だ」ってのは、ぜんぜん文脈が ちがうんだよね。それをわかっていながら、かいてしまった。結局、居心地のわるさを感じることになった。けれど、かかないことには なにも はじまらないので、かいてよかったと おもっている。

文脈が ちがうってのは、すべて そうなのですわ。わたしたちが だれかに忠告だのアドバイスだの助言だの いえてしまうのは、そういう文脈を無視してのことなのですよ。だって、そのひとの人生なんて しらないもの。内面なんて わからないもの。あたしの人生と あなたの人生は ちがうんですもの。

たとえば、あるひとに いわれて うれしかったことをだれかに いいますよね? ありがちでしょ。それって、そのひとが「わたし」に いってくれたのは、いろんな背景があるわけですわ。おたがいの関係もあれば、気分もあれば、わたしの状態もあれば。二番煎じで それを流用するなら、そういう文脈は全部ちがっているわけですから、その効果も ちがってきますね。そもそも話術も ちがいますわね。でも、いってみないと わからないことがある。

民主主義はどうだとか、だめだとか、必要だとか、なんだとか。そういう いろんなはなしが あるわけですけど、それも全部ね、文脈が ちがうはなしなので、なにが どういう意味で「民主主義」であるとされ、どういう理由で いいとか だめだとかという議論になるのかをとりあげないと いけないのですよね。

年配からの助言ってやつが うっとおしいのは、おまえは「わたし」をいきてないからなのよ。おまえなんかと人生を共有してないからなのですよ。時代が ちがうんだよ、時代が。おまえが いきてきたぶんをあたしは しらないかもしれないが、あたしが「はじめてみた世界」をおまえは、なにも しらないんだよ。


たとえばだ。なんで このひとは、オトコであるらしいのに「あたし、あたし」と かいてるんだろう、なんて おもうひとも いるわけなのですよ。意図をしらないから。わからないから。なにより、わたしをしらないから。まー、「いろんな意味で そういうキャラ」なのだろうと感じさせるだけの文章にしているつもりではいるが、そんなもん通じるとは かぎらない。ここに かいている「おまえ」は特定のだれかなのか、どうなのかってのも、わかりようがない。わたしはただ、「あなたと わたし」というふうに かくのが すきってだけなのだが、こういう文章をかいていて おもわず頭にうかぶ「むかつく だれか」が いないとも断言できない。そんなものでしょ?

つらづらと かいてみた。きょうは、そういう日なのだろう。そういうことにする。ちなみに機嫌は すごくいい。

語用論の意義

2007-05-30 | ことば
おもいついたままに かく。

最近の言語学のテキストには たいてい語用論について一章もうけられている。語用論は要するに、ことばの意味は じっさいの発話が なされる状況や相互作用によって つくりだされるという着想による発話やその意味の研究だ。

語用論をやるには、社会的文脈を無視するわけには いかないので、語用論を言語学の一分野とかかげる以上、社会なき言語学は成立しえない。もちろん、語用論を無視したところで社会を射程にいれない言語学は限定された問いを発することしかできず、その こたえも おのずと限定されたものになり、結局のところ言語学とは社会言語学のことだ(ラボフや田中克彦=たなか・かつひこの主張)。それは、語用論を例にあげなくとも おなじことだ。

「そんなの全体主義じゃないか!」という、ひとことを例にあげよう。そのひとが どのようなものを全体主義と とらえているのかが不明であれば、なんのことやら わからない。その社会で全体主義がどのように とらえられているのかも しる必要がある。そのまえに、どのような会話がされていたのかも おとせない情報だ。なにより、全体主義にたいして、どのような評価をあたえているのかが重要になる。一見なにか否定的に とらえているようには推測されるが、かならずそうだとも断言できない。

たとえば敬語論をやるさいに社会論ぬきには やれないのは当然のことだが、「そうなると もはやそれは「言語学ではない」」なんてのは まちがいだ。それは語用論の範囲で できることだ。社会のありかたをきっちりと研究することなしに語用論の意義などない。それでは従来の意味論に毛が はえただけのものになってしまう。

「社会言語学」を自称することの利点は、研究の自由度が保障されることにある。従来のいわゆる言語学にとどまらない言語現象の研究を「社会」という おおきな観点から せまる。そういう共通認識があれば すむからだ。社会なき言語学を「ゆるしてあげる」ために社会言語学をやるのではないし、言語学は社会をとりあげないからだめなんだと固定観念で きめつけて、社会言語学の優位をとなえるためではない。

日本の社会言語学は語用論をないがしろにしてはいないか。語用論をふまえた議論の仕方が できていないのではないか。そんなことを念頭において、社会言語学をふりかえってみるのも いいかもしれない。

てゆーかだ。権力という観点をきりおとした社会言語学が おおすぎるのですよ。力関係をとりあげない敬語論って でまかせですやね。

語用論で論文検索してみたけど、おっと感じるようなのはないね。じっくり さがさないと だめみたい。

『現代のエスプリ 臨床の語用論1』『現代のエスプリ 臨床の語用論2』は かってみようかな。

ネットワーク力

2007-05-28 | ブログ
ねっとわーく-りょく。便利な人脈をかかえて、より人生をたのしむことができること。

「なんとか りょく」てのが流行中なのですね。なんとでも いえるので便利だということなんでしょけど、そのぶん安易なもんですやね。どうでも いい内容というか。けど、だれでも かんたんにキャッチフレーズが つくれるってことで、ま、どうでもいいけど、ゆるす。

はてなダイアリー界隈で人気を博していたkmizusawaさんですが、kmizusawaさんのネットワーク力って すごいなと感じています。はてなのシステムがまあ、ネットワークをつくりあげるのに よくできてるというのも あるんですが、情報をあつめ、時事的なニュースや話題を論じ、またそれが さらなる議論に発展しと。情報をあつめたり、なにかを論じたりってのは まあ、いろんな ひとがしてますけれど、人気をあつめるのは、だれでも できることじゃあ ありません。

kmizusawaの日記 - 考えてみれば

一度だけ、うえの記事にコメントしたことが あるのです。とても印象的だったし、kmizusawaさん「らしい」内容だったように おもいます。

これ以来、何度かkmizusawaのブックマークにてブックマークしていただきました(このブログのはてなブックマーク)

なにが かきたかったのだっけ。

ひとつは、なんとか力の あふれかえりぶりに追従してみるぜってのと、最近アクセス数が それなりには ふえてきたので、なんか あんま ちゃんと かけてないので ごめんなさいってのと、なんだろう。まー、ちゃらんぽらんで いこうって、そゆことかな。

最近、なんだか人生をたのしみすぎていて、あんまり文章をかいて ぶつけたいようなことが ありませんね。

こないだ、「ほんとうの わたし」に かいたことを居酒屋で熱弁しようとしたのに、うまく いえなかったのに つけくわえ、あんまり うけなかった…。一対一で うまいこと はなせるように 話術をみにつけたいなと おもいました。まる。

ひとが複数いるなかでは埋没するのが わたくしでございますよ。あなたも そうじゃあ ありませんか? たいていのひとは、そうなんだろうなと推測している。人間なんて、あんま かわらないんだよ結局。みんな、自分が やっていることに自信がもてなくて、でも だれかには「それでいいのよ」って いわれたくて、日々をすごしているのさよ。あたしは、人生をまじめに かんがえていないので、自信満々なのですがね。べっつに くるしむために うまれてきたんじゃねーしさ。なんか しらないけど いま なぜか ここにいて、仕事したり、あそんだり。むかついたり、かなしんだり。あれやこれやでバランスとってるだけさね。

かきちらして おわり。

だって、こういう どうでもいいことをかいておけば、この文章が めだってしまわないように、ものすごい いきおいで、あれこれ かきたくなるんだもの。自分をせかす方法は、いろいろあるものよ。こっぱずかしいことを、もっと しなくちゃなのよ。

映画『陽のあたる場所から』

2007-05-25 | 映画
しずかに淡々と ながれる映画。なにか劇的な変化が おとずれるわけでもなく、みるものに、ぼんやりと印象をのこす。

フランスの精神病院。新人の精神科医コーラ。ひとりの謎めいた患者ロア。一言も はなしをしない。彼女のことをもっとしりたい、わかりあいたいと ねがうコーラ。仲よくなれたような気がしたころ、ある日 やすみあけに病院にいくと、ロアのすがたはなく、退院したという。アイスランド人だったことが わかり、家に かえったのだと。あっさりと退院して すがたをけしたことに じゃっかんの失望感をいだき、アイスランドへ。

わたしはロアのことを理解できた、もうすこしで はなすようになりそうだ、治療が必要なんだと かんがえるコーラ。いきごむ すがたは新人ならではのものだ。

ロアをおさないころから しっている島の医者は、「僕は理解するより生きるのを手伝おうと思う」という。印象的な ことばだ。

わたしたちは しばしば、イチかゼロかで かんがえてしまう。ちょっとしたことで まいあがり、そのあと ふとしたことで がっかりする。恋愛は もちろんのこと、おもわず緊張したり、どきどきしたり、気になってしまう相手のことであれば、そのように一喜一憂してしまうものだ。

イチかと おもえば、ゼロのようで、ゼロなのかと失望すれば、そうでもないようだと。

だが、ひとつ教訓としてあるのは、「生きるのを手伝う」のは、じつは かんたんなことだということだ。もちろん、たとえば こそだてをしているひとは、そんなふうに やすやすと いってくれるなと感じるだろう。もちろん そうなのであるが、わたしの尊敬する先輩は、「世話をするのは簡単なんよね」と、さらりと おしえてくれた。本人の意志を尊重せずに、「やってあげてしまう」のは かんたんだという意味だ。

わたしたちは、なにかをみきわめようと つとめる必要に でくわす。理解を最前提におかずとも、わかろうとすることをあきらめてはいけないときもある。そして、理解をもとめるあまりに、本質をみうしなうときもある。そのバランスが だいじなのだ。


コーラは、がっかりして すぐに帰国しようとしたが、天候が あれて船がでない。それで結果として、ふるさとの島で生活するロアのすがたをみることができた。これが だいじなのだ。「病院のあなた」だけをみて、「あなた」を理解するなんてことは、ありえないからだ。

わたしたちは、奇跡をゆめみることをやめられない。奇跡をのぞむことは、ある点で残酷である。「そのままの あなた」をみとめないということなのだから。けれども、「ちがった あなた」も ありうるのだと想像してみるのをやめてしまうなら、それも残酷ではないか。つまり、そこで なにかが おわってしまうのではないか。

どこにも回答はないのだし、奇跡は じっさい おこらない。けれども、想像力の部分で、関係性のありかたにおいて、なんらかの変化を目標にしてみる意義はある。

パソコンで音楽をきく

2007-05-21 | ブログ
パソコンで音楽をきいてるとCDの存在価値は あんまり なくなるというはなし。

わたくし、インテルiMacをつかってるのですけどね。iTunesに音楽をとりこむわけです。CDからね。そしたら、もう保存されるわけで、CDの存在価値って なんなんだろうと。歌詞カードだけかいな、みたいな。「F12」をおせば、ダッシュボードが ひらくんだけども、そしたらフリーソフトのTunes TEXTが自動的に歌詞を検索して みつけてきて、表示してくれるわけなのよ。検索で でてこなかった曲は、自分で入力したり、コピペしたりして保存できるわけで。そしたら歌詞カードも あんま意味ないやん。てか、ボタンひとつで歌詞が みれるほうが よっぽど便利なわけで。歌手の写真とか、だれが編曲したんだとか、この曲でギターをひいてるのは だれかとか、そんな情報をえるためにしかCDをかう意義は なくなってしまっている。iTunes Storeで有名どころの曲は かえるしね。

パソコンで音楽をきくなら、ノイズの問題がでてくる。イヤホンをパソコンに直接さして音楽をきいてたら、パソコン自体から生じるノイズも音楽といっしょに きこえてしまうわけで。これは うっとおしい。で、音楽だけを外部のスピーカーに とばすのがAirMac ExpressのAirTunes機能。10年以上まえに かったミニコンポに つなげてるのだけど、まあ わるくない。ちなみにミニコンポのCDプレイヤーは とっくの むかしに再生不能になっていた。おお。かんがえてみればゴミが復活したようなものだわ。

CDの全曲をパソコンにいれるわけじゃないので、CDはCDで必要なのだけども。たまには ききたくなる曲もあるわけで。でもそれも容量のでかいハードディスクをかってしまえば すむことだしなあ。

と、そんなことをかんがえながら中古のCDを4枚かってきた。

◇小谷美紗子(おだに・みさこ)『うたき』。
◇コッコ(Cocco)『ブーゲンビリア』。
◇チャウリム(Jaurim)『Jaurim』。
◇ストローブス(Strawbs)『プリンス&プリンセス』。

死にたくなるような くらーい曲の はいったCDが ほしかったんだが、あんまないな。韓国のチャウリムって日本デビューしてたのね。日本版のサンプルCDでした。ストローブスは はじめて。70年代のブリティッシュ・ロック。フォークっぽいかんじとプログレ風味が いいかんじ。あんまCDもってないけど、コッコは いいやね。

しんみりと、たゆたうような音楽がすきだ。

(※iTunesもAirMacもウィンドウズにも対応してるので、べつにマックにしかできないことじゃないです。ちなみに、めざましもiTunes。これもフリーソフトをつかう。)

映画『トンマッコルにようこそ』

2007-05-17 | 映画
するすると なけてしまって、いけませんね。

朝鮮戦争の さなかに、北の兵士3人と南の兵士ふたり、連合軍のアメリカ兵ひとりが幻想的な村に たどりつき、みんな仲よくなりました。けど、連合軍が せめてくるもんだから、村が爆撃されないように南北の「連合軍」で たたかいました、というはなし。

音楽が久石譲(ひさいし・じょう)で、村の えがきかたが宮崎駿(みやざき・はやお)チックなので、宮崎アニメの実写版みたいな おもむき。音楽は、最初のへんは よかったのだけど、だんだん わずらわしく感じた。うるさいんですよ(笑)。音量の問題じゃなくてね。映画音楽は ひかえめなのが すきだわ。久石譲は、『キッズ・リターン』とか よかったけれども。

ポップコーンの雪のシーン、でっかいイノシシに おそわれて、みんなで撃退するシーンとか、おまつりさわぎのところなど、いろんなところで ないてしまった。

おまつりさわぎをみて、アメリカ人は「みんなたのしそうだね。これが人生ってもんよね」と つぶやく。村長が、村を平和におさめるのは たらふく くわせることだという。なんてことないんだが、なかなか いいわ。

民間人をころすのも いとわないという戦争の状況と、どこにも ありえない理想郷の村の対比。現実と幻想をてらしあわせることで、映画は観客に うったえかける。

戦争と平和をえがいた映画ではあるけれども、異文化の であいをテーマにしているとも いえる。

イメージとしての「アカ」って、いったい なんだったのかということをといなおすには よわい。けれどもまあ、これはこれで いいのかもね。映像が うつくしすぎて、『ラスト・サムライ』をおもいだしてしまったけれども。いちお撮影場所はカンウォンドだったそうだ。あんな きれいなところがあるのねえ。

音楽は、ユジョンゴバンドにすれば よかったのじゃないかと、いまユジョンゴをききながら、これまた ありえないことをかんがえる。

日常のなかで

2007-05-15 | ブログ
去年まで仕事をしていた職場が今月いっぱいで なくなるということで、ここのところ何度か おじゃましている。

もう5月になるわけだが、この半年は めまぐるしかったものですわ。そうこうしているうちに、6月になるわけで、2007年も半分のところに さしかかっている。

ゆーうつに なりかけだった日々も すぎさり、爆笑の毎日をおくっている。ひとづきあいも、以前よりは ふえた。よかったよかった。

きょうは仕事中にゴジラの絵をかいていた。あまりの へたっぷりに自分で わらっていたのだが、まー絵をかくのも たのしいかもしれん。えんぴつで てきとーに。なんか あらたな趣味でも つくろうかなとも おもう、きょうこのごろ。
あんまり まじめにやっていると、息ぎれがしてしまう。どうでもいいことを、どんどん はきだしていいんじゃないかと おもっている。日常のなかで わたしたちは ものごとをかんがえていて、どれをさらすことにしようとも、結局のところ、どうでもいいことや どうでもいい妄想の つみかさねの うえに、じっくり かんがえるという作業が なりたっている。じっくりであっても そうでなくても、ともかく、ささいなことで日常は うめつくされていて、どうでもいい日常のなかに、わたしたちは なにかを みつけているのじゃないかしら。ことばにする なにかを。はきだし、ころがし、ながめてみる なにかを。

映画『ゆれる』

2007-05-09 | 映画
これは、やばい。期待以上だった。

いやー、かなり ねむいので、きょうは ねてしまおうかとも おもったのですが、みてしまったわけですよ。ぐいぐい ひっぱられる。オダギリ ジョーと香川照之(かがわ・てるゆき)が でてるわけですよ。主演が このふたりなわけよ。

香川照之って、あれですよ。まだ みてないけど『鬼が来た!』とかに でてて、最近すごい役者ということで ひそかな注目をあびてる人ですよ。いや、まえから有名人なんだけど、再注目をあびているというか。

イナカをでた弟(オダギリ)と、のこって実家のガソリンスタンドで仕事をしつづけてきた兄(カガワ)。横柄な自由人の弟と、いつも頭をさげてばかりの「人生のクサリ」に とらわれた兄。その対決、さしむかいとなるわけでしてね。兄が殺人の うたがいで拘束され、裁判をうける。塀の中に はいって、はじめて自由になる兄。おいつめられる弟。

かなりのハラハラドキドキ。

都会というのは、「だれも わたしの名前をしらない」ところなわけでしてね。それは自由であるわけで。イナカは そうじゃない。

感情労働のため息というものも、なんだか胸がつまりますね。頭をさげつづけるサービス業というものの、とてつもないストレスをあらためて感じた。そういう「役まわり」というのも あるしね。家族のなかで、職場のなかで、まー、それぞれが いろんな役まわりを演じているわけだけど、ため息をつかずには いられない。そんな役もありますわ。

ほとんど、オダギリとカガワ!!っていう、ふたりの俳優っぷりに注目してしまったきらいは あるが、かなり たのしめた。キャストが みんないい。「音」もいい。

脚本と監督が西川美和(にしかわ・みわ)さんという方なのですけど、センスあるわあ。名作。

紹介『権力構造としての〈人口問題〉』

2007-05-06 | 国家と権力
フランシス・ムア・ラッペ/レイチェル・シュアマン著。副題は「女と男のエンパワーメントのために」。新曜社。

ざっと よんだ。原著は、1988, 1990年となっているので そんなに あたらしいデータではないのだけど、ともかく、しっておくべき現実だ。

まず、「民衆が十分に食べられるかどうかを決定しているのは明らかに、単なる人口以外の多くの要因である」という点は、よくしられた事実だ(18ページ)。それは、スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』朝日選書などにも かいてある。

ラッペとシュアマンは、出生率が たかい地域では、(1) 経済的な生活保障が こどもの収入に依存する、(2) 乳児の死亡率がたかい、(3) 女性の地位が ひくく、女性の意志で避妊することが困難であったり、宗教的な理由で避妊をさけている、(4) 女性が結婚以外の選択肢をもちわせていない、(5) 女性にとって、家庭の外での教育や雇用の機会がほとんどない、と指摘する。

家庭の貧困、衛生や医療面が不十分な点、女性の地位のひくさなどが人口爆発を生じさせるということだ。だから、人口問題を解消していくには、包括的なアプローチが必要となる。だが、裕福な北側諸国の支援は、ほとんど家族計画の調節にあてられている。さらに ひどいことに、「出生率を下げるための唯一の手段としてますます強力な避妊手術に身を委ねることによって、多くの政府や国際機関は女性にとっての安全性よりも政策の効率性を優先するようになってきた」という(63ページ)。たとえば、
(注射用のデポ・プロベラは)それを一回注射すれば3ないし6ヶ月間妊娠を防ぐことができる。米国では一般的に使用するには危険すぎると考えられているが、家族計画機関は80カ国以上の国でデポ・プロベラを推奨している(63ページ)。
最新の長期作用型避妊薬のひとつであるノアプラントは…中略…女性の肌に埋め込むもので、5年あるいはそれ以上も妊娠を防ぐ時限放出型カプセルである。…中略…米国では使用を認可されていないが、コロンビア、中国、フィンランド、スウェーデン、タイ、インドネシア、エクアドルを含む10カ国で法的に認可されている。…中略…インドネシアの首都ジャカルトには、ノアプラントの除去ができる医療施設はひとつしかない(65-66ページ)。
不妊手術は、女性にとって通常不可逆的なものであるから、選択肢を奪ってしまう最後のステップとなる。そしてそれは、人口政策機関のあいだでますます人気を博しつつある(66ページ)。
身体的には安全だといわれる不妊手術も、「多くの第三世界のクリニックでは手術の滅菌条件が不十分なので、不妊手術は危険なものになりうる」し、医療施設が利用困難であるかぎり、経口避妊薬の副作用は「先進国の女性の典型的な場合よりもいっそう深刻な影響」をあたえることになる(68-69ページ)。

「人口爆発の権力構造」の最底辺にいるのは、あきらかに女性である。そして、出生率を抑制する「家族計画」で もっとも身体的苦痛を負担させられているのも、女性だということだ。女性のエンパワーメント(「力をつけること、社会的地位の向上」54ページ)こそが もとめられる状況のなかで、女性をさらに傷つけるという状態になってしまっているのだ。南北問題の いびつさを象徴する現実だ。

ところで、「衛生」といえば具体的に なんのことだか通じにくいのだが、なにより不可欠なのは、安全な水である。

この水ひとつをとっても、世界の権力関係によって多大な格差が ひろがっていることが近年になって指摘されるようになっている。いわゆる、水問題だ。つぎは、水問題をとりあげる。

紹介『動物の命は人間より軽いのか』

2007-05-04 | にんげん
マーク・ベコフ著。副題は「世界最先端の動物保護思想」。中央公論新社。
ツンドクしてましたが、このたび ざっと よみました。

ベコフは動物の処遇に「「正しい」答えも、「間違っている」答えもない」とし、だが、「「もっといい」答え、あるいは「もっと悪い」答えというものはあ」るとする(23ページ)。そして、「私たちが動物とどのような関係をもつかということは、私たちがどのように自分自身、また、他の人間たちとかかわりをもつかということと密接な関係があります」としている(24ページ)。重要な指摘だと感じられる。

たとえば、つぎのような記述は、人間同士のコミュニケーションにも あてはまる教訓だ。
イヌはイヌとして、自分がイヌであるために必要なことをしますが、彼らは独自の「イヌの頭のよさ」をもっています。また、サルはサルとして必要なことをします。つまり、サルはサルとしての独自のやり方で「頭のよさ」があります。そのどちらも、必ずしも相手のサル、またはイヌより頭がよいというわけではありません(68ページ)。

[ミシガン大学バーバラ・スマッツ(霊長類学者)の発言の紹介]「…前略…他の動物たちと私たちの関係で、私たちのほとんどが出会う限界は、たびたび私たちが決めてかかるように、その動物たちの短所を反映するのではなく、私たち自身の狭い見解を、つまり動物たちがどんなもので私たちが彼らとどんな関係をもてるのかについて、私たちがもっている狭い考えを示しています」(189ページ)
どちらも、関係性をじっくり検討していくことで えられる発見であるといえる。なぜか わたしたちは、ひとつの基準をもうけ、比較する必然性はないのにも かかわらず、比較してしまい、優劣をきめてしまう。そして、その安直さに気づくことは すくない。

どのような必要があったのか わからないが、人間だけに特有な行動とはなにか? 人間と ほかの動物を区別するものはなにか?ということが議論されてきた。西洋哲学のながれかな。

ヒトは道具をつかうとか、言語をつかうとかね。いや、動物も道具は つかうようだとか、言語も つかうよとか。いや、ヒトの言語と おなじ形態の「言語」ではないという議論にもなり(その点にかんしては、わたしは、動物もコミュニケーションをとるが、言語学的意味での言語ではないと とらえている。言語の定義は「比喩」ではないためだ。言語学は、ことばあそびではない)。

けどね、人権をみとめるように動物の権利をみとめようということにするとしても、動物の肖像権だとか、プライバシーとか、裁判をうける権利とか、学習権とか、そんなものはないんですよ。なぜって、動物は動物なりの世界をいきているからです。ヒトにある権利だから、すべて動物にも適用すべきとはならない。あたりまえのはなしだし、動物の肖像権とか、そんな動物の権利論は どこにもない。

動物の権利は、人間との かかわりにおいて うかびあがる問題群だ。だから、動物の権利は、「ヒトからの自由」として とらえると わかりやすいだろう。ヒトの勝手で動物園に かりだされない自由(権利)とか、人体実験の代用として利用されない自由(権利)など。

結局は、主体性はヒトにあるともいえる。だから、ヒトの規範的「義務」として とらえることもできる。動物愛護法などは、そのような規定である。

わたしは、どのように動物と接したいのか、あるいは、接しないで「そっとしておきたい」のか。そのような個々人の意識の総体によって、民主的に動物の権利をかんがえていけば よいのだといえる。動物の「ヒトからの自由」をみとめるとしても、どこまで みとめるのかということに「ひとつの正論」はありえない。それぞれの社会でそれぞれの時代に きめられるしかないものだ。

この本では、「人口の異例の爆発的な増加」に何度も ふれられている。それが動物の処遇を悪化させているという指摘なのだが、人口の増加が、どのような構造から生じるもので、どのような対策が講じられる必要があるかについて、著者の意見はみられない。もちろん、動物の権利をかたる本なのだから、そのような記述は不可欠ではない。

だが、「人間の人口が爆発的な増加を見せるとき、苦しむのは他の動物たち」であるというとき、あなたは、人口の爆発がどのような背景に成立しているかについて、すこしでも注意をはらっているのだろうか(23ページ)。人口が爆発的に増加するのは、この世界の権力関係によるものだということを、しっておく必要があるのではないだろうか。先進国の少子化は、安全で裕福で健康な生活が保障されていることによるものであり、途上国の人口爆発は、貧困や きれいな水の不足、女性差別などによって生じているのだ。

より「正しい」主張をとなえることも大切なのだが、自分が たっている地盤は、それほど正しくはないということをふりかえる必要がある。そうでなければ、どこの だれが、「アメリカ白人」の優等生な発言に、耳をかたむけるだろうか。動物の権利を主張する「日本人」とて、おなじことである。

かくも「正しい」動物愛護

2007-05-03 | 国家と権力
北海道におけるイオマンテの儀式は1955年に北海道知事名により出された通達によって「野蛮な儀式」とされ事実上禁止されたが、2007年4月、通達は撤回された。(「イオマンテ - ウィキペディア」
この「イオマンテ解禁」がニュースサイトで紹介されてるわけなんですけど、一部の動物愛護を議論するひとが、これに「反対の意見をおくろう」というはなしをしている。

野蛮だとか日本は先進国なんだからとか、なかなか すごいことをいっている。北海道知事や北海道ウタリ協会などに意見をおくるんですと。はあ。

いやね、あたしだって動物愛護に共感しないところがないわけではないですよ。けっこう厳格なベジタリアン生活も経験しましたし、そのへんのムシも、できるかぎりは ころさないようにはしているつもりです。イオマンテもね、クマをころさずに儀式をとりおこなうことも可能でしょうよ、それは。禁止されてきたもんだから、これまでは そうせざるをえなかったわけですからね。

けど、なぜに個々人の和人が のこのこと植民地主義の再生産をやるのよ。逆説的だけど、アイヌの文化を固定化するのは同化政策であって、当事者じゃないわよ。和人がアイヌを支配してきたから、「禁止」できたわけでしょう。禁止なんか されてなかったら、みずから「簡略化」をえらんでいたかも しれないでしょう。「現代的感覚」に あわせて、ね。

べっつに、現代的感覚とやらを肯定するつもりはないし、「簡略化」する必要があるなんて全然おもっていない。アイヌ文化を賛美すれば和人の過去が浄化されるとも おもっていない。イオマンテを消費の対象として みなすつもりもない。

いまになって通達を撤回しますだなんてことになってしまった、この日本という国家の歴史が おそろしいだけです。残酷だとか野蛮だとか、50年前といっしょの発想でもってイオマンテに いちゃもんをつけるひとの意識というものが、ただ、むなくそ わるいだけです。

「原始人じゃあるまいし」って…。

坂口安吾(さかぐち・あんご)は、伝統よりも生活が大事だといった。わたしも同感だ。和人は近代以降、自分たちの文化をそれほど厳格に重視してこなかった。それは、伝統にすがるよりも、あらたな生活習慣が魅力だったからだろう。もちろん、国際関係の権力のバランスによって、アメリカやヨーロッパの生活習慣に あこがれるように しむけられてきたという側面はある。だが、カッコつきではあれ、選択する「自由」はあった。アイヌよりは はるかに、自由があった。

アイヌを支配しつづけてきて、そして、いまになってイオマンテを「解禁」しますよということにした。そこに動物愛護の観点から、あらためて、野蛮だから やめてほしいと おっしゃる。

「クマに罪はない」という観点にたてば、絶対的に「正しい位置」に たてるそうだ。自由とは、かくも都合のよい権力だ。


どんなに動物愛護に共感しようとも、わたしは人間中心主義を否定する気にはとてもなれない。人間関係に不平等がなくならないかぎり、人間中心主義の否定や「動物の権利論」をみとめるつもりはない。動物の権利論は、この世界の非対称な関係、権力関係をわすれさり、おおいかくし、感情という無敵の論理によって世界を断罪する。

世界全体が断罪されるとき、もっとも被害をこうむるのは少数派なのだ。

人間中心主義を肯定しつつ、動物の処遇を改善していくことは両立できる。

いらぬ心配ごと

2007-05-02 | 議論
小説でも映画でも なんでもいいんだけど、ある ひとびとをえがいた作品が、批判的にとりあげられ、「このような描写は偏見を助長するんじゃないか?」と。

こむつかしい論評の世界では「表象」ということばが よく つかわれている。ある集団をえがく。それは実在の人物をあつかおうと、どうだろうと、その集団の一部であって、全体ではない。一部をえがくことによって全体を表現しようとする、そのような作品もあることだろう。そして、一部をみて それが全体だと みなそうとする、そんな鑑賞者もいることだろう。

けれども、作品は作者の手をはなれていく。どのようにも消費されうる。どのようにも読解できる。作品の力は、作者の力でもあり、それをたのしむ側の力量でもある。いかすことも できるし、ころすこともできる。

「これこれの作品は偏見を助長するからダメだ」というような発言は、わたしはそんな偏見をもったりしないけどね」という、おめでたい態度だ。わたしは ちがうけど、世間の連中は おばかさんだからねと。

「差別的だから」絶版を主張するようなひとたちも おなじだ。自分はすでに それをよんでいる。よんだうえで判断している。「判断できるわたし」という おえらい立場から、「世間のひとたちをまどわす作品」をけしさろうとする。

作品に政治的ただしさを要求するひとは、小説なり映画なりに、ひとつの回答をもとめている。ひとつの結論をもとめている。自分が よみとった解釈を絶対視する。

批判的であることが だめだとか、作品を尊重しろだとか、そんなことをいいたいのではない。柔軟に かんがえ、バランスをとれということだ。

ひとつの作品は、ある提示であり、その消費のしかたも、あるひとつの観点なのだ。

作品は作品としてあっていい。そして、批評は批評であっていい。みるか みないか、よむか よまないか。ほめるか、けなすか。たちどまるか、無視するか。すべて自分で きめることだ。他人に いらぬ心配はしないでよろしい。

この一文も、ひとの行動を制限しようと意図するものではなく、わたしの不満をのべているにすぎない。けれども、わたしの意図をはなれることも当然あろう。とはいえ、ひらくために かいていることで、とじるためではない。

…ひらく、とじるって なにをだろう。コミュニケーションかな? ともかくだ。わたしたちに必要なのは、たし算なのではないだろうか。たし算のための議論をしたい。

映画『サムサッカー』

2007-05-01 | 映画
「親指なめ少年」の話。ちょい役でキアヌ・リーブスがでてる。
いい感じの青春映画だろうと予想はしていたが、これが なかなか おもしろい。

平凡な家族のようにも みえるし、ちょっと家庭崩壊ぎみにも みえる家族関係の話でもあり、17才の少年の なやみを通した成長期でもある。

マッチョな しつけをモットーにする父親と、つつみこむような母親、しったような口をきく弟。一風かわった歯医者。

少年は学校でディベートクラブに所属しているけど、ぱっとしない。あるとき注意欠陥多動性障害(ADHD)ではないか?と指摘され、リタリンか なにか薬をためす。うまれかわったように頭が めきめき まわり、一躍、討論の名手に。そして…。

キアヌは少年の親指なめをなおそうとする歯医者の役。途中で かんがえをあらためる。歯医者、父親、弟、母親、それぞれが印象的なセリフをのこす。

後半での弟のセリフは『アイ・アム・サム』をおもいださせますね。てか、よくある なやみだ。親指なめも そうだよね。にたような「依存症」を、すくなくないひとが共有している。この映画は、依存症もテーマにしている。


ひとは そんなに ちがっていない。ひとの内面をうかがいしるのは むずかしい。どの瞬間も人生の途中であって、終着点じゃない。「ゴール」をめざす必要もない。