ここ最近、かんがえていることがある。内に ひめたまま、ぶちまけることなくおさえこんでいる「いかり」があるとき、それをどういったふうに処理してくれようかと。うまく いかりを表現すること。それをおそれたくはないし、うまく ぶちきれていきたいが、どうにも それがむずかしい。
なにも いわなくとも、あきらかに おこっているのがバレバレということがある。すでにそれは「いかり」の表現になっていて、さらにそれが無言のメッセージであるだけに、たちがわるい。
だれにでも、こだわっていることがあり、それが いいかげんにされると、ゆるせないときがある。衝突がおこるのは、そのこだわりが、それぞれみんな ちがうところにあるからだ。
感情をためこまずに、定期的に、きちんと そとにだしていくことができれば、いきなりドカンという事態はさけられる。けれども、毎度毎度のことがらのひとつひとつは、おこるほどのことではないほどに、ささいなことであったりするものだ。
過剰に「きりかえす」こともなく、あっさりと「ひきうける」こともなく、「ただかえす」ことができればよい。だが、ひとは、いつもいつも つながっていたいわけではない。つきはなそうともし、すこし距離をとろうともし、かかわることをやめようともする。「ほっとけばよい」というのもひとつの見識である。だが、「ただほっておく」ということができるほど、ひとの感情は単純ではない。
「はたして、これでよいのか」。そんなことは、わかったものではない。判定してくれるひとなど、どこにもいないではないか。他人の意見に みみをかたむけ、「そうですね」というのも、「そうかなあ」というのも、自分自身だからだ。
どこまでもエゴイズムをつきとおすなら、自分のおこないすべてを肯定し、合理化し、いいわけすればすむことだ。けれども、ひっかかる なにかがあるのだ。
わたしと そのひとの立場と関係性をみつめ、これまでと これからをかんがえたうえで、いかる。おこる。ぶちきれる。それは、くちでいうほど かんたんなことではない。
それはそうなんだが、かんがえてみることも、ときには必要でしょうよ。ほとんど不可能なことであっても、こころみる価値はあるのだから。
いつも、げらげら わらいつつ、ぶちきれていたい。
ところで社長さんよ。「あべくんはおこるということがない」って…。んなわけねーじゃろが!(笑)。
んー、そういうオチなのか。
なにも いわなくとも、あきらかに おこっているのがバレバレということがある。すでにそれは「いかり」の表現になっていて、さらにそれが無言のメッセージであるだけに、たちがわるい。
だれにでも、こだわっていることがあり、それが いいかげんにされると、ゆるせないときがある。衝突がおこるのは、そのこだわりが、それぞれみんな ちがうところにあるからだ。
感情をためこまずに、定期的に、きちんと そとにだしていくことができれば、いきなりドカンという事態はさけられる。けれども、毎度毎度のことがらのひとつひとつは、おこるほどのことではないほどに、ささいなことであったりするものだ。
過剰に「きりかえす」こともなく、あっさりと「ひきうける」こともなく、「ただかえす」ことができればよい。だが、ひとは、いつもいつも つながっていたいわけではない。つきはなそうともし、すこし距離をとろうともし、かかわることをやめようともする。「ほっとけばよい」というのもひとつの見識である。だが、「ただほっておく」ということができるほど、ひとの感情は単純ではない。
「はたして、これでよいのか」。そんなことは、わかったものではない。判定してくれるひとなど、どこにもいないではないか。他人の意見に みみをかたむけ、「そうですね」というのも、「そうかなあ」というのも、自分自身だからだ。
どこまでもエゴイズムをつきとおすなら、自分のおこないすべてを肯定し、合理化し、いいわけすればすむことだ。けれども、ひっかかる なにかがあるのだ。
わたしと そのひとの立場と関係性をみつめ、これまでと これからをかんがえたうえで、いかる。おこる。ぶちきれる。それは、くちでいうほど かんたんなことではない。
それはそうなんだが、かんがえてみることも、ときには必要でしょうよ。ほとんど不可能なことであっても、こころみる価値はあるのだから。
いつも、げらげら わらいつつ、ぶちきれていたい。
ところで社長さんよ。「あべくんはおこるということがない」って…。んなわけねーじゃろが!(笑)。
んー、そういうオチなのか。