ナスのすっぱからいスープ



10時間はたらいて、家に ついたとたん自分のごはんをつくる。家で料理すんのも ひさびさだわ。

ナスをながめながら料理のイメージをふくらませる。それから つかえそうな食材をさがす。あらかじめ完成品のイメージがあると、うまいのが できる。

タマネギ、ハム、ナスをいためる。トウバンジャンをいれて、日本酒をくわえる。テンメンジャン、みそ、しょう油、砂糖などをくわえていき、水をたす。しばらく につめて、チンゲンサイとトマトも いれる。一味とうがらしとオレガノとレモン汁で味つけ。

感動の一品。オレガノの風味と からい味と すっぱい味が うまく調和した感じ。これは ちょくちょく つくろうかしらん。

グーグル:完成品のイメージ
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自分の肉声で思考する

小林和之(こばやし・かずゆき)さんの『「おろかもの」の正義論』(ちくま新書)を、どうしても全部よまないと いけない気がして、やっとこさ通読した。

法哲学というものが なんなのか、わたしは よくしらない。もしかすると、ロールズ、ドゥオーキン、センなどなどの なまえが とびかう議論のことをいうのだろうか。「リベラリズム」というのが自分の しらないところで あれこれ議論されていたようで、まったくもって自分は無知だったのだなと感じさせられたものでございました。だけど、よく わからなかったのが、「で?」ということ。マルクス主義にお熱だった人たちが、あらたな おもちゃを手にして あそんでる…などと いってしまうと、失礼にも ほどがあるんでしょう。すみません。けれども、ついこのあいだも人権思想についての原稿をよんで議論をしたばかりで、あれこれ おもしろいものを感じたと同時に、「なにが なんだか」という わからなさも のこっていた。

小林さんのサイトをみると、「日本における法哲学が「二流の輸入学問」にすぎない現状を改善するシステムを設計・提案する」論文も かいているようだ。なるほど。ロールズがどうしたという議論ばっかりしていることに不満をもっている人もいたってわけだ。ちょっぴり安心。

『「おろかもの」の正義論』にはロールズなんて なまえが でてこないかわりに、印象的なフレーズがたくさんある。あれこれ紹介したい。けれども、つぎの文章だけを紹介しておこう。
読んで面白い。考える力が身につく。それが大事だと思うからこそ、本書では哲学者や研究者の名前をいちいち挙げることはしなかった。先人の無批判なコピーをしていないからでもある。もちろん、先人の業績の恩恵を受けていないなどと言うつもりはない。それでも、わたしは、自分の血肉となって「正しい」と思うことけだけを書いた。(252-253ページ)
ヒーローなんか いなくとも、ものごとをかんがえることは できる。地にあしのついた議論をしている小林さんに、敬意をはらいたい。そして、敬意なんかよりも、自分なりの こたえをだそう。そのうえで、かたりあっていけば いい。…といういことで いいんですよね?

基盤になっている問題意識と かたられている内容、そのどちらもが しっかりした人に ひさしぶりに であった気がする。

グーグル:「法哲学」
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自分の問題として

その人の行動をみれば、自分と その人との ちがいが はっきり わかるように おもえてしまう。

「自分は あんなことは しないなぁ」と、だれしも感じるものだ。いってみれば、行動というのは「わかりやすい」のだ。今回の中国のデモをみながら、わたしをふくめた「日本人」は、「なんであんなに熱中できるのだろう」と疑問をいだいている(もちろん、そうじゃない人もいるだろう)。その行動について だれかと「かたりあう」とき、ある種の冷笑や みくだしが ともなったものになる(そうじゃない人もいるだろう)。行動に注目してしまうと、どうしても そういった つめたい まなざしをむけてしまいがちだ。

「集団心理と分類」というキーワードで今回のデモをよみなおしてみよう。そうすれば、ちがった視点が うまれるかもしれない。

◆集団心理というのは、2ちゃんねるの「祭り」でも みられるものだ。『電車男』が おもしろいのも、電車男とスレ住人との「一体化」にあると いえるだろう。歌手のコンサートで歌手とファンが一体化するのも集団心理だろう。◆分類というのは、たとえば図書館で本を整理するためにジャンルわけをすることなどが あたる。中国人と日本人というのも分類だ。

愛国心というのは、「自分の国」と「その他の国」を明確に区別することから はじまる。そして、「その他の国」のなかでも「敵の国」と「味方の国」というような分類をしている。わたしをふくめた「日本人」は、「自分は愛国心なんか もっていない」ということをしばしば口にする。ほんとうだろうか? おそらく、ある意味では ほんとうで、ある意味では錯覚だろう。

分類をするということは、だれかを排除したり、おとしめたりするということでもある。男と女で人間を分類できるという発想が、たくさんの人たちをくるしめている現実がある。分類というのは、なにかと問題をはらんでいる。だが、分類せずには いられない自分のすがたというものがある。これは現状肯定でも悲観でも なんでもない。とりあえず、自分のすがたをみつめようということだ。たとえ安易に分類したくないと おもっていても、無意識のうちに分類してしまっている自分のすがたがある。それをみつけたときに、どのように感じるのかが重要なのだ。そして、ひとつではない さまざまな分類の仕方をみつけていくことが たいせつなのだろう。

きのう チャットで、「反日」についての話題から「分類」についての話題にすりかえてみた。すると、じつに みのりのあるチャットになった。ちょっとした工夫をすれば、「自分の問題として」かんがえることは できることなのだ。
きょう、高橋哲哉(たかはし・てつや)さんの『戦後責任論』(講談社学術文庫)をかってきた。「戦後責任」をいきなり かんがえるのは むずかしいのかも しれない。けれども、きのう うけた印象では、それは不可能なことではない。

グーグル:「集団心理」 / 「分類するということ」 / 「戦後責任」
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比較の基準をアメリカにするなよ

日本の学問状況というのは、ほんとに だめだと感じる。

「でわのかみ(出羽の守)」ということばがある。日本では こうだけど、「どこどこ<では>、こうだ」。これね。この、「どこどこ」がアメリカである場合が うんざりするほど おおい。しかも、そのせいで研究が はなはだしく おくれてしまっている場合がある。やる気あるのか?と おもってしまう。

とある学会で とある質問をしたことがある。発言をきいてみるとシンポジストの面々は、わりかし わかっているようだった。会場にいた とある人は、おわった あとで「これこれなんだから、きみも べんきょうしなさい」とご指導くださった。こっちは わかってて質問したんですけどもね。「わかってんのか」と(笑)。

誤解を誤解と認識しているのなら、ちゃんと文章にしていきんさいよ。新書とか入門書には、そんなこと どこにも かいてないですよ。1966年にでた とある論文のまんまの説明をいつまで つづけるのよ。ジャーナリストの人が かいた とある本が いちばん内容いいんですけど。まったく。

しかたがないので、かけることだけ自分でも かいていくことにする。ここには かかないけど。

グーグル:「でわのかみ」 / 「ではのかみ」 / 「出羽の守」
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たまねぎとベーコンのフルーツいため



ひさびさに変な料理をつくる(別に変な料理を紹介するブログじゃないけど)。

たまねぎとベーコンをいため、きゅうり、きのこをいれる。缶づめのフルーツカクテルとトマトをいっしょに いためていく。バナナも まぜて、水をたし、酢と塩こしょう、オレガノで味をつける。最後にオリーブ油で風味づけ。

あまずっぱいのをイメージしてたので、まぁ予定どおりの味だったけど、ごはんの おかずにするのは、ちょっと無理があった。それは最初から わかってたけどもね。たまねぎとベーコンと きゅうりが うまい。バナナはね、 いや別に…。あとのフルーツも別に…。正直、パイナップルだけで よかった気もする。オレガノの風味も もうちょっと あって よかったな。

グーグル:「オレガノ」
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その人の問題意識

このブログでは、自分の研究テーマについて ほとんど文章にしていない。なんでだろうか。自問自答が趣味の わたしとしては、ちょっと かんがえてみたい。

わたしのテーマは、文字をよみかきするということ。だから、「ブログ」というのも ひとつの研究テーマなわけだ。そこでブログを「体験」してみることにした。それが動機だ。「なんでもググる」のは、特色として なにか あったほうが おもしろいだろうと かんがえたから。毎回グーグルの検索結果をリンクしてるブログなんて あんま ないだろうしね。

このブログでは、文章をねらずに てきとーに かくんだと、「hituziのブログについて」で かいた。それは、自分のなかで そんなに たいせつな問題じゃないから そうできるわけだ。じっさい問題、メインの研究テーマについては、ここでは いっさい かいてない。それは みとめる。しかしだ。その人の問題意識というのは、そんなに あれと これとで独立したものだろうか。意識的に なにも かたっていないように みえて、じつは にじみでているんじゃなかろうか。そんな ふうに おもう。このブログで かいてることも、自分のなかでは たいせつなことだし、こっち(=ブログ)をさらすことによって、あっち(=サイト論文)の内容が理解されやすいんじゃないか。その人の問題意識とか ものの見方というのが わかると、その人の いうことや かいてることが より わかりやすくなるものだ。むしろ、このブログが どれだけ おもしろいものになるか どうかが、わたしの成長を左右するのだろうと おもう。

問題は、なんの価値もない文章ばかり つづっているということだわね。とくに、これなんか……。はい、自爆ですね。

グーグル:「その人の問題意識」
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人に期待するのも ほどほどに

「うらぎられた」というのは、どういうことだろう。「あれだけ信じていたのに、わたしのこと なんにも わかってなかったのね」。などなど。

あるいは、「この程度じゃ満足できない」というのは、どういうことだろう。具体的に いえば、「論理が とおっていない」「矛盾だらけだ」「あれやこれやの議論をふまえていない」とか、そういう批判ね。

こういう気もちというのは、他人にたいする期待の度あいが ひくければ、でてこない反応だろうと おもう。「人間そんなもんだ」と わりきっておくほうが、人生たのしいんじゃないかしら。期待が適度に ひくければ、逆にその人や その人の作品、文章などに魅力をみいだすことが できる。なぜなら、最初から おおくをもとめては いないからだ。どんなものにも魅力をみいだせる人というのは、つまりは完璧主義者じゃないわけよね。それは、ある意味では、どこかに つめたさをもっているということ。

期待度をあげるということは、ハードルをあげるということだ。つまりは、そのハードルをこえれたか どうかで判断するようになる。そのハードルが すっごく たかければ、「うらぎられた」とか「失望した」、あるいは「ケイベツする」とまで いく。神様とか孤高の人であれば、それも いいだろう。しかしながら、ハードルをたかく つくった「おとしまえ」は しっかり自分で ひきうけないと だめでしょうね。また、人間に なんの期待も もっていないという人も、やっぱり神様とか孤高の人になりがちだ。でも これは、期待の たかさ(完璧主義)の うらがえしなんだと おもう。

「人間が すきで すきでたまらない」という人がいる。しかし、その状態を維持するためには、ある部分で さめたところをもってないと無理が あるんじゃなかろうか。はたから みると、人に たいして やさしい人でも、こころのなかでは ひめられた冷静さ=つめたさをもっているんじゃなかろうか。

「うらぎられた」と感じる人が魅力的か、「そんなもんだ」と わりきる人が魅力的か。いちがいには いえないだろう。「どっちが いいのか?」という対立のさせかたは つまらない。でも、こういうふうに空想してみるのは おもしろいことだ。

グーグル:「期待と失望」
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『ユリイカ 特集*ブログの作法』

かるく よみました。座談会の「激突!はてな頂上作戦」が おもしろい。

この座談会、けっこう長文なので情報量も すごいんですけど、用語の解説とか ないから ちょっと意味不明な ことばが あれこれ。鈴木謙介(すずき・けんすけ)さんという社会学者は、なんだかマニアックなことしてるなぁ。新世代ってことなんだろうけど。のめりこみようが すごい。『暴走するインターネット』(イーストプレス)という本をだしてるそう。

で、座談会でも でてる「ブログリテラシー」って表現なんだけどもね。なんでもかんでも「リテラシー」って いってりゃ いいもんだとは おもわないよ。便利な ことばなのは わかるけれども。

きょうは、原稿のアイデアをだすために散歩した。抹茶パフェたべて かえってくる わたしゃ、そろそろ やばい。くいすぎ人間になりつつある。

グーグル:「ブログリテラシー」
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希望もっても いいんじゃないか?

最近、なかなか おもしろいものを感じる。あれこれ検索していると、ほんと いろんなひとに であえる。びっくりするほどです。

よのなかは ゆっくりと うごく。しずかに うごく。でも、ながされちゃだめだ。自分の意志をしっかりと もたないと いかん。そのひとが、しっかり かんがえ、しっかり なやんで だした こたえなら、それが わたしの かんがえと どんなに ちがいが あろうとも、わたしは支持したい。おなじである必要はない。おたがいの たちばを、はっきりとさせることが たいせつだ。そして、おたがいをゆさぶることが たいせつなのだ。

グーグル:「希望はある」
更新記録:「わたしの たちば」
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2ちゃんねるのスレを一時すてきな空間にするワザ

ひさびさに2ちゃんねるに かきこんだ。2年ぶりじゃないかな。

ちょっとだけ議論をしたのだけれど、2ちゃんねるで議論をしたのは2回目だ。ひとことだけ かきこんだりは、何度か してきたけど。スレのふんいきが いい感じになっているのをみはからって、なおかつ いい ふんいきで論じた。おあいてしてくれたのは ふたりだけだったのも功を奏して、うつくしく さよならできた。やっぱり、わざだよなぁ。おあいては、はげしい議論も すきだったようだが、おちついた ふんいきでの議論にも 魅力を感じていたようだ。かなり こちらの論点が つたわっていたようなので、はなしをきりあげた。だって、あり地獄に はまりたくないものね。ブログかいて、コメントかいて、メーリングリストに返信して、2ちゃんねるにも かきこんでたら、とてもじゃないけど ほかのこと できなくなる。せっかく、つぎの原稿に とりくめる余裕が できたところだし。時間は むだには できない。かきたい原稿は やまほどあるのよ。

グーグル:「2ちゃんねる研究」
リンク:「2ちゃんねらーの質(レベル)を考える。」(朝生板@2ch掲示板) ← このスレじゃありませんよ。かきこんだのは。このスレ、なかなか おもしろいので紹介しようかなと。
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「つきあいかた」

最近マンネリ化してる気がしないでもない(笑)。ま、いいけど。

旭川ぞいのサクラを見物して本屋にいく。新書4冊と◆水町俊郎(みずまち・としろう)/伊藤伸二(いとう・しんじ)『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』ナカニシヤ出版をかってきた。つきあうという思想は いろいろなところで提唱されている。◆石川憲彦(いしかわ・のりひこ)さんの『子育ての社会学』(朝日文庫)だと、「アトピーにつき合う」なんかが ある(130-137ページ)。

ひさびさに とあるメーリングリストをみると、男女平等について議論になってた。「女性は差別だ、権利だと主張ばかりしているけど…」という ありがちな話。「冷静に論じてほしいものです」、「きちんとした女性はどう考えているのか。それが知りたいものです」などのモンクが不愉快だ。自分は冷静で「きちんとしている」という前提が はっきりでてるものね。こういう人と(メーリングリストで)どう つきあうのか? これも だいじな問題だ。反論してた人は うならせる文章をかいていた。尊敬します。

さて、新書のほうは、◆森達也『こころをさなき世界のために-親鸞から学ぶ〈地球幼年期〉のメソッド』洋泉社。また でてるし。副題が へんだなぁ。本題も「こころ/を/さなき」かと おもって、「さなき」って どういう意味なんだーって おもってしまった。やめてくださいよ、こういうの。「こころ おさなき」、つまりは「こころの おさない」ということらしい。森さんも意識的にかマンネリ化しつつあるけど、まぁ それでも「賞味期限」は すぎてない。

◆姜尚中(かん・さんじゅん)/テッサ・モーリス-スズキ『デモクラシーの冒険』(集英社新書)。「世論をめぐるおしゃべり」が おもしろそう(107-118)。

◆廣野由美子(ひろの・ゆみこ)『批評理論入門-『フランケンシュタイン』解剖講義』(中公新書)。『フランケンシュタイン』という小説に興味あるもので。ベジタリアン系の本をよんだ人なら しってるように、あの「なまえなき怪物」は肉をたべなかったそうで。キャロル・J・アダムズ『肉食という性の政治学』(新宿書房)なんか、韓国では『フランケンシュタインは肉をたべなかった-フェミニズム菜食主義批判理論と性の政治』って題で でてる。って、「フランケンシュタイン」は博士の なまえなんだけど…。この新書よむまえに メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』をよんでおこうかな。そういえば、こないだ◆蒲原聖可(かもはら・せいか)『ベジタリアンの医学』(平凡社新書)も かったところ。

◆武田双雲(たけだ・そううん)『「書」を書く愉しみ』(光文社新書)。石川九楊(いしかわ・きゅうよう)氏の本かと おもったら、ちがいました。これは研究用に かったもの。わりかし いいことが かいてある。そのうち どこかで批判的に引用しよう。

このまえ かった本は、◆『ユリイカ 特集 ブログ作法』、◆太田好信(おおた・よしのぶ)/浜本満(はまもと・みつる)『メイキング文化人類学』、オ・ヨンホ『オーマイニュースの挑戦-韓国「インターネット新聞」事始め』、◆村上宣寛(むらかみ・よしひろ)『「心理テスト」はウソでした』。

こんなん かくのも けっこう しんどいな(笑)。しんどさに つきあうのも これよしとしましょう。…って、やせがまんなら いやだな。

グーグル:「オーマイニュース」
リンク:オーマイニュース
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記憶をたよりに かきなおし

ブログかいてて、投稿をクリックしたら、「ただいま混雑しています」みたいなのが でることがある。てっきり きえちゃったと おもって、かきなおす。それが下の ふたつ。原文と かきなおし。

記憶力なんて たよりにならないね。

グーグル:「記憶はうそをつく」
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「冷静に」と おっしゃる あんたこそ

「冷静な対応を」「冷静に対処」などなど。最近、流行語になりつつある。

「冷静に」と、ゆーてる人は、自分は感情的じゃなくて冷静なんだと おもってるようだ。おめでたい。愛国心という感情に まるまる のみこまれてる自分の すがたが みえないわけだ。みえても、それが ぶざまな すがたには みえなくて、ほこらしい すがたに みえるんでしょう。まったく おめでたい。

個人と個人は対立する。だれより自分が かわいいし、利害が からむ。そりゃ ぶつかりあうだろう。あたりまえだ。それは わるいことじゃない。しかしだ。だれだれさんは こっちグループで、だれだれさんが あっちグループで おたがい対立しないと いけないなんて話はない。それは必然的なことじゃない。「自然な」ことじゃ ありえない。おどらされてるのだから。

韓国の しりあいが、よくする話がある。わたしは あんまり納得していないけど、この文脈には よく あてはまる気がする。かんたんに要約する。「『非障害者と障害者』という構図をつくって議論していても だめだ。個人と個人の関係のなかから かんがえる必要がある」。わたしは、スタートラインも なにもかも平等じゃないなかで「個人と個人」だなんて いえないだろうと おもってきた。それは かわらない。この人の問題意識は、「自分は どうするのか」ってとこにある。「自分」つまりは「個人」であると。ともかく、「構図をつくる」、「グループを分類する」という問題は たしかにある。これは否定できない。構図をつくったところから、あらたに対立が はじまるわけだし、「敵/味方」意識が めばえるからだ。

「冷静に」と、のたまう人こそ まず最初に うたがいましょう。そして、「おめーだよ」と つぶやこう。その練習のためにも、 とりあえず わたしにむかって「おめーもだよ!」と つっこみましょう。ことばは はねかえってくるものですので(つまりは、つっこんだ あなたにも? 笑)。

グーグル:「冷静な対応を」 ←1位がヨン様なんですけど…。ともかく、今回の検索結果は必見です。
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「冷静に」と のたまう あんたこそ

「感情論に はしらず冷静な対応を」「冷静な姿勢で対処」などなど。よく ゆーよ。

あんたは感情的じゃなくて冷静だってゆー保証がどこにあるのさ。愛国心ってゆー感情に のみこまれてるくせによ。他人事あつかいして はたから ながめていたいっていうのが まるだしじゃないのよ。

個人と個人は対立する。いつも仲よしじゃいられない。だれより自分が かわいいし、利害が からむ。そりゃ ぶつかるわ。個人のあいだで ぶつかりあうのは、わるいことでも なんでも ないと おもう。そーゆーもんだ。しかしだ。とある だれだれさんが あっちグループで、とある だれだれさんは こっちグループで、あっちと こっちで ぶつかりあわないと いけないなんて はなしは ない。「自然」なことでも なんでも ない。どこかで おどらされてるのです。あほらしいくらいに みみっちい。

韓国の しりあいが、よく いってたことがある。わたしは あんまり納得しなかったけれども、この文脈には あてはまるような気がする。はなしをかんたんに要約すると、「非障害者と障害者」という構図をつくって議論していても だめだ。結局は個人と個人の関係のなかから かんがえる必要がある。 まぁ、こんな話。わたしは、スタートラインも なにもかも平等じゃないなかで「個人と個人」だなんて いえないだろうと おもってた。それは いまも かわらない。でも、「構図をつくること」の問題というのは やっぱり ある。それは「分類する」ということの問題でも あるわけだ。

「冷静に」だなんて のたまう人をまず最初に うたがいましょう。そして、「おめーだよ!」と つぶやこう。

グーグル:「冷静な対応を」 ← うわっ。1位 ヨン様だよ(苦笑)。ともかく、今回の検索結果は必見です。
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「ホームページ」と「サイト」(あるいは「ウェブサイト」)

自分のサイトについて はなすとき、口では「サイト」よりも「ホームページ」と いっている。文字だと あんまり「ホームページ」とは かかない。でも、まったく かかないわけでもない。「サイト」とだけ かくよりも「ホームページ」と かいたほうが、自分のサイトのことをいってるのが わかりやすいかと おもうからだ。「サイト」はサイトで ことばかずが みじかいのが いい。「出会い系サイト」とは いっても「出会い系ホームページ」とは あんまり いわないよね。あ、でも、つかわれてるのね…(グーグル:「出会い系ホームページ」)。

ことばに こだわるなら、もちろん「ウェブサイト」だろう。でも、それだと こうるさい気がしないでもない。一般的な いいかたに ならうのは わるいことじゃないわけで。「ホームページ」で 全然いい。「HP」とは かかないけど、それも ありだと おもう。そもそも、「あり」も くそもないけど。

にたようなはなしに、「インターネット」と「ウェブ」がある。いま かいてる原稿で「インターネットのウェブ上で」という表現をしている。まどろっこしいなとも おもうが、まぁ いいかなとも おもう。人によっては、「インターネットのウェブ上で」なんて表現をしてる人なんて いないだろうと おもうかもしれない。います。

グーグル:「インターネットのウェブ上で」 / 「ウェブ上で」 / 「インターネット上で」

岩谷宏(いわたに・ひろし)『インターネットの大錯誤』ちくま新書を最近かった。よんでみよう。……って1998年の本だったのね…。7年前か…。
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