ふゆやすみ

やっと仕事おさめできた。店は家から3分のところにあるので、これからも お客さんとして お世話になるでしょう。大学生ふたりの まかないをつくったら、ふたりとも絶賛してくれたので やれやれ よかった。ワタリガニのクリーム・トマトソース。きのうのランチのアレンジだけど(笑)。最近、料理をつくっていて自分で くいてえーとか おもうことが おおかった。ううむ。そんなころには もうおわり。そんなもんさね。

このブログもねえ、そのイタメシ屋で はたらきはじめたころに はじめたのです。あっというまでは なかった。ながかった。でも、いい経験をしたものだ。

さーて、つかのまの ふゆやすみ。なにをしようか。どこにいこうか。すこし たびにでようか。

やっぱり、さむいから むり! でも、温泉なら いきたい。整骨院にいこうか。

ところで、よくテレビをみるひとは年末というものをいやほど実感させられるものだが、あんまりテレビをみないひとは、そこまででもないんじゃないかしら。テレビがつくる年末気分や正月気分。ぐーたら時間をすごすにしても、テレビだけは みないことにしよう。

あ、宿題がたくさんあるんだった。
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カレー

今週の月曜日にインド料理屋でランチをたべてきた。キーマカレーとナン。やっぱ香辛料のきいたカレーは文句なしに うまい。

きょうの ばんごはんもカレー

油で トリ肉とブタ肉とタマネギとエリンギと大根とニンジンとヤマイモとサツマイモとリンゴを塩こしょう しながら いためる。水をいれて、ちりめんじゃこと赤ワインとハチミツをいれる。ハチミツは たっぷりめに。のこってた牛乳とバターもいれて、市販のルー。かるく にこむ。

ハチミツをいれすぎた気もしたが、うまい。はらが へってたのもあるけど、あほみたいに たべてしまった。

にんじんなどの野菜は「乱ぎり」じゃなくて、半わりにして三日月のかたちに ななめに うすくスライスしてやると、すぐ火がとおって いい。10時すぎに つくってんだから いちいち時間をかけてはおれん。ちりめんじゃこが いい仕事してた。
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新刊など

でかいコップをかってきた。480ミリリットルとか かいてある。紅茶をいれる。ごめん、でかすぎる これ(笑)。でかいぶんだけ安定がよろしいので、あんまり こぼさなくなるであろう。てか、このコップで紅茶をのむのに満足できるほどの しぶみをだすには、どんくらいの はっぱが いるんだろか。いま、家にアッサムとダージリンとアールグレイとセイロンの はっぱが あるようだ。

◆安田敏朗(やすだ・としあき)『「国語」の近代史-帝国日本と国語学者たち』中公新書。新書で でたのが いいやね。

『月刊言語』1月号「特集 「国語」とは何か-世界の中の「国語」、日本における「国語」」。

『障害学研究2』明石書店。

◆津田英二(つだ・えいじ)『知的障害のある成人の学習支援論-成人学習論と障害学の出会い』学文社。

学文社のサイトをみてたら、おもしろそうな本をみつけた。

鈴木眞理(すずき・まこと)『学ばないこと・学ぶこと-とまれ・生涯学習の・ススメ』

◆翻訳本『障害のある学生を支える-教員の体験談を通じて教育機関の役割を探る』文理閣。

◆浜井浩一(はまい・こういち)/芹沢一也(せりざわ・かずや)『犯罪不安社会-誰もが「不審者」?』光文社新書。

これくらいかな。んー、2006年も あとわずか。
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めさ うまい紅茶

金曜日にね、また広島に いってきたですよ。

用件をすませて、またケーキくうぜということで。こんどは、高級ぽい店に いってみた。にぎやかですわ。デザート3種もりあわせが1000円。紅茶が600円ちょい。こういう店は、ケーキセットというのは やってないのよね。砂時計をきっちり まって紅茶をそそいでみると、これがまた色が うすいのですよ。うわ、これはなんだと おもったら、めっさ うまい! かおりも いいし、ちゃんと しぶい。アールグレイ。葉っぱをみると、ちょっと おおきめでした。

紅茶は利尿作用がコーヒー以上にあるように おもうので、あとで大変なのだが、のんだあと すこーし うごいていると、けっこうカフェインが きいてきて気もちがいい。コーヒーが うまいとは おもえない わたしは、葉っぱもんが いいのです。

デパートの地下だと、紅茶とか緑茶は においが かげるようになっていて とても たすかる。それなりの値段の、けど、たかいというほどでもない緑茶をかう。店の人に、においで味がわかるんですか?とか いわれて、お茶すきなひとは みんな わかるんじゃねーの、そんなもんと おもいつつ、「ええ。すきなので。」などと。ちょっと あまみがあるけど、ちゃんと しぶいのをかってきた。「ほれぼれ」とか、そんな名前。紅茶もアールグレイをかってみた。

高校のころ、紅茶ばっかり のんでましたわ。砂糖もミルクもレモンも いれないお。それで あのころは、ねつけなかったよなーとも おもいつつ、まあ いいや。にんげんには嗜好品が必要だっせということで。

ということで、じつはケーキより紅茶のほうが すきかも?というはなし。
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雑誌『ず・ぼん-図書館とメディアの本』

ポット出版から『ず・ぼん』という雑誌が でている。

「最新刊を除いたバックナンバーで書き手(著作権者)に了解していただいたもの」にかんしては全文公開されているということなので、紹介しておきます。ず・ぼん全文記事

11号だけは もっています。

ちなみに、小説『図書館戦争』シリーズの第三弾が来年2月にでるそうです。題して『図書館危機』。けっこう参考文献に注目しちゃいます。第二弾の『図書館内乱』では、『ず・ぼん』11号の一部のフレーズが引用にちかいかたちで登場しました。

こんどは だれか、「著作権戦争」とか、そういう小説をおねがいします!(笑)。

てゆーーかだな、「そばやうどんは私にも作れる」って料理の仕事をなめんじゃねーよ。ピザつくるようになって1年たって、やっと ああ、これは おいしそうだとか、自分が たべたいとか、やっと そんなふうに おもえるようになったんだよ、こんにゃろー。

坂口安吾(さかぐち・あんご)のことばを引用しておく。
人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私はユーレイはキライだよ。死んでも、生きているなんて、そんなユーレイはキライだよ。
「不良少年とキリスト」より
安吾は、もっといろいろ いってるけど、これだけで じゅうぶんでないかと。
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映画『デイジー』

やっぱり、映画はメリハリですよね!

おもうんだが、チョン・ジヒョンは、そろそろクァク・ジェヨン監督/脚本以外の映画に でてほしい。

『デイジー』はオランダでの撮影で監督はホンコンのアンドリュー・ラウ。脚本がクァク・ジェヨン。音楽が終始オーケストラなんだけど、うるさい。いかにも「これは映画音楽です」というかんじ。気になるなあ、こういうのは。

チョン・ジヒョンが おさえた演技をして、ラストで感情をぶちまけて「あわてて はしる」。そういう構図は既視感がある。だって『ホワイト・バレンタイン』だって『イルマーレ』だって そうじゃないですか。あのへんはクァク・ジェヨン監督とかじゃないけど。

でも、すきみたいな(笑)。だけど、これ以上は やらないでおくれ。

『イルマーレ』も映像の色あいが きれいだったけど、『デイジー』もきれい。色彩に みとれられる映画はいいですわね。

『僕の彼女を紹介します』に だいぶ失望したので、とにかく、今度はクァク・ジェヨンぬきで(笑)。『猟奇的な彼女』は、冗漫だったにせよ あれで よかったけど。なにあの、いきなり岩がごろごろ おちてきて…って。メリハリもくそもない。最後ひっぱりすぎだったし。『デイジー』もね、一般人がたくさんいるところで銃撃戦しようとするケーサツって設定は、むちゃくちゃですよ。そんなんだから、だれが死ぬのか わかっちゃったじゃねーかあ。みてる途中で冷静になってしまう映画は いけませんね。って、あんまり ほめてないな。そんなに たのしめなかったわけじゃないんだが。

劇場版『トリック2』を今年のうちに みるかな。
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小説『ブラッドタイプ』

松岡圭祐(まつおか・けいすけ)『ブラッドタイプ』徳間書店。※リンクさきは画像とフラッシュだけで構成されています…。

よみましたよ。いいんじゃないですか。

3人の臨床心理士が血液型性格判断にいどむという。

メディアのちからで、ふたつの偏見が助長され、社会問題になる。ひとつには、血液型がB型のひとなどへの差別的待遇。もうひとつには、白血病は悲劇で不治の病(やまい)だという偏見の定着。どちらも時代劇の悪代官のごとく、わかりやすい「犯人」が設定されている。

この小説は、具体的な問題意識から出発して かきあげられた作品であるようにみえる。だが、できあがった内容は、意図してのことか、じゃっかん「小説チック」なところがある。極端から極端へというような展開なのだ。

日本において血液型性格判断の問題は、みすごすことのできない社会現象をたびたび ひきおこしてきた。ふたりの社会心理学者による『オール・ザット・血液型』などをみればわかるとおり、おあそびではすまない事態もおこっている。

だが、この小説でみられるような一大事には いたってはいないようにも感じられる。極端ではなく、あくまで中途半端。それだけに事態を解決しようにも、深刻さが つたわらない分、やっかいなのだ。

また、ひとりの人間のちからで大ブームがおこったり、社会現象がおこったりすることは、いまも そうしたことがないわけではない。だが、むかしよりは すくなくなったのではないかと おもうし、これからも、より すくなくなるのではないか。社会の構成員が みな おなじ方向をむくということがなくなり、あるひとは新聞をおもに利用し、またあるひとはウェブ上の情報にパソコンからアクセスし、またケータイばかりを利用するひと、テレビが だいすきなひとがいたり…。そのように、「拡散」しつつあるのが現状ではないかということだ。もちろん、拡散しつつ、また収斂するというのが現実であろうが、ともかく、諸悪の根源というものが特定しにくい社会であるには ちがいない。

日本社会では、血液型と性格の関連を信じるというのが、ひとつの制度のようになってしまっている。文化とか習慣をこえて、である。そうしたなかで、なにができるのか。

そのアプローチのひとつが、この『ブラッドタイプ』といえる。小説という点があたらしい。ここで、いまどき小説をよむひとなんてと悲観的になってもしかたがない。

そもそも、血液型性格判断の問題のひとつは、あまりに性格を一面的にとらえている点だ。性格を変化がなく、固定的なものとして とらえる見方は、ある種の「決定論」になってしまっている。日本で おおくのひとが血液型と性格の関連を信じているひとがいるとしても、それをかえることのできないもののように とらえてしまっては、批判する対象と にかよった発想に たってしまうことになる。ひとは かわる。かわりつづける。

つくったものは、つくりかえることができる。それをあきらめていては いけない。ただ、それが つくられたプロセスには複合的で多方面の介入があったことをわすれてはならない。複雑に つくりあげられたものを、単純にスイッチひとつで つくりかえることができるものだとは、安易に かんがえないほうがいい。

じゃあ、どうしようか。こたえは、ひとつ。いろんな手をつかえ、だ。

ということで、小説『ブラッドタイプ』、たいへん有意義な作品だと おもいます。

…なんじゃ、そら。

リンク1:血液型カルチャー年表 (佐藤達哉=さとう・たつやさん)
リンク2:「血液型と性格が関連している」という差別「いんちき」心理学研究所
リンク3:究極の血液型心理検査
リンク4:「バーナム効果 - ウィキペディア」
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新刊いくつか

ひさしぶりに ゆっくり本屋。といっても岡山大の生協ですけど。

◆クォン・インスク(権 仁淑)『大韓民国は軍隊だ』(韓国)の翻訳がでてました。

→山下英愛(やました・よんえ)訳『韓国の軍事文化とジェンダー』御茶の水書房。索引つき。

そうか。『韓国女性人権運動史』明石書店も山下さんが翻訳されたのね。どちらも障害者についての記述がある。まだ よんでない。

◆『身体をめぐるレッスン1 夢みる身体』岩波書店。全4巻のシリーズ。石川准(いしかわ・じゅん)責任編集の『3 脈打つ身体』と市野川保孝(いちのかわ・やすたか)責任編集の『4 交錯する身体』をかうつもりだったのだが、まだ でてないし、鷲田清一(わしだ・せいいち)責任編集の『1』をとりあえず かってみた。

◆月刊『イオ』編集部 編『日本の中の外国人学校』明石書店。これは参考になる。

◆『現代思想』12月号。特集 自立を強いられる社会。いつもながら『現代思想』らしい構成。得意分野でないと、ちょっと よむのが つらかったり、難解に おもえるのだが、なにかと便利な雑誌だと おもっている。

◆意外といいのが『現代のエスプリ』。こないだも古本で「目撃者の証言」特集の号をかったけど、役にたつ特集が たまに くまれるので重宝している。今回は、「スペクトラムとしての軽度発達障害I」。なにが議論されているのかをたえずチェックしていなければならないので、こういう特集は注目するようにはしている。けど、にたりよったりなんだけどね。

◆そいえば『身体をめぐるレッスン3』にはニキ・リンコさんの論考がのるようなので期待している。

◆イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』岩波書店。おもしろうだ。まだ手にとって みてないけど。

◆東京大学出版会「歴史の描き方」全3巻。1『ナショナル・ヒストリーを学び捨てる』、2『戦後という地政学』、3『記憶が語りはじめる』。2巻まで でてる。おもしろそうではある。けど、スルーします…(笑)。
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ばんごはん

そーいえば、12月いっぱいで料理の仕事やめるんだったよな。ゆうがた5時には かえれるんだったな、と。

スーパーでバージンオイルと岩塩と乾燥のタイム(ハーブのこと)とバリラのスパゲティと塩の はいってないトマトジュースとウーロン茶とジャスミン茶とアッサムの紅茶とトウバンジャン(豆板醤)と生クリームをかってきた。

これだけあれば、すきなもん つくれそうだ。

きょうはサンマの塩やきと野菜のトマト煮込み。サンマのにおいが きついのでジャスミン茶といっしょに。

野菜のトマト煮込みは、豚肉たっぷりとインゲンとブロッコリーと ほししいたけと しめじとトマト1個と大根のうすぎりと白ネギを油で いためて、赤ワインをちょこっといれて、トマトジュースをどばっといれて、ちょっと油たして、バターをちょとだけいれて、岩塩とタイムと こしょう。最後にちょろっとバージンオイル。これは うまい。

貧乏性なので、あんまりトマト缶とか かいません。トマトジュースをつかいやす。それだと水っぽいのだが、そこはバターいれるなりすれば ええと おもうので。
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漢字の知識

漢字をかけるかどうかで ひとを評価するのは、くだらないことだ。さらには、漢字の知識を基準にして待遇が かわってしまったりするならば、不当なことだ。

毎日 漢字をつかっているひともいれば、漢字の知識が要求されない日常をおくっているひともいる。漢字の知識は普遍的な なにかではない。日本語をよみかきできるかどうかを認定するのに漢字がよめるかどうかを判断基準にどうしても ふくめなくてはならない必然性はない。

だが、漢字をよくしっているひとは、漢字の知識をだれもが共有しているべき社会生活の大前提であるかのように みなしてしまうことがある。

そんなひとでも、たとえばウェブ上の諸事情に くわしく通じていないことも当然ある。メールのあてさきを全角のローマ字で記入したがためにメールがおくれなかったり、ウェブページの「ソースを表示する」ということが理解できなかったりするわけである。ウェブを利用しているひとのうち、HTMLの知識をもっているひとなどは、ほんの一部にすぎない。

また たとえば、2ちゃんねるの利用上の注意をしっているひとなど、ほんの一部といえる。

あれこれ識字能力に たけているひとも、2ちゃんねるの利用上の注意をしらないことには、失敗してしまうことがある。たとえば、2ちゃんねる住人には、一瞬で ばれてしまう自作自演をやってしまうような。すべてのスレッドではないが、2ちゃんねるの かきこみには その日かぎりのIDが つく。

普遍的な知識や能力というものはない。自分にとって当然であることも、だれかにとっては異文化であったりする。

2ちゃんねるは、おそろしい空間でありうる。利用者の数という点だけをとっても、驚異的だといえる。だが、2ちゃんねるの おそろしさは、わたしや あなたが うたがいもしない「自分たちの日常」と、ほとんど かわらないのかもしれない。

わたしが当然だと おもっていることが、だれかにとっては「おそろしいこと」であるかもしれない。なにかを当然だと おもっている内容の問題もさることながら、それを当然だと おもっていること自体の問題もある。

「漢字の知識」を自明視するならば、漢字をよくしらないひとは、どうなるのか。それは常識がない、学がない、努力がたりないということなのか。だから、漢字がよめないことで不利になったとしても自己責任なのか。

ここで、「そうではない」と感じられるかどうかで、社会のありようは かわってくるのだ。
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ちょっと すげえよ

来年の1月は ちょっと すげえよ。

だってほら、柴田淳(しばた・じゅん)さんのシングルでるし。DVDつきの限定版もでるのよ。2月21日にはアルバムもでるらしい。うは!

そういう はなしではない。いや、それも かなり だいじなことだけど。


えーっと、まじめに かくと、2006年12月をもちまして、わたくしコックをやめることになりました。4月からまた もどってくることがあれば、もどってこいよという おことばをいただいておりますが、そういうことにならないように、よろしく努力していくつもりでございます。

1月に27才になるのでございます。そのまえに「計算どおりに」ことをはこぶことができて、ありがたく感じております。

てか、にせ-あべ・しんぞー(偽安倍晋三)の動画をご覧になりましたか? これは5回くらいは たのしめるのでわないかと。
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最近の読書/おわることはない

さむいですねー。

◆やっぱりね不安というのは大事ですよ。不安てか、これで いいんだろうかという。もちろん、そればかりでは だめで、バランスが必要なのであるけれど。毎日の生活のこともそうだけど、社会問題を論じるときには自己検証が たえず必要だと おもう。スタート地点からいうと いつの間にか自分の立場にも ゆれであったり、変化が みられる。ときに初心にもどりつつも、だけど方針をきっちり かえていく気がまえが いりますね。目的はなんであり、なにが重要なのか。どこをめざしていて、そこに いたるために なにを活用するのか。手段と目的をはきちがえたら いけませんものね。

まー、あいまいに かいてるけど、だれしも自分で自分の問題に気づくというのは なかなか むずかしいもので、なにか刺激をうけたときに はっとさせられるものだ。だから摩擦をおそれないというか、ちゃんと まじわる意志を維持しないとね。ひとりで うだうだ いっているかぎりは無敵なんだから。無敵だけど、なんの効力も もちえない、みたいな。

◆『前夜』4号(2005年 夏)。「〈女たち〉の現在」特集。「読み返すたびに発見のある文章を紹介していきます」という趣旨で金 伊佐子(キム・イサジャ)「在日女性と解放運動-その創世記に」が のっている。この文章はミクシィでの議論で おそわった。
代弁する前に自身の有り様を問い直し、周囲の日本人の意識変革、社会変革を実現してほしい。自身の意見と立場で放つ意見は他者の代弁よりも説得力をもつだろう。119ページ

日の丸や君が代を「在日外国人もいる」ことを理由に反対されるのは困ったものだ。人をだしにせず、はっきりと自分がイヤだから、強要される非民主性がイヤだから、その歴史性や社会政治性を拒否するからと自分の立場で反対してほしい。[中略]日の丸や君が代は日本の、日本人の問題である。自分のふんどしで相撲をとってもらいたい。120ページ
そうですねと感じるものの、実践するのは むずかしいことだ。だから実践しませんというのではない。まさに そうしようと努力しているつもりであっても なかなか確信が もてない。確信なんて もてないほうが いいのだろうけど。

◆『アナキズム』8号。小谷のん+乱乱Z改+タナカ「三バカの反アナーキズム対談」。この お三方による対談は2回目で、1回目のは6号に掲載されている。6号のも おもしろかった記憶があるが、くらべてみると今回のほうが断然いい。
乱:……ユートピアなんて実現されるかされないかわかんない。だけど、アナーキストは支配されたり支配するのがイヤだから、社会闘争になる、ということでしょ。
の:ぼくに言わせれば、支配が無い社会は良いなとは思っているけど、革命までやってくれなんて期待はしてないよ。
タ:奥崎は、そうじゃないんだよね。天皇がいない社会が良いと思ってやっているんじゃなくって、俺がイヤだからやっている。149ページ。
奥崎というのは、奥崎謙三(おくざき・けんぞう)のこと。

◆『医療化のポリティクス-近代医療の地平を問う』学文社。市野川保孝(いちのかわ・やすたか)「医療化の再検討-歴史的視点から」。やっぱり市野川さんは すごい。この論集は いろんな方面のことがらが とりあげられていて便利なのだけど、さわりだけが論じられていて問題を概観するには いいけど、つっこんだところまで いかない。けど、市野川さんのは よんでよかったと おもわせる。「現実の相対化は、現実への何らかの回帰を欠くかぎり、現実をそのまま放置する」。そこで医療社会学ができるのは「医療への批判的まなざしを維持しつつも、現実の医療を全否定せず、なおかつそこに何らかの形でコミットしていくということ」だという(49ページ)。じゃあ、どうやってコミットしましょうかというのを、市野川論文は論じている。

結局、関係性なのだよね。いま、どのような関係にあり、そこで、どのように関係するのか。

◆井谷泰彦(いたに・やすひこ)『沖縄の方言札-さまよえる沖縄の言葉をめぐる論考』ボーダーインク。でてるのをしらなかった…。琉球弧(りゅうきゅうこ)における言語抹殺のシンボルとして、方言札は さまざまに かたられてきたけれども、方言札がモノとして どんな形状であったのかとか、まさに具体的には ほりさげられてこなかったという指摘。そしてその ほりさげ。あんまり関連文献をよんでいないので きちんとした評価はくだせないのだが、とても参考になる本。ちゃんと よまねば。

ちなみに、わたしは方言札のことを17才のとき しった。NHKの番組だったと おもうが、かなりの衝撃だった。15のころに よんだ『アメリカインディアン悲史』とならんで、わたしの問題意識の土台をつくった衝撃だった。なんだか原点をなおざりにしてきた気分になる。

◆赤川学『構築主義を再構築する』。
少なくとも現代の社会問題を扱うときには、社会学者も、問題構築の当事者たちとともに、こうした課題を共有し、批判し、批判されるという対等性を引き受けざるを得ない。これは単なる研究者倫理ではなく、むしろ研究の質を高めるためにこそ要請される態度なのだと思う。人びとの構築を外側から眺めたり、内側から理解するだけではなく、自ら構築に携わらざるを得ない局面が存在するのである。14ページ
そりゃ当然ですよね。これも「どうかかわるか」という議論になってくるのだけど、こんな指摘をしないといけない社会学者というのが いるのかしらね。いるんだとしたら、おっかしな話ですね。対等性ってのが ちょっと ひっかかる。むしろ「すでに」非対称な関係にあるという現実からスタートしないといけないんじゃないかと。当事者と研究者の関係はさ。

ともかく、なにかを脱構築しようとするひとが、しばしば みずからの構築性に無自覚であるというのは けっこうあるはなしですね(13ページ)。なにかを否定することで、なにかの価値をみとめさせることが できるけれども、そうすることによって、また それが否定される可能性をもつということ。坂口安吾(さかぐち・あんご)風にいえば、
私は日本伝統の精神をヤッツケ、もののあわれ、さび幽玄の精神などを否定した。然し、私の言っていることは、真理でも何でもない。ただ時代的な意味があるだけだ。ヤッツケた私は、ヤッツケた言葉のために、欺瞞を見破られ、論破される。私の否定の上に於いて、再び、もののあわれは成り立つものです。ベンショウホウなどと言う必要はない。ただ、あたりまえの話だ。
(「余はベンメイす」『散る日本』1973年、角川文庫、101ページ)
ということになる。このへんが、あっぱれなんですよね。なにかをいうと、いやそうじゃないだろうと自分自身も感じてしまう。それでまた肯定してみたり。だけど、相対主義で かたづけてしまわないようにすること。

まとめると、なにか変革をおこすことに成功したら それで おわりなのではないということ。変革したあとが まっているし、そこでまた検証をしないといけない。また、「完璧な変革」をめざしてしまったら、もしも それが実現してしまえば、その状態を保守しつづけるしかなくなるということ。そこに支配が ともなわないはずはないということ(支配でもなんでもいいけど)。安吾は革命に反対していた。何度もくりかえし、「少しずつよくなれ」をくりかえした。ん? 何度も おなじことをいいつづけるのも必要だし、その覚悟がないと いけないということかもしれない。

引用ばかりになりました。
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「ほんとうの わたし」

よくあるはなしだけど、まえから かきたかった。

「あなたって こうですね」といわれると、「そんなんじゃないのに」と、いわれた本人は感じる。だけど、「あなたは こうですね」という発言は、「わたしには できないな」という意味であったりするわけで、それは自分をかたっている。わたしは こうだとか、あなたは こうですねというのは、結局、比較をしてのことなので、本人は そうでないと感じようとも、そうであるとも いえるし、そうでないとも いえる。そのひとの どの面をみて、どのように比較しているかによって かわってくる。

だれしも いろんな面をもっているもので、ある面をみせていたら、みせていない面は指摘されない。それで、「ほんとは そうじゃないのに」と感じたりもする。けど、その「ほんと」なんてのは、ほかの だれかには みせていて、そのひとには また別の面をみせていなかったりするものだ。まるい地球は いつも すべての面が太陽のひかりをあびているわけではない。スポットライトがあたれば、どこかは影に かくれるのだ。それを、「ほんとうの地球は」などと いっても しかたがない。

乱入者:しかたがないから、なんなんですか? 自分さがしは不毛だとか、ほんとの自分なんて幻想だと、あなたも そういうわけですね?

そうですが、なにか。「ほんとは そうじゃないのに」というのも、そのひとにたいして ちがうといっているのと同時に、自分の理想のあらわれなんですよ。逆にいえば、「そうじゃない自分」にたいする不満のあらわれなんですよ。「ただ ちがう」んだったら、「べつに ちがうけど?」で かえせるわけですよ。

乱入者:べつに ちがうけど?を100回いわされたという場合もあるでしょ。きめつけてんじゃねーよとか、そんなん いわれても くすぐったいんだよとか。そうも いいたくなるときがあるでしょ。

そういうこともある。ともかくだ。他人でも自分でも、限定してしまわないほうがいい。自分さがしが新境地をもとめるものならば、それでも よろしい。けれど、そこに安住してしまうなら、自分をしばっているだけのことだ。

けれども、ひとが おいもとめているのは、安住の地ではないのか。自分さがしとは、「安心」をさがしているのか。そうかんがえてみると、納得がいく。不安のあらわれなんだと。

乱入者:それが いいたかった。
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東京にいってきた

多言語社会研究会第4回大会。そのうちレジュメなどがサイトにアップされるそうだ。

土曜日は途中参加。講演は、頭に はいってこなかった。懇親会で顔をひろめるわけでもなく、おとなしく すごす。そのあと ひとりでネパール料理。チョーメンというスパイスのきいた やきそばと、タンドリーチキンとナンを食す。うまい。

日曜日はきちんと参加。前半は、「へー」はあっても刺激的ではない。全体でも感じたが、「言語と方言」がやっぱり問題になってくるのも わかるのだけど、なんかなー。方言とみなす権力があったり、言語とみなすナショナリズムがあったりするだけでしょ。あとは言説の力関係で、なびかれたり、反発したりで。それだけのことじゃないかと。

シンポジウム。安田(やすだ)さんの報告が安心して きけた。「革命」って、具体的になに?と感じたら、壇上の砂野(すなの)さんが質問してた。お茶をにごしていたけど、具体的なイメージがないわけじゃないようにみえた。藤井(ふじい)さんの報告へのコメントで「漢字は表意文字で、概念をあらわす」とか、いろいろ「いっておられる」ひとが いたが、「概念」って なんなんですかとココロのなかで つぶやく。その批判は論文にかきますわ。まー、いろいろ かんがえさせられたが、とくに砂野幸稔(すなの・ゆきとし)さんの著作をよんでみたくなった。

そのあとの居酒屋で すこしだけ顔をうっておいたので、まあよしとする。来年は障害学会にちゃんと いこう…。

月曜は、たのしい時間をすごしました。
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近刊『ことば/権力/差別』

NR出版会新刊重版情報に のっていました。

ましこ・ひでのり 編著『ことば/権力/差別―言語権からみた情報弱者の解放』三元社。

2600円の税別ですね。たまには強調してみる。わたしも かいてます。

くわしいことは、出版されてからということで。
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