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いま、そのとき、かんがえつつあること。

青空文庫で安吾がよめる/『トリック』

2006-06-27 | ブログ
◆なんども引用している坂口安吾(さかぐち・あんご)ですけども、安吾なんて よんだことないよ、というかたも たくさんいらっしゃるはず。よんでも よまなくても、どーってことは ないんだけど、わたしは、あれこれ「いいとこどり」してきました。

安吾が死んで50年たってるので、著作権保護期間が きれているのです。ということは、青空文庫で安吾の作品が公開されるのです。それをふと おもいだして、「枯淡の風格を排す」とか公開されてるかなーって検索してみました。まだでした。けど、かなり公開されてますね。ありがたや。

リンク:作家別作品リスト:坂口安吾(青空文庫)

「安吾巷談」も、「咢堂[がくどう]小論」も、「風と光と二十の私と」も。さらには、「教祖の文学」「デカダン文学論」も、「日本精神」も よめまっせ。「デカダン文学論」とか、「教祖の文学」いいやねえ。「風と光と二十の私と」の、ゆったりと叙情的なかんじも すきだ。

もちろん、「日本文化私観」とか、「堕落論」「続堕落論」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」などの代表作もよめる。「日本文化私観」は「日本精神」と あわせてどうぞ。

「地方文化の確立について」もあるねー。

◆ところで、『トリック』というドラマシリーズ(いま劇場版の2が公開中のやつ)が だいすきなんですけど、あれは地方文化というか、「民俗学的ムラ文化」をはげしく ちゃかしていて おもしろい。「あの」『トリック』「独特の世界」を演出するのに、「ムラ文化」をうまく利用している。

え、オリエンタリズム?

うん、それはあるんじゃない? けど、社会に流布している「ムラのイメージ」をパロってる(パロディーにしてる)という意味では、「ムラ・オリエンタリズム」への痛烈なつっこみであるとも いえるんでないかい?

いや、それは おーげさだと おもうけども。そうとも いえる。いや、やっぱオリエンタリズム…。←ふりだしに もどって100回ほどループ。

メディアにおけるオカルトばやりをちゃかしているとも いえるけど、まあギャグドラマですからねえ。スプラッターな(血みどろな)場面も ちゃんと(?)あるのも「うり」のひとつだけどさ。

ていうか、ドラマの『トリック2』と『トリック3』は まだみてない…。放送してたとき、韓国にいたから(『トリック2』の途中から)。

…ということです。なにがか しらないけど。

ブラウザ「Opera9.0」

2006-06-22 | ブログ
◆Opera9.0正式版がでてたのでバージョンアップ。

「ウィジェット」とかいう わけのわからない機能が ついたのは どうでもいいけど、ツールバーでの検索が便利になった。ヤフーでも、楽天フリマでも、国会図書館のサイトでも、検索窓で右クリックして登録すれば、ツールバーから検索できるようになる。

まえも、ツールバーに検索エンジンをふやしていくことはできたが、いかんせん作業が めんどくさかったのね。

これで たのしい検索生活が。

◆あと、あれ、Operaってgmail(グーグルメール)に対応してたっけ?、なんだ対応してるのかと、さっそく招待してもらった。gmailはウェブ公開用に最適ですやね。ま、いろんな つかいかたが できそうだけど。

◆近所の電気屋にいってみたら、マックは おいてなかった(笑)。

◆ていうか、火曜日は職場に たべにいって、半額でスペイン産のイベリコブタをたべた。うまい。16才の同僚と ふたりで あれやこれやをたらふくたべましたとさ。

リンク:「Opera9」
グーグル:「イベリコ豚」

ブタは どこにいったのか

2006-06-20 | 料理
どこに、というのは半分 比喩的な表現ですけどね。

わたしは、一部では有名な花崗岩の産地で うまれた(岡山市)。いまとなっては、町内に在日朝鮮人のがあったことをしってはいるが、どこに あったのかをしらない。いや、まだ すんでいるんであって、わたしが しらないだけだ。みえなくなったわけだから。

地名で検索していて、むかしは町内でブタが飼育されていたことをしる。当時、おおくの被差別者が家畜の飼育に たずさわっていたことくらいは わかる。かんがえてみれば わかることではあるが、いままで、その光景がイメージできなかったのだ。いや、いまもイメージすることはできない。

わたしの年少のころからいっても、近所の風景は おおきく かわった。かわったのは わかるが、その「年少のころ」の風景が うまく おもいだせるわけでもない。

郷土史をひもとかねばと おもう。

マンガ『特攻の島』には主人公が残飯を回収して まわるシーンがでてくる。自分のうちで飼育しているブタのえさだ。

全体的に まずしかった時期だったから残飯を回収する光景が みられたんだろうし、まずしいなかで、上下のランクをつけていったのだろう。では、わたしの町内のブタは、いつ いなくなったのだろう。つまり、ブタの飼育が おわったのは、いつごろなのだろう。そして、システム化された屠場が できはじめたのが、いつごろなのだろう。

いわゆる「「少年」のような」疑問ではあるが、しらずには おさまらない気がする。

上原善弘(うえはら・よしひろ)『被差別の食卓』(新潮新書)から引用する。
わたしが子供のころ、むらの端を流れる川には、近くの肉工場から流された血の線がゆらゆらとのびていた。ドブ川には、牛舎から逃げ出した子牛が突っ伏して死んでいた。草っぱらには犬が拾ってきたのか、まだ肉のついた牛のほ足骨が転がっていた。
(前略)…現在のむらはもう、以前の差別と貧困にいじめられたスラム的な姿ではない。現在の被差別問題は、そこに住む民自身をも内包し、さらに複雑な様相を呈している。(中略)この30年、日本中のどことも同じように、むらの風景も大きく変わった。(168-169ページ)
わたしは、ブタをみることなしに、ただ、「朝鮮人をばかにする歌」をきいてそだった。ブタは、どこにいったのか。

マンガ『特攻の島』

2006-06-20 | 国家と権力
『ブラックジャックによろしく』、『海猿』の作者の佐藤秀峰(さとう・しゅうほう)さんが『特攻の島』というマンガをかいている。5月に単行本の1巻がでたばかり。

アジア太平洋戦争末期における海の特攻隊、人間魚雷「回天」についてのもの。まだ序盤なので、どう展開するのか わからない。まだ作者の視点は そんなに でていないように感じる。

とりあえず興味をもったのは、巻末に あげられた取材協力さきと、主要参考文献。取材協力は、全国回天会、靖国神社遊就館、周南市回天記念館。主要参考文献は、『「回天」その青春群像』(上原光晴 翔雲社)、『あゝ回天特攻隊』(横田寛 光人社)。ふむ。

ありがちな話になるのかどうか。アマゾンのレビューは、どうかと おもうよ。まだ わからんからね。

ウィキペディア:回天

「応援ひとり」とか いんじゃねーの

2006-06-19 | 国家と権力
「劇団ひとり」ならぬ、応援ひとり。どーですか。

応援団、つまりは集団なわけですよ。集団。これが いけません。

「日本代表」って いいますね。さて、野球でもサッカーでもなんでも いーけどもね、プロ選手の代表なんじゃねーの。アマチュアから「代表」が えらばれることも あるのかもしらんけど、ともかく「選手」の代表。なんで「日本の代表」とかに飛躍するかね。「あのひとたち」を自分らの代表だと みなすことによって、「あのひとたち」に代表されることによって、代表と全体と自分をつらねあわせる。わたしゃ、「代表」と「全体」と「自分」を全部きりとりたいね。できるかぎり。勝手に ひとりで「アイデンティティからの自由」を宣言して、自分の たち位置から のがれようとしたくは ないけど(なるべくねえ。けど、たびたびしてるかもしらん)。

ん、どういうこと?。

うーん、なんといいますかね。ひとは、関係性をいきている。その関係性ってもんがだね、現に つらなっている関係もあれば、むりやり むすびつけてる関係ってもんも あるってことよ。現実を直視するのは まんざらではないが、飛躍は こまりまっせ、ってこった。

坂口安吾(さかぐち・あんご)が かいたものに『安吾巷談』というのがある。敗戦後の日本の風景を論評したエッセイだ。そのなかに「世界新記録病」というのがある。たとえば、「レースというものは、せりあいにあるのである。決してタイムが相手ではない。タイムが相手なら、日米一堂に会してレースをやる必要はない。銘々各地で記録をとってくらべ合って、オレが一番だ、アレは二番さとウヌボレておればすむことなのである」なんていう勝負論が かいてある。ここで紹介するのは、「私は応援団というものがキライである」という部分。
スポーツは勝負を争うものではあるが、好戦的なものではない。礼節と秩序のもとに競う遊びにすぎない。応援団というものは、スポーツから独立して、勝負だけを旨としており、愛校心という名をかりて、いたずらに戦闘意識をもやしており、あの校歌だの応援歌というものは、坊主のお経によく似ているなァ。ああいうブザマな音響は、つつしまなければいけない。集団の行動というものは、底に意気(粋)の精神がなければ、ジャングルの動物郡とそう変わりはないものだ。応援団には粋の心構えなど、ありやしない。自分がスポーツをやる当人でもないのに、全然殺気立っている。
「応援ひとり」に はなしをもどしましょう。要するに、応援ひとりというのは、飛躍としての集団への帰属から、独立するということではないでしょかね。

そもそもだね、うまいひとらがゲームをやってるのってのは、みていて おもろいもんだよ。それぞれの選手についての予備知識というものを、なるべく もたないほうが、ゲームそのものをたのしめるんでないですかね。お、いまの すげえ、みたいな。選手になったひとらだってさー、いろいろ うまい条件が かさなったから選手になれたんであって、たんなる「努力の産物」ではないよ。

ひとりでゲームをみて、たのしむ。応援ひとりっていうか、そもそも応援しない。ただ、みる。ていうか、わたしはゲームをみない(え…)。それ、「応援しない」とか「興味ない」ってやつでは。

わたしの はなしは どうでもいいさね。応援団より応援ひとりのほうが、なんか すてきだってことだ。「孤高のひと」と いいますね。なんか孤独なんだけど すごいひとのことを。孤高。つまりは、おたかいところにいるわけです。そして、群衆は…。シモジモというように…。きゃーっはっは(ん、きょうは こういうキャラのようです)。

いやね、ぬきでるためでもなく、えらぶるためでもなく、ただ、ひとりの わたしであろうとすること。それって だいじなんではないでしょうか。

「ウェブ魚拓」

2006-06-14 | ブログ
新聞社のニュース記事など、ウェブ上の文書は削除されて参照できなくなるということがありますよね。いわゆるリンクぎれ。

ブログなどで よく新聞記事をリンクしているひとは、「ウェブ魚拓」というサービスをつかうと よいようです(ウェブページのキャッシュを記録してくれる)。小田嶋隆(おだじま・たかし)さんのブログで しりました(「恫喝」を参照)。

「ウェブ精米」というサービスもあり、こちらは ながいURLを圧縮してくれる。

ファン・ウソク事件を論じる本(韓国)

2006-06-13 | ほん
ファン・ウソク事件(科学論文におけるネツゾウ、卵子収集における倫理問題など)というのも、世間の話題からは とおざかってしまいましたね。韓国では どうなのでしょうか。ということで、アラディンで検索しましたよ。題を訳して かんたんに紹介いたしましょう。

『沈黙と熱狂―ファン・ウソク事件7年の記録』(2006年)
「2006年5月21日の検察による捜査発表によってある程度ひと段落しつつあるファン・ウソク元ソウル大教授のES細胞研究スキャンダルの全貌をおさめた」だそうです。

『ワナにかかったファン・ウソク―緊急報告書』(2006年4月)
「2006年現在ファン・ウソク教授をすくう国民運動本部長として活動している著者がES細胞事件の内幕をあばいた緊急報告書。ファン・ウソク博士周辺の科学者勢力、韓国のキリスト教、企業と政治家と言論まで、既得権勢力らの合作による「ワナにかかった」ファン・ウソク博士のすがたを告発する内容をおさめた」だそうです。擁護派による本ですね。

『神話の墜落、国益の幽霊―ファン・ウソク、PD手帳、そして韓国のジャーナリズム』(2006年5月)
「2006年5月21日の検察による捜査発表によってある程度ひと段落しつつある状況からファン・ウソク事件をふりかえり、その争点を議論する。事態のきっかけとなったテレビ番組「PD手帳」のチェ・スンホ、ハン・ハクス プロデューサーをはじめ、時事評論家チン・ジュンゴン、イ・ヒョンギ ピッツバーグ大教授など、当時、事態の核心にいた人物らと、事件にたいし重要な視点を提示した人物らが執筆者として参加している」だそうです。

『ファン・ウソクの国―ファン・ウソク事件は韓国人になにをかたっているか』(2006年3月)
「2005年韓国をたいへんな衝撃におちいらせたファン・ウソクES細胞スキャンダルをふりかえり分析した本。当時、東亜日報医学専門記者として事件を言論の現場で生々しく目のあたりにすることのできた著者が、言論、科学、政治、社会などの分野別にファン・ウソク事件によってあらわになった韓国の社会全体的不実をつよい語調で批判した」そうです。→『創作と批評』132号に書評掲載。

『歴史批評』74号(2006年2月)
「特集 科学技術学者たちが「ファン・ウソク事件」を本格的に分析する」論文4本。

『緑色評論』86号(2006年1月)
「特集 ファン・ウソクと科学、そして「発展の神」」論文5本と対談1本。

ほかにもいろんな月刊誌の記事などがあったけど省略。

ブログ内リンク:「ファン・ウソク シンドローム」

地震と本だな

2006-06-12 | ブログ
地震で めがさめた。ちょうど電気とCDがつけっぱなしで ねていて、ちょうど半分おきてたもので(たぶん)。すやすや ねてたら、おきなかっただろうな程度のゆれ。

阪神淡路大震災のときは、けっこうベッドごと ゆれたように おもう(いまも当時も おかやま市民)。あれだけの ゆれだったら、まくらもとの上にある本だなが くずれてしまうのやもしれません。板をかさねて自分で つくった本だなですからの。今回のことで、あんがい頑丈にできてることが わかった。ま、まくらもとの本だなは危険というほどではない。すぐ横の本だなが あぶなさそうだ。でも、くずれても こちらに被害はない。

さーて、やすみの日に はやおきしたので、時間を有効につかってしまおう。

九州と中四国で地震か。中国地方の地震は、ちょっとめずらしい気がする。

翻訳書『大韓民国は軍隊だ』/映画『もし、あなたなら』

2006-06-09 | 国家と権力
『大韓民国は軍隊だ』という韓国の本があって、よみたいなと おもっているわけなんですけど、書名をちょっと日本語でググってみました。すると…。

なんと! もーすぐ翻訳がでるというではありませんかあああ。立命館大学のサイトに「第三世界とジェンダー論I」という授業のシラバスがあって、そこに近刊とあります。この講義を担当されてる山下英愛(やました・よんえ)さんが翻訳されたのですね。てか、この講義すげえし。

山下さんの活動に注目させていただきます。ていうか、山下さんの存在をしらなかった わたしは いったい…(ひざまづいて ためいき)。それだけ、ちゃんとチェックしてこなかったということですよね。ま、それは自分が いちばん わかってることで。

◆ついでに宣伝。さっきレンタルビデオ屋いったら、韓国のオムニバス人権映画『もし、あなたなら』があった。びっくりした。韓国の国家人権委員会が企画して、6人の監督に自由につくらせた映画だったと記憶しています。国家人権委員会は、ちゃんと国家保安法を廃止せねばと機関誌『人権』において主張してる。『人権』誌はバックナンバーが10冊くらい わたしのところにあるし、ウェブでも よめます。こんど紹介文かくかなー。

てか、ある雑誌にそういう韓国のはなしをかいてくれと いわれてるんだった…。よし、せっかくだから『もし、あなたなら』の映画評にしようじゃないか。

『もし、あなたなら』は、なかなか おもしろいので どうぞどうぞ。容貌とジェンダー、前科者、障害者、こども、移住労働者などの はなし。てか、あの幽霊の話は、女性差別がテーマなのか? まあ、とりあえず もいっかい みてみますね。

グーグル:「大韓民国は軍隊だ」 / 「もし、あなたなら」

ひさびに本屋

2006-06-08 | ほん
岡山大学の生協で本をかってきやした。

すでにメモっておいた本では、◆『証言の心理学』(→よみやすい良書)、◆『言説分析の可能性』、◆『知的障害者家族の臨床社会学』、◆『神と自然の科学史』。

あとは、◆見田宗介(みた・むねすけ)『社会学入門―人間と社会の未来』岩波新書。◆佐藤泉(さとう・いずみ)『国語教科書の戦後史』。

◆上原善広(うえはら・よしひろ)『コリアン―幻の韓国被差別民 白丁を探して』。韓国の本をペクチョン(白丁)で検索してみても『ペクチョンとキーセン』と『ファラン考、ペクチョン考、ノビ考』、大河小説の『ペクチョン』くらいしかヒットしないという現実があり、ペクチョンについては むしろ日本で出版された本のほうが たくさん あるんでないのかという印象をもっている。韓国で話題にしてみても、みんな しらないしね。ま、わかいひとは しらないか。本もね、もくじ検索したら もっと みつかるんだろうけど、そこまでの熱意をもって しらべていません。ペクチョンについては『週刊金曜日』で記事をみかけます。あとは、解放系の人権雑誌。

『コリアン』の著者さんは、『被差別の食卓』をかいた ひとですね。あらー、そっちは まだ かってないやん。わすれてた。肉食と差別が ひそかな研究テーマなのに(笑)。

◆尹載善(ユン・ジェソン)『韓国の軍隊―徴兵制は社会に何をもたらしているか』中公新書。これよんだら、『大韓民国は軍隊だ』(朝鮮語)をよもうかしらね。韓国に徴兵制がなかったら、もっと男性の ともだちが できたろうになーって おもいますですよ(笑)。兵役免除のひとばっかと仲よしだったりします。

◆そして、保苅実(ほかり・みのり)『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』。2004年の本だというのがショックだが、ともかく、ありつけたことに感謝感激。本屋、図書館で みかけたら手にとってみてください。魅力にあふれた本ですわ。

◆山崎敬一(やまざき・けいいち)編『モバイルコミュニケーション―携帯電話の会話分析』と桜井厚(さくらい・あつし)編『戦後世相の経験史』も ほしかったけれど自粛。

グーグル:『ラディカル・オーラル・ヒストリー』

PDFリーダー

2006-06-06 | ブログ
PDFファイルをひらいて、おもい…。パソコンかたまりそう…。よみづらい…などなどの不満をもたれたことのあるかたは、けっこう いるんじゃないでしょか。そんな わたしもPDFは いやだったのですが、なんと! ADOBEのPDFリーダーじゃなくても、ほかのも あるんですって。

わたしが紹介されたのは、foxitリーダー(リンクは窓の杜)。いやー、これがPDF?ってかんじでしたわ。

これでなくても、いろいろあるみたいです。くわしくは、ググってください。

グーグル:「PDFリーダー」

ちなみに:foxitはウィンドウズ用のソフトなのですが、マックはそもそもPDFの表示が はやいらしい(笑)。

よだんですが:さて、デスクトップをかうつもりなのだけど、ウィンドウズにするか、マックにするか。なやましい。はやいとこマックに なれておいて完全に のりかえたいので、やっぱマックかしらね。

新刊メモ

2006-06-04 | ほん
ゆっくり本屋にいく時間がないので、わすれないうちにメモしときやす。

◆高木光太郎(たかぎ・こうたろう)『証言の心理学―記憶を信じる、記憶を疑う』中公新書。ロフタスの本をよむのは たいへんそーなので、とりあえず これでも。

◆大野裕(おおの・ゆたか)『「心の病」なんかない。』。表題には、そこまで ひかれないけども、内容が まあまあ よさそう。かわないかもだけど。

◆伊藤幹治(いとう・みきはる)『日本人の人類学的自画像―柳田国男と日本文化論再考』。おっと(笑)。これは、だれかさんが くいつきそーですね。あーそっか。『柳田国男と文化ナショナリズム』をかいてるひとね。

◆中根成寿(なかね・なるとし)『知的障害者家族の臨床社会学』。去年の障害学会で司会をされていて、ほれてしまいました。たいへん明晰な感じでしたす。この本も興味をもたせる構成になっていますね。ともすると、「そのこと」に感心のあるひとしか よまないテーマであろうけどさ。

◆マイケル・オリバー『障害の政治―イギリス障害学の原点』。原著がでたのが1990年。オリバーは『障害を理解する』(1996年)も いいらしいですね。ハーラン・レイン『善意の仮面―ろう者コミュニティを障害化する』の翻訳は でるんですか、でないんですか。

◆佐藤俊樹(さとう・としき)/友枝敏雄(ともえだ・としお)編『言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から』。

◆植田晃次(うえだ・こうじ)/山下仁(やました・ひとし)編著『「共生」の内実―批判的社会言語学からの問いかけ』三元社。植田さんのが おもしろそ。

◆東村岳史(ひがしむら・たけし)『戦後期アイヌ民族―和人関係史序説 1940年代後半から1960年代後半まで』三元社。序章、第7章に つよく ひかれる。必読でしょう。

◆畠山弘文(はたけやま・ひろぶみ)『近代・戦争・国家―動員史観序説』。話題ですね。

『バックラッシュ!―なぜジェンダーフリーは叩かれたのか』(←「『バックラッシュ!』発売記念キャンペーン」ブログ)。もっと話題ですね。てか、『ジェンダー・フリー・トラブル』も よまねばー。

◆酒井邦嘉(さかい・くによし)『科学者という仕事―独創性はどのように生まれるか』中公新書。この本は、けっこう よまれるでしょうね。

◆飯島朋子(いいじま・ともこ)『映画の中の本屋と図書館〈後篇〉』。前篇は2004年にでてる。

最近ウェブで みつけた本は、もっとあったのだけど、記憶にございません。あと、◆『権力構造としての「人口問題」―女と男のエンパワーメントのために』が よみたくなりました。1998年に翻訳がでた本です。

2ちゃんねるに さらされる(3回目?)

2006-06-03 | ブログ
ひさびさにサイトが2ちゃんねるに さらされてるなと おもったら、ハングル板でした(くすくす)。いわゆる反韓のひとたちが つどってる板ですの。ハングル板は、いっぺんだけスレの全員を相手に かきこんだことがあるなあ。そのときはサイトが さらされたわけでなくて、ななしさんとしての参加だったわけだが。

2ちゃんねるは、まさに超巨大掲示板なわけだけど、ゆっくりと消化されているスレだと、常駐してる ひとというのは かなり すくないのよね。で、あとは たまに かきこむひと、一回だけのひとがほとんどというのが実状でしょう。

今回は、「【はんぐる】ひらがなだけでかくすれっど そのろく」84番目のレスに。

「降臨」はしませんよー。もー、わすれられてるみたいだし(笑)。でですね、こういうふうにサイトがさらされても、そこからアクセスしてくるひとというのも、あんま いないわけですよ。ほんと、かぞえるほどのアクセスだけ。しかも、リンクされてたページをみるだけで、サイト内をあちこち みてまわるということは、あんまりない。ましてや、このブログに たどいついた ひとなんて いないでしょうよ。

「炎上」するケースというのは、かなり注目をあびたときだけなので、わたしのような「コモノ」は、安心していられるのです。

てゆーか、うえに りんくした「すれっど」は、みなさん ちゃんと ひらがなだけで かいてて えらいですね(わらい)。

なーんてこと かいたら、こちらに降臨するかたが でてくるのかしら。でてこないと おもいますけど。

さらされたのは、「現代日本における「識字」のイデオロギーと漢字不可欠論」というページで、わたしの卒論を紹介した内容ですの。このページには検索エンジンからのアクセスも おおいので、関連ページへのリンクをつけくわえときました。これでよしと。

映画『エイミー』

2006-06-02 | 映画
あーうーあああああああ。卑怯だ。残酷だ。胃が いたくなるじゃねーか。ぼろくそに ないてしまったじゃないかああああ。

パパンがロックスターで、パパンがライブで感電して死んじゃって、それがエイミーのトラウマになって、それからの話なのだが、くそおおおおお。パパンが死んじゃうのは もう わかっているのだけど、ためるわ、ためる。死んじゃうシーンまでパパンはナイスに うたってるわけだけど、いまかいまかと びびりながら みてて、音楽なんか たのしめねーよ。音のかるいロックで、わたしゃ、もっとズンズンくる おもたいのが いいんだけどなーなどと すこーし感じながらも、心臓が しめつけられるような時間をあじわされた。この ろくでなしいいいい。

近所の住人たちが どいつも こいつも変人のあつまりで、これがなかなか つぼでした。愛すべき隣人たちみたいなね。パパンがエイミーのために つくった曲というのが たいへん よろしくて、サントラほしいかもという感じ。

なんで児童福祉局のひとは、たいがいワルモノに えがかれるんでしょね(笑)。『アイ・アム・サム』とかも そうでしょ。

『アイ・アム・サム』も ぼろくそに ないちったねえ。『アイ・アム・サム』は、韓国の院生時代に映画ずきのセンセの授業で、受講生そろって映画館いきました(笑)。あのセンセの授業では『レインマン』、『いまを生きる』、『ネル』なんかをみたねえ。ロビン・ウイリアムスがセンセ役の『いまを生きる』は、反権威主義、ジョディ・フォスターの『ネル』は、反行動主義(行動療法)の題材として みました。権威主義的な教授さまばかりの韓国というかテグ大学特殊教育学科(あひゃ)で、なかよく はなせるセンセのひとりでしたわよ。あと、ふたりくらい いましたやね。そういうセンセが。

おっと、いつもの くせがでてしまった。はなしをもどしましょか。

エイミーのトラウマってのが、また過酷だー。児童心理学者が 「いまこそトラウマをとりほどく瞬間だ!」って感じでエイミーに たたみかけるのに、すこーし苦笑。『グッド・ウィル・ハンティング』もさー、主人公ウィルとの関係性をきずきあげて、これでカウンセリングは おわりだってときに、精神科医が いうじゃないですか。おなじ ことばをくりかえしてね。あのシーンは何度みても なけるけど、あれは「いまだ!」って ちょっと ねらってるとこあるよね(笑)。それがプロってやつか。ともかく、エイミーのトラウマが あきらかになるときの、あの胸が しめつけられる感じは きついよ。さっきみたばかりで、それでも40分はたったけど、まだ胃が いてえええ。こっちがトラウマになるわ!(ならねーよ(笑))。ママンのトラウマのシーンもだよなあ。あのシーンでも なきじゃくるママンの写真をとりまくるオトコというワルモノが(笑)。「きわだて役」ということになるわけだが、もちょっと心臓にやさしいやつで おねがいします。

こどもが でてくる映画は、やっぱ ないちゃうね。さめたひとは、こどもをダシにした「お涙ちょうだい映画」とか いうわけだけど、それは そうだけど、でも みてしまうやね。

『アイ・アム・サム』は、ミシェル・ファイファーが ぶちきれるシーンが すきですわ。「『わたしのような人』だって、これこれあれこれなのっ!」というとこ。あと、こどもの里親になろうとしたひとを排除しなかったところとかね。

『エイミー』。あれ? これどこの英語?と おもったらオーストラリアの映画でした。とても残酷だけど、やたら くやしいけど、とっても すきだ(笑)。えーん。(と、