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いま、そのとき、かんがえつつあること。

投票率と民意の反映

2005-08-25 | 国家と権力
投票率が たかいほうが いい理由とは なんだろうか。

全体の民意が反映されたほうが民主主義にとって理想的だからなのだろうか。それとも、「投票に いこうとしない人たちに自民党以外に投票してもらいたいから」だろうか。つまりは、「自分が のぞむどおりの選挙結果になってほしいから」なのだろうか。それが わからない。

どこかで おもっていないだろうか。投票率が あがれば、自民党人気も うすらぐのになと。

投票に いかないのは、「やつらの おもうつぼ」だという話もある。「やつら」って だれだ?という話は おいといて、「おもうつぼ」論の おかしなところをかんがえよう。これは、「投票で自分の のぞみをかなえたい人」にとって、選挙が「おもいどおりにならない」から問題にしたいのではないか。「おもうつぼ」の反対語が おもいうかばないけども。

選挙なんてものは、どうしても有名人が当選するし、金もちにとって有利な仕組みになっている。これは、否定しがたい話だろう。それならば、「少数派にとって『よりよい』社会をきづきあげるための手段としては」、投票行為は無力ではないか? ここで問題になるのは、「完全に無力」ではないという点にある。だからこそ、わずかな のぞみをたくそうともするわけだ。「まったくチャンスがないわけではないのだから」と。わたしは、この点にこそ欺瞞を感じる。卑怯な制度であると感じる。社会の多数派(あるいは一部の権力者)にとって好都合な制度であるにも かかわらず、それを「民主主義」という「すてきな表現」で いいあらわすのは ごめんだ。ごまかしじゃないか。

理想的だから選挙制度で やっていくのではない。「さすがに くじびきはねぇ」という民意があり、非現実的だという判断があるから、必要悪として選挙制度でやっていくのではないか。理想的でもなく、民主主義的でもないけれども、とりあえずは「ましな制度」としてしか選挙制度は肯定できない。すくなくとも、わたしは。

ここまで のべてきて、「だから投票には いかない」という話になりうるけれども、「それでも、選挙で民主主義が達成できるとは夢にも おもわないけれども、投票にいく」という選択もありうる。わたしは、自分を固定するつもりはない。

グーグル:「投票率 民意の反映」
トラックバック送信先:「ふたたび倉本さんへのトラックバック+ひつじさんからのコメントについて 」「今日、考えたこと」
関連リンク1:「政治というものそのものへの参加を拒否する自由」について「今日、考えたこと」
関連リンク2:「選挙」 / 政治からの自由倉本智明のWeblog☆海月帳

『ヒカルの碁』

2005-08-23 | ほん
人気マンガの『ヒカルの碁』を読了。やたら おもしろい。「あざとい」とまで いいたくなるくらい、よくできてる。名作ですね。

どんなものでも、すたれるときは すたれるし、ぶりかえすときは ぶりかえす。諸行無常のひびきあり。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくにごとし。
ということですな(「方丈記 - Wikibooks」より引用)。

連載当時の人気ぶりをしらないので、よく わからないけども、このマンガの影響力って すごかったんでしょうね。碁のルールくらいは おぼえて、あそべるくらいには なりたいって おもいましたもの。こどものころ、五目ならべがすきだったのをおもいだしましたよ。五目ならべで いいから やりたい。23巻も でてるので、なにかと注目どころが満載だった。

なにか ひとつのものに着目して壮大な物語をつむぐとき、それが いつの間にか普遍性のもつ話になっていることがある。これも そういった物語だ。「人間が よく えがけている」ってことですね。

最後に ちがう話をしよう。主人公だからって なんだ? 主人公なんて、たまたま えらばれたものにすぎないし、ほかの登場人物が主人公だって いいわけだ。設定上そうなっているだけのことで、主人公というものは、人間の数だけ存在する「主人公」のなかから、作者の視点と都合によって つくりだされ、えがかれるものにすぎない。すくなくとも、この作品ではそうだ。だから おもしろいわけですよ。『ヒカルの碁』は。………と。(最近、なにか よんだり きいたりすると、アマゾンのレビューをみるのが習慣になっている。いろんな感想があるわけだけど、ちゃんと よんだのか?ってのもありますね。それも いいんですけどね。)

グーグル:「ヒカルの碁効果」

「心理学化する社会」のなかで

2005-08-16 | 心理学
前から ほしかった◆ウルズラ・ヌーバー『〈傷つきやすい子ども〉という神話-トラウマを超えて』が文庫になっていた(岩波現代文庫)。

よしよし、これでトラウマ関係の本は だいたい そろった。うえの本と おそろいでオススメなのは◆ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』(文春文庫)。これは よみやすいし、勉強になる。

あと、いまさらながらに発見したのが◆實川幹朗(じつかわ・みきろう)『思想史のなかの臨床心理学-心を囲い込む近代』(講談社選書メチエ)。この本は、心理学が近代の産物であることを指摘し、「現代社会の心の病」をうみだす構造と おなじ構造のなかで臨床心理学の実践と理論が成立しているのではないか?という問題設定をたてている。同時に、臨床心理学を「宗教的なもの」として とらえて論じている。おもしろそうな本だ。メチエは、いい本だしてるなぁ。

「心理学化する社会」というコピーは、◆樫村愛子(かしむら・あいこ)『「心理学化する社会」の臨床社会学』によるもの。まだ入手してませんが。かわりに◆斉藤環(さいとう・たまき)『心理学化する社会-なぜ、トラウマと癒しが求められるのか』をかるく よんだ。まぁ、おもしろい。自分自身も批判の対象にならざるをえないことを自覚しつつ かいているのは いいのだけど、「事件報道にかつぎ出される精神科医」の章で、メディア対策として「僕は『精神分析』という、たいへんうさんくさい立場からコメントする。精神分析家ですらない僕が精神分析的に語ることで、『真実の語り手』という立場を、常に免れることができるはずだ」というのは理解できなかった。世間一般において、精神分析というのは「たいへんうさんくさい」のだろうか。まだ そんなことはないと感じられる。自分も「真実の語り手」と みなされるだけの権威をもっていること、もたされていることを自覚したほうが いいのでは ないか。

最近でた本で すばらしいのは◆宮地尚子(みやち・なおこ)『トラウマの医療人類学』(みすず書房)。「大学で平和社会論を教えるいっぽう、精神科医として医療人類学・文化精神医学にかかわり、性暴力についてのカウンセリングや難民医療にも力を注いできた」という著者の活動内容と問題意識が、非常に力づよい本にしている。すこし引用しよう。
共感の政治学。誰が誰に共感をもって、痛みを感じ取るのか。誰が誰と自分を同一視して、敵味方の構図を作り上げるのか、痛みを感じ取ることはどう憎悪と復讐に結びつけられるのか。報復を声高く叫ぶ者ははたしてトラウマの当事者なのか。本来言葉には簡単にならないはずのトラウマが饒舌に語られるときこそ、私たちはその言説の空間配置に注意深く目を向ける必要がある。(14ページ)
これは、すごくすきな文体だ。ただ、「トラウマは本来言葉にならない」(9ページ)という、著者の宮地さんにとってはもっとも重要な点が、すこし ひっかかってしまう。「言葉にならない」というのは、トラウマという概念の恣意的なところが よく あらわれていると感じる。恣意的であるがゆえに、「ことばにしえたケース」が不当に評価されてしまう余地も のこしているのでは ないか。とはいえ、トラウマという概念をつかって現代の社会問題を論じようとしたアプローチそのものを否定するつもりはない。宮地さんが指摘しているように、「もっとも大事なことは、『人が傷つくのは同じ』というきわめて単純なこと」(7ページ)であり、トラウマ概念そのものでは ないからである。

グーグル:「心理学ブーム」 / 「心の時代」

性格とは なんぞや

2005-08-14 | 心理学
血液型は性格に影響するのか。わたしは しないと おもいます。

素朴な実感だろ?と いわれれば、「はい、そうです」としか いえません。ともかく、血液型は性格に影響するということを信じる(正確には、科学者に信じさせる)ために必要なこと、というのは なかなか ややこしいようです。渡邊芳之(わたなべ・よしゆき)さんがABOFANさんと議論したものがあるので紹介しておきます。はげしく長文なので、つまみぐいしてください(→「ABOFANさんへの手紙」)。

血液型こそが性格をきめるという話なのか、影響しますよという話なのか よく しらないけれども、「性格」って なんだ?ということを安易に定義しているという印象がある。性格って、そんなに かんたんに定義できるもんじゃないですよ、という話は きいたことがあった。

そこで、やまだ・ようこ編『現場心理学の発想』をひもといてみた。佐藤達哉(さとう・たつや)さんの「概念や尺度に惑わされない性格研究を」に注目。佐藤さんによると「性格の素朴実在論」と よばれるものがある。それは、性格というものが内的に実在し、性格を記述したものはその人の性格を正確に反映しているという前提をいうようだ。これをミシェルという人が批判し、アメリカの心理学で「一貫性論争」とよばれる大論争が20年以上に わたって展開されたと。あたらしい定義を紹介しつつ佐藤さんは「性格とは人と状況(他人や環境)との関係性」であるとしている。はげしく話を省略しているので、よく わからないと おもいます。ともかく、「性格というものが個々人に そなわっている」とは安易に いえないということですね。すくなくとも、学問上はね。

それは、ドイツ映画『es』なんかをおもいだしてみても、納得のいく説明だと感じられます(『es』は実話にもとづく映画。心理学の実験で看守役と囚人役をあてられた一般人が はげしく暴走する姿が えがかれてます。暴走したのは、まぁ看守役ですけども)。

グーグル:「一貫性論争」 / 「監獄実験」

黒ゴマのパンナコッタ

2005-08-11 | 料理
パンナコッタってのは、かんたんですよね。

生クリーム1に牛乳1に砂糖を適量とゼラチン。沸騰する前くらいに火をとめて、ゼラチンいれて、ひやして かためるだけ。

店で黒ゴマのパンナコッタをつくったのだけど、まぁ わるくない。ググったら、けっこう でてきますね。抹茶のパンナコッタも つくろう。よしよし。

グーグル:「黒ゴマのパンナコッタ」 / 「抹茶のパンナコッタ」

選挙って、民主主義って なんですか

2005-08-11 | 国家と権力
選挙にいかない論理については、たとえば『「非国民」手帖』の「投票率を憂う」が わかりやすい。「政治的平等は市民社会における不平等に裏打ちされている」という文言は、壁にメモして はっておきたいくらいだ(笑)。
投票しなければ《政治》に参加できないなんて、強制された錯誤に過ぎない。
政治的表現の方法はもっと豊かだ。(105ページ)
あとは、ダグラス・ラミスさんの『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』も参考になる。ラミスさんは「もっとも民主主義的な選挙はくじ引き」だとする(172ページ)。なぜか? 理由はふたつある。1. 「いつ自分のところにくるか分からないから、心の準備が必要」であるから。2. 「くじで選ばれた人というのは、選ばれたということを威張る必要がない」から。「私でもいいのだろうかという、謙遜の気持ちでやることになる」という指摘は、なるほどなぁと おもわされますね(174ページ)。

ラミスさんのこの本、民主主義をかんがえるうえで、たいへん参考になる。名著だ。韓国で翻訳がでてるのも うなずける。平凡社ライブラリーの仕事ぶりにも敬意をはらいたい。

グーグル:「投票に行かない」←おもしろいです。
にがい記憶:むかし投票にいかなかったという友だちを非難したことがある。何年もあとに投票にいかない論理をしって、自分を恥じた。それ以来、「投票には絶対いけ」という話は きらいだ。

断言しても仕方がない。だけども、それでも とりあえず。

2005-08-09 | 議論
こたえは模索するものであって、永久不変の真理を発見するというものではない。どんな こたえも時代に即したものであるし、個々人が みいだした こたえは、個々人の背景に即したものである。それを自覚した議論は、とても おもしろい。
私は、闘う、という言葉が許されてよろしい場合は、ただ一つしかないと信じている。それは自由の確立、の場合である。もとより、自由にも限度がある。自由の確立と正しい限界の発見のために、各人が各人の時代に於いて、努力と工夫を払わねばならないものだ。歴史的な全人類のためではなく、生きつつある自分のために、又、自分と共に生きつつある他人のために。そして、それが、歴史的な全人類につながる唯一の道である。(坂口安吾「戦争論」より)
ファイナルアンサーというのは、時間を制限された状況のなかで、「とりあえず こたえてみる」ということでしかない。

『あなたへの社会構成主義』(ケネス・J・ガーゲン、ナカニシヤ出版)という本が気にいったので、すこし引用する。
「事実」についてある説明を固く信じている時、私たちは、他の可能性に対して自らを閉ざしてしまっています。この意味で、私たちにとって最も明白なものこそが、実は最も限定されたものであるといえます。(328ページ)
ガーゲンは、対話を重視し、未来に目をむけている。だから、「この本は、始まりであって、決して『最終的な結論』ではないのです」(iより)と ひらかれた姿勢を提示しているし、「批判に答える」という章で想定される疑問や批判と対話しようとしている。

わたしのような人間は、NGワードをみつけたりすると、対話をつづける気力をうしなってしまう。寛容さというのは、思想のふかさの あらわれなのでしょうね(性格の問題だとは おもわない。「思想」と「性格」については次回に)

グーグル:「対話 社会構築主義」

サケとナスのトマトいため

2005-08-05 | 料理


これは うまかった。サケって、ほんと うまいよね。

サケにオリーブ油のエクストラバージンをふりかけ、オレガノを少々と こしょう、七味とおがらし。アルミで つつんでオーブンでやく。かるくね。

フライパンでナスをいあためて白ワイン。パプリカとサケをまぜる。それからトマトを投入。乾燥バジルをいれて、バターもいれる。あとは塩こしょうで完成。トマトとバターは相性が いいのです。

グーグル:「トマト バター」

「病気じゃない!」の おとしあな

2005-08-04 | 障害学
サイトのほうが ほったらかしなので、駄文をかいた。「『病気じゃない!』が実体化するもの(チャット風味)」

ブログをはじめると、それまで いじくってたサイトの更新をしなくなるってのは、けっこう あるんだろうか。やっぱあるでしょうね。


この駄文の関連文献としては、現代思想編集部編『ろう文化』青土社が あげられます。『聾の経験』収録の「ろう文化宣言以後」も ご覧ください。あと、ヒントをうけたのは いろいろあるけど、おもいだせない。チャットで じっさいに ああゆう話をしたときに示唆をあたえてくれた人のことは、もちろん おぼえております。

グーグル:「左利き 障害」 / 「障害の社会モデル」 / 「アイデンティティゲーム」 / 「構築主義 本質主義」 / 「ろう文化宣言」

付記:そうだ。常野さんのブログの記事にもかなりヒントをもらった(「反差別主義者は差別主義者に反論してはならない」)。左利きと障害の話は、4年前に かんがえてたことだけど。

ソーシャルネットワーキング

2005-08-03 | ブログ
mixiが人気のようだけど、GREEに招待してもらいました。
招待しますから、のぞいてみたい人はhituzinosanpo@mail.goo.ne.jpまで。

印象をいうと、なんか実名さらしすぎだし、ほかにも個人情報さらしまくりで自分の顔写真を公開しすぎのような。危機感ないのかな。個人情報というか、自分のことなのに。

やっぱmixiが いいな…。招待できる人は、hituzinosanpo@mail.goo.ne.jpまで(笑)。

グーグル:「ソーシャルネットワーキング」
付記:mixi招待していただきました。IDはhituzinosanpoです。

現実と非現実?

2005-08-02 | ブログ
リアルだとか、現実世界だとか、ただたんに便宜的に いっているに すぎないと おもう。チャットは「バーチャルな世界」だとか、「サイバー空間」を「現実世界」と対比させてみたり。「非チャット空間」だなんて表現が まどろっこしいだけの話だと。

電話というメディアが登場したころも、いま現在わたしたちが あたらしいメディアにいだいているような違和感や しっくりこないものを感じていたようだ。メディア研究で活躍している人たちも10年前には『メディアとしての電話』という本をだしていた。メディア研究では、ほかにもラジオがよく とりあげられている。「顔をあわせない通信」は、べつに きのうきょう はじまったことじゃない。

現実と非現実というふうに わけるのが きらいなのは、なにかを「非現実」とすることで、あまりにも安易に「現実」というものを自明視してしまうからだ。「どこが非現実なんだよ」と感じてしまうからでもある。

矢野直明(やの・なおあき)さんの『サイバー生活手帖』でも「サイバー空間」と「現実空間」に区分しているけども、さっぱり理解できない。「非サイバー空間」で いいよ。ちょっと表現として すわりが わるいけど。現実空間に くらべたら100倍ましだ。


んー、ちょっと今回は文章がシリメツレツかも。

グーグル:「新しいメディアに対する」