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いま、そのとき、かんがえつつあること。

出版社 読書工房は、ほんとうに すごい

2008-03-29 | 障害学
ろう者の言語権について、たくさんの論考が発表されている。本も たくさん でている。とても重要なことなので、どんどん でてほしい。

参考文献・推薦図書::バイリンガル・バイカルチャラルろう教育とは::特定非営利活動法人バイリンガル・バイカルチュラルろう教育センター


そして、もうひとつ重要だと おもっていることがある。それは、ろう者に焦点をあてることで、そこから発展的に射程が ひろがっていくことだ。ろう者に とどまらず、さまざまな言語的少数者の存在に注意が むいてほしいということだ。知的障害者は、その一例である。


読書工房が、また すばらしい本をだしたようです。


全国盲ろう者協会・編著『盲ろう者への通訳・介助―「光」と「音」を伝えるための方法と技術』

なにより全国盲ろう者協会が すばらしい。

言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。

2008-03-24 | 障害学
外部から批判するのは、たいていの場合、かんたんなことだ。

国語学の そとから、国語学の わくぐみを批判する。かんたんですよ。単一言語主義による「体制の言語」(その社会における支配言語、権威化された言語のこと)をもって国語とよびならわし、それを研究する。その研究は、だれのための、だれによる研究なのか。それは、「国語」から かけはなれた言語を第一言語とするひとのための研究などではない。いかに、現体制における国語のありかたが すばらしいか、あるいは、現体制以前、つまりは歴史的なありかたが すばらしかったかという視点にたち、自分にとっては価値があると おもわれる国語をよりいっそう権威化するための研究。だから だめだと。そういう批判ができる。

国語学を外部から批判する。外部からみていると その保守的性格や排他性が よくみえる。なるほど、そうだろう。

日本の文脈で「国語」というものは、ひとつの規範化された言語によって、ひとつの国家をおおいつくそうとする。言語的多様性は無視されるか、おとしめられる。そして国語へと のりかえることが強要されるのだ。言語帝国主義のひとつのかたちである。言語帝国主義について、安田敏朗(やすだ・としあき)は、つぎのように解説している。
言語帝国主義ということばは、植民地における言語支配を批判する際に使用されているが、近代帝国崩壊以降も、政治的植民地支配を前提とせずに、有力言語の「ひとりがち」の状況下、他言語話者が「あこがれ」すらもちつつそれに追従していく状況をさしても使用されている。安田敏朗(やすだ・としあき)『統合原理としての国語』三元社、47ページ
これまでの「言語帝国主義」批判は、言語が だいすきでたまらない ひとたちによる、帝国の言語の批判であった(論文集の『言語帝国主義とは何か』藤原書店をみよ)。「言語という体制」「言語という制度」をといなおすことはせず、 「言語の ぬるま湯」に つかって、権力を批判する。

言語権という議論も、人間にとって言語は普遍的なものだという、おろかで、ふざけた発想にたって、人権という、うつくしい議論をならべる。手話が言語形態のひとつであること、日本手話がフランス語や日本語のように、言語であることが きちんと認識されていない現状では、言語権という議論は、たしかに効力をもつ。

けれども、かんがえてみてほしい。


言語障害は ありえても、コミュニケーションに障害はありえない


なぜなら、言語とは、多数派の おもちゃであるからだ。ある少数派にとっては、言語など、なんの意味をも もちはしない。認識さえされない。どうでも いいからだ。

いつか、100万円の現金を手にする機会があれば、イヌに100万円をみせびらかしてみてほしい。どうだ、うらやましいだろう?と。

100万円の札束など、紙きれにすぎない。けれども、経済という体制のなかでは たしかに機能し、わたしや あなたの「必要」を満足させる。けれども、イヌに みせびらかしても、おたがいにとって、なんの意味もないことくらいは、わかっているはずだ。

人間の多数派は言語に あまりにも価値づけし、あたりまえだと おもい、それをたのしんでいる。言語など、オトだのウゴキだのカタチだのでしかない、つまり、その価値を共有しないものにとっては なんの意味もない。けれども、人間の多数派は、それが わからない。気づくことが できない。わたしはそれを、言語フェチシズムと よぼう。言語は おもちゃなのだ。多数派の おもちゃなのだ。

言語という制度の そとでは、言語など、なんの役にも たたない。なんの意味もない。なんの価値もない。なんでもない。

けれども、人間の多数派は、人間はすべて、なんらかの「言語」という制度のなかで いきていると、信じて うたがわない。信じて恥じない。

これが言語帝国主義でなくて、なにが言語帝国主義であるのか。


たとえば、このような議論を社会言語学の研究者が よんでも、こたえは たったひとつ。ことばの はなせないひと(たとえば知的障害者)など、例外中の例外だと。少数言語を例外とは みなさいひとが、知的障害者は例外あつかいをする。すばらしい「少数」認識である。


ここで、かしこい ひとは気づくであろう。


言語が知的障害をつくるのである。


日本の社会言語学で古典的名作とされる本は、田中克彦(たなか・かつひこ)の『ことばと国家』岩波新書、1981年だ。この本を最初から よみなおしてみなさい。

「人間はふつう、だれでもことばを話している。それは、人間と他の動物とを分ける基本的なめじるしの一つと考えられている」(2ページ)。

田中克彦は、いまになっても手話をとりあげない(『ことばとは何か』ちくま新書、2004年をみよ)。おそらく手話を言語として あつかってはいないからだ。

「ふつう、だれでも」から こぼれおちたのは、だれだったのか。ふりおとされたのは、どのようなひとたちだったのか。

「国語」というものは、けっして均質で同一でない言語社会を、ひとつの規範的言語によって、ひとつの国家をおおいつくそうとする。国語を設定した時点で、国語の外部が設定される。そして、言語政策によって、その外部をなくそうと めざされる。

うえに引用した一文によって、田中は二種類の人間を設定した。ふつうの人間と、ふつうでない人間のふたつをである。そして、ふつうでない人間にまったく言及しないことによって、その「ふつう」の外部は、ないことにされてしまったのだ。

国語学と田中の言語学と、なにが ちがうのか。国語学と社会言語学と、なにが ちがうのか。

言語帝国主義を批判するものたちが、「言語」帝国主義に どっぷり つかっているという皮肉…。ことばをうしなう。

知的障害者施設で ながいこと勤務してきたひとから きいたはなしを紹介しよう。そのひとは新人のころ、「利用者(知的障害者で施設を利用しているひと)はスリッパで たたけ」と先輩に おしえられたそうだ。そして、ちがうひとには、「もので たたいては だめだ。素手で たたかないといけない。素手で たたけば、相手も いたいが、自分も いたい。だから、素手で たたきなさい」と、そのように おしえられたそうだ。

そのひとは、もちろん、どちらも おなじく暴力であり、暴力は してはいけないと自分で自分を教育したそうだ。

「人間はふつう、だれでもことばを話している。」と いえてしまうのは、スリッパか素手か。

どちらでもないと おもう。もっと わるいと、わたしは おもう。なにも自覚していないからだ。これほどの暴言をはきながら、なにか人間の本質をかたるように、あたまから宣言しているのだ。


「人間はふつう、だれでもことばを話している」と いってしまえる問題。この問題は、言語をはなす すべてのひとが共有すべき問題である。言語帝国主義という問題である。

ここまでの議論をよんでも、社会言語学の研究者は、なにをも感じとらないだろう。ただ、よまなかったことにするだろう。一瞬のうちに、わすれてしまうだろう。

なぜなら、ひとは保守的であるからだ。そして同時に、他人の保守性を批判するのだけは得意だからだ。

自分の問題として かんがえる。うそだ。

だれひとりとして、そんなことは しない。

よっぱらえないかぎりは、そんなことはしない。気もちが よくなければ、自分の問題として かんがえることなど、だれも しない。


そんなことは ないのなら。そんなことは ないというのなら、どうするのか。


かめい・たかしは、「日本言語学のために」という文章で、「国語学よ、死して生まれよ」と のべた(1938年)。この文章をおさめた『日本語学のために』を手もとにおいて、わたしは この一文をかいた。わたしは知的障害者の施設で仕事をしているが、きょうは当直あけなのだ。文体が はげしいのは、当直あけのテンションによるものだ。

言語権も、社会言語学も、言語と名のつくものは、体制のための学問である。言語という制度のための学問である。社会言語学は「コミュニケーション研究」にならなければならない。そのためには、ハイムズの社会言語学、つまりはコミュニケーションの民族誌研究たる『ことばの民族誌-社会言語学の基礎』が再評価される必要がある。

ちなみに言語至上主義という意味での「言語帝国主義」という用語の使用は、菊池久一(きくち・きゅういち)『憎悪表現とは何か-〈差別表現〉の根本問題を考える』勁草書房、2001年が初出ではないかと おもう(29ページ)。

新井孝昭(あらい・たかあき)「「言語学エリート主義」を問う」現代思想編集部 編『ろう文化』や、菊池の訳したスタッキー『読み書き能力のイデオロギーをあばく』の137ページ以降の議論も参照のこと。

必読は、つぎのふたつ。

かどや・ひでのり 2006「言語権からコミュニケーション権へ」『人権21・調査と研究』183号、78-83、岡山人権問題研究所
古賀文子(こが・あやこ)2006「「ことばのユニバーサルデザイン」序説-知的障害児・者をとりまく言語的諸問題の様相から」『社会言語学』6号、1-17、「社会言語学」刊行会

日本の障害学における、もっとも重要な文献『見えざる左手』

2008-02-25 | 障害学
1999年に『障害学への招待』という論文集が出版された(明石書店)。この本の登場によって、日本における障害学研究が促進された。なるほど、それは ただしい認識であるだろう。

だがである、大路直哉(おおじ・なおや)によって1998年に発表された『見えざる左手-ものいわぬ社会制度への提言』三五館が これほどまでに無視されている現実は、なんとも ふがいないとしか、いいようがない。

おおじは、つぎのように のべている。
左利きそのものが、障害でも異常でもないと強調すればするほど、社会の関心として後回しにされやすい(213ページ)
どうだろうか。これは、トランスジェンダーが性同一性障害と認識されることによって社会の認知と理解が促進されたことと、まったくの対照をなしている。

障害学研究者が、ときとしてジレンマとして あげているのは、「性同一性障害」のように、障害化(病理化)することで社会で権利が保障されるようになるという回路、戦略、現実である。

たとえば、倉本智明(くらもと・ともあき)は、「性同一性障害」と題したブログの記事で、つぎのように のべている。
性同一性障害:小2男児、「女児」で通学OK--兵庫の教委

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/bebe/news/20060518dde001040004000c.html [記事はすでに削除されている-引用者注]

 報道された内容事態は歓迎すべきことだと思うんだけれど、これ、性同一性障害と認定される、つまり、disorderというカテゴリでもって語ることによって初めて実現できたわけだよね。トランスジェンダーとかトランスセクシュアルではたぶんだめで。

 思いっきり単純化して言うなら、多様性の肯定ではなく、病気だからしゃあない、という論理によって可能になったってことになるんじゃないか。だとすると、ちょっと複雑。

 この件にかかわった個々の人たちが、実際、どのように考えていたかはまた別の話だし、disorderってカテゴリを受け入れちゃいけないって話でもまったくない。当人にとってしっくりくるならそれでいいし、本当は受け入れたくないけど戦略的に有用だから利用するってのもありだと思う。

 ただ、そうしたリアクションのあり方はともかく、disorderという概念を受け入れる、つまり、自分の身体(含む大脳の活動)に対する否定的な意味づけの受認とワンセットでなくちゃ、社会からの適切な取り扱いが期待できないという状況はどうなのだろう。性同一性障害というカテゴリがしっくりくる人はまぁいいとして、そうじゃない人だっているだろうわけだし。

 このあたり、impairmentをめぐる障害者・障害学のディレンマとも重なり合う問題なんじゃないかな。
この障害学のジレンマの逆方向をすすんできたのが、ひだりききという身体的マイノリティであった。そして、ひだりききの障害学ともいいうる論考を発表しているのが、大路による『見えざる左手』なのである。この本は、内容の水準の たかさとは うらはらに、ほとんど注目をあびることなく時間が すぎてきた。

このように かんがえてみると、「見えざる左手」とは、皮肉なまでに この社会の実態をあらわしている。

最後に、『見えざる左手』から もっとも印象的な箇所を引用しておきたい。
合理性を追求すればするほど、利き手をめぐる周囲の環境が右利き向けになってしまう。「たかがこのぐらいの操作なら」という意識が芽ばえたとき、〈右利き社会〉が強化されていくのだ。
車いすの使用、色弱、盲目、天才、サヴァン症候群、読字障害、左利き…。いずれも、人間社会において少数派だ。ある一定の社会で求められる“ふつう”という人間の平均像ではなかったりする。けれど、そうした人間の特徴が異常かどうかの基準は、多くの場合、社会にとって損か得かという、しごく功利的で単純な理由から決定されがちだ。
典型的な例が左利きである。異常だとみなされなくなってきたのも、〈右利き社会〉のなかで左利きがお荷物とされるような要因が、減りつつあるか見えにくくなっているからだ。
いったい人間にとって“ふつう”という感覚は、どこから生まれるのだろう。とにかく、そうした意識は、多数派の原理でなりたっている〈右利き社会〉のなかで承認される。ことの善悪に関係なく、多数派であれば、それが“ふつう”なのである(161ページ)


もちろん、現時点において障害学の基本かつ最重要文献は、論文集としては『障害学の主張』(明石書店)であり、単著としては、杉野昭博(すぎのあきひろ)『障害学-理論形成と射程』東京大学出版会であろう。だが、これらの本は、わたしが紹介しなくとも、興味のあるひとは よんでいるし、たくさんのひとによって紹介されてきた。ひとと おなじことをしても、しかたがないではないか。

関連する記事:「賛美するひまがあったら」
関連する論文:「てがき文字へのまなざし-文字とからだの多様性をめぐって」『社会言語学』3号
http://www.geocities.jp/syakaigengogaku/abe2003.pdf

自閉症が わからない。人間像をぶちこわせ。

2008-02-12 | 障害学
自閉症について あれこれ かんがえているんですけど、よく わかりません。自分で みていること、感じていること。そして、本に かいてあるようなこと。

わたしは だれを自閉症というワクで とらえていて、だれは とらえていないのか。そして、それは なぜか。

自閉症という用語は へんなもので、あまりにも誤解をまねきやすい表現だと感じる。自閉症は孤立する性格のもちぬしってことじゃないのにね。コミュニケーションが すきなひとが ほとんどだし、ただそのコミュニケーションが奇妙にみえるというだけ。その奇妙にみえるというのも100人の自閉者と1年でも2年でも1週間でも いっしょにいれば、たんなる「ふつー」に かわってしまう性質のものですよ。

自閉症といっても100人いれば100人 みんな ちがう。あたりまえだけどさ。

わからないことを、わからないままに、わかろうとしながら、それでも わからないという状態を、ただ、うけいれるということが、なにより大事だと おもう。

わからないことを不安がらず、否定せず、わからないからこそ すてきだと おもえるようにしたい。

わたしは医者じゃない。心理屋さんでもない。わたしはただ、関係したいだけなのだ。自閉症が わからなくて、なにが こまるのでしょう。

だから、自閉症が わからないのでは なくて、「そのひと」が わからないのです。具体的な、ひとりひとりが わからないのです。厳密に いうと、「わからないということ」が どういうことなのかが わからないのです。

人間が わからない。そうとも いえるんでしょうね。けれど、人間という総体をイメージするのは まだ はやいんじゃないかしら?「人間」なんて どこに いるんですか。人間こそ、想像上の幻想にすぎませんよ。家族的類似による「人間」の ぼやけたイメージをもっていて、そのイメージに そっている ひとを人間だと認識するのでしょう。だから、さきに「人間という総体」を想定してはいけないのだと おもいます。

坂口安吾(さかぐち・あんご)は、「歴史」とは自分がうまれてから死ぬまでの間のことだと いいました。だから、人間とは、「わたしが関係した ひと」のことにすぎないのではないでしょうか。わたしが死んでも人間は存在します。それは もちろん そうでしょう。けれども、そういう「人間」と、いま現にわたしが関係している人間とは、ちがったものですよ。

具体的な人間に、定義など いりません。そのかたち、そのすがた。それだけで十分じゃない? これは、なきそうになりながら、ねがうように かいているのです。なきそうなのは、いま きいてる音楽が かなしいからです。音楽にアジられて、わたしは感傷的になっているのです。

けれども みなさん、きいてください。こころで よんでください。

もう一度かきます。「そのかたち、そのすがた」。それだけで十分じゃないですか。

具体的な人間。「そのひと」と「わたし」との関係性。わたしは、ただ、あなたと関係するのです。


はだかになろう。人間像をぶちこわしましょう。

「ただの人間」なんて、どこにも いやしねんだ。からだをもった、体温をもった、かたちのある、具体的な、そういうホンモノしか存在しないんだ。

体温を無視した時点で、わすれた時点で、わたしたちは、具体的な人間を、かんたんに ころしてしまえるようになるのです。死刑囚の体温を、はかってください、おねがいします。「体温計で」じゃありません。あなたの手を、死刑囚のわきに、はさんでみてください。

やっと わかった。わたしは、医者じゃないんだ。たったひとりの人間で、たった それだけのことで、それだけのことだからこそ、わたしは わたしが だいすきで、わたしは あなたを愛しています。

主体的が そんなに えらいか

2008-02-06 | 障害学
主体的って、どういうことでしょう。自主性の尊重とか いいますけれど、積極的とか、自主的、主体的。いつも肯定的に とらえられているけど、その逆の状態は、よくないこと、あまり肯定できないことなのでしょうか。

ここにかくことは、わたし自身が あまりに自主性を評価してしまっている点を反省し、主体的とは どういうことかをとらえなおす作業です。そのため、ひとりづもうを披露することになります。ですが、こうして それを公開する以上は、みなさんにも うけとめていただきたいという ねがいが こめられています。そういうことで、よろしく おねがいします。

このブログで「アイデンティティなんか」という文章をかいたことが あります。「アイデンティティなんか どうでもいい」という内容です。
アイデンティティというのは、自分がどのような環境、集団のなかに おかれるかによって、外から おのずと いやがおうにも規定されてしまうものであって、そこに積極的な なにかはない。ただ、自分が どんなひとたちと あいたいしているかによって、「自分は こうだな」とか感じるだけなのだ。

あらたにアイデンティティをえらびなおしたり発見したりして、興奮するようなことはある。けれどもそれは、アイデンティティが救世主であるからではない。身にそぐわないアイデンティティをあてがわれてきたからである。あわないから えらびなおすのだ。もちろんそれは、「よりよく」はなる。だが、その作業はじつは、「えらびなおす」という積極的な行為でありながら、同時に、依存的で非主体的な行為でもあるのだ。
これは奇妙な論理だと感じました。そこで、このあと「批判に ふくまれた前提」という文章をかきました。
たとえば、わたしの文章を例にしますと、「アイデンティティは どうでもいい」の根拠として、自主性の欠如をあげています。つまり、アイデンティティは自主的に獲得するようなものではないということを指摘し、なおかつ批判しています。

これは奇妙な論理です。積極的だとか自主的という概念に疑問をなげかけながらも「積極的、あるいは自主的であるほうが よい」としているからです。
どうでしょうか。自主的って、そんなに大事なことなのか。それは、自明ではないはずです。「批判に ふくまれた前提」として、わたしは つぎのように かいています。
ひとは、なにかを批判的に かたるときに、価値観や評価の基準に なんらかの前提をおいてしまっていることが しばしばあります。それに気がつけないのは、それが自分にとっては あまりに自明なことであるためです。
よくもまあ、これほどに あたりまえなことを、あたかも おえらい解説者さんのように かたっていることに、あきれてしまいます。とはいえ、あたりまえなことこそ わすれがちという意味で、もう一度 確認しておきたいと おもいます。価値観が、いろんなところに ひそんでいること、そして、その価値観は絶対的なものではないということです。

最近かいた「人権教育は、ありえない」という文章も、なんだか おかしな前提をかかえこんでいます。つぎの一節をみてください。
教育を学習支援に転換すれば、ひとりひとりが みえてくる。学習支援ということであれば、時間や場所を強要することはできなくなる。なにをおしえるのかではなくて、なにをまなぶのかという主体的な いとなみになる。
学習支援にすれば、主体的な いとなみになる。それが肯定的な変化だということなのですが、どうして主体的だと「よい」ということになるのでしょうか。自分で かいておきながら、ふと疑問をもってしまうと、自分で かかえこんでいた前提が、くずれさってしまいます。

とはいえ、学習支援をする側からの視点で かいたがゆえに、学習支援には「よみとり」が必要になるとも かいておきました。
学習支援をするには、よみとりが必要になる。なにが必要な支援なのかをなやむ必要がでてくる。そこにはジレンマがあるだろう。ほんとうに これで いいのかという、うしろめたさをかかえこみつづけるだろう。けれども、選別を自明とした教育実践からは自由になれる。効率や安定をもとめる気もちからは自由になれる。

ゆれる気もちと つきあいながら、むきあっていくことができるようになる。それが歓迎すべき変化でなくて、なんだろうか。
このように かいたのは、わたしが知的障害者の生活支援を仕事にしている、その日々の実感に もとづいています。

ひとりの自閉者が いるとします。認知能力は「比較的に」たかいと いえますが、いつも「声かけ」をまっています。顔色をうかがうように支援員に 顔をむけ、声かけをまつのです。そうしないと うごけないことが日常の生活のなかで、かなり あるわけです。

わたしは、あなたは、このひとに むきあいます。そして、かんがえるのです。これは、どのように かんがえたものだろうか。

この自閉者が声かけに依存的になったのは、そだてかた/教育のありかたに原因があるのでしょうか。そして、もし主体性をおもんじる教育をうけていたなら、積極的なひとになっていたのでしょうか。たとえ そうだとして、いま このようであることをどのように とらえたら よいのでしょうか。

いちばん すてきな こたえは、「そのまま うけいれる」ということでしょう。そして、積極的、自主的、主体的ということをあまりに肯定的に評価する視点を、反省してみる必要があるのでしょう。

けれども、ちがった視点もありうるでしょう。

そのひとは、支援員の声かけをまつとき、それが あからさまに わかる表情をします。無言で、うったえかけてくるのです。これが、積極的な表現でなくて、なんでしょうか。そうすると、わたしの「積極的」の とらえかたが、あらためて とわれることになります。

わたしが学習支援には「よみとり」が必要になると かいたのは、こういった現実のコミュニケーションが念頭にありました。

そもそも、たとえば水道の蛇口(じゃぐち)をひねることさえ できないひとに、英語をおしえることに どれほどの意義があるでしょうか。けれども、水道の蛇口に手をもってゆき、そばにいる だれかに ひねってもらうことをまなぶということは、そのひとにとって大切な学習であるはずです。

そばにいる だれかが水をだしてくれるという経験をすること、だから、自分が水道に手をもっていくことで そばの だれかが「わかってくれる」という経験をすること。そのようにして、できないことは支援してもらいながらも、自分が できることをひろげていくことが できます。手をあらいたいというメッセージをつたえる方法をまなびとることが できます。そのさいに、支援してくれる だれかが そばに いなければなりませんし、支援するひとは、よみとらなくてはいけないのです。これが、コミュニケーションというものでしょう。

蛇口をひねってもらうという点では依存的ですが、だれかに「ひねらさせる」という点では、どこまでも積極的だといえるのです。

自閉者のなかには、どこまでも積極的なひとが います。自分でしないと気がすまないという点で、その こだわりが つよければ つよいほど自己決定が許容されます。なぜなら、まわりが「あきらめる」からです。あきらめることの積極的意義は、「ことばと からだの多様性から、あたりまえ革命へ」に かいたとおりです。

声かけをまってしまう自閉者は、どんどん支援者が そのひとの要望をよみとって支援していかないかぎり、そのひとの自己決定は実現しません。

声かけされると、積極的に応答するわけですから、よみとりの まちがいは、それほどまでに生じないのです。その応答は、おうむがえしであったり、すぐさま行動にでるという直接的な表現であったり、「うんー」という こたえであったりします。

「自発的に こえをだす」ということが あまり ないひとでも、はたらきかけることによって能動的になることが できます。これも、積極的の、ひとつのありかたなのです。


まとめましょう。

積極的、自主的ということをあんまり肯定しすぎないこと。これが大事です。そして、依存的、受動的にみえるひとの行動も、よく みてみると そこには積極的なところが みつかるということ。それを「よみとること」が重要なのだといえるでしょう。

人権教育は、ありえない

2008-01-31 | 障害学
人権教育にかんする原稿をよんだ。すばらしい内容。

ここでは、原理的な はなしをかく。とても重要なはなしなので、かんがえてみていただきたい。


なにが教育をなりたたせるのか。たとえば、学生みんなが席にすわって授業をきく。授業に参加する。これをあたりまえのことだと想定すること自体が、おそろしい発想である。

ある高校がある。進学校だ。みんな授業に参加している。一部が いねむりする程度だ。すばらしい。

もうひとつ高校がある。授業中、さわぎっぱなしだ。教師は、しずかにしなさい! すわりなさい!をさけびつづけないと いけない。あるいは、だれにも きこえないことをわかっていながらも、こえをはりあげようとも かきけされてしまうがために、たんたんと授業をつづけているかもしれない。

なぜ、このようなことになるのか。わたしにとって、授業にならない教室というものは、とても自然なことだと おもえる。50分も席に すわりつづけるなど、すべての人間が できることではない。あたりまえのことだ。

ではなぜ進学校では、だいたい みんなが授業に参加できているのか。それは、学生を選別したからだ。


ある学校で、人権教育をおこなう。どのような人権をおしえるのか。どのような教育にするのか。それを議論することも大事だ。けれども、学生たちが その学校に かようようになるまで、さまざまな選別を通過している。学生たちは、選別に勝利したものたちだ。

選別というと、入学試験だけをイメージしているかもしれない。だが、そうではない。「就学時健診」による選別もある(小笠毅=おがさ・たけし『就学時健診を考える』岩波ブックレット、山田真=やまだ・まこと『子どもの健康診断を考える』ちくま文庫)。

そうなると、人権教育をなりたたせるものは、従順な学生の選別ということに ほかならない。意図していなくても、人権教育の授業もまた、少数派の排除によって成立しているのである。だから、人権をおしえながら、さまざまな少数派が自分の授業に参加していないことを、ただしく感謝しなければならない。自分が選別されたエリートを相手にしていることをありがたく感じなければならない。

高校でも大学でもいい。スリッパぐらいしか「自分のもの」を認知できないようなひとが参加してはいけない理由など存在しない。まどをポンポンたたいたり、そのへんに すわりこんだり、イスにすわったり、じっとしていることのないひとが学校に存在してはいけない理由など、あるはずがない。けれども、現実には そういったひとが排除されている。それは、効率をもとめた結果にほかならない。

安定、効率、安心、そんなもののために、最初から いなかったかのように あつかわれているひとたちがいる。そうしたひとを排除することで授業が なりたっている。排除は しかたがないとは いわせない。そして、排除しているのは、はっきりとした事実である。

統制のきくひとたちが参加する学校。そこで なにが おしえられようとも、人権侵害を前提とした社会システムに ほかならない。学校で人権をおしえるということは、矛盾をおしえるということ、ホンネとタテマエをおしえるということ、人権をいかに侵害するかということをおしえることにしか なっていない。それは、いかに教育内容をかえようとも、おなじことである。

人権教育など、ありえない。教育は人権侵害を前提にするからだ。統制を前提にしない教育なら、強制的に授業の時間が決定されていてはいけないし、場所が勝手に きめられていてはいけないし、おしえられることが学生との相談なしに決定されていてはいけない。

教育ということばを、なんのためらいもなく つかえるひとに、人権を論じるほどの人権意識は存在しない。

教育を学習支援に転換すれば、ひとりひとりが みえてくる。学習支援ということであれば、時間や場所を強要することはできなくなる。なにをおしえるのかではなくて、なにをまなぶのかという主体的な いとなみになる。

学習支援をするには、よみとりが必要になる。なにが必要な支援なのかをなやむ必要がでてくる。そこにはジレンマがあるだろう。ほんとうに これで いいのかという、うしろめたさをかかえこみつづけるだろう。けれども、選別を自明とした教育実践からは自由になれる。効率や安定をもとめる気もちからは自由になれる。

ゆれる気もちと つきあいながら、むきあっていくことができるようになる。それが歓迎すべき変化でなくて、なんだろうか。

身勝手な期待と想定

2007-12-25 | 障害学
すばらしい本を紹介しよう。

わたしが最近かきちらしている記事をすこしでも おもしろいと感じていただけた かたは、飯沼和三(いいぬま・かずそう)『ダウン症は病気じゃない-正しい理解と保育・療育のために』大月書店をよんでほしい。3章の「ダウン症の知的能力とことば」が すばらしい。

ところで。

これは、杉山登志郎(すぎやま・としろう)さんの『発達障害の豊かな世界』をよみなおしたときから感じていることだが、「自閉症へのまなざし」の再検討は必要だし、重要な作業だが、「ダウン症へのまなざし」もまた重要な課題であるということ。

また、「ダウン症へのまなざし」を再検討するうちに、「自閉症論のオリエンタリズム的性格」が あきらかになるのではないかという気がしている。もちろん、わたしの文章においてもだ。そのへんをかんがえるうえで、村瀬学(むらせ・まなぶ)『自閉症-これまでの見解に異議あり!』ちくま新書と最近になって復刊された小澤勲(おざわ・いさお)『自閉症とは何か』も参考にしないといけない。この2冊は、「ちがいがあること」をみとめるのを最大限に さけようとしているのだが、あまり賛同できない。だが、だからこそ、わたしにとって よむ必要があるのであり、たいせつな本だ。


ここで念頭にあるのは、相手をみるとき、いつもそこには自分自身が てらしだされているのだということ。そして、相手になにを期待しているのかによって、そのひとの みえかたが かわってくるということ。勝手に想定しておいて、それとは べつの様相をみせたから、このひとは「この程度のものだ」という評価のしかたは まちがっている。だが、そういう ものの見方を、わたしたちは、よくもまあ日常的にしている。

「このひとは、こういうひとだ」が、かんたんに「こうあるべきだ」に かわってしまう。それで、「そうでも なかった」というふうに感じて、手のひらをひっくりかえして、評価をさげてしまったり。どんだけマッチポンプなんだろうか。

相手をよく評価しようとも、けなそうとも、いつもその評価のことばには、自分のすがたが反映されている。「わたし」をすてさったところに、他人をみる「まなざし」は成立しない。いや、これは ことばあそびで、そのひとを「みている」のは、ほかならぬ、「ひとりの個人」としての「わたし」に ほかならないということだ。その「わたし」を、だれでもない、「みんな」だと錯覚しては だめだ。主観は、どこまでも主観だ。

わたしが なにを期待しており、なにをどのように あらかじめ想定してしまっているのか。あとになってからしか意識しえないが、それをふりかえってみる必要がある。

コミュニケーションに障害はありえない

2007-12-23 | 障害学
どのようなかたちであれ、ひとと ひととが接するならば、それはコミュニケーションである。「無言による応答」もコミュニケーションのひとつの ありかたであるように、どのような接しかた、応答のしかたをするにせよ、「コミュニケーションできない」なんてことは ありえないのだ。

だれもがコミュニケーションしているし、その よしあしを論じることはできない。


だれかを人質にとって、「ちかよるな! こいつをころすぞ!」と いっているひとにたいして、どのように接したら よいのか。そんなものは、よいも わるいも、正解もない。結果が うまくいけば、よかった、とは いえる。だが、そんなのは いきあたりばったりの、どのようにも評価できる しろものでしかない。

わたしは、あるとき語学の講師になり初回の授業で「コミュニケーションはなんでもあり!」とプリントに かいて くばり、「おはようと いわれて、バカと いいかえすのも、ありえることだ」などと、「一般的な語学の授業」を「なんとは なしに」おちょくったことが あるのだが、結局は そういうことだ。

「なんでもあり」だし、なんでもかんでもコミュニケーションなのだ。


だから。「コミュニケーションに障害がある」という表現は、視覚障害とか聴覚障害とか、そういうときの「障害」とは質的に意味が ことなっているということに注意したい。めが完全に みえないとか、みえずらいというのは、本質的なものだが、コミュニケーション障害というのは、相対的なものだ。

もちろん、めが みえないとか、みえずらいというのも「めが みえる」ことを基準にし、そこからの逸脱を指摘する表現であるから、相対的な側面をもっている。その点では、やはり「視覚障害」という表現にも権力関係が反映している。だが、めが みえないのは、事実でもあるのは否定できない。それに対し、コミュニケーションに障害があるというのは、事実でもなんでもない。あなたの主観による評価なのだ。たちのわるいことに、主観による評価が制度化されて、自明視されているケースがある。そうなると、もはや たんなる評価ではなくなり、絶対的な実体になってしまうのだから、おそろしいことだ。



いま現に、わたしたちは審査員です。「コミュニケーション障害」というものを、だれかから感じとってしまう以上は「審査員」に ほかなりません。けれども、審査員をやめましょう。おりましょう。たとえば、あなたはミスコンの審査員になりたいですか。なりたいひとは、そうでしたか。なるほど。なりたくないひとは、どうですか。審査員は いやでしょう? 審査員をやめましょう。

そして、コミュニケーションに点数をつけるのをやめましょう。ただ、わたしにとって こういうコミュニケーションは都合が わるい、わたしの利益に反する、だから いやだとか、そういう いいかたをしましょう。

コミュニケーションに障害は、ありえないのです。

「夢幻泡影」というブログ

2007-12-18 | 障害学
「夢幻泡影」というブログをみつけた。はてなダイアリーで、最近はじめられたようだ。「むげん ほうえい」と よめば いいんだろうか。

いきなり すばらしい記事を連発されていて、紹介したくなりました。いきなり、こんな わたしに こんなブログで紹介されることがtakutchiさんにプラスになることのようには おもえないけれど、でも、すばらしいので ご紹介。内容は「当事者」論とか、障害学について。

ちなみに、わたしのはてなRSSリーダーでは、興味ぶかいブログをどんどん登録しているので、たまーに ご覧くださいまし。

ことばと からだの多様性から、あたりまえ革命へ

2007-12-12 | 障害学
どんなに自分をごまかして うつくしく みせようとも、がんばってみせようとも、ごまかしきれるものではありませんね。

自分に むすばれたゴムをふりきろうとしてみたけれど、やっぱりゴムの力が つよくて ばっちーん、みたいな。


ふりだしに もどる。


みのほどをしる。
ところで。浜田寿美男(はまだ・すみお)『「私」をめぐる冒険-「私」が「私」であることが揺らぐ場所から』洋泉社から引用します。第二章 「自閉症という「私」の鏡」のフレーズです。
私は、断念ということばは、とてもポジティブなものだと思っています。目の前に高すぎる不可視のハードルがあるときには、断念がなければ、相手を肯定したり、相手の居場所を認めたりすることができません。…中略…cure[治療、なおす-引用者注]を目指すことがそのまま相手を否定することにつながることがあるし、逆に、断念することが関係の回復に直結することもあるわけです。その意味では、障害を、数ある人間の複雑なヴァリエーションのなかの一つとしてとらえる視線は大事だと思います。平たくいえば、そんな性分の人もいるというていどに考えたほうが、いいのではないかと思います。(87-88ページ)
断念するのは、肯定的。なかなか いえないことです。どこかで、いやまだ あきらめてはいけない、と固執してしまうことがあるからです。

それにしてもです。「ヴァリエーション」ということばは言語学の用語でもあります。「変種」などと いわれることもあります。

どんな言語であれ、けして一定で均質なわけではない。ひとそれぞれ ちがったように使用されている。そして、言語学の理論というか理念で重要なのは、「言語に優劣なし」という言語相対主義にあり、「洗練された言語と粗野な言語」という、くだらない序列化はしない、ということにある。

言語の学では、この言語観が共有されている。

してみると、どうだろう。

身体の学では、からだのバリエーションに、どのような態度をしめしているだろうか。「障害を、数ある人間の複雑なヴァリエーションのなかの一つとしてとらえる視線」。このような観点は、言語研究においては常識のようなものなのに、身体の研究では、からだの多様性を社会的事実として うけいれる、という たったそれだけのことができていない。先進的な身体の社会学、ひいては障害学においては そういった身体を序列化する視線は解消されていることだろう。だが、身体の学は、そればかりではない。医学はどうなのだ。

障害学にしてもだ。社会的障壁の問題を全面に うちだし、身体の「損傷」(障害学では、「インペアメント」というカタカナが常用されている)の問題ではない、というふうに主張する。だが、障壁と損傷の区別に満足して、それでは損傷とは いったい なんなのか、という問題に きりこまないならば、それは不十分な議論であるだろう。それを指摘する議論はすでにあるし、それは いいことだ。期待しているし、わたしも そこをつっこんでいきたい。

身体が どのような状態であり、どんな すがたをしていようが、すべて!、ひととして あたりまえのことである。奇異にみえるのは、人間の可能性について無知なだけであり、この世界は、おどろくほどに世間しらずの予想をうらぎってくれる。人間が、なんらかの からだに生命をやどし活動する以上、その可能性は、無限大だ。いきている、生命の、生物の、あかしでしかない。

なにをおどろいている?

あなたは乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)さんの『五体不満足』をよまれたか? 文庫版(完全版)に つけくわえられた著者の苦悩に わたしは ひどく共感したのだが、あの本で感動的なのは、やはり、というか、わたしにとって感動的だったのは、つぎの一節だ。おとたけさんが水泳で25メートルおよいだら、それをみて感動していたたひとたちをクラスメイトが評したところ。
なかなか止むことのない、最大級の拍手だった。そんななか、ボクのクラスメイトは、岡先生にこんな報告をしていた。
「ほら先生、あそこのオバサンたち、泣いてるよ」
その目は、いかにも不思議なものを見るような目だった。先生は、そのことが何よりうれしかったと言う。この子どもたちは、乙武をただのクラスメイトとしか見ていない。(完全版 88-89ページ)
クラスメイトにとっては ありふれた光景だった。感動したひとたちには、そうではなかった。そういうことなのだ。

それならば。だれも、すべてのひとと であうことは できない。それならば。

はじめから しっておけばいいのだ。ほんとに、どこまでも、すっごいくらいに、人間のすがたは いろいろなんだと。「覚悟」といったら、はなしが おおげさになるから いわない。ただ、しっておけばいい。そして、それでも おどろいたなら、ひかえめに、こっそりと おどろけばいい。


もしこの文章をよんで、「障害は個性だ」というおはなしに要約してしまうなら、わたしは残念に感じる。個性でもなんでもないんだよ。「なんでもない」。なんの特徴でさえない。とりたてて障害という必要もないし、個性だと「もちあげる」必要もない。個性って いってしまえば、評価の対象になってしまうでしょ? あなた だれなのよ、審査員? ちがうでしょ!!! 人間に審査員なんて いらねんだよ。

え、わたし? そりゃわたしも こないだ面接をうけて審査されましたよ、ええ。くそいまいましい世の中ですよ。けどね、けどね。けどね。なきたくも なるけどね。

わたしたちは、これからも審査員としてありつづけるのです。残念だろうと、いやだろうと、それが社会の現実なのです。

なぜか。

わたしたちが、身体のバリエーションに とまどい、いやがり、めんどくさがり、そういうことで、施設に、病棟に、いろんなひとたちをおいやってしまったからです。

そうしてしまったからには、わたしたちは、そうしたひとたちを「むかえいれる」側で いつづけるのです。しかも、わたしたちの総意によって、です。気がむけば、うけいれる。いやなら、このまま現状維持。ああ、わたしたちは権力者です。

いや、わたしたちこそ そうしたひとたちに評価され、審査されているのだと? ひょっとすると あなたは、そう おっしゃいますか? けっ。かなしいですよ。そんな発想の転換は、しょせんは あなたの自己満足におわります。この社会を支配してるのは だれなんですか。すくなくとも、排除されたひとたちではないでしょう?

わたしとて、多様性ということばで満足するつもりはない。それはスタートにすぎない。すべてを、あたりまえにしてしまわないといけない。

すべてが あたりまえなら、だれも苦労しない。だれも弱者にならずに すむ。だから、あたりまえ革命なんだよ。

自閉者と自分勝手なコミュニケーション

2007-11-29 | 障害学
このあいだね、職場にきてた実習生3人が、めずらしいことに最終日に ぼろなきしてたんですよ。おお、めずらしいなあと。利用者さんをみて、なみだ。職員に あいさつして、なみだ。3人そろって ないてるもんだから、相乗効果。共鳴する感動…。

福祉施設の実習は いやだったけど、いろいろ かんがえが かわったということをおっしゃっておられたようです。

印象的だったのは、自閉症の利用者さんに、わかれの あいさつをしているときで、なきながら こえをかけているんだけど、いわれてるほうは、かおをそむけて、てきとーに うなづいているのでした。いかにも そのひとらしくて、わたしは ほほえましかったのですけれど、実習生さんたちは、すこし さみしそうにしていました。

その利用者さんは、くちうるさく いわれると ほかのひとをつきとばしてしまったり、みみをふさぐ ひとなんですけれど、ひととのコミュニケーションは だいすきなんです。けれども、それは自分が満足できれば それでいいという、あくまで一方通行が基本方針となっています。ひとからの指示が きけない、わからないのではないけれども、たとえば だきつかれたりすると、おそらく いやがって おいはらうであろうということで、つまりは自分のテリトリーをまもって生活している。けれども かまってほしくて いちいち ひとのところまで はしっていって、「だめ?」と きいて「だめ」とか いわせようとする。

そういう性格が、全部ひっくるめて わたしは すきなのですが、そのひとの人間性が あまり まだ みえていないひとにとっては、わかれの あいさつをかるく ながされるのは、さみしいものでしょう。

自閉症はコミュニケーションに障害があると いわれます。うまく他人とコミュニケーションが とれないということで、ひとつには他人の気もちというものが理解できないということが あるわけです。他人に「感情」があるというのが想像できないというか。

自閉症は孤立症ではありません。たしかに孤立傾向のつよい ひとも いますが、それは自閉症のひとつの類型であって、すべてではありません。ひととの かかわりが、かなり すきなひとも おおいのです。ただ、その かかわりかたが、「奇妙にみえる」ということです。

自閉症は病気じゃないと いわれることがあります。ですが、わたしの かんがえでは、自閉症だけが病気ではないのではなくて、なにひとつとして、病気など存在しないのです。かぜも、白血病も、ダウン症も、自閉症も、心臓病も すべて、生物として、人間として あたりまえのことであって、なにか特別なことではない。ただ、なにか目的があって、病気と病気ではない状態が区別されることがあり、それは それぞれの文脈において正当性があり、あるいは不当な区別なのであって、なにかを病気だとすることも、病気でないことも、それぞれの観点と目的に即したもので、相対的な議論です。

ひだりききが障害でないならば、視覚障害も知的障害も障害などではありません。逆に、性同一性障害を障害とするならば、ひだりききも色盲も学習障害も障害として さしつかえありません。たんに身体的/知的マイノリティを便宜として障害と よんでいるに すぎないのですから。

自閉症が病気であろうと、なかろうと自閉者と非自閉者には ちがいが あります。そのちがいを把握することこそが、自分勝手で一方的なコミュニケーションをしないために 必要なことなのです。

自閉症のひとと接していて、おお、なんて このひとたちのコミュニケーションは自分勝手なんだろうと感じたことが ありました。それが わるいと おもったのではなくて、ただ そう感じたのでした。

そして、しばらくして気づいたのです。なぜ、わたしは「自分勝手だ」と感じたのでしょうか。それは、わたしが このように接したら、このように反応してほしいと想定していたからに ほかなりませんでした。このようなとき、ひとは「ふつう」このように反応するものだし、それが あたりまえだ。そうしないのは勝手だと、ごーまんにも わたしは かんがえていたのです。

そこで わたしのあたまは ひっくりかえりました。おお、なんて わたしは自分勝手なコミュニケーションをしていたのだろうかと。文化人類学の用語でいえば、自文化中心主義に とらわれていたのです。わたしの常識は、自閉者の非常識であり、わたしの ものさしを、身勝手にも おしつけていたのです。

もちろん、わたしは なにかを物理的に強要したわけではなくて、わたしのあたまのなかでの判断/評価を勝手に くだしていたということに すぎません。とにかくも、わたしは自閉者の世界に乱入して、自閉者の論理をおとしめてしまったのです。


ということはですよ!!!!!


「あのひとは勝手だ」。


もう、こんな ことばは いえないですよ! だってね、勝手だと おもうのは、勝手にも こういうときは こう反応すべきだっていう想定を、勝手に自分のなかに つくりあげてしまっているからでしょう?


わたしは、「漢字という障害」という論文で、つぎのように かいた。
知的障害者のなかには、ことばでコミュニケーションをとること自体に困難をもつひともいる。コミュニケーションとは、相互行為によってなりたつものである。それゆえ、その「困難」の原因を一方だけに課すことはできない。いうなれば関係性の問題である(151ページ)
おお、なんと しらじらしいことでしょう。自分でも よく わかっていないことを、あたかも自分は「理解ある」人間であるように みせかけて「論じて」います。

まあ、わかる、というのは、なにか失敗してみないと肉体的には わかりえないのかもしれません。

さて、まとめます。

身勝手なコミュニケーションとは、片方だけが身勝手であることによって成立するのではありません。双方ともが ひとしく身勝手で、自分さえ よければ よいという態度にもとづいて行動していることによって うまれるのです。そして、さらに大事なことは、わたしたち人間すべてが、いつも、どこでも身勝手に いきている、ということです。

ひとの社会化というのは、そういうことであり、生活習慣や文化というものもまた、そういうことなのでしょう。なにが身勝手かというのは、ひとそれぞれで相対的であり、ひとはみな ひとしく身勝手だということです。ただ、「身勝手」のありかたが ちがうというだけのことなのです。

自閉者のコミュニケーションが自分勝手だと感じたとき、まさに、わたしたちは、そこに鏡に うつった自分のすがたを発見するときなのです。それをみのがしつづけるかぎり、うまくいかないコミュニケーションの責任を、片方だけに おしつけつづけてしまうのです。

その片方とは、いつも、少数者、社会的弱者では なかったでしょうか。

だれかの生活空間であり、かつ、だれかの職場であるということ

2007-11-05 | 障害学
入所施設の問題について かんがえる。わたしの職場は知的障害者の入所施設だ。以下、「利用者さん」とは施設を利用しているひと、入所者のことをさす。

わたしの職場は人里はなれた山奥にあるわけではないので、「施設」といっても それほどに「とざされた空間」ではない。いやむしろ、あるひとたちにとって、とても開放的な場所である。研修生だ。

テレビのある「みんなの部屋」でマスターベーションをする。それは、わるいことだろうか。わるいことだなんていう概念がないひともいて、そういうひとだから入所施設に「いれられている」のだし、法的には処罰されないのだ。

施設にもプライベートな空間があり、そこで自由にマスターベーションできればよい。それがベストだ。

利用者さんのなかにも、知的能力と感情の波の面で、あれこれ差があるわけで、「こら!」などと だれかのマスターベーションをしかりつけることがある。そして、それでいながら自分は すき放題やっているということもある。

環境セクハラという問題もあると感じる。女性の実習生がいるなかでマスターベーションを放置するかどうかといったことだ。わたしは いつでも放置しているが。

だが、本来ならば自分だけの空間があればよいのだ。オープンなところでマスターベーションをするひとがいれば、それをみなければよい。めをそむければよい。その程度の娯楽がなくて、なにが利用者本位のサービスといえようか。

生活するひととしては、私的な空間であるにもかかわらず、そこを職場とするひとにとっては、そこは あきらかに、公的な空間である。実習生に あれこれ説明するようなとき、「施設の論理」で行動するわけにも いかない。だが、施設とは こういうところですよというのを、ありのままに みせるのが当然だという意見もある。いつもハダカでいるひとがいるとして、そのひとの自由にまかせるのか、どうかなど。なぜに実習生は、ハダカをみないといけないのか。いや、ハダカが どうしたんだよ?という観点にたつこともできる。

プライベートな空間であるのだから、すべてが許容されるべきだ。生命の危険にかかわることでなければ、なんでも やっていいことだ。

利用者を意のままにしようとしてはいけないと、ベテランの職員が いっていたが、まさに そのことだ。生活支援員は、あくまで、生活の おてつだいさえすればよい。利用者さんがマスターベーションしていようと、それが みたくないものであっても、そのまま うけいれるのが当然だ。それは、プライベートな空間を提供できていない、サービス提供者の問題であるのだから。

色覚検査は、どこでする?

2007-03-23 | 障害学
このまえ健康診断をうけた。色覚検査をするもんだから、ちょっと びっくり。検査しないで いいです、と いえばよかったかも。

高柳泰世(たかやなぎ・やすよ)『つくられた障害「色盲」』朝日文庫と村上元彦 (むらかみ・もとひこ)『どうしてものが見えるのか』岩波新書をよんでほしい。

ちなみに、この2冊とも、みあたらず…。どこにしまったんだか。

で、「色覚異常 - ウィキペディア」をみたんだが、なるほどと おもったことがある。

「呼び名について」をみると、「「色盲」こそが相応しい用語だとする意見もある」として、「「色盲」という言葉はある種の色が見えない(盲)という客観的な事実のみを表している。」とある。あー、いえてると納得しました。

色盲の いいかえ表現って しっくりこなかったんですよね。色弱はまだしも、色覚異常、色覚障害。色覚障害は、まあ いいとしても。ともかく、たとえば わたしは「視覚障害者」よりも「盲人」/「弱視者」を多用するので、べつに「盲」に侮蔑のニュアンスがあるとは おもってないんでした。わたしは、ね。だから、色盲は、わたしにとっては しっくりくる表現だと感じられました。

もちろん、高柳さんの本の題にあらわれているように、「色盲」が問題とされたり、障害とされてきたのは、社会制度の問題であって、色盲が「つくられた障害」であるには ちがいありません。でもそれは、「すべての障害が」そうなのであって、色盲や「性同一性障害」だけが、つくられた障害なのだとは おもっていません。

病院で色盲検査をするのは、本人が のぞんだ場合をのぞいては、おこなうべきではありません。欠格条項によって色盲のひとが排除されている職種などがあるならば、それが 「どうしても仕方がないことなのか」を検証する必要があります。


検査すべきなのは、「病院において」ではありません。この社会全体を、検査する必要があります。「カラー・ユニバーサルデザイン」ということばをきいたことがあるひとは、それほど おおくないでしょう。色のみえかたの多様性を前提にした色づかいにする、ということです。


弱視者の友人が、パソコンの画面の色を反転させるソフトをつかっていました。ワープロソフトでは、はっきりと みえるようになって、わたしにとっても、たいへん便利でした。ですが、ウェブをみるのには、かならずしも みえやすいとは いえませんでした。白の背景に黄色の文字になったりするのです。そういった場合、友人は そこに文字があることが認識できていませんでした。

当時、おろかだったわたしは、これでは本末転倒だと わらっていました。ソフトに問題があると おもってしまったのです。それが、そのウェブページをつくったひとの問題であることが わかったのは、しばらくあとのことでした。

ウェブ上でも、色づかいを検証しなくてはなりません。

リンク1:なぜ「色覚異常」「色覚障害」「色弱」などではなく「色盲」なのか?(国立遺伝学研究所)

リンク2:「ユニバーサルデザイン - ウィキペディア」

リンク3:「アクセシビリティ - ウィキペディア」

リンク4:障害者欠格条項をなくす会

生活書院(出版社)

2007-02-18 | 障害学
気鋭の障害学研究者である星加良司(ほしか・りょうじ)さんの本がもうすぐ出版されるそうだ。

出版社は生活書院。すごいかもしれない。生活書院とはには、
社会学、障害学、社会福祉、子ども、マイノリティ、支援、医療、環境、人権といった言葉が喚起する問題領域に軸足を置いて、出来得るなら、書き手、作り手、読み手のすべてにとって得心のいく本を世に送り出していきたい。
とある。

注目すべき近刊は、以下のとおり。

◆星加良司『障害とは何か-ディスアビリティの社会理論に向けて』

おびのコピーは、「障害とは何か。障害とはどのような社会現象なのか。[後略]」

◆神部武宣(かんべ・たけのり)『さらばモンゴロイド-「人種」に物言いをつける』

題が最高だなあ。

あと、◆木村晴美(きむら・はるみ)さんの単著、◆ニキ リンコさんと倉本智明(くらもと・ともあき)さんの共著もでる予定のようだ。


生活書院ブログにもリンクしておきます。最近ではブログを運営している出版社が ふえていますね。

個別設計

2006-08-03 | 障害学
個別設計というのか、特注設計というのか、まあ、よびかたは なんでもいい。

いすとか、くつはもっと ぜいたくして いいのではないか。ぜいたくというと、なんだか あらぬ誤解をうけそうだが、からだに あわないものをつかいつづけるのは害悪だということ。

たとえば、いすをかいにいく。そこには 専門のスタッフがいて、用途と使用者のからだにあわせたものを販売する、あるいは、特注販売する。そういったシステムがあたりまえになっても よいんではないかと おもうのですよ。あるいは、微妙な調節ができる製品であってもいい。

パソコンのキーボードというのもそうだ。そのひとの手のおおきさなどに対応できるくらいでなければ、なんのための技術なんですかと、ちょっと ひとこと もうしたてたくなるのです。自分にあった製品というものが、それぞれの消費者にわかるものであれば、まだしも都合がいい。けれども、かずかずの製品に精通しているような ひとでなければ、いきあたりばったりで、かならずしも自分にあっているとは いえないもので満足することになるんじゃないか。

技術でできないことではない。経済的に無理だということでもない。値段があがることはあっても、資金とのおりあいでピンキリのなかから えらべば よいのだ。消費者は、もっと わがままになってよいのではないか。