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いま、そのとき、かんがえつつあること。

年齢差別からの解放?

2005-09-27 | 国家と権力
上下関係による支配と服従。わたしたちは、不平等な社会をいきている。

年齢差別、年功序列、パターナリズム。「コドモはオトナのいうことをきいてれば いいのよ」。なぜ? その根拠は?

競争だの、せりあいだの、あんまり すきではないが、だれしも だれかと「勝負する」局面に たたされることがある。そこで、年齢という、固定的なもの、個々人が どうあがいても どうにもならないことを武器にされるのは、どうも苦手だ。年齢差別に「いわれある」「ごもっとも」な面も あるだろうか。

それまで いきてきたということ。なるほど、年齢をかさねるということも、努力の結晶であって、評価されるべきことではある。しかしながら、「あんたは年下なんだから」というような話は、むしろ「なにをかんがえて年齢をかさねてきたんですか?」と内心おもってしまう。分別のたりない「コドモジミタ」発想に違和感をおぼえるのだ。

コドモジミタ? はい、「コドモ」をそんなふうに もちだして、価値判断の道具に つかうもんじゃありません。そうです、そうです。じゃぁ、なんて表現しようか。むずかしいところだな(と、いっておけば ごまかせるのか?という話もある)。

朝鮮語で、「ちがいに対する態度-年齢差別」というエッセイをかいたことがある。どこぞやに発表したわけでもなく、ただ かいてみただけなのだが。韓国では おもしろい現象があって、年が おなじであれば自動的に「ともだち」になるのだ。チング(ともだち)には、おないどしという意味もあり、「78年うまれ? じゃぁ、チングだね」というふうに。

韓国にいたころ、寮のルームメイトが ほんの数ヶ月ほど中国出身の人だった。ある日、質問された。「なんで韓国人は敬語にこだわるんですか?」。そうね、わたしは こたえました。「年が ちがうと上と下の関係になって、平等ではなくなるんです」と。

漢語では、あんまり年を気にせずに会話ができる。漢語をはなしているときに感じる快適さの ひとつだ。そういった文化で そだった その人には、わたしの説明は なんだか かなしい話に きこえたようだ。かれは、意味深長な顔をしていた。

年齢差別の風潮に同化してしまうと、権威に対して無批判になりがちで、権威主義の かたまりになってしまう。それでは、権力を批判するのにも、おのずと限界が生じてしまう。

その寮の1階には、障害者運動の「闘志」たちが たくさんいた。留学生活をおえようかというころに、密な交流をもつようになったが、かれらが また魅力的だった。

韓国の大学生だから、やっぱり先輩/後輩の秩序に同化してしまっていた。みんなで、いろんな差別について かたりあっていたけれども、あるとき、年齢差別について ちょっくら提起したことがあった。そしたら、見事に問題意識を自分のものにして、また、大声で議論しはじめるのだった。ひとしきり議論が はじけたあとに、ぼそっと口をはさむのが わたしの役割だったのだけど、あれは なかなか たのしい生活だった。

わたしが日本に かえってしまった後に、「この時間になったら、だれかさんがドアをノックしないといけないんだけどなぁ(笑)」なんていう会話をしていたそうだ。あぁ。もつべきは友であることよ。

しかし、当時も今も かんがえないではない。かれらは、学部生で わたしは大学院生であったということ。すこしばかり、わたしが年長であったということ。そこで、わたしもまた他人に「権威を感じられる」存在であったということを。そのような場合、自分では どうにもならないということ。どうにかしても、仕方のないことでもあるということ。わたしが したことは、「さん」づけと敬語の徹底ぐらいなものだ。

人は、自分が嫌悪していることであっても、それに からめとられてしまう磁場のような関係をいきている。相手が だれであろうとも。

グーグル:「年齢差別」

「100匹目のサル」なる迷信

2005-09-26 | ブログ
チャットで100匹目のサルの話をしている人がいた。

ありましたね、そういう話。そういうアブナイ話をするときは、前もってググれば いいのにねぇ。冒険家なんだろうか。おっと、そんな皮肉はどうでもいいですね。

わりかし良質なブログとサイトを発見したので、紹介しときます。

「100匹目のサルの嘘」幻想随想
「100匹めのサル」懐疑論者の祈り

デムパは伝播するというオチで よろしく。
(ここで「デムパ」は「アブナイ話」程度の意味としてご理解くださいませ)

グーグル:「100匹目のサル」

ヒトは悪魔か

2005-09-25 | にんげん
◆性善説と性悪説

よく性善説か性悪説かという話がありますが、わたしは どっちを支持するだろう。やっぱり、性善説なんだろう。もし、「どっちか こたえやがれ、こんにゃろー」と いわれたら、ですが。

◆悪魔とは だれのことか

最近、あれこれマンガをよんでいる。ほとんどは、人にもらったものですけどもね。なかなか名作があるもんだなと、いまさらながら感心する。

『ベルセルク』は なるほど人気なだけあって、よみごたえがある。どうしても『デビルマン』をおもいだしてしまうけども。『デビルマン』は、たしか途中までしか よんでなかったような気がする。『ベルセルク』28巻では、「魔女の目からみた人間社会の残虐性」という視点で えがかれている。時代設定がちょうど「魔女狩り」のころなんだよね。「魔女狩り」っていうのは、いっぺん ほりさげてみる価値がありそうですね。なんであんなことをしてしまったのか、ってのをね。

おなじく『デビルマン』の影響をうけているとされている『寄生獣』も、なかなか名作ですね。まだ半分しか よんでないけど。現実には おそらくありえない設定をおくことで、ヒト以外の視点にたって人間社会をみつめなおす。これは、なかなか大事な作業だなぁと納得させられます。なにかを想像してみることの大切さですね。

◆想像力

ヒトは想像力が ゆたかであるようで、じつはそんなに想像力をはたらかせてないのが現実ではないだろうか。肉をたべても、血みどろの死骸を想像したりはしない。台所や洗濯機の汚水が、川にながれて どうなるのかをかんがえない。ささいなものに注目すること、あるいは、日常にあふれたものに関心をもつこと。やってみれば、むずかしいことではないが、やりはじめるのはメンドーなことだ。そんなことしなくても、いきては いけるのだから。とりあえずは。

最近、テレビなどで「メダカのすめる環境」の重要性をうったえる内容のものをみかけるようになった。メダカという、ちんけな生物に注目することで、自分たちが くらしている環境に目をむけるようになる。

「川の水が のめるようになること」を目標にしている人がいるそうだ。たいていの場合、「そんなの無理」で かたずけられてしまうけれど、「そういう発想があるのか!」という おどろきを大事にしたいものだ。冷笑は、なにも うみださない。

◆人間中心主義

「いばるな人間!」というスローガンをかかげている人がいる。なるほど、同感だ。その人は、同時に「わるいのは人間だ」という一般化をゆるさない。人類全体に環境問題の責任があるわけではないからだ。

そこまでは まったく同感なのだけれど、わたしは どうも人間中心主義を肯定してしまう。動物の権利論をみていても、その人たちの倫理観が、ある文化集団や職業をおとしめているように感じてしまうからであり、「人間も動物だ」という主張には、おとしあなが あるように感じられるからだ。

人間中心主義という原則をくずさずに、ヒトと ほかの生物の関係をどのように きずいていくのかを議論することも できるのではないか。そんなふうに おもう。

グーグル:「寄生獣」 / 「人間中心主義」

海外のブログ

2005-09-16 | ブログ
いわゆる「海外」のブログをあれこれ紹介してるブログはあるんでしょか。あったら、おもしろいですね。中国のブログ事情を紹介してるのは、絵文録ことのはですね。けっこう語学通のブログ屋さんって いっぱい いるのに、あんま紹介とか してないですよね。

韓国のブログで たまーに のぞくのが、キム・ギュハンさんのgyuhang.net。キム・ギュハンさんは「B級左派」を自称してたはず。愛国心批判の記事など、わりかし いいのがある。あとは、このブログにトラックバックをおくってるブログをのぞいてみたりする。良質なブログをみつけると、そこからイモヅル式に あれこれ みつかりますからね。

というわけで、中国のでも台湾のでもいいから、漢語(北京語)のブログをなんか紹介してください、というか、自分で今度みつけます…。

どうも漢語をわすれすぎてる。やばいですわ。あと半年ぐらいの間に、台湾に いってこようと おもいます。本を大量に かいあさってこようかなと。あぁ、韓国の本も、ちゃんとチェックせねば…。やっぱあれですねぇ。その場をはなれちゃうと関心も とおのいてしまうのですね。いや、わたしが ふがいないだけだが(笑)。

グーグル:「海外のブログ」

人間は臨機応変

2005-09-09 | にんげん
人間は臨機応変に行動できる。それが わたしの人間観だ。

よく「知識だけ豊富で応用力がない」ってことが非難されているけども、そういうことって ほんとにあるのだろうか。「マニュアル人間」といった表現とかね。なにかをまなんで知識をえるだけでは生活力は身につかない。ごもっともで正論のようだけど、そんなのは現実には問題にならないんじゃなかろうか。もちろん、程度の問題なんだろうし、端からみて応用力がないように みえる人もいるのかもしれない。自分が伝聞でえた知識や、経験でつちかったものをうまく応用する能力というものは、人間にそなわっているもんだと、わたしは おもうわけです。それが生得的なものかどうかは おいとくとして、人間、成長の過程で あれやこれやを応用するようになるのではないかと。

そんなことをかんがえながら、よくある「哲学学」批判というものにも疑問をもった。「既存の哲学をまなんでいる人はたくさんいるが、哲学している人はすくない」っていうね。それこそ机上の空論じゃないのか。

哲学学の批判でよくみられるのは、ただ単に公有名詞のラレツと博学のチンレツにしかみえない お話に対する批判だ。けれども、自分の頭で思考するっていっても、ほとんどは完全にオリジナルな発想ではないことが ほとんどだ。いろんな伝聞と自分の経験にもとづいたものが、「自分の思考」と よばれるものなのだから。だから、固有名詞のラレツというものも、じつは情報源をあきらかにせずには いられない、一種の誠実さの あらわれであり、それ自体は非難される いわれはないのかもしれない。哲学学というのが そもそもレッテルにすぎないわけだけども、ともかく、そうした批判には「オリジナル信仰」とさえいえる既存の固定観念にとらわれた発想がよこたわっている。

「オリジナルがよい」という発想自体が、物事をよく かんがえていない態度であり、独創性にかけ、てあかにまみれた話であると。おっと、ここで話が無限ループするぞ(笑)。「独創性にかける」というのは………と。いや、相手の表現をつかって いえば、そういう話ができるということですよ。オリジナル信仰というのが そもそも矛盾した非現実的なかんがえであると。まぁ、そういうわけです。

↑チャットの「哲学部屋」で かんがえたこと(笑)。

グーグル:「応用力がない」
関連リンク:「独自性幻想」タカマサのきまぐれ時評

公共広告機構

2005-09-04 | ブログ
公共広告機構のサイトを見物した(いわゆるACね。テレビでまじめなCMながしてる)。なかなか おもしろいですね。

もっと過去作品をウェブで公開しちゃえば いいのに。著作権がどうのとか いってないでさ。むしろ、著作権フリーで いいやんか。まぁ、そういうわけにも いかないのかも。ウェブサイトの広告欄にもACの広告があるのは、なかなか いいじゃないかと おもった。どうでもいい広告ばっかりですからね。サイトの広告ってのは。

ACで おもいだすのは、おおきなクジラの絵をかいてる少年のやつ。ずーっと画用紙まっくろにしてるから、精神科医まで登場するの。で、ほんとは でっかいクジラをかいていたと。あれは すてき。ACって、インパクトをかんがえてるきらいがあるので、ぞっとするような こわいのもあるね。

ともかく、「メディアに なにができるのか?」っていうことをまじめに とりくんでるってことで、これからも注目したいものです。

グーグル:「公共広告機構」

靖国神社を見物

2005-09-02 | 国家と権力
東京に6日ほど いってきました。予定どおり、靖国神社の見物もしてきました。その感想文です。

まず、ばかでかいんですよね。で、かえりがけに気がついたのが、神社に かならずある「みそぎ」用の手洗い所(?)って、参拝者のみなさんは利用してるんだろうかと。ほかの神社と くらべると、あんまり利用されてないんじゃないかなと推測しました。ばかでかい施設では、細部には気がつきにくいものですからね。もちろん、うつくしき日本文化を継承しようとしている人たちは、伝統をおもんじて、みそぎの儀式をとりはかっていらっしゃるんでしょうけどね。ひまな人は、チェックしてみてください。

予定では、賽銭箱に小銭をほうりこんで、ぱんぱんと手をあわせてみるつもりだったけれども、あほらしくなってしまって、結局やめた。まぁ、注目してたのは遊就館だったしね。

遊就館、すごい でかいので びっくりしました。つかれていたので、見物の途中で いねむりこいてしまいました。へたれで すみません。遊就館は大人は800円でした。けっこうしますね。まぁ、戦闘機の零戦を展示してみたりして、戦争記念館みたいな おもむき。軍事マニアには たまらないのかもしれない。遊就館の販売コーナーが すばらしい。保守のみなさまの本が とりそろえてあるのは もちろんのこと、戦闘機のプラモデルとか、雄々しいグッズが いっぱいです。軍人将棋も うってたなぁ。あれは ほしいかも。将棋というゲームも、じつは好戦的なものだっていうのが意識できそうだから(笑)。

それにしても、「あの戦争があって、今の平和がある」というのは、どういうことなのか、まったくわからない。わかる人、おしえてください。特攻隊が自分の命を犠牲にしていなければ、いま現在の「日本の平和」は なかったのか。意味不明すぎて、いやになる。こういうことが過去にあったということを、わすれてはならないということであれば、納得できるけども。

遊就館にある感想文ノート(?)をちらほら みると、これまた おもしろい。必見ですね。「反対派の人たちが大声でなにやら いっていて、不愉快だったけども、そんな人たちも受け入れる靖国神社のふところの広さに感心しました」って、思想調査でもするんかいな。あなたは、どういう思想をおもちですかと。あとは、感想文に みられる「平和」という文字が、かるく感じられた。それは「命を粗末にさせたこと」に対する批判が一切ないなかで、「やっぱり平和がいい」という感想であるから。まぁ、「かなしいことだ」ということで、問題意識が とまってしまうと そうなるんでしょうけれどね。

ドイツ映画の『ヒトラー』を前日にみて、ヤスクニに いったんですが、精神的にも すばらしいです。道は とおいなと。なんでもかんでも総動員して、ねばってねばって、やっと敗戦。で、「たえがたきをたえ」ですか。かるい。かるすぎる。

ということで、韓国人といっしょに靖国神社を見物してみるテストを実行しました。

あ、ちなみに いまの日本が平和だとは夢にも おもっていません。あしからず。

グーグル:「靖国神社」
リンク:日本軍人将棋連盟ホームページ
ブログ内リンク:「それぞれの『靖国神社とは なんぞや』」