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いま、そのとき、かんがえつつあること。

ぞく(族)と よびつづけるかぎり

2006-08-27 | にんげん
『ホテル・ルワンダ』のDVDをかった。映画館では結局みれなかったので、やっとこさ みれました。すばらしい。で、ひとつだけ気になることを。映画の制作者には関係のないことで、日本の関係者の問題ということで。

字幕しかり、「豪華ブックレット」での説明しかり。フツ族、ツチ族……。これ、なんでなん? なんでさ、フツとツチのひとらの会話で「族」がつくんよ。おたがいをよびあらわすときに。なにをかんがえてますの?

ブックレットをみると、
おことわり……「〜族」という呼称は、差別を連想させるものとして、現在公式の場では使用されておりませんが、本作では話をわかりやすくするためにあえて使用しております。ご理解いただきますようお願い申し上げます。(4ページ)
「族」は、差別的な表現だから さける必要のある呼称だという認識のようにみえる。「差別を連想させる」表現だという根拠は、どこにおいているのでしょう? 差別語リストに のっているからってのは、やめてね。

わたしが「ぞく(族)」という呼称に批判的なのは、きのうきょうに はじまったことではない。今回は、『ホテル・ルワンダ』の文脈にそって批判しておく。

この映画のメッセージをどのように うけとめるかは、みたひと ひとりひとりに ゆだねられている。無意味な分類による対立の不毛さ、状況によって ひとがあまりに残酷になれてしまうことの おそろしさ、アフリカをとりまく北側諸国の問題、メディアとはなにか、国連とはなにか、大量の武器売買が もたらすもの…。

映画のなかで、ルワンダ(のひとたち)は、北側諸国(いわゆる先進国)にとって(わけいって救済する)価値があるのかという疑問が、みるひとに何度も なげかけられる。「いまの時点では、まだない」、「これまでは、なかった」というのが、まぎれもない事実であることを、何度も つきつけられる。

「族」という呼称のうらには、「族ではない わたしたち」がいる。(わたしたちが よびならわすところの)族と族が、たがいに「ぞく、ぞく」いってるわけがないでしょう? にほんじん(日本人)、あいぬみんぞく(アイヌ民族)、つちぞく(ツチ族)…。ごらんなさい。ここには、あきらかに序列が もうけられている。その序列を設定しているのは、じん(人)=多数派日本人に ほかならないのだ。

わたしたちは、族という呼称にあまりにも なれてしまっている。族とよぶことは、当然で、自然で、ふつーのことであると おもってしまっている。これは、たんに呼称のありようだけのことではない。わたしたちとアフリカ(のひとたち)との関係のありかたもまた、固定的にとらえ、それが当然のことだと みなしている。

わたしたちのあいだでは社会的地位のたかいとみなされる「ホテルの支配人」でさえも、「あなたは何族?」と字幕に表示される。映画のなかでは、「フツ」/「ツチ」と いっているだけなのにも かかわらずである。なぜに「族」なのか。もはや、文明だの、生活水準だのそういうことではない。問答無用で、「なぜならアフリカ人だから」ということなのだ。それが、わたしたちのレベルだということだ。

『ホテル・ルワンダ』をみて、さまざまなかたちで うけとる なにかがあるだろう。みるまえと みたあとでは、なにかが かわるということもあるだろう。けれども、みおわってもなお、「族」という呼称に疑問をいだかないならば、わたしたちのいまある現状は、あまりにも悲惨なのではないだろうか。

付記(2006.08.28):『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会 活動BBS「「族」ってどう」という議論がある。あわせて ごらんください。