ひとつの主張として「学校をなくす」という議論があり、それについてのmojimojiさんの議論「学校を廃棄したその後」があり、x0000000000さんは「「世界を了解するためのスキル」としての教育」といっている。よみかき計算にたいする態度に違和感をもったのでコメントした。けど、わたしも よくわからない。
学校廃止論については、韓国の本の『学校をこえて』とか、翻訳本の『学校のない社会への招待』現代書館くらいしか もってない。イリイチは まだ ちゃんとよんだことがないし。
よみなおそうと おもったのは、桜井哲夫(さくらい・てつお)『「近代」の意味-制度としての学校・工場』NHKブックス、『現代思想 教育のパラドックス』1985年11月号、『知のモラル』東京大学出版会に収録の森政稔(もり・まさとし)「「学校的なもの」を問う」、スタッキー『読み書き能力のイデオロギーをあばく』勁草書房、菊池久一(きくち・きゅういち)『<識字>の構造』勁草書房、茂呂雄二(もろ・ゆうじ)『なぜ人は書くのか』東京大学出版会。
『教育の臨界-教育的理性批判』という本をひらいてみると、「教育なんかいらない」という文章がのっていた。林隆造(はやし・りゅうぞう)というひとによるもので、林さんは同タイトルの本もだしているのだそうだ。ことばをはなせない こどもさんをもったことをきっかけに「教育なんかいらない」と かんがえるようになったのだという。漢字の問題に理解があるようで、訓よみ漢字はほとんど つかわれていないのが印象的だ。林さんの本をよんでみます。
学校がいるのか、いらないのか よくわからない。近代教育をふりかえると、おぞましい歴史で ぬられていることくらいは わかっている。西洋型の「教育」のグローバル化で第三世界は うまい具合に よりいっそう搾取(さくしゅ)されるようになっていることも なんとなく わかる。教室にイスとツクエをならべて、いっせいに授業をうけさせるという光景が異様なものだということも感じている。「全国共通」のカリキュラムなど、きもちわるいだけだとも おもっている。
しょせん、訓練させられることを訓練させられる空間にすぎないじゃないか、だけども「そこに ともだちが いるから」かよってるだけじゃないかとも おもう。
よみかき計算は まなばなくちゃあ いけないじゃないかという。教育させねばならないという。けれども、何語で、どのような文字表記で、字のおおきさは何ポイントで、照明のあかるさは どれくらいで、教室の人数はどれくらいで、テストはどんなふうにして。なやみは つきないはずだ。ひとのかずだけ なやみがあるはずだ。けれども、それを無視しつづけないかぎり、学校制度なんて もたないんじゃないか。
だから、「強制的にでも おしえるべきことがある」というのなら、自分にとって たまたま都合よくカスタマイズされていた教育方法のありかたに感謝しながら、うしろめたさを感じるべきだ。自分に都合よいかたちで配慮されつづけてきたことをふりかえり、そんなことだからこそ、「教育なんかいらない」だとか、「学校をなくす」べきだなんて発言せずにすんだことを、わかっておかなければならない。
説教くさいな、おい。
学校廃止論については、韓国の本の『学校をこえて』とか、翻訳本の『学校のない社会への招待』現代書館くらいしか もってない。イリイチは まだ ちゃんとよんだことがないし。
よみなおそうと おもったのは、桜井哲夫(さくらい・てつお)『「近代」の意味-制度としての学校・工場』NHKブックス、『現代思想 教育のパラドックス』1985年11月号、『知のモラル』東京大学出版会に収録の森政稔(もり・まさとし)「「学校的なもの」を問う」、スタッキー『読み書き能力のイデオロギーをあばく』勁草書房、菊池久一(きくち・きゅういち)『<識字>の構造』勁草書房、茂呂雄二(もろ・ゆうじ)『なぜ人は書くのか』東京大学出版会。
『教育の臨界-教育的理性批判』という本をひらいてみると、「教育なんかいらない」という文章がのっていた。林隆造(はやし・りゅうぞう)というひとによるもので、林さんは同タイトルの本もだしているのだそうだ。ことばをはなせない こどもさんをもったことをきっかけに「教育なんかいらない」と かんがえるようになったのだという。漢字の問題に理解があるようで、訓よみ漢字はほとんど つかわれていないのが印象的だ。林さんの本をよんでみます。
学校がいるのか、いらないのか よくわからない。近代教育をふりかえると、おぞましい歴史で ぬられていることくらいは わかっている。西洋型の「教育」のグローバル化で第三世界は うまい具合に よりいっそう搾取(さくしゅ)されるようになっていることも なんとなく わかる。教室にイスとツクエをならべて、いっせいに授業をうけさせるという光景が異様なものだということも感じている。「全国共通」のカリキュラムなど、きもちわるいだけだとも おもっている。
しょせん、訓練させられることを訓練させられる空間にすぎないじゃないか、だけども「そこに ともだちが いるから」かよってるだけじゃないかとも おもう。
よみかき計算は まなばなくちゃあ いけないじゃないかという。教育させねばならないという。けれども、何語で、どのような文字表記で、字のおおきさは何ポイントで、照明のあかるさは どれくらいで、教室の人数はどれくらいで、テストはどんなふうにして。なやみは つきないはずだ。ひとのかずだけ なやみがあるはずだ。けれども、それを無視しつづけないかぎり、学校制度なんて もたないんじゃないか。
だから、「強制的にでも おしえるべきことがある」というのなら、自分にとって たまたま都合よくカスタマイズされていた教育方法のありかたに感謝しながら、うしろめたさを感じるべきだ。自分に都合よいかたちで配慮されつづけてきたことをふりかえり、そんなことだからこそ、「教育なんかいらない」だとか、「学校をなくす」べきだなんて発言せずにすんだことを、わかっておかなければならない。
説教くさいな、おい。