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いま、そのとき、かんがえつつあること。

逆説的な希望

2006-01-29 | 国家と権力
日本でも人気の韓国映画『猟奇的な彼女』をみた。これは すごい。がははと わらえるし、まじで なける。

たくさん ないて、映画について かんがえた。(←/ここにはげしい飛躍あり/→)それで日本では公開されていない『選択』をおもいだした。まえにも紹介したが、ハンギョレの監督インタビューの記事は、初心にかえるという意味でも、わたしには いとおしい文章だ。『選択』のサントラをもっているので、ききかえしてみる。おなじ旋律をくりかえしてるんだけど、それが むねにくる。

そして、ユジョンゴバンドの「わたしのクァンジュ」をききかえす。歌詞の翻訳と試聴できるページを紹介しよう。

「わたしのクァンジュ」ユジョンゴバンド
mms://211.215.17.148/song/youjunggo band/youjunggoband_1_my gwangjoo.asf
いくら みまわしてみても おまえは みえなくて
いくら さがしてみても おまえは みつからないね
おしえてくれよ。おまえは、どこに いるんだ
おしえてくれよ。どこに いるのか

たくさんの人の中に おまえの姿は みえなくて
あの通りをさがしにいっても おまえは いない
おしえてくれよ。おまえは どこにいるのか
おしえてくれよ。おまえは どこにいるのか

おまえをおもいだせば いつも 心が いたんだ
おまえをおもいだせば いつも つらかった
おまえをおもいだせば いつも 力がでてきた
おまえをおもいだせば いつも 勇気をもてた

わたしのクァンジュよ。わたしのクァンジュよ。わたしの クァンジュよ。
ユジョンゴは、いわゆる民衆歌謡のバンドで、もう解散してしまった。このバンドがすきだという ひとであるなら、わたしは無条件に信頼できる。このユジョンゴのインタビュー記事も、すごいすきだ。キム・ヒョンチャンという大衆音楽研究家の紹介文もいい。

えー、ほとんど自分用のメモになりましたが、毎度のことです。

グーグル:「韓国映画 社会問題」
リンク:ユジョンゴバンドのファンサイト


個人的メモと新刊メモ

2006-01-25 | ブログ
やらねばならんことが やまづみ。こーゆーときに、うつになりそうになるねえ。あぶない、あぶない。

◆メールの処理。→むかしは、メールにも まめに対応してたけど、最近は ちょっと さぼりがちになってる。ふだん ひとと あんまり接触してないんだから、メールくらいはねえ。

◆執筆予定の原稿。→まず自信をもたないと。あとは、集中と いきおいだな。

◆図書館の有効利用。→もっと図書館にいかねば。本屋より図書館にいけ!

◆本の整理。→これが いちばん ゆーうつかも。

◆まちにでよう。→運動も かねて。

◆パソコンの使用制限。→まずは、これかもな。てか、ランケーブルが とどかない部屋で論文をかく。最強だな。

●新刊メモ

→『ブラックジャックによろしく』13巻がでましたよ。精神科編が ついに完結ですよ。13巻は名ぜりふが おおいなあ。

→業田良家(ごうだ・よしいえ)『世直し源さん』文庫3部作にちょっと注目ですよ。本屋では みかけないが…。

→韓国のウェブ書店のアラディンが「ファン・ウソク事件が われわれに のこしたもの」という題のリストをつくってますよ。

→安田敏朗(やすだ・としあき)『辞書の政治学―ことばの規範とはなにか』がでましたよ。

→『「ニート」って言うな!』光文社新書が おもしろそうですよ。

(これでチラシの うらと おもてになったな)

グーグル:「表裏一体」

おわび:IEをご使用のみなさまへ

2006-01-20 | ブログ
operaとfirefoxだと問題ないのに、IEだと本文のところでスペースキーをおすと本文の部分だけスクロールされてしまい、なおかつ、そうしないと最後まで よめない状態になっておりました。んー、原因はなんだろなーと おもいつつ、すこし あとまわしにしておりました。ごめんなさい。

いまスタイルシートみたら、みぎのメニューだけじゃなくて本文のほうも「overflow : hidden」にしてました。これのせいですね。まあ、このへんにしか原因はありえないんだけど(笑)、本気で かんがえなかったということで。とりあえず最善と おもわれる設定になおしておきました。

ともかく、スタイルシートはまだまだ勉強不足でございます。

グーグル:「overflow スタイルシート」

自己犠牲よりはエゴイズムを

2006-01-19 | 映画
『めぐりあう時間たち』という映画をみた(リンク先は公式サイト。注意:フラッシュと音楽あり)。

これを「ぼんやりとした不安」というのだろうか。くらい かげがさした かなしみ。そんな感情にとらわれたとき、ひとは なにかをみうしなう。問題なのは、みうしなったあとに、なにをみいだすのか、ということではないか。

映画全体についての感想は かかない。エゴイズムについて かきたい。ただ、ひとことで いえば すきな映画だ。

納得できない生活に けりをつけるのか、あるいは、納得できない気もちをおさえて、おしだまっていきていくのか。選択。えらぶ自由。「わたし」は自由であるのだ。

ここ数十年のうちに離婚率が たかまっているという。あるひとは、家庭の崩壊であり、ゆゆしきことだという。身勝手だという。のこされた配偶者が、こどもが、かわいそうだという。

自分のすべてをささげるほどに「いとおしい だれか」というものが、この世のどこかに存在するんだなんて、とてもじゃないが わたしは想像もできない。うつくしいロマンの物語を共感できるひとも、そんなときも、それはあるでしょう。けれど、わたしはエゴイストでありたい。エゴイズムを肯定したい。そのあとに、エゴイストであることが どのようなことであるのかをかんがえてみたい。

アマゾンのレビューみんなのシネマレビューの映画評をよんだ。きれいに評価がわかれている。くらくてダメだというひと。難解だというひと。そして、共感できるというひと。

もちろん、この映画にだれもが共感できるようなら、それはそれで おかしなことであるかもしれない。人生に くらいかげが さすようなことなど、ほんとは ないほうが いいのかもしれないから。その点については、なにも断言したくない。楽観的なひとと悲観的なひとで、きれいさっぱり二分できるわけではないのだから。

「更年期障害」の映画だという。自己中な女の映画だという。そんなことばをはきすてられる位置にいる「安全なひと」を、わたしは嫌悪する。なにが「更年期障害」だ。
人は捨てられた一方に同情して、捨てた一方を憎むけれども、捨てなければ捨てないために、捨てられた方と同価の苦痛を忍ばねばならないので、なべて失恋と得恋は苦痛において同価のものだと私は考えている。坂口安吾(さかぐち・あんご)「恋愛論」より
安吾は、「続堕落論」で「まず裸になり、とらわれたるタブーをすて、己の真実の声をもとめよ」と のべている。「己の真実の声」というものが はたして あるもんだろうかとも おもうが、いいたいことは わかる。わかるけれども、それが なしがたいことであるということも想像できる。だから、安吾も「我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない」とする。「人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない」からである。そんなものだろう。

わたしも、エゴイストでありたいと おもいつつ、どこかで「おひとよし」を演じようとしてしまう。それが、よわさなのか、つよさなのかは わからない。どちらだと いえるものでもない。それが わたし特有なものだとも おもわない。

ひとは それほど ちがうものではない。わたしは、そう かんがえている。エゴイズムの表現のしかたが、それぞれ ちがうだけだ。

グーグル:「めぐりあう時間たち」
2005年2月7日:表現のミスをちょっくら修正しました。『めぐりあう時間たち』は、2回目みてみたら、ちからづよさが印象にのこりました。ニコール・キッドマンが駅で夫にかたるシーン。名演でした。最後のジュリアン・ムーアのセリフも。

阪神・淡路大震災の報道

2006-01-17 | ブログ
これまで何度か よみかえしてきた「★★★★阪神・淡路大震災の報道★★★★」(2ちゃんねる)をよみかえした。元スレはもう2ちゃんねるビューアでしか みれなくなっているが、さいわい保存されていた。

「神戸新聞 震災10年」にもリンクしておきます。なお、神戸大学付属図書館には、震災文庫がある。

グーグル:「満月の夕 問題はない 震災」
追記:『阪神淡路大震災と図書館活動―神戸大学「震災文庫」の挑戦』という本がでています。

天皇ゲームをもてあそび

2006-01-15 | 国家と権力
たまたま『アエラ』の表紙をみたら「雅子妃「離婚説」の策謀-別れさせたがっているのは誰か」とある。へえ。そんなのあったんだ。さして興味はないので、内容は みなかった。検索してみたら、『フライデー』と『週刊新潮』にも「離婚説」の記事があるようだ。

わたしは不妊カップルの こどもだったりする。あきらめてたところに、ひとり うまれ、あとで わたしも うまれたそうだ。だからというのは おこがましいが、「こどもは まだか」という胸くそわるい圧力の いまいましさが、なんとなく わかる。あれこれ きいてきたからねえ。

くそかったるい天皇制という意味不明な「歴史」なんぞをせおわされた夫婦の重圧は はたして いかばかりか。その重圧というのは、「国民」が あたえてるわけなのだが。

かいならされてきたから、さほど文句もいえず がまんをすることになる。くだらない ひとらに かいならされてきたから、「女系天皇に反対」だと のたまうことになる(三笠宮寛仁って だれだ。てか、どう よむんだ)。

「皇太子妃」は、将棋のコマなんだなあと、「貴方は皇太子殿下がどうしたら良いと思いますか?」(投票ネット)なんかをみて感じる。この、野蛮なゲームは なんなんでしょう。結局はペットなんだよね。ペットあつかいなのに、「さまさま」いっちゃってさー。どういう欺瞞だ。

不妊治療の時代における天皇制。制度として、構造として これほど いびつなものが あるもんだろうか。

グーグル:「雅子 離婚説」
追記:この問題については、鈴木邦男(すずき・くにお)/佐藤由樹(さとう・ゆうき)『天皇家の掟―『皇室典範』を読む』祥伝社新書が示唆的かも。

軍隊は国民をまもらない。国体のためには国民もころす。それが国家である。この日本という国家である。ここにおよんでは天皇家さえも脅迫のもとにさらす。もはや「愛される皇室」というフィクションを演じることさえ やめてしまう。胸にいだいた「国体」の名のもとに、国体の象徴の一部をも ふみにじるのだ。大事なのは、具体的な人間ではないから。いまをいきる人間ではないから。なんとも わかりやすい社会である。天皇制の欺瞞が、これほどまでに安易に暴露されつつも、それでも神話は維持される。

―問答無用。なにも かんがえるな。これが日本だ。―そういって、国家の歯車であることを、国民であることをやめない。―だって、日本はまだ健在だもの。日本の悪口をいうもんじゃないよ。こんなにすばらしい国はないよ。―わたしは ただ、うそをつけ! うそをつけ! うそをつけ!と3回連呼する。

この国は、すこし わかりやすくなっただけだ。いびつなのは、いまも むかしも かわるものか。いまさら気づいただなんて ごじょうだんを。それでも、そうはいっても、気がつかなければ、はじまらないでしょうよ。はじまらないじゃないですか。

リンネの分類学へ

2006-01-09 | にんげん
ことしは、分類という思想について、もうすこし理解をふかめたいところ。

『分類の思想』というのは、池田清彦(いけだ・きよひこ)さんの本の題名。この本でも、「リンネの呪縛から逃れられない系統分類」という節がある。リンネについては、ウィキペディアの説明があるから、まずは そちらをご覧くださいまし(カール・フォン・リンネ)。

まだ全部よんでないので、書評のようなものは かいてないけど、マークスの『98%チンパンジー―分子人類学から見た現代遺伝学』は名著。この本では、リンネが人類を「哺乳類」にふくめたことについて なぜだろうか?と注意をうながし、「それは政治的ジェスチャーだったのだ」としている。そして論拠として紹介してるのが、シービンガー『女性を弄ぶ博物学―リンネはなぜ乳房にこだわったのか』。この本、しりませんでした…。ちょっと『98%チンパンジー』から引用しときます。
1750年代には乳母の問題が議論を呼んでいた。当時ヨーロッパの中流、上流階級の女性は赤ん坊に自分の乳房を含ませずに、田舎に住む貧しい婦人のもとに送って彼女らの乳で子供を育てた。リンネはこの慣習に反対する運動に積極的に参加した。そしてわが子に母乳を与えるのは母親にとって自然なことで、乳母を雇うのは不自然だと述べて母乳育児の美徳を本に書いた。それまで彼は哺乳類のことをアリストテレスのように四足類と呼んでいたが、それ以降彼は自分の科学的分類を利用してこれを哺乳類と呼び、自分の主張を通した。女性は自分の子供に乳を与えるように姿かたちが作られているのだから、そうするのが正しいことで、家族はそのようにするべきだと主張したのだ。(70ページ)
なんたる恣意的なはなしでしょう。

漢字とか語源がこうなんだから、こうするべき、というのも へんなはなしだが、からだの機能と構造がこうなってるんだから、こうするべきというのも おかしなはなし。まえ、人間の歯だって雑食むきになってるんだから菜食のひとも肉をたべるべき、というはなしもあったけど。あれも くだらない。結局、へんな精神論になるのよな。

ともかく、分類という思想について、リンネにたちかえって考察する必要がありそうだ。それには、まずシービンガーさんの本をよまねばね。シービンガーさんは ほかにも『ジェンダーは科学を変える!?―医学・霊長類学から物理学・数学まで』や『科学史から消された女性たち―アカデミー下の知と創造性』という本もだしてる。いい仕事してますね。

リンネについては、西村三郎(にしむら・さぶろう)『リンネとその使徒たち―探検博物学の夜明け』朝日選書、松永俊男(まつなが・としお)『博物学の欲望―リンネと時代精神』講談社現代新書も。どちらも おもしろそうですね。松永さんの本は、『ダーウィン革命の神話』という翻訳書だけは もってるな。ということで、よんでもいない本を無責任にご紹介。

グーグル:「分類 リンネ」

ブログ一発表示へのみちとフリーズするパソコン

2006-01-08 | ブログ
◆ブログ一発表示へのみち

Operaとfirefoxでは、このブログがきちんと表示されずに、ページがよみこまれないという問題がありまして、いつもはってるグーグル検索結果のURL中の&を「&」と表記したりあれこれしてみたが、どうもだめだった。きのう、IEでも一発表示されないということをきいて、これは もうだめぽと、どうにか なおすことにした。

やっぱりカスタムフリーのテンプレートが わるいんじゃないかと、テンプレートをかえてみた。このテンプレート、htmlのエラーも45だけ。前のやつは、78くらいエラーがあった。そのちがいかねえ。ったく、ブログのHTMLってちゃんとなってないよね。自分でHTMLも編集できるようなのもあるけど、グーブログだと有料版になるのよね。

で、このテンプレだけど、これまでの超シンプルデザインにかなり ちかいうえに、ある程度のデザイン性もそなえているという、なかなかのもの。白黒ブログの需要がいちお認知されたということでしょね。このブログはじめたころは、こんなテンプレなかったから。まぁ、まえのはデザインとかそういう次元じゃなかったけどね。「文章よめれば いいでしょうが」みたいな(笑)。今度のは「トラックバック」が英語表記なのが うざいけど。スタイルシートは、まだなおすところがありますね。いちお、極力 横スクロールにならないようにしました。これは、こだわってるので。

◆フリーズするパソコン

まったく、パソコン関係のことは よくわからん。

最近でも、パソコンが何度も完全にフリーズするようになってしまったけど、結局原因が わからない。Operaか、Operaがわるいのかと、8.5から8.51にバージョンアップしてみたり、firefoxをつかってみたり。でも、わたしのOperaはかなり便利で軽快になってるので、どうもちがうブラウザでは こころにノイズが生じる(笑)。基本的には問題ないんだけど、ちょっと違和感がというやつ。それでまたOperaをひらく。はげしく わすれたころに、またフリーズ。→Operaが わるいのか、結局わからないというワナ。うーん。

firefox1.5も、かるーく改造しただけで かなり つかいやすくなったけどねえ。グーグルツールバーが つかえるってのが いいしね。

かるーくパソコンをうごかしたとき、ちょっと放置したときにフリーズしてるので、ブラウザは関係ないだろーと予測してるんだが。ちょっと とある専門家にきいてみるかな。まー、そろそろパソコンもう一台ほしい。DVDがみれるデスクトップを…。

グーグル:「ブログのHTML」

「元旦」と「嫉妬」―語源の規範と漢字

2006-01-06 | ことば
正月に、何度か「元旦」と「元日」のちがいについての解説をみききした。あほらし。

「元旦の旦の字というのは山や水平線に太陽がのぼったさまをあらわしています。ですから、元旦というのは元日の朝ということになります。なので、元旦の朝などと いわないようにしましょう。」はいはい。

さっそくパロディ。

「嫉妬という字をご覧ください。「しつ」も「と」も女へんですね。これは、つまり嫉妬というのは女がするものだということです。なので「男の嫉妬」というのは言語矛盾になります。嫉妬は女がするもの、もとい、女は嫉妬するものなのです。」

努力の「ど」は「女の又に力」と かくとかいう解釈も やめてほしい。

『漢字の過去と未来』岩波新書という名著のある藤堂明保(とうどう・あきやす)さんに『女へんの文字』という本がある(1967年、山王書房)。くだらない部分を引用しよう。
[女・若・弱という字のオトと意味の共通性を指摘して]こう並べてみると、おんなを女(ニョ)と称するのは、それがまことにしなやかな柔らかい肢体を持つからである――ということがわかる。柔らかいというのは、つまり曲線の美しさである。どんなにいかつい女性でも、身のこなしのどこかで、柔らかさを感じさせなければならない。また中年を過ぎて、いささかからだの節ぶしが固くなりかけ、老化現象を起こしている女性は、せいぜい柔軟体操でもして、柔らかさを保たなければなるまい。「柔らかさ」こそは女(ニョ)というコトバの本質なのであり、男たちの魂をゆさぶる根源なのであるから。(16ページ)
なんという名文でしょうか。「どんなにいかつい女性でも」「柔らかさを感じさせなければならない」「せいぜい柔軟体操でもして」「男たちの魂をゆさぶる根源」…。それほど ながくはない文章に、ばかなオヤジっぷりがみごとに発揮されています。

最後のページをひらいてみました。さすが、いいことが かいてあります。
語源の論議というと、えてして「民間語源俗解」(フォルクス エティモロジー)に流れやすいものである。およそこのような問題を扱うには、確固とした方法論がなくてはならない。「音韻論」と「文字学」とは、車の両輪として、いつも並行しつつ立論の基礎を固めていなければならないのだ。私のこの書に影響されて、あまりに突飛な俗解や珍説がとび出さぬよう、あらかじめお願いしておきたいと思う。(219ページ)
はい。藤堂さんの漢字研究の方法論は いいですよ。文句ないです。ですが、ことばの本質なるものが たとえあるとしても、だからといってその本質にそれぞれの人生をあゆむ人間が したがわなければならないのだという意味不明な ゴタクセンは かんべんしてください。そのへんのオッサンが口をひらけば、えてしてセクハラ発言の連発になりやすいものである。女性についてのはなしをするときには、「ジェンダー」と「権力関係」への視点をかかかすことはできないのだ。あなたのこの書は、ジェンダーについてはすでに俗的解釈=男のために女が存在するかのような くだらない発想が よこたわっていますよと、いまさらながら ことわっておきたい。

グーグル:「語源主義」

2005年の本:おちばひろい編

2006-01-04 | ほん
あけまして おめでとーございます。2005年の年末にも けっこう いい本がでてますし、みおとしていた本もあるので、本日かってきた本などをご紹介。

◆品川裕香(しながわ・ゆか)さんの本がでてるやん。と おもったら なにやら不思議な題。ちょっと いやな題でもあるが『心からのごめんなさいへ』。ま、副題をみれば納得できるかな(「一人ひとりの個性に合わせた教育を導入した少年院の挑戦」)。ノンフィクションライターとして いい仕事されてますね。てゆーか2005年7月刊。自分のアンテナの ふがいなさをしる。ちなみに、品川さんの『怠けてなんかない!―ディスレクシア』は必読です(2003年刊)。

◆牟田悦子(むた・えつこ)編『LD・ADHDの理解と支援』。これは しってたけど ずっと かわなかった本。やっぱ もっておこうと購入。

◆きょうは かわなかったが、『発達障害の心理臨床―子どもと家族を支える療育支援と心理臨床的援助』有斐閣アルマ も、いちお手もとにおいとく価値はありそう。教科書的な本だわね。べつに、この本の思想性に共感するというわけではなく、現状を把握しておくためには、ということ。

おもえば発達障害関係の本は2002年ごろは あふれるほど目をとおしていたが、論文一本かいてしまったあとは、すこし放置してきたきらいがある。最低でも もう一本は かくべきテーマがあるので、チェックをおこたってはなりませんぬ。

◆大石俊一(おおいし・しゅんいち)『英語帝国主義に抗する理念―「思想」論としての「英語」論』明石書店。坂口安吾(さかぐち・あんご)にも言及があるぞ(西川長夫=にしかわ・ながおさんの名著『国境の越え方』での安吾「日本文化私感」についての議論をめぐって)。おおー。安吾の言語論そのものには言及がないんだけど、安吾の言語論って けっこう おもしろくて、とりあげられる価値が あんだよね。じつは。それは おいといて、この本は これまでの英語帝国主義批判の議論を網羅的に紹介・検討してるし、なおかつ冷静(え?笑)で いんじゃないかな。きちんとチェックしてきたわけじゃないし、この本も これから よむところだけどもさ。大石さんの既刊本は 全部あつめようかな。『「英語」イデオロギーを問う―西欧精神との格闘』、『「英国」神話の解体―西欧近代と公正でない“フェア”の論理』、『英語帝国主義論―英語支配をどうするのか』。この3冊ね。中村敬(なかむら・けい)『なぜ、「英語」が問題なのか?―英語の政治・社会論』も よみなおそう。

「2005年の本あれこれ」で べてるの家の本を紹介して、「固定観念から自分を解放するには もってこいの本」と かいたが、こーゆー ものいいに、「いいとこどり するな」「身勝手に消費するなよ」と感じられた かたが おそらく5人くらいは いただろうと予測している。わたしも それは わかっていながら、でも かきたかったんだな。わたしなんかは固定観念に やっつけられるようなことはないけど、そうでない ひとも やっぱりいるしね。『べてるの家の「当事者研究」』は都合よく消費されるだけの本ではないと、わたしは おもっているし。ま、それは よみての問題だが。→で、ご紹介するのは、八柏龍紀(やがしわ・たつのり)『「感動」禁止!―涙を消費する人びと』ベスト新書。マラソンの有森(ありもり)さんの「自分をほめてあげたい」てのが消費されてたころに、ビートたけしがテレビで批判してましたね。よしもとの山田花子(やまだ・はなこ)さんが いうところの「おまえががんばれよ」みたいなもんかな。あ、2006年1月刊なのね。

◆もひとつ新書をだせば、大庭健(おおば・たけし)『「責任」ってなに?』講談社現代新書。新書は かくあるべき、という理想型を体現してる本だ。状況のなかでの自己決定って なんだ?ってのをかんがえるためにも、わりかし いいっしょ。

◆上野千鶴子(うえの・ちづこ)編『脱アイデンティティ』。まー、よんでおくかな。よんだら、石川准(いしかわ・じゅん)さんの本と論文をよみかえさないと。

◆内野正幸(うちの・まさゆき)『民主制の欠点―仲良く論争しよう』。わかりやすく かいてありそうな本で、よみやすそう。わたしのような政治学オンチに やさしい本といえそう。

◆ジャン=ピエール・ボリス『コーヒー、カカオ、米、綿花、コショウの暗黒物語―生産者を死に追いやるグローバル経済』はよまねば。

◆千田稔(せんだ・みのる)『地球儀の社会史』。興味ぶかそうな本。気がむいたら かってよんでみます。

◆野口英司(のぐち・えいじ)『インターネット図書館 青空文庫』。これは ぜひとも よみます。

◆三田図書館情報学会『図書館・情報学研究入門』。入門書として網羅的に説明してある。手もとにおく方向で。

◆東條文規(とうじょう・ふみのり)『図書館の政治学』(青弓社ライブラリー)どんな本だろ…。わくわく。青弓社ライブラリーって いい仕事してますねえ(2006年1月刊)。東條さんて『日本の植民地図書館―アジアにおける近代図書館史』の共著者ですね。2005年にでてた『日本の植民地図書館』をツンドクしてしまった自分にカツ!

◆季刊『前夜』6号で野村浩也(のむら・こうや)さんがジオンゴの『精神の非植民地化』の書評をかいてた。『前夜』って かったことないけど、これは かっておこう(2006年1月刊ね)。

◆重田園江(おもだ・そのえ)『フーコーの穴―統計学と統治の現代』。未チェックでした…。2003年にでてました。重田さんの論文は『現代思想』2000年9月号「健康とは何か」特集の「正しく測るとはどういうことか?」をよんで いたく感動したんですよ。この論文の再録だけじゃなくて、「正しく測るとはどういうことか? 再論」も収録されてる。すっげー。わたしには どんぴしゃ!な本。2005年の最後にかってきた本のひとつだったはず。

グーグル:「精神の非植民地化」