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いま、そのとき、かんがえつつあること。

映画『殺人の追憶』と『グエムル』

2007-03-03 | 映画
『殺人の追憶』の監督ポン・ジュノによる怪獣映画『グエムル』。

『グエムル』を『殺人の追憶』と対比させると、なんとも皮肉な見方をしてしまう。

『殺人の追憶』は いかにも よくできた映画だった。「犯人は いったい だれなんだ?」という疑問に観客をひとつに まとめ、警察が「捜査」の名の下に市民に対して くだした暴力を正当化してしまう。警察のありかたに反感をもたせるに じゅうぶんな素材をみせつけながらも観客の関心をそこから そむけさせる構成だったのだ。それは、映画として最高の出来だったことを意味しているし、そしてまた警察権力に すりよった作品であったことも あきらかだった。市民に暴力をふるう警察に、「がんばれ警察」とエールをおくった映画。それが『殺人の追憶』だった。

『殺人の追憶』は実話をもとにした映画だったが、『グエムル』も怪物(=グエムル)の登場以外は、ほとんど実話のようなものだ。つまり、怪物を登場させることによって、韓国社会をうつしだしている。韓国の自画像といってよい。

『グエムル』は家族の ものがたりだ。社会から みすてられた、平凡とはいえ、どちらかといえば よわい立場におかれた家族をえがいている。軍隊、医者、警察、メディア、公務員、会社員、だれも たすけてはくれない。

そして、「弱者が またほかの弱者をたすける」というリレーが くりひろげられる。娘が怪物に つれさられ、娘をさがし、そして怪物と たたかう。

結末は、観客をひとつには させない。それぞれに それぞれの感想をもたらすだろう。

ポン・ジュノが評価すべき思想をもった人物だとは おもわない。火炎瓶を怪物になげつける場面は、韓国の民主化運動が意味のあるものだったというメッセージだと わたしの友人は解釈している。だが、男3人がライフルをつかえたのは徴兵制があるからであり、そのような観点は徴兵制をも意味あるものと みなしてしまいかねない。火炎瓶は たしかに民衆の武器であるが、ライフルは そうではないのだ。

怪物は なにも かたらない。それだけに、なにかをよみとることをもとめられる。いかようにも解釈できる映画は、それが評価もされるが、ときとして散漫だとも いわれる。結末のありかたが、魅力でもありながら、やはり不満として のこる。弱者と弱者のつながりとして一貫しているにも かかわらずだ。

それにしてもポン・ジュノは韓国社会をうつしとるのが うまい。『殺人の追憶』は80年代の韓国をえがいたものであったし、『グエムル』は2000年代をうつしとっている。そういえばサーズ(SARS)って あったなあとか、テグ地下鉄事件をおもいだしたりした。