hituziのブログ 無料体験コース

いま、そのとき、かんがえつつあること。

映画『陽のあたる場所から』

2007-05-25 | 映画
しずかに淡々と ながれる映画。なにか劇的な変化が おとずれるわけでもなく、みるものに、ぼんやりと印象をのこす。

フランスの精神病院。新人の精神科医コーラ。ひとりの謎めいた患者ロア。一言も はなしをしない。彼女のことをもっとしりたい、わかりあいたいと ねがうコーラ。仲よくなれたような気がしたころ、ある日 やすみあけに病院にいくと、ロアのすがたはなく、退院したという。アイスランド人だったことが わかり、家に かえったのだと。あっさりと退院して すがたをけしたことに じゃっかんの失望感をいだき、アイスランドへ。

わたしはロアのことを理解できた、もうすこしで はなすようになりそうだ、治療が必要なんだと かんがえるコーラ。いきごむ すがたは新人ならではのものだ。

ロアをおさないころから しっている島の医者は、「僕は理解するより生きるのを手伝おうと思う」という。印象的な ことばだ。

わたしたちは しばしば、イチかゼロかで かんがえてしまう。ちょっとしたことで まいあがり、そのあと ふとしたことで がっかりする。恋愛は もちろんのこと、おもわず緊張したり、どきどきしたり、気になってしまう相手のことであれば、そのように一喜一憂してしまうものだ。

イチかと おもえば、ゼロのようで、ゼロなのかと失望すれば、そうでもないようだと。

だが、ひとつ教訓としてあるのは、「生きるのを手伝う」のは、じつは かんたんなことだということだ。もちろん、たとえば こそだてをしているひとは、そんなふうに やすやすと いってくれるなと感じるだろう。もちろん そうなのであるが、わたしの尊敬する先輩は、「世話をするのは簡単なんよね」と、さらりと おしえてくれた。本人の意志を尊重せずに、「やってあげてしまう」のは かんたんだという意味だ。

わたしたちは、なにかをみきわめようと つとめる必要に でくわす。理解を最前提におかずとも、わかろうとすることをあきらめてはいけないときもある。そして、理解をもとめるあまりに、本質をみうしなうときもある。そのバランスが だいじなのだ。


コーラは、がっかりして すぐに帰国しようとしたが、天候が あれて船がでない。それで結果として、ふるさとの島で生活するロアのすがたをみることができた。これが だいじなのだ。「病院のあなた」だけをみて、「あなた」を理解するなんてことは、ありえないからだ。

わたしたちは、奇跡をゆめみることをやめられない。奇跡をのぞむことは、ある点で残酷である。「そのままの あなた」をみとめないということなのだから。けれども、「ちがった あなた」も ありうるのだと想像してみるのをやめてしまうなら、それも残酷ではないか。つまり、そこで なにかが おわってしまうのではないか。

どこにも回答はないのだし、奇跡は じっさい おこらない。けれども、想像力の部分で、関係性のありかたにおいて、なんらかの変化を目標にしてみる意義はある。