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いま、そのとき、かんがえつつあること。

批判的であること

2006-09-23 | にんげん
だれしも得意分野、苦手分野というものがある。得意なことには雄弁で、きびしい姿勢をもっており、苦手なことは、他人にも自分にもあまいことがある。それは当然のことなのだが、その点に注意することがなければ、ただの「えらそーなひと」になってしまう。たとえばそれ専用の知識を必要とするがために、しらないひとは、なんにも しらないということがある。思想や方向性はおなじか、よくにていても、かさならない部分もふくむものがある。ある分野にくわしいひとも、まったくちがう分野ではなく、たんに関連分野であっても、基本的なことさえしらないということがある。

自分がくわしいことに、だれかが無知で、さらには問題をひきおこしている。それはだめだということで批判をする。しらないのは いいわけにならないとかいって批判する。

だれにでも わかる。だれもが しらないうちに、ある観点からみて問題のあることをしてしまっている。だれであってもそうだ。それは、「だから、えらそーに批判してはならない」ということを意味するわけではない。「だれかを批判するなど、だれにもできないことだ」とか、「結局、みんなの責任なんだ」とか、そういうはなしでもない。

どんな わるいことをしても、自分に はねかえってくるものだと いわれる。よいことをすれば、まわりまわって自分の利益になるとも いわれる。だが。

残念なことに、はねかえってこないひとがいる。まわりまわってこないひとがいる。それが、関係の非対称性であり、力関係なのだ。

もっとも、悪事が自分に はねかえってこないひとというものは、どんどん はだかの王様になりさがっていくもので、その点で制裁をうけているということはできる。表面化しないけれども、わらいの対象になっているというふうに。しかし。

努力をしているひとが むくわれない場合、しいて むくわれたといえるようなことは、はだかの王様にはなっていないとか、その程度のことでしかないことがある。はだかの王様は、表面的には もちあげられる。それで満足することができる。だが、努力するひとは、勤勉であるとか、がんばりやさんだとか、そんなハラのたしにもならない評価をうけるだけだ。

えらそーになることは、わるいことではないだろう。なにか、自分がこだわることにたいして批判的になることもよいだろう。だが、はだかの王様になってしまっていては、すくわれない。なにも かわらない。

批判的な かたりをすることによって、いつのまにか はだかの王様になってしまわないようにしたい。

あるところと あるところに、ふたりのばかが いた。ひとりは、さんざんにけなされつづけていた。もうひとりは、ちょっとくせがあるとだけ たまに指摘されるだけだった。

このとき、ちょっとくせがあるとだけ指摘されるのは、愛されていないとか、あきらめられているだとか、そうした理由によることがある。

気をつけなきゃだわ。