「言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。」という文章を当直あけのテンションで かいたわけだが、いろいろと反響をいただいた。
Pravda の日記「言語帝国主義と近代国家」では、最初、わたしが ましこ・ひでのりさんではないかと かかれていた。もちろん、わたしは ましこ・ひでのりさんではない。
このブログでは、社会言語学研究者としての わたしの問題関心は、ほとんど かかずに やってきた。たまに ふれるようなことはあっても、全面的に とりあげるようなことは なかった。最近では、障害学であるとか社会言語学の問題意識を披露しているので、読者の かたに すぐわかるように、わたしの なまえをかいておこうと おもう。
わたしは、あべ・やすしと いいます。社会言語学、識字研究、障害学などをやっています。
さて、タカマサのきまぐれ時評からトラックバックをいただいた。言語学者の「さが」=「言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。」(hituziのブログ)
そのほうが、批判をもらえるからだ。ほんとうに そうだろうかと、疑問に感じるだろうからだ。
批判するということ、ただしさというものについて、「悪魔の代理人」というのをまえに かいた。
ちなみに、知的障害者施設で仕事をすることを、わたしは貢献だとは おもっていない。むしろ、悪魔の再生産だとしか おもっていない。わたしは悪魔であり、不平等を再生産している。けれども、「だから なにも いいません」とは、絶対に いわないのである。わたしは悪魔であるからこそ、世の中をよりよくしていきたいのだ。
学問というものも、そのための手段であると かんがえている。
タカマサさんの批判に もどろう。
すこしまえに、「むしろ矛盾しろ」という文章をかいた。
タカマサさんの批判に再度 もどる。
それと、「自分にとっては価値があると おもわれる言語だけを一般社会に認知させる」と よみかえてあるが、わたしは、ことばが はなせないひとの表現や声を、これも言語だとは、絶対に いわないつもりでいる。すでにコミュニケーションという包括的な概念を手もとに もっているにもかかわらず、わざわざ多数派の おもちゃである言語の概念とその定義を拡張しようとは おもわない。
もう一度かくが、「言語障害はありえても、コミュニケーションに障害はありえない」のだ。
コミュニケーションには正解もなければ、障害もない。
この ひろさ。この あたたかさを、わたしは評価したいのだ。
タカマサさんの批判にもどる。
田中克彦(たなか・かつひこ)は、かめい・たかしの後継者であると いっていいだろう。そして、「国語学」を批判した社会言語学者たちは、いわば田中克彦(たなか・かつひこ)の批判精神の後継者だったわけであり、それには安田敏朗(やすだ・としあき)、イ・ヨンスク、ましこ・ひでのりなどがいる。
わたしはといえば、さらにその批判的後継者である。
わたしが したいのは、「祖に会えば祖を殺し」ということだ。わたしが尊重している権威であるからこそ、批判をするわけで、そして すでに わたしが内面に とりこんでいるという意味で、「祖を殺す」(先学者を批判するという意味)作業は、いまの自分を殺す(自己批判という意味)作業でもある。
それは すなわち自分自身を更新するということであり、また、学問を更新するということなのだ。
重要な点は、その更新作業が、自分だけではなくて ほかのひとによっても おこなわれているということだ。そこに めくばせをしなければならない。
わたしは、「かめい=「内在的」、田中=「外在的」という、二分法」は想定していなかった、と おもう。記憶にない。
あさの8時半から夜の10時半くらいまで、休憩をとりながら 仕事をして、11時すぎになって当直室で ねて、いい気もちで ねていたら、どーんと音がするので確認にいって、また ねて5時半に おきて、はい そろそろ仕事しようかなと うごきだす。それで、10時半に仕事が おわって、家にかえって、おつかれさまでした。それから、ふと批判精神が めきめきと どこからともなく わきでて、ねむたい状態のまま いきおいで長文をかく。まともな文章が かけるはずがない。べつに、いいわけをかきたいのではない。いいわけに なってしまうけれども。
あとで補足をしようと おもっていたのは、言語帝国主義という批判用語をつかっていたのは、田中よりも、あとの世代だということだ。論文集の『言語帝国主義とは何か』では、むしろ田中は、この用語を乱用することをいましめていたほどだ。
はじめ批判しようと おもったのは国語学を批判した社会言語学者のことで、田中ではなかった。たまたま『ことばと国家』の冒頭部分を引用して批判するというスタイルをとったが、テキストは『ことばと国家』ではなくとも よかった。
最初は安田敏朗を批判的に とりあげようとしたのだが、「批判するに適切な文章」が すぐには みつからなかったので、すでにチェックしてあった『ことばと国家』の かきだしを利用したのだ。
わたしは、二重の意味で「言語が知的障害をつくる」と かいた。この現実から のがれられるひとなど、それほど いないのだ。
だが わたしが問題にしたいのは、「人間のありかたに あわせて言語の定義をのびちぢみさせようとしない言語学のありかた」にある。もちろんそれは、言語学全体ではないだろう。だが、ほとんどであるのは否定できない。
わたしは、言語の定義をひろげようとは いわない。そのかわりに、ただ、「コミュニケーションに正解はない」という。
わたしは、たくさんのひとに よんでほしいと ねがって、言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。をかいた。
そして、その目的は ある程度は達成された。
その こたえは「読者とは、すべてのひとで ありうる」ということだ。なぜ、すべてのひとで ありうるのか。
それは不可能であると いうひとが いるかもしれない。だが、それこそが、コミュニケーションの なせるわざであるということを、わたしはここで強調しておきたい。
ところで。
わたしには こどもが いない。だれか、自分と あかちゃんとのコミュニケーションを、内省的に観察するような文章を、かいてみては くれないだろうか。
わたしが さそいこみたいのは、そういった わくわくするような作業なのだ。たくさんのひとに「自分のコミュニケーションを観察する」ことの わくわくどきどきを、体験していただきたいと おもっている。
Pravda の日記「言語帝国主義と近代国家」では、最初、わたしが ましこ・ひでのりさんではないかと かかれていた。もちろん、わたしは ましこ・ひでのりさんではない。
このブログでは、社会言語学研究者としての わたしの問題関心は、ほとんど かかずに やってきた。たまに ふれるようなことはあっても、全面的に とりあげるようなことは なかった。最近では、障害学であるとか社会言語学の問題意識を披露しているので、読者の かたに すぐわかるように、わたしの なまえをかいておこうと おもう。
わたしは、あべ・やすしと いいます。社会言語学、識字研究、障害学などをやっています。
さて、タカマサのきまぐれ時評からトラックバックをいただいた。言語学者の「さが」=「言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。」(hituziのブログ)
戦略的に、議論をもりあげようと、わざとスキをかかえこんでいるのだとおもうが、それにしても、ワキがあますぎるとおもうのだ。そのとおりだと おもう。そして、ワキは あまいほうが よいと おもっている。すくなくとも、コミュニケーション機能をもつブログなどでは、とくにだ。
そのほうが、批判をもらえるからだ。ほんとうに そうだろうかと、疑問に感じるだろうからだ。
批判するということ、ただしさというものについて、「悪魔の代理人」というのをまえに かいた。
結局、わたしたちは みんな悪魔の代理人をやとい、また みずからも悪魔の代理人であるのなら、だれにも特権的ただしさなんて ありはしないということ、そして、だいじなのは、どれだけ世の中をよりよくしていくことに貢献できるか、ということだろう。最近、あらためて感じている。そして、その方法は、いろいろあるものだと。その「いろんな貢献」にも、もっと気づいていかねばなりますまい。言語至上主義の批判は、その「貢献」をめざしてのことだ。
ちなみに、知的障害者施設で仕事をすることを、わたしは貢献だとは おもっていない。むしろ、悪魔の再生産だとしか おもっていない。わたしは悪魔であり、不平等を再生産している。けれども、「だから なにも いいません」とは、絶対に いわないのである。わたしは悪魔であるからこそ、世の中をよりよくしていきたいのだ。
学問というものも、そのための手段であると かんがえている。
タカマサさんの批判に もどろう。
いわば、hituzi氏の問題提起の相当部分は、「社会言語学の研究者」という本質化=過度の一般化による、ひとりずもう=幻影である。これも、そのとおりだ。
すこしまえに、「むしろ矛盾しろ」という文章をかいた。
ひとは だれも、ひとつの定義に おさまりきらない。矛盾するのが あたりまえで、一貫性をどこかで うしなってしまうのが当然で、だれかに定義されながらも その定義を破壊するのが人間なのです。「人間は自由である」とは そういうことです。社会言語学も、どのような規定にも おさまりきらない自由なところをもっている。そこが、社会言語学の魅力であると おもっている。
タカマサさんの批判に再度 もどる。
それと、hituzi氏の言語学批判は、同様に、氏自身の批判スタイルにも、再帰的にふりかかってくる。批判が「氏自身の批判スタイルにも、再帰的にふりかかってくる」というのは おっしゃるとおりだ。ただ わたしは、なにも「言語学の そと」に自分の身をおいてはいない。
外部から批判するのは、たいていの場合、かんたんなことだ。
言語学の そとから、言語学の わくぐみを批判する。かんたんですよ。言語至上主義による「健常者の言語」(健常者社会における支配言語、権威化された言語のこと)をもって言語とよびならわし、それを研究する。その研究は、だれのための、だれによる研究なのか。それは、「言語」から かけはなれたコミュニケーションを日常とするひとのための研究などではない。自分にとっては価値があると おもわれる言語だけを一般社会に認知させる研究。だから だめだと。そういう批判ができる。
言語学を外部から批判する。外部からみていると その保守的性格や排他性が よくみえる。なるほど、そうだろう。
それと、「自分にとっては価値があると おもわれる言語だけを一般社会に認知させる」と よみかえてあるが、わたしは、ことばが はなせないひとの表現や声を、これも言語だとは、絶対に いわないつもりでいる。すでにコミュニケーションという包括的な概念を手もとに もっているにもかかわらず、わざわざ多数派の おもちゃである言語の概念とその定義を拡張しようとは おもわない。
もう一度かくが、「言語障害はありえても、コミュニケーションに障害はありえない」のだ。
コミュニケーションには正解もなければ、障害もない。
この ひろさ。この あたたかさを、わたしは評価したいのだ。
タカマサさんの批判にもどる。
社会言語学(=当時は「言語社会学」とよばれていたが)を最大活用するかたちで、国語学の内部から「内破」するかたちで日本語学を構想した かめい・たかし という存在と、ユーラシアの言語理論・実態という「外部」からの視線で日本語現象を革命的に分析しようとした 田中克彦、という存在を、単なる知的断絶とみなすのは、やりすぎだろう。この ふかよみは、たしかに ただしいところも あるが、ふかよみの しすぎたところもある。
田中克彦(たなか・かつひこ)は、かめい・たかしの後継者であると いっていいだろう。そして、「国語学」を批判した社会言語学者たちは、いわば田中克彦(たなか・かつひこ)の批判精神の後継者だったわけであり、それには安田敏朗(やすだ・としあき)、イ・ヨンスク、ましこ・ひでのりなどがいる。
わたしはといえば、さらにその批判的後継者である。
わたしが したいのは、「祖に会えば祖を殺し」ということだ。わたしが尊重している権威であるからこそ、批判をするわけで、そして すでに わたしが内面に とりこんでいるという意味で、「祖を殺す」(先学者を批判するという意味)作業は、いまの自分を殺す(自己批判という意味)作業でもある。
それは すなわち自分自身を更新するということであり、また、学問を更新するということなのだ。
重要な点は、その更新作業が、自分だけではなくて ほかのひとによっても おこなわれているということだ。そこに めくばせをしなければならない。
わたしは、「かめい=「内在的」、田中=「外在的」という、二分法」は想定していなかった、と おもう。記憶にない。
あさの8時半から夜の10時半くらいまで、休憩をとりながら 仕事をして、11時すぎになって当直室で ねて、いい気もちで ねていたら、どーんと音がするので確認にいって、また ねて5時半に おきて、はい そろそろ仕事しようかなと うごきだす。それで、10時半に仕事が おわって、家にかえって、おつかれさまでした。それから、ふと批判精神が めきめきと どこからともなく わきでて、ねむたい状態のまま いきおいで長文をかく。まともな文章が かけるはずがない。べつに、いいわけをかきたいのではない。いいわけに なってしまうけれども。
あとで補足をしようと おもっていたのは、言語帝国主義という批判用語をつかっていたのは、田中よりも、あとの世代だということだ。論文集の『言語帝国主義とは何か』では、むしろ田中は、この用語を乱用することをいましめていたほどだ。
はじめ批判しようと おもったのは国語学を批判した社会言語学者のことで、田中ではなかった。たまたま『ことばと国家』の冒頭部分を引用して批判するというスタイルをとったが、テキストは『ことばと国家』ではなくとも よかった。
最初は安田敏朗を批判的に とりあげようとしたのだが、「批判するに適切な文章」が すぐには みつからなかったので、すでにチェックしてあった『ことばと国家』の かきだしを利用したのだ。
わたしは、二重の意味で「言語が知的障害をつくる」と かいた。この現実から のがれられるひとなど、それほど いないのだ。
hituzi氏は、自分の議論のつごうにあわせて、言語学者の問題意識の水準をのびちぢみさせている。おそらく無自覚に。そのとおりだと おもう。
だが わたしが問題にしたいのは、「人間のありかたに あわせて言語の定義をのびちぢみさせようとしない言語学のありかた」にある。もちろんそれは、言語学全体ではないだろう。だが、ほとんどであるのは否定できない。
わたしは、言語の定義をひろげようとは いわない。そのかわりに、ただ、「コミュニケーションに正解はない」という。
わたしは、たくさんのひとに よんでほしいと ねがって、言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。をかいた。
そして、その目的は ある程度は達成された。
いや、批判者の想定はともかくとして、読者層の想定は、あやふやだとおもう。この文章は、一体だれにむかってかいたのか?という疑問をいただいた。
その こたえは「読者とは、すべてのひとで ありうる」ということだ。なぜ、すべてのひとで ありうるのか。
それは不可能であると いうひとが いるかもしれない。だが、それこそが、コミュニケーションの なせるわざであるということを、わたしはここで強調しておきたい。
文字がよめなくても、よみきかせをすれば、本をよむことができる。それなら、もはや、よみかきの「能力」の問題ではなく、サービス、提供のありかたの問題である。それゆえ、識字率をあげることを目標にするのではなく、読書権を保障することを社会の課題としなければならない。(「視点をひっくりかえす重要性(少数派について)」)
ところで。
わたしには こどもが いない。だれか、自分と あかちゃんとのコミュニケーションを、内省的に観察するような文章を、かいてみては くれないだろうか。
わたしが さそいこみたいのは、そういった わくわくするような作業なのだ。たくさんのひとに「自分のコミュニケーションを観察する」ことの わくわくどきどきを、体験していただきたいと おもっている。
ましこ・ひでのり2002『ことばの政治社会学』では、「もちろん、重度の言語障害をもってうまれれば、言語的社会化をうけない可能性もなくはない。しかし、それは例外的少数なので、考慮の対象からははずそう。」(142ページ)
というフレーズがある。
これは「求心力の中核としての民族語-言語復活をめざす沖縄人とアイヌ民族を中心に」という論文での注意がきなのだから、この論考で「考慮の対象」からはずすのは、理解できることである。だが、とはいっても、「例外的少数なので」といった発想こそが、少数派の権利を侵害してきたのでは なかっただろうか。
わたしは うしろむきな批判をしたいのではなく、「そんなことは ないのなら。そんなことは ないというのなら、どうするのか。」ということを、うったえたいのだ。つまり、これからに期待している。
もちろん、他人に期待するだけではなくて、自分でも なにか、できることをしていくつもりだ。
ここの、「自分にとっては価値があると おもわれる言語だけを一般社会に認知させる」というのは、わたしが批判する言語研究のありかたのことであって、わたしのたちばをさしているのではなかった(笑)。
失礼しました。