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いま、そのとき、かんがえつつあること。

くじびき

2004-11-29 | 国家と権力
「ラストダンス」という死刑をテーマにした映画をみる。なきじゃくる。

だれもが犯罪をおかす可能性があり、犯罪をおかすべく うまれた ひとなど どこにも いない。だとしたら、殺人も自殺も強盗も「くじ」に あたったようなものだと おもう。だれもが自主的な選択だと おもっている行動も、みかたをかえれば くじびき程度の「選択」なのかも しれない。べつに「陰謀論」を披露したいわけではない。

犯罪者、容疑者を、メディアが「さらし首」にする。それをながめる わたしと あなた。けれども「あいつら」をにくみ、さげすむことで いやされようとするのは、すでに この社会の歯車として いきる わたしと あなたが、あれや これやと不当な あつかいをうけているからではないか。にくしみの くさりをつなげていくことで、わたしと あなたは現実をみえなくさせられる。そして ますます息が くるしくなっていく。抽象的で、顔のみえない「あいつら」のイメージも、具体的な であいを通じて くずしていくことが できる。そう ねがうことで、いのることで、にくしみの くさりから解放されるのだと。そう信じてみたい。

くじびきで得をしている ひとが いる。それは偶然によるものでは なかったりもする。なぜなら否定しがたい不平等が現にあるからだ。それなら、大統領やら市長やらに当選した ひとを、てばなしに賞賛することなど できないのではないか。この社会で成功した ひとも、脱落した ひとも、その必然性があったわけではない。しかし、最初から不公平な くじびきなのだ。

だからといって、なきねいりしないためには、なにが できるのだろう。

「文化的再生産」 / 「文化資本」