ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎ギリシャ神話 13 古代オリンピック 5

2013-03-28 21:15:04 | HKT48 AKB48
ギリシャ神話 13 古代オリンピック 5

マラソン伝説は創られたものである

・マラソンはオリュンピア競技祭の種目にはなかった

・マラソン伝説の直接の出典は、紀元2世紀のローマ時代の作家ルキアノスによる小論である。それによれば、伝令のフィリッピデスはマラトンから勝利の知らせをもってアテネ市街に走りつき「喜んでください。わが軍が勝ちました」と告げると同時に息絶えた、という。さらに時代をさかのぼって紀元後1-2世紀に活躍したプルタルコスの「倫理論集」には、これとほぼ同趣旨の話が、主人公の名前をエウクレスに替えて伝えられている(「古代オリンピック」桜井万里子 橋場 弦編、岩波新書)

○結論はマラソン伝説は後世の創作である(同上、岩波新書)

★同時代に近いヘロドトスの「歴史」の巻6の「マラトンの戦い」の記述

・「105」の部分に「アテナイの司令官たちはまだ市内にいる間に、先ずアテナイ人のピリッピデスなる者を伝令としてスパルタへ送った。なおこの男は飛脚を業とする健脚家であった…」
・「106」には「さてこのピリッピデスはこの時―というのは彼がパンに遭ったといっている正にその折のことであるが―、司令官たちの命を受けアテナイの町を発ってから二日目にスパルタへ着いたが、到着するとすぐに長官たちの許へゆき次のように述べた。
「スパルタの方々よ、アテナイ人は貴国に対し、アテナイを救援せられんことを乞い、かつギリシア最古の町の中に数えられるアテナイが、異国の民によって隷従の憂目に遭うのを傍観されることなきよう願っております…」」(ヘロドトス「歴史」(中) 松平千秋 訳、岩波文庫)とある

○すなわち、伝令のピリッピデスはマラトンの戦いの前に、援軍要請のためにアテネからスパルタまでの約260kmを2日間で走破したのであって、戦勝報告したのではない

その後ろの「マラトンの戦い」の部分に、ピリッピデスが戦勝報告して息絶えたという記述はどこにもない

マラソン伝説の「故事」は架空の話であり、史実ではない


◎ギリシャ神話 12 古代オリンピック 4

2013-03-28 21:11:50 | HKT48 AKB48
ギリシャ神話 12 古代オリンピック 4

へライア祭

4年に1度、未婚の女子のみが参加した祭典
・ゼウスの妃の女神ヘラに捧げられた
・競技は短距離走のみであった(約160m)

★優勝者の栄誉

・優勝者が故国のポリスに帰る時には、ポリスは凱旋式を行なって迎えた

優勝者にはさまざまな特典が待っていた

・迎賓館で終身にわたって無料で食事にあずかる特権
・劇場や競技場の最前列で観劇、観戦する権利を認めているところもあった
・懸賞金を授与すること
・年金を支給したり、税の免除が行われた例もある

身体能力ばかり秀でた男たちを特別扱いするのは馬鹿げていると批判する人々もいたが、少数意見だった

・現代のオリンピック大会は種目は多いが、体育競技ばかりで、講演会も音楽競技もない
 たとえばピアノ競技会とか合唱競技会とかの種目もあればいいと思う


優勝者に与えられる栄誉が破格のものであったため、やがて選手はプロ化していく

・ローマ時代には、全員が加入していたわけではないが、選手の組合を作るようになっていった

競技をめぐって賄賂が交わされていた事実がある

・競技場へ出るアーチ手前に「ザネス像台座」という台座がある
ザネスはゼウスのドーリス方言ザンの複数形で、ザネス像とはゼウス像のことである

・10以上ある台座にゼウス像が立っていたが、この神像は、賄賂を使って八百長試合をした者から徴収された罰金で建てられたものなのである


◎ギリシャ神話 11 古代オリンピック 3

2013-03-27 20:33:27 | HKT48 AKB48
◎ギリシャ神話 11 古代オリンピック 3

オリュンピア競技祭の5日間の日程

初日
・選手やコーチたちが評議会場におもむき、ゼウス像の前の祭壇に犠牲獣の豚(もしくは猪?)をささげ、10か月間トレーニングを行なったこと、ルールに則り競技を行うことをゼウス像の前で誓った

・審判は賄賂を受け取らず、公正な審判を下すこと、資格審査の際に知った選手らの秘密を漏らさないことなどを誓った

・「触れ役」(出場選手の呼び出しや、優勝者の名前を読み上げる)や「ラッパ吹き」(優勝者をたたえるラッパを吹く)のコンテスト

哲学者、詩人、歴史学者による講演会

・オリュンピアの神域内にあるたくさんの祭壇に犠牲獣を捧げ、神々に勝利の祈りをささげた

・神域を自由に散策したり、各国の宝物庫をまわって奉納品を見たり、土産を買い求めたりした

☆2日目
○午前中、日の出とともに競馬競技戦車競技が始まった

・4頭立ての戦車競走や2頭立ての戦車競走など
・人気があったのは4頭立ての戦車競走

・御者たちはそれぞれ自分の所属チームの色のついたユニフォームを着ていたという

勝利の栄冠をさずけられるのは御者ではなく馬主であった

・競走馬は非常に高価なもので、馬主として巨額の経費がかかる戦車競技に参加できるのは名門貴族や王族など大富豪ばかりであった
・戦車競技に優勝することが社会的、政治的な力を強めることになった

○午後からは競技場で「5種競技」が行われた
○夕方は、戦車競走の初代優勝者とされるペプロスを祀った塚に黒牡羊がささげられ、優勝者をたたえ、宴会も催されたという

5種競技
円盤投げ、槍投げ、幅跳び、スタディオン走(徒競走)、レスリングの5種

円盤投げ
・円盤の素材は青銅と鉄。大理石製や鉛製の円盤も残っているが実用品だったか不明
 重さは1.5キロ~6.5キロ、大きさは17cm~35cmとまちまち
・5回投げて、最長飛距離を競ったという

槍投げ
・長さは約1.8mでニワトコの木で作られた
・槍のおよそ重心に当たる部分に皮ひもが巻きつけられていて、この皮ひもに人差し指と中指をひっかけて槍を握る
・皮ひもの効果で、槍が回転し安定した軌道をえがいて飛んだという

幅跳び
・選手は両手にハルテレスという半円形のおもりを持って跳んだ
 おもりの反動を利用しようとしたのか、どれだけ効果があったのか疑問

スタディオン走(徒競走)
1スタディオン(192.27m)の直線走路を裸足で走る

・前724年に、2レーンを利用して往復するディアウロス競技が加わった

・前720年には、12往復(または10往復?)する約4600mの長距離走が加わった

レスリング
・格闘技場の砂地に相手を投げてフォール(相手の背中、肩、腰のいずれかを地面に触れさせるとフォールとなる)することで1本となり、3本先取で勝者となる

・1本背負いや、現在のジャーマンスープレックスに相当する技もすでに開発されていた

レスリングの技術書のパピルスも制作されていた

・フォール以外にも、関節技、締め技による勝利も認められていた

3日目
○ゼウス神殿の北側にある大祭壇に向かって、選手団、審判団、各国の大使、神官たちなど、犠牲獣として100頭の雄牛が大行列で行進して、大祭壇の前で、100頭の雄牛が犠牲としてゼウスに捧げられる(大犠牲式
 牛は解体されて、もも肉が焼かれた

・午後は競走競技が行われた
・夜は宴会が催された

4日目
レスリング、ボクシング、パンクラティオンが行われた

○最後に、武装競走が行われた

ボクシング
リングはない

・当初は牛の皮ひもを両手に巻きつけて打ちあったが、のちに詰め物をした危険なグローブのようなものに移行した

ラウンド制もなく、戦意喪失の意思を示すか、失神するまでひたすら打ち合った
・ときには死にいたることもあり、相手を死亡させた選手は競技場から永久追放された

パンクラティオン
・現代でいう総合格闘技
・パンチ、キック、投げ技、締め技

・ただし、噛みつきと相手の目に指を突っ込むことは禁じ手だった

男性器への攻撃も禁じられていない

フォールで勝敗が決するわけではなく、「まいった」の合図を示すまで続く

武装競走
・重装歩兵の兜とすね当てを付け、円楯を持って2スタディオンを走る
・重装備で炎天下を走る苛酷なレース
・完全武装の武装競走も行われることもあった

・完全武装による武装競走は最も実戦的なものであった

5日目
・競技は行われず、優勝者をたたえる日であった

・優勝者には聖なるオリーブの木の枝でつくられた冠が授けられた
・夜は祝宴が催された


◎ギリシャ神話 10 古代オリンピック 2

2013-03-26 22:25:23 | HKT48 AKB48
◎ギリシャ神話 10 古代オリンピック 2

オリュンピア競技祭

○オリュンピア競技祭はゼウスの神域であるオリュンピアの地で開催されたが、主催国はオリュンピアから約58キロ北にあるエリス国である

・開催期間ははじめは1日だけだったが、のちに5日間に拡大された

・開催時期は、現在のだいたい8月下旬にあたる、夏至のあとの2度目ないし3度目の満月の時期と決められていた

 ギリシャの各国共通の暦がまだなかったし、月の名前も国ごとに異なっていたので、「何月何日から始まります」といった告知ができなかった
・この時期は農作業を終えた農閑期にあたっていて、参加するのに支障がない時期を選んだのである

★問題は、農閑期は戦争の時期でもあったので、平和のうちに無事に祭典を行えるように、休戦協定を結ぶことが必要であった
・休戦期間は1か月から2か月、3か月に延長された
・休戦期間中は、オリュンピアとエリスは不可侵の聖地とされ、武器を携えた個人はいっさい入国が禁止された
・休戦期間中は、死刑の執行もなかったという

・開催の通知は、エリス市民の中から3人の伝令使が選出されて、各地に派遣されて告知された
・オリュンピア競技祭の開催を告げる使節は、休戦を告げる使節でもあった
 休戦を告げられると、各ポリスは順次休戦期間に入った

○主催国エリスでは、競技祭の10か月前には審判団が選出されて、審判としての訓練を受け始めた

審判は競技祭ごとにエリス人の中からくじ引きで選出された
 審判の人数は10人が基準となった
・審判は素人であったから、開催前の10か月間、競技のルールや法律など専門的知識を伝授され学んだ

○審判の権限は絶大で、紫色の衣装をまとい、違反者をムチで打ち据えた
・審判の判定は絶対で、覆すことはできなかった

○競技祭に向けて、参加希望者の準備は1年も前から始まっていた

○競技祭の参加希望者は、本国で最低10か月のトレーニングを積んでいることが要求された

○そして、1か月前までにはエリスに到着し、コーチとともにトレーニングを行い資格審査を受ける必要があった
・資格審査は審判が行なった

・エリスには体育練習場や格闘場、競技用走路、浴場などの施設が整備されていた


○エリスは自国で競技祭を開催することはなかったが、開催前の1か月にわたり、選手や監督、コーチ、など何千人もの人々をエリスに滞在させ宿泊させた
 エリスは経済的にもうるおったことであろう

○競技祭開始の2日前、選手やコーチ、審判など一行は、エリスを出発し、「聖なる道」を通ってオリュンピアへ向けて1泊2日かけて行進した

○オリュンピアの競技場の観客収容人数は4万人から4万5000人と見積もられている

・押し寄せて来た大部分の人たちは、開催期間中、持参したテントで野宿した
・野営地には、土産物や飲料、食料などの物品を売る露天商も集まった

開催期間中の何万人分もの大量のゴミや排泄物はどう処理したのだろうか
 川にたれ流したのだろうか、焼いたり、土に埋めたりしたのだろうか

★オリュンピアの神域にあった各種の建築物
・エリスの迎賓館
 迎賓室には女神ヘスティアの祭壇があり、聖火が絶えることなく燃え続けていた
・ヘラ神殿
 女神ヘラはゼウスの正妻
・ゼウスの大祭壇
・宝物庫
 諸都市からの奉納品を納めた
・競技場
・競馬場
・ゼウス神殿
・評議会場
 競技会の運営にあたる審判団などの役員が詰める
 優勝者の記録をはじめとする公文書が保管されていた
・フェイディアスの仕事場
・闘技場
 格闘技用
・体育練習場(ギュムナシオン)
など

ゼウス神殿

・オリュンピアの南側中央にゼウス神殿があった
・内部にはフェイディアスが制作した黄金象牙造りのゼウス像が安置されていた
・台座を含めた高さは12.4m
・ゼウス像は395年に掠奪されて東ローマ帝国のコンスタンティノープルへ運ばれたが、475年の大火で焼失してしまったという

競技者は武装競争を除いて、裸で競技にのぞむことになっていたが、下半身をおおう下着だけはつけていたようである


◎ギリシャ神話 9 古代オリンピック 1

2013-03-26 22:20:14 | HKT48 AKB48
◎ギリシャ神話 9 古代オリンピック 1

古代オリンピック

○古代オリンピックの発祥地は、ペロポネソス半島の北西部にあるオリュンピアである

前776年再興説

紀元前776年に、エリスの王イフィトスが第1回の競技祭を開催したとされている

・イフィトス王は戦争と疫病により衰えた国力を回復しようと試みたが成功せず、デルフォイの神託所を訪れて、予言をうかがった
・巫女から「競技祭を再興せよ」という託宣を聞いた

○これによると、「再興せよ」とあるので、紀元前776年以前にも競技祭が行われていたが中断されていたということで、記録として残っていないだけで、古代オリンピックの起源はもっと古いのであろう

古代オリンピック競技祭の最後の第293回大会は、393年に開かれた
 それは、392年にローマ皇帝テオドシウスがキリスト教以外のギリシャやローマの多神教の宗教行事を禁止したことによるとされる

古代オリンピック競技祭は約1200年も続いたのである

オリュンピア競技祭はゼウスに捧げられた宗教行事だった

古代オリンピックはギリシャの各地の守護神に捧げられた競技祭である

★特に4大競技祭とされるのは
・オリュンピア競技祭
・イストミア競技祭
・ネメア競技祭
・ピュティア競技祭


イストミア競技祭
・イストミアはコリントスの聖地で、主催国はコリントス

海神ポセイドンを讃える(ポセイドン神殿があった)
・競馬の出走馬のスタートに似た、徒競走の際のフライング防止装置があった

・ポセイドン神殿の北西に、劇場の観客席とオルケストラ(合唱団が歌ったり踊ったりした円形の場)の跡がある

ネメア競技祭
・ゼウスを讃える

ピュティア競技祭
音楽の神アポロンに捧げられた競技祭で、デルフォイで開催された

・ガイアの子でピュトンという大蛇がいた
「弓矢の神アポロンがこれを退治したが、彼が以前に同じ武器を用いたのは、羚羊(かもしか)や、逃げ足早い山羊にむかってだけだった。この神が、矢筒をほとんどからにして、おびただしい矢を浴びせかけると、吹き出した毒血が傷口をどす黒く染めた。アポロンは、この勲(いさおし)の名声が時とともに忘れられないように、神聖な競技会を制定して、にぎわしい試合を設け、殺された大蛇の名にちなんでこれを「ピュティア競技」と呼ぶことにした」(「変身物語(上)」巻1 オウィディウス、中村善也 訳、岩波文庫)

・当初は8年に1度の音楽(楽器の競演)と詩の朗詠、舞踊の競技が行われた

・ホメロスもデルフォイにやって来たが盲目の身であったために出場できなかったという

・前582年に、音楽競技に体育競技が加えられ、4年に1度の開催と改められた
 体育競技の前日には音楽競技が開催された