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(3)古代ローマ世界 7 帝政ローマ/4

2010-11-21 12:06:01 | HKT48 AKB48
(3)古代ローマ世界 7 帝政ローマ/4

〔帝国の最盛期〕
◎「五賢帝」とアントニヌス朝 96~192年
◎193年の内乱
◎セウェルス朝 193~235


◎「五賢帝」とアントニヌス朝
☆ネルウァ帝 在位 96~98年
☆トラヤヌス帝 在位 98~117年
☆ハドリアヌス帝 在位 117~138年
☆アントニヌス・ピウス帝 在位 138~161年
☆マルクス・アウレリウス帝 在位 161~180年
 および ルキウス・ウェルス帝 在位 161~169年
☆コンモドゥス帝 在位 180~192年


★五賢帝
・ネルウァ帝、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝、アントニヌス・ピウス帝、マルクス・アウレリウス帝は「五賢帝」と呼ばれ、その時代はローマの平和の絶頂期であった。
・帝位は世襲ではなく、皇帝にふさわしい人物を後継者として指名し、指名された者が元老院に承認されて即位した。

〈ネルウァ帝〉 在位 96~98年
・96年ドミティアヌス帝が暗殺されると、ネルウァが皇帝に推された。
・ネルウァ帝は高齢で、健康にすぐれず、子供もいなかったため、ゲルマニアの属州総督のトラヤヌスを養子にして、後継者に指名した。
・有能な人物をあらかじめ後継者に選ぶ先例を開いて、五賢帝時代の幕開けとなった。

〈トラヤヌス帝〉 在位 98~117年
・治世の間に、ダキア、メソポタミア、アッシリアなどの併合によって、ローマ帝国の版図は最大になった

★トラヤヌス帝の建造物
・道路網を修復し、要所には橋を築いた
・ローマ最大の「トラヤヌス水道橋」
・「トラヤヌス浴場」
・ヴェローナの円形競技場
・オスティア新港(6角形の港)建設
・「トラヤヌス広場」「トラヤヌス市場」

・貧民救済のために生活必需品を支給した
・子供たちのために養育基金「アリメンタ」を設立した

・トラヤヌス帝は「最善の元首」として称賛された
・117年8月8日、トラヤヌス帝はパルティア遠征からローマへの帰還の途中、小アジア(アナトリア)南西部の属州キリキアの都市セリヌスで病死した
・後継者には、トラヤヌスの親戚でヒスパニアの都市イタリカ出身(トラヤヌス帝と同郷)の元老院議員ハドリアヌスが指名された
・トラヤヌス帝は皇帝の基準となり、後に帝位についた者たちは、トラヤヌス帝と比べて評価された

〈ハドリアヌス帝〉 在位 117~138年
・ハドリアヌス帝は歴代ローマ皇帝の誰よりも積極的に属州各地の旅に出た
・ガリア訪問(121年)を皮切りに、ラインラント、ブリタニア、スペイン、マウレタニア、小アジア、ギリシア、ドナウ川流域まで足をのばし、シチリア島経由でローマに帰国(127年)。その後、チュニジア、ギリシア、キリキア、カッパドキア、シリア、ユダヤ、エジプト、リビアをめぐった。
・133年から134年にかけて反乱を起こしたユダヤの地を訪れた後、ローマに戻った

・ハドリアヌス帝は火災で破損したパンテオンを再建した
・パンテオンは帝国内のあらゆる神々を奉る万神殿だった

・属州ブリタニアを北方の蛮族の襲撃から守るために、「ハドリアヌス帝の長城」を築いた
・長城には1ローマ・マイルごとに見張りの塔が設けられた

・ハドリアヌス帝はティヴォリ郊外に大別荘を建てた
・別荘には神殿、馬場、図書館、博物館、劇場、浴場などすべてがそろっていた

・130年頃、ハドリアヌス帝は私法上の訴訟手続きを定めた「法務官の告示」を確定させ、いわゆる「永久告示録」ができあがった
・1世紀末までに、民会における立法は姿を消しており、「法務官の告示」の固定化によって、ローマにおける立法と法の解釈は、事実上皇帝と彼の助言者である法学者たちの手にゆだねられることになる

〈アントニヌス・ピウス帝〉 在位 138~161年
・アントニヌス・ピウス帝は公正で思いやりのある皇帝だった
・アントニヌス・ピウス帝は奴隷たちを虐待から守るために新たな法律を制定した
・夫婦の権利義務は平等となり、拷問はほぼ全廃され、奴隷の殺害が犯罪とみなされるようになった
・アントニヌス・ピウス帝はローマ帝国を首都にいたまま統治し、遠方へは旅しなかった

・148年、ローマ建国900年の記念祭が行われた

・アントニヌス・ピウス帝は皇帝になると莫大な私産を国庫に注ぎ込み、死ぬときは彼の財産はゼロになったが、帝国の資産は27億セステルティウスという帝政開始以来最高の数字に達した

・後継者は、先帝ハドリアヌスがすでに指名していた、マルクス・アウレリウスである

〈マルクス・アウレリウス帝〉 在位 161~180年
および
〈ルキウス・ウェルス帝〉 在位 161~169年


・マルクス・アウレリウスは義弟ルキウス・ウェルスとともに帝位についた
・元首政になってはじめての共同統治であった

・マルクス・アウレリウス帝の治世は、戦争が続いた時代で、さらに疫病が帝国を襲い、多数の生命が失われた

★自省録
・マルクス・アウレリウス帝の著作
・もともとは「自分に向けて」と題された覚書だったが、今では一般に「自省録」と呼ばれている
・北部国境で戦争をしていたとき、自分をなぐさめるために書いたものらしい

・マルクス・アウレリウス帝は実子コンモドゥスを後継者に指名した

〈コンモドゥス帝〉 在位 180~192年
・コンモドゥス帝の暗殺未遂ののち、コンモドゥス帝は親衛隊長のぺレンニスに政府をゆだね、奢侈と放蕩にふけった
・185年、ぺレンニスが失脚し、国事の管理権は侍従のクレアンデルに渡された
・190年、クレアンデルが失脚する
・クレアンデルの死後、自分をゼウスの息子ヘラクレスと呼べと命じ、公式の席にはライオンの毛皮をまとい、棍棒を持って現れるようになった
・ローマの街を「コロニア・コンモディアナ(コンモドゥスの植民市)」と改名した
・コンモドゥス帝は闘技場に自ら剣闘士として出場した
・192年の大晦日、愛妾マルキア、侍従長エクレクトゥス、親衛隊長ラエトゥスらが共謀して、コンモドゥス帝を殺害した
・コンモドゥス帝の死によって、アントニヌス朝は終焉した



◎193年の内乱

〈ペルティナクス帝〉 在位 193年
・コンモドゥス帝暗殺後、ローマの首都長官ペルティナクスが皇帝にかつぎだされたが、親衛隊の反感をかい殺害された。87日間の在位であった。

〈ディディウス・ユリアヌス帝〉 在位 193

・ペルティナクス帝の死後、次期皇帝の決定は親衛隊の兵士の手にゆだねられることになった
・2人が皇帝に立候補し、皇位を一種の「公開競売」にかけた
・1人はペルティナクスの妻の父スルピキアヌス、もう1人は資産家のディディウス・ユリアヌスだった
・資産にまさるディディウス・ユリアヌスが帝位をえたが、親衛隊に約束した金を与えることができなかったので、まもなく親衛隊の支持を失った

・ペルティナクス帝の死後、もう3人、名乗りを上げた候補者がいた
・シリア総督のペスケンニウス・ニゲル、ブリタニア総督のクロディウス・アルビヌス、パンノニア総督のセプティミウス・セウェルスである
・セプティミウス・セウェルスの勝利に終わる

・193年6月1日、元老院はユリアヌス帝を死刑に処し、セプティミウス・セウェルスを皇帝にするという動議を可決した。66日間の在位だった。