ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎マリー・アントワネットとルイ16世 6

2014-11-17 23:02:10 | マリー・アントワネット
マリー・アントワネットとルイ16世 6

結婚の未完遂

・王太子夫妻は結婚(1770年5月16日)後7年間のあいだ子どもができなかった

 1778年12月19日、長女マリー・テレーズ・シャルロットが生まれる
 1781年10月22日、長男ルイ・ジョゼフ・ド・フランスが生まれる(1789年6月4日に亡くなる)
 1785年3月27日、次男ルイ・シャルルが生まれる(のちにルイ17世となる)
 1786年7月9日、次女マリー・ソフィー ベアトリスが生まれる(1787年6月18日に亡くなる)

7年間結婚が成就されなかった理由についてのツヴァイクの説は誤っているようだ

・ツヴァイクの説では、ルイ16世の生殖器官に欠陥があり、手術のすえ結婚が成就したということであるが、これは事実に反している(「「ルイ16世」ベルナール・ヴァンサン」)

ルイ16世に身体的な欠陥はなかった

 1770年7月、ルイ15世は外科医のラ・マルティニエールに王太子の診察を依頼し、ラ・マルティニエール医師は「王太子様には、結婚の成就を妨げる生まれつきの欠陥は一切ございません」と答えた
 1774年12月にルイ16世はまた診察を受けたが、診察したジョゼフ・ド・ラソンヌは「国王は肉体的に正常であり、閨事を成就できない唯一の原因は生来の内気である」と答えた
 1775年1月、ルイ16世は外科医のモロー医師の診察を受けたが「手術は不要」との診断だった

ルイ16世は外科手術を受けていない
 手術など必要なかったから

○2人の寝台は別にしていた

 王太子夫妻の居室は別で、続き部屋でもなかった

 配偶者の寝室を訪れる権利は夫だけが持っていた
 王妃の部屋に通うさいは、人々の視線にさらされる

 ついには、国王と王妃の部屋を結ぶ秘密の通路がつくられたが、ここを通ることができるのは国王だけだった

★マリー・アントワネットからマリア・テレジアへの書簡(1777年8月30日)より

「今の私は生まれてからこの方もっとも幸福な時を過ごしております。1週間前に私の結婚は完全なものになりました。証しは1度ならずあり、つい昨日も最初の時よりさらに完全になりました。…まだ身ごもったとは思いませんが、少なくとも、これでいつ身ごもっても不思議はないという希望はもてるようになりました」

◎マリー・アントワネットとルイ16世 5

2014-11-09 18:37:02 | マリー・アントワネット
マリー・アントワネットとルイ16世 5

マリー・アントワネットの宮廷生活

○ヴェルサイユの宮廷での王室の一日は、儀式だらけだった
 朝の起床の儀にはじまり、夜の就寝の儀におわる
 この宮廷儀礼はルイ14世の時代に確立されたものだった

・朝の起床の儀のさいのマリー・アントワネットの着付けにも厳格な作法があった
 マリー・アントワネットは何1つとして、自分でやってはいけなかった

 着付けは女官と化粧係が、侍女頭とふたりの侍女の手を借りながら行ったが、女官と化粧係の仕事は区別されていた
 化粧係はペチコートを渡し、ドレスを差しだす
 女官はマリー・アントワネットが手を洗うための水を注ぎ、肌着を渡す
 王家の貴婦人が居あわせた場合は、女官は肌着を渡すを役目をその貴婦人にゆずることになっていた
 そのときは、直接その貴婦人にゆずるのではなく、女官は肌着を侍女頭に渡し、侍女頭がそれを貴婦人に渡すことになっていた
 より高位の貴婦人があらわれれば、さらに手順が増える
 寒いときでも、その間ずっと、マリー・アントワネットは待っていなければならない
 ばかばかしい習慣で、あるときマリー・アントワネットは「ばかみたい! こんなの無意味だわ!」とも「不愉快だわ! なんてわずらわしいんでしょう!」ともつぶやいたという

私生活を公開することが当たり前になっていた

 夕食をとるのも、公衆の面前で行われるしきたりだった

 身元確認はなく、きちんとした身なりをしている者なら、誰でも宮殿内に入ることをとがめられなかった
 宮殿にはほとんど安全対策がなされていなかった

 男性は剣を帯びていなければいけないという決まりがあった

 王族のかたがたの公開の食事風景の様子をながめることは、人びとの楽しみだった
 マリー・アントワネットは人前ではほとんど料理に手をつけなかったという
エチケットはうるさいのに、食事のサービスはいい加減で、あるとき、アルトワ伯からディナー用にマリー・アントワネットの好物の魚が届けられたが、途中で盗まれ、スコットランドの庭師の朝食になってしまった
 王家の子どもたちが食べるパン粥のなかにガラスの破片が混入されていたこともあった
(「マリー・アントワネット」アントニア・フレイザー 「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク 「王妃マリー・アントワネット」エヴリーヌ・ルヴェ 創元社)

マリー・アントワネットの1日(マリー・アントワネットからマリア・テレジアへ(1770年7月12日)「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」より)

「毎日どのように過ごしているかとお尋ねですので、お知らせいたします。起きるのは10時か9時か9時半で、着替えて朝のお祈りを唱えます。それから朝食をすませ、叔母様がたのところへ参ります。普段ですとそこで陛下にお目にかかります。そこには10時半までいます。11時にお化粧と身支度が始まります。昼になると宮内官を呼ばれ、このときからは貴族であれば誰でも私たちのところまで入ってこられます。私は紅をさしみんなの見ている前で手を洗います。それを合図に殿方はすべて退出し、ご婦人たちだけになって、その方たちの前で私は衣服を身につけます。また、昼にはミサがあります。…ミサのあと、みんなの見ているなかで、殿下とごいっしょに午餐をとります。2人とも食べるのがとても速いので1時半には終わります。そのあと私は殿下のところへ参ります。殿下にご用がおありのときは、自分のアパルトマンに戻り、読書や書きもの、あるいは手仕事をいたします。じつは今、国王陛下のために上着を作っているのですが、なかなかはかどりません。…3時になると、叔母様がたのところに参ります。4時にはヴェルモン神父様が私のところへ来られます。毎日5時から、チェンバロもしくは歌を先生について練習いたします。6時半になると、ほとんど毎日叔母様がたのところへ行きますが、散歩をすることもあります。…7時から9時まではカード遊びです。でも、天気がよければ私は散歩に出掛けます。…9時に晩餐です。国王陛下がご不在のときは、叔母様がたが私のところへいらっしゃって晩餐をとります。しかし陛下がいらっしゃるときは、晩餐のあと私たちが毎日叔母様がたのところへ行き、陛下をお待ちします。陛下は普通10時45分に来られます。陛下のおいでになるまで、私は大きなソファーに横になって眠ります。陛下がヴェルサイユにいらっしゃらないときは、11時に床に就きます。これが私の1日です。日曜日と祝日をどんなふうに過ごすかは、つぎの機会にお知らせします」

・頬紅はほのかに赤いという程度ではなく、真っ赤な頬紅を大きく、まん丸に描くしきたりだった
 頬紅はとても高価で(貧しい人びとは赤ワインで頬を赤く染めた)、ひどい化粧だったけれど、マリー・アントワネットは慣習に従って頬紅をつけた(「マリー・アントワネット」アントニア・フレイザー)

・マリア・テレジアは1771年1月6日のマリー・アントワネットへの書簡の中で
「良い書物を読んで頭に入れるように努力しなさい…ロバや馬に乗るのに忙しくて読書のための時間がなくなってしまっているのではないでしょうか。しかし今は冬です。この季節こそ大いに読書に励んでください。」と繰り返し読書の大切さを訴えている

◎マリア・テレジアは娘を守りたかったが、15歳のマリー・アントワネットは自由気ままを求めていた

 先生だの監督官だのという格式ばっていかめしい指導者ではなく、打ち解けたい相手、気のおけない友だち、遊び相手がほしかった(「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク)

◎マリー・アントワネットとルイ16世 4

2014-11-03 19:08:21 | マリー・アントワネット
マリー・アントワネットとルイ16世 4

マリー・アントワネットとルイ・オーギュストとの結婚式

◎1770年5月16日、2人の結婚式はヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂で行われた
 花婿は15歳と9か月、花嫁は14歳と6か月

・マリー・アントワネットは16日朝9時半にヴェルサイユ宮殿に到着した

 彼女には、結婚式の準備のために、マリー・ジョゼフ・ド・サックス(ルイ・オーギュストの母、1767年3月13日に亡くなった)が住んでいた居室が用意された
 身支度のあいだに、王太子の2人の妹、クロチルド王女9歳とエリザベト王女6歳に会った
 クロチルド王女は丸々としていて「太っちょマダム」というあだ名をもらっていたが、気立てがよく愛されていた
 エリザベト王女は人見知りでとてもかわいらしい子どもだった
また、2人の義弟プロヴァンス伯ルイ・グザヴィエ14歳半とアルトワ伯シャルル12歳にも会った

・マリー・ジョゼフの所持品だった高価な宝石類はマリー・アントワネットのものになる
 国王からも、ダイヤモンドをちりばめた扇、ブルーの七宝焼きの留め具にMAというイニシャルが描かれダイヤモンドの飾りがついたブレスレットなどが用意されていた

・12時半ごろ、王室礼拝堂に十字架を首から下げた王太子が現れた
 銀のラシャのドレスを着たマリー・アントワネットが王太子の腕に手をかけていた

 ランス大司教のラ・ロッシュ エモン枢機卿が式を執り行う
 ランス大司教は13枚の金貨と結婚指輪に祝福を与える
 王太子がマリー・アントワネットの薬指に指輪をはめ、金貨を手渡す
 それから、2人は紅いビロードのクッションの上にひざまずき、ランス大司教の祝福を受ける

 ミサのあと、結婚契約書への署名
 いちばん上は王の「ルイ」、それから王太子の「ルイ・オーギュスト」3番目は「マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ」
 マリー・アントワネットの署名の1つ目のJの上に羽ペンから滴った大きなインクの染みがある

 結婚式のあとは、贈り物の交換、大使たちのパーティ、鏡の間での国王の演奏
 新築のオペラ座では公式国王晩餐会が開かれた
 マリー・アントワネットは食欲がなかったようで、王太子も少ししか食べなかったようである

 夜、アポロンの池で大がかりな花火が打ち上げられることになっていたが、雷雨によって中止となり、花火は翌日に延期となった

・零時になると、お輿入れの儀式が行われた

 王と寵臣たちは慣習にならって、新婚の寝室まで押しかけた
 ランス大司教が寝台を祝福し、国王が王太子にナイトガウンを渡し、最も身分の高い既婚女性のシャルトル公爵夫人が王太子妃にナイトガウンを渡した
 2人が床入りすると、寝室に入る許可を得た人たちが退出した
 そして、寝台のカーテンが引かれた

翌朝、夫は「何もなし」と日記に記した
(「マリー・アントワネット」アントニア・フレイザー 「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク 「ルイ16世」ベルナール・ヴァンサン 「ルイ十六世」ジャン=クリスチャン・プティフィス)

◎マリー・アントワネットとルイ16世 3

2014-10-30 22:16:58 | マリー・アントワネット
マリー・アントワネットとルイ16世 3

マリー・アントワネットのフランス入り

・1770年4月21日朝、アントワーヌはフランスへの旅に出発した

・最初の宿泊地はメルクのベネディクト派修道院で、兄のヨーゼフ2世に迎えられて、女子修道院の生徒たちはオペラを上演した

・旅の途中の町では熱烈な歓迎を受けた
晴れ着を着た娘たちが、生花のブーケ、詩の朗読などによって祝福した

・4月26日、ミュンヘンに到着した
 そのあと、アウクスブルク、ギュンツブルク、ウルム、そして5月4日フライベルクに到着し2日間滞在した

・5月6日、シュテルン修道院に到着し、ドイツ領土で過ごす最後の夜になった
この夜、マリー・アントワネットは初めて、公式にフランス宮廷の高官たちと顔を合わせた
 筆頭はルイ15世の特命大使、ノアイユ伯爵である
 ノアイユ伯爵夫人は王太子妃付女官長として、マリー・アントワネットの身の回りのすべてを監督することになっていた

花嫁の「引き渡し」

・オーストリアとフランス両国の公平さを保つことが重要視されたので、花嫁の「引き渡し」はケール近郊のライン川の両岸から等距離にある無人島で行われることが決められていた
 この島にオーストリア側とフランス側の2つの控えの間をもつ豪華な館が建てられた

・5月7日、この館で引き渡しの儀式が行われた

オーストリア側の部屋とフランス側の部屋は同じような造りであった
 中央に儀式用の大広間があり、マリー・アントワネットはオーストリア皇女としてオーストリア側の部屋に入り、大広間でフランス王太子妃として生まれ変わり、フランス側の部屋に入る

・マリー・アントワネットはフランス王太子妃になった瞬間から、フランス製品のみを身につけなければならない決まりであった
 王太子妃はオーストリア側の控えの間で、オーストリアで用意された靴、ストッキング、肌着、豪華な花嫁衣装をすべて脱ぎ捨てて、フランス製の衣装に着替えた

 マリー・アントワネットは付き添い役のシュタムヘムベルク公爵に付き添われて中央の部屋に入った
そこにはフランスの随員たちが待ち受けていた
 広間中央におかれたテーブルが国境の象徴で、手前がオーストリアで向こうがフランス
まずオーストリア側のシュタムヘムベルク公爵がマリー・アントワネットの手をはなし、フランス側の付き添い役がその手をとり、マリー・アントワネットをみちびいてテーブルの縁をまわる
 新しい付き人となるノアイユ伯爵夫人が挨拶したとき、マリー・アントワネットはひしと伯爵夫人に抱きついた
 伯爵夫人はすばやく身を引き、儀式的な抱擁の権利を夫に返上した
 そのあとで、王太子妃付の侍従たちが紹介され、伯爵夫人が女官たちを紹介した
 そのなかのマイイ伯爵夫人はマリー・アントワネットのお気に入りになった

こうして、マリー・アントワネットは正式にフランス人となった

◎ストラスブールへ

・マリー・アントワネットはアルザスの首都ストラスブールへむかった
 羊飼いの仮装をした子どもたちがマリー・アントワネットをとりかこみ、花籠を差し出す
 娘たちがアルザス地方の民族衣装を着て、王太子妃の進む道に花びらを撒き散らした

 夜になると、町の家々に明かりがともされた
 司教館では、司教の甥の補佐司祭が演説をした
 王室法務官のダンティニー氏がドイツ語で挨拶をはじめたが、王太子妃はそれをさえぎり、「もうドイツ語は話さないでください。今日から私はフランス語以外の言語を解しません」と言った

 王太子妃はさらにパリへの旅を続けた
 王太子ルイ・オーギュストは5月13日、ヴェルサイユを出発し、5月14日、マリー・アントワネットはパリの北方数十キロのコンビエーニュで初めてルイ・オーギュストに対面することになった

二人の出会い

・マリー・アントワネットとルイ・オーギュストの出会いは、5月14日午後3時、コンビエーニュ近郊の森のなかのベルヌの橋で実現した

 王太子の一行は馬車で到着し、花嫁の一行を待機していた
 王太子妃がやってきたことを、双方の随員がファンファーレで伝え合う
 王太子妃が馬車から降り、地面に敷かれていた絨毯の上に立つ
 シュタムヘムベルク公の紹介でショワズール公爵に向き合うと最初の挨拶をかわす
 それから、ルイ15世とその家族が馬車から降りた
 侍従長のクロイ公爵に「王太子妃殿下です」と紹介されると、マリー・アントワネットは優雅にひざまずき、国王を「パパ(お父さま)」と呼び挨拶した
 王が立つように許可したので、マリー・アントワネットは立ち上がった
 王の横には王太子が立っていた
 王が王太子を紹介すると、王太子はぎこちない様子で花嫁の頬に慎み深くキスをした
 やせて背の高い青年と、背は低いがほっそりとした体つきで、輝くような白い肌の愛らしい少女の出会いだった

・国王と花嫁花婿は一台の馬車に乗り、コンピエーニュ城に向かった
 国王と夫のあいだにはさまれて、マリー・アントワネットが座る
 国王は興奮してしゃべり続けたが、夫は黙りこくっていた
その夜、コンピエーニュ城でマリー・アントワネットは王の親族を紹介された

・翌日(1770年5月15日)の夕方、マリー・アントワネットはラ・ミュエット城におもむいた
 ラ・ミュエット城での夕食会にルイ15世は公式寵姫のデュ・バリー夫人を招待していた

 何も知らないマリー・アントワネットはひときわ美貌のデュ・バリー夫人に目をとめて、ノアイユ伯爵夫人に、あの女性の役目は何かと尋ねた
 ノアイユ夫人は「国王の愛人です」と答えるわけにもいかず、「国王陛下を楽しませることでございます」と答えた
 マリー・アントワネットは「それならば、私は彼女のライバルになりますわ」と言った
(「マリー・アントワネット」アントニア・フレイザー 「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク 「ルイ16世」ベルナール・ヴァンサン 「ルイ十六世」ジャン=クリスチャン・プティフィス)


○マリー・アントワネットからマリア・テレジアへの書簡(1770年7月9日)のなかで、デュ・バリー夫人についてふれている
デュ・バリというのは考えられるかぎりもっとも愚かで無礼なふしだら女です。マルリー(宮殿)では毎晩私たちといっしょにカード遊びをしましたが、2度も私のとなりにすわりながら、私とは口をきかないのです。私も必ずしもあのひととお話しをしようとはしませんでした。でもどうしても必要なときは、少し言葉を交わしました」(「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」)

◎マリー・アントワネットとルイ16世 2

2014-10-19 18:04:49 | マリー・アントワネット
◎マリー・アントワネットとルイ16世 2

政略結婚

・ルイ15世のところの大臣ショワズールとハプスブルク家のマリア・テレジアのところの政治顧問のカウニッツが、フランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の同盟を血縁で結びつけて強めようと提案した
 それは、フランスの王太子とマリア・テレジアの娘のひとりを結婚させる考えである

 結婚の話は、1764年にショワズールとオーストリア大使のシュタクベルヘルク公爵とのあいだではじまり、1766年にルイ15世が口頭で同意した

 1766年5月24日の時点で、オーストリア大使が「陛下は今この時より、フランス王太子とマリア・アントーニア皇女との結婚は決定され、確実なものになったとお考えになることができる」とマリア・テレジアに書簡で報告している

・1769年6月、ルイ15世は最終的の結婚の許可を与え、ルイ15世の書簡がマリア・テレジアにとどき、「自分の孫である未来のルイ16世のために、若いプリンセスをいただきたい」との結婚の申し込みがあった

結婚式は翌1770年の5月と決められた

・4月16日、大臣のデュルフォールは主人の国王の名において、正式にアントワーヌにベリー公との結婚を申し込み、ベリー公の肖像画が入ったロケットをアントワーヌに渡した

・4月17日、婚姻契約において、アントワーヌはオーストリアの皇位継承権、およびハプスブルク家の財産相続権を放棄すること、20万フロリンの持参金と同額の宝石類を持ち込むこと、寡婦になったときの給与財産として、2万エキュの金貨と10万エキュの宝石類を年金として受け取ることが取り決められた
 その夜、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿で晩餐会が開かれた

・4月18日の夜はウィーン郊外のリヒテンシュタイン宮殿で晩餐会が開かれた
花火が上がり、トルコ音楽が奏でられた

・4月19日、ウィーンのアウグスティヌス教会で代理人を立てて代理結婚式が挙げられた
 アントワーヌの代理花婿は3番目の兄のフェルディナント大公だった

アントワーヌの出発は4月21日の朝9時と決められていた
輿入れの行列には、侍女、秘書官、美容師、衣装係、医者、従僕、女官、近衛兵、料理人、パン焼き職人、蹄鉄工など少なくとも132人にのぼり、57台の馬車と376頭の馬が必要になった
 376頭の馬は4時間ごとに交代する必要があり、のべ2万頭の馬をルートに沿って配置しておかなければならなかった

・14歳のアントワーヌは人目も気にせず泣きじゃくり、馬車の窓から何度も首を出して故国を最後に見ようとしていたという(「マリー・アントワネット」アントニア・フレイザー、早川書房 「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク、角川文庫 「ルイ16世」ベルナール・ヴァンサン、祥伝社 「ルイ十六世」ジャン=クリスチャン・プティフィス、中央公論新社)


マリー・アントワネットとマリア・テレジアとの往復書簡

1770年からマリア・テレジアが亡くなる(1780年11月29日)少し前まで11年間にわたる、マリー・アントワネットとマリア・テレジアとの秘密の往復書簡(直筆のものと写し)が残っている

 母は娘が嫁いでからも、手紙によって警告や助言を与え、指示を出し、さとしたり娘を正しい道へ導こうとした

 母は娘の出発にあたって、書簡を与え、今後定期的に手紙で連絡を取り合うように、しかもそれを秘密にするように言い含めた

 書簡のやりとり自体を秘密にするということではなく、定期的に書簡を通して意思を通じ合っていることを秘密にするという意味である
 手紙を読んだあとはすぐに破棄されることになっていた
 娘はこれを守ったようだが、母のほうは娘からの手紙を書き写させて保管させた
 こうして、母と娘の書簡の写しと、破棄されなかった直筆の書簡が後世に残ったのである

 母と娘の秘密の文通は月1度ぐらいの頻度で続けられた
 現在なら、携帯電話もありネットもあり毎日連絡をとれて便利だけれど、手紙というのは貴重な資料である

1770年4月21日 マリア・テレジアから娘へ(書簡1) より一部

「毎月読むこと

 毎朝、目を覚ましたらすぐさまベッドを離れ、跪いて朝のお祈りを唱えて、神の教えを説く書物を読みなさい…すべては1日の良き始まりに関わること、1日の始まりにあたっての心構えに関わることであり、これさえ間違いなく行なえば、取るに足りぬ事柄ですら功徳のあるよう立派に行なうことができます。…しかしこれにより、この世であなたが魂の平安を得られるか否かが決まるのです。また、1日の終わりにあたってあなたが行なう夕べの祈りと反省についても、同じことが言えます…ところで、あなたが読んでいる本のことを、そのつど私に知らせてください。毎日できるかぎり時間を見つけて、自省と黙祷に励み、特に聖なるミサのあいだは一心不乱にそれを行なうように…あなたがフランスのしきたりに反することを導入したり試みたりすることは、いささかも願ってはなりません…あなたは無条件に、フランスの宮廷でいつも行なわれているとおりにしなければいけません…すべての目があなたに注がれています。ですから、悪評が立つようなきっかけをあたえてはなりません

特に注意すべきこと
誰それを推薦してくださいと頼まれても引き受けてはなりません…好奇心を抱いてはいけません…どのようなこともノワイエ夫妻に尋ねなさい…何をするべきかについても、おふたりに教えを乞いなさい…何ごとであれ、あなたの一存で行なってはいけません…これからは毎月の初めに、ウィーンからパリに使いの者を送ることにします。その者が着くまでに手紙を書いておき、到着後ただちに手渡して出立させなさい…私の手紙は、読んだら破り捨てなさい…」(「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」パウル・クリストフ編 岩波書店)