ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎イスラーム 25 アラビア科学 3

2015-11-07 21:34:54 | 宗教
イスラーム 25 アラビア科学 3

3 アラビア・ルネサンス(アッバース朝期 8世紀後半~9世紀) 

●シリア・ヘレニズムを前提としてアラビア科学が成立した

 バグダードを中心に翻訳活動(シリア語、ギリシア語からアラビア語へ)が本格化した

 シリア文明圏からアラビア語訳されてアラビア文明圏へ
 さらには、直接、ギリシア語学術文献がアラビア語訳される

○749年、アブー・アルアッバースはカリフに就任し、750年、正式にアッバース朝の初代カリフとして認定され、アッバース朝が成立した

●アッバース朝第2代カリフ マンスール(在位754-775年)の時代

・マンスールは首都バグダード(平安の都)を建設した(762年に建設がはじまり、766年に完成)

・マンスールは、首都建設のために、ペルシア人の占星術師アン・ナウバフトとユダヤ人の占星術師であり天文学者のマーシャラーフに必要な測量を行わせた
 当時は占星術と天文学ははっきり区別されたものではなかった
 占星術師は天体の運動についての知識が必要だった

・バグダードにジュンディー・シャープールから多くの科学者が招かれた

・マンスールはインドの天文学書「シンドヒンド(インドの「シッダーンタ」のアラビア語訳)」を天文学者のファザーリーにアラビア語に翻訳することを命じた
 インドの天文学が入るとともに、インドの数学、インド数字が入った
 インドの医学も入った

●アッバース朝第5代カリフ ハールーン・アッ・ラシード(在位786-809年)の時代

○ハールーン・アッ・ラシードは、バグダードにギリシア語文献を中心とする図書館「知恵の宝庫」を建設した

○ハールーン・アッ・ラシードは「千夜一夜物語」の主要な登場人物の1人である

○ハールーンのもとで、シリア語訳されていたギリシアの科学文献がアラビア語訳され、さらにギリシア語原典からのアラビア語訳もされるようになった
 そのなかには、エウクレイデスの「原論」、プトレマイオスの「アルマゲスト」、プラトンの「ティマイオス」などが含まれていた

○ハールーンの時代には、イスラーム世界初の病院が建てられた


●アッバース朝第7代カリフ マアムーン(在位813-833年)の時代

★「知恵の館

 ハールーンの息子のマアムーンは、「知恵の宝庫」を拡充して「知恵の館」と改めた
 「知恵の館」はギリシアの科学文献の収集・研究とそのアラビア語への翻訳を主たる目的とした
 図書館と天文台を設けた
 

○マアムーンは、地球の直径を計算するために、緯度1度にあたる子午線の長さを測る調査旅行団を派遣した

アル・フワーリズミー

・9世紀前半、マアムーンに仕えた、数学者・天文学者
 アル・フワーリズミーの名からアルゴリズム(計算の手順)という言葉が生まれた
 
○イスラーム世界で作成された最も古い地図は、アル・フワーリズミーの「キターブ・スーラト・アル・アルド」(地球の形の書)に収められている地図とされるが、この地図はプトレマイオスの「地理学」をもとにしているといわれる

◎イスラーム 24 アラビア科学 2

2015-10-12 22:20:07 | 宗教
イスラーム 24 アラビア科学 2

2 シリア・ヘレニズム(5世紀~7世紀)

○ビザンティン文明圏からシリア語訳されてシリア文明圏へ

○ビザンティン帝国のギリシア正教会を追われたネストリウス派のキリスト教徒の手によってギリシア科学書のシリア語訳がつくられた

 ネストリウス派は431年のエフェソス公会議で異端とされ(ネストリウスはイエスという1つの人格の中に、神性と人性という2つの本性が存在しているとした)、ビザンティン帝国を追われる

 ネストリウス派のキリスト教徒たちは、まずエジプトに逃れる

 次に、メソポタミア(西アジア)のエデッサという町に移る
 エデッサにキリスト教の学校が建てられていたが、ネストリウス派の拠点となった
 489年にビザンティン帝国の皇帝ゼノンが、エデッサの学校を閉鎖し、かれらは迫害を受けるようになった

 そこで、エデッサの学校の学頭バルサウマはネストリウス派のキリスト教徒をひきつれてササン朝ペルシアの領内に入った
 彼らは、ビザンティン帝国と争っていたペルシアの王ピールーズの信頼を得て、ペルシアに居住することを許された

・彼らは、ニシビスに学校を開き、ペルシアにおけるネストリウス派の活動の中心とした
 ネストリウス派の伝道者は中国にまで達した

・キリスト教神学を擁護するため、キリスト教神学の基礎としてギリシア哲学があった
 ネストリウス派はビザンティン帝国のギリシア正教会に迫害されていたから、その公用語であったギリシア語をすてて、自分たちの教会儀式も土着のシリア語で行い、シリア語に訳された聖書、神学書、哲学書を用いた
 その結果として、アリストテレスの哲学などがシリア語でローマ帝国外の西アジアの地に伝えられることになった
 同様にギリシア哲学と分離していなかったギリシア科学もシリア語訳されて入っていった
 医学、天文学、錬金術などの書物がシリア語訳された

ジュンディー・シャープール
・シリア化された科学は、ペルシアのスーサ近郊のジュンディー・シャープールに移っていく

 ギリシア文化の愛好者であったペルシアの君主ホスロー1世アヌーシーラワーンが531年に即位すると、アレクサンドリアのムーセイオンに模した研究所をつくった
 これに付属病院や天文台を設置して、医学、天文学、数学の研究を奨励した
 そこでの教育はギリシア語やペルシア語ではなく、シリア語で行われた
 アテナイを追われたギリシアの学者たちや、インドの学者も受け入れた

●ジュンディー・シャープールの学派がのちのアッバース朝の科学文化の1つの大きな支柱となった

●キリスト教の単性論者
・ギリシアの学問をアラビア文明圏に伝える媒介の役をはたしたもう1つは、キリスト教の単性論者である

 単性論者はキリストが神にして人であることに同意するが、キリストの中で人性は神性に吸収されており、キリストは基本的には1つの性格、すなわち神性しかないと主張する
 単性論者も、カルケドンの宗教会議(451年)において異端とされ、正教会から追放された
 彼らもシリア・メソポタミア地方に出ていった
 彼らは、学校を建てるのではなく、修道院においてギリシア哲学、ギリシア科学を研究し、ギリシアの学術文献のシリア語訳をつくった

●セヴェルス・セポフト
 単性論者の最高の学者は、ケンネシュレーの修道院からでた7世紀後半のセヴェルス・セポフトであるといわれる
 セヴェルス・セポフトはプトレマイオスの「アルマゲスト」のシリア語版の訳者である
 また、「月の相について」「星座について」などの著作やインド記数法についての言及などもある

◎イスラーム 23 アラビア科学 1

2015-09-24 22:30:42 | 宗教
イスラーム 23 アラビア科学 1


●以下、「アラビア科学」の項目の内容は、おもに

「近代科学の源流」伊東俊太郎、中公文庫
「十二世紀ルネサンス」伊東俊太郎、講談社学術文庫
「アラビア科学の話」矢島祐利、岩波新書
「アラビア科学史序説」矢島祐利、岩波書店
「アラビア科学の歴史」ダニエル・ジャカール、創元社
「科学の真理は永遠に不変なのだろうか」ベレ出版
「アラビア文化の遺産」ジクリト・フンケ、みすず書房
「イスラームの歴史 1」ジョン・エスポジト、共同通信社
「古代中世 科学文化史 Ⅰ」G・サートン、岩波書店
「古代中世 科学文化史 Ⅱ」G・サートン、岩波書店
などによります


アラビア科学(イスラーム科学)

8世紀後半から15世紀にかけて、イスラーム地域(イラク、イラン、シリア、エジプトからスペインにわたる)においてアラビア語で文化活動をした人びとの科学
○アラビア科学は、ギリシア、ペルシア、インドなどの科学を統合し、発展させて、当時世界最高水準の科学を築き上げ、12世紀以降ラテン語訳されて近代西欧科学の知的基盤をつくった


アラビア科学の意味

○アラビア科学はアラビア語による科学とは限定されない
 大部分はアラビア語で書かれていたが、ペルシア語(イラン人)、ヘブライ語(ユダヤ人)シリア語(ギリシア人)で書かれた科学書も含まれる

○アラビア科学はアラビア人の科学ということを意味しない
 アラビア科学を築き上げた人びとは、ムスリムのみではなく、ネストリウス派のキリスト教徒、ユダヤ教徒、サービア教徒などもいる
 科学の表現と伝達の共通語としてアラビア語をもちいた

●アラビア科学は中世の科学であり、中世は暗黒時代ではない

○ギリシア語テキストが今日失われているのに、アラビア語訳で保存されているものがある
○アラビア科学はギリシアの科学を伝えただけではなく、数学、化学、天文学、医学などさらに発展させた分野もある


古代ギリシアからアラビア科学への流れ

◎概略
1 ギリシアの科学(前6世紀頃~2世紀頃)
2 シリア・ヘレニズム(5世紀~7世紀)
 アラビア科学
3 アラビア・ルネサンス(アッバース朝期 8世紀後半~9世紀)
4 全イスラーム期(10世紀~11世紀)
5 12世紀ルネサンス(12世紀における古典復興)(12世紀)
  アンダルス・モンゴル期(12世紀~15世紀前半)


1 ギリシアの科学

第1段階 植民期の科学(前6世紀頃~前5世紀)
 ギリシアの植民地(イオニア地方(アナトリア半島)や、ミレトス(アナトリア半島)、エレア(南イタリア)など)で起こった科学
 タレス、アナクシマンドロス、パルメニデス、ピュタゴラス、デモクリトスなど

第2段階 アテナイ期の科学(前4世紀頃)
 ギリシア本土のアテナイが中心
 アナクサゴラス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど

第3段階 ヘレニズム期の科学(前3世紀頃~2世紀頃)
 科学研究の中心が古代エジプトのプトレマイオス朝(前306年~前30年)の首都アレクサンドリアに移る

 アレクサンドリアにアレクサンドリア図書館があった
 エウクレイデス、アルキメデス、アポロニオス、プトレマイオスなど


○アレクサンドロス大王時代(紀元前356年~紀元前323年)
○アレクサンドロス大王死後、ローマ帝国(紀元前27年~1453年)とペルシア帝国の2つの帝国の支配が続いた

○ローマ帝国の分裂(395年)

 395年1月17日、ローマ帝国皇帝テオドシウス1世がミラノで死亡し、
東部帝国(東ローマ帝国)は、長男アルカディウスに、西部帝国(西ローマ帝国)は、次男ホノリウスに与えられた
 476年9月、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストュルスを廃位し、西ローマ帝国が滅亡した
 東ローマ帝国は、1453年に滅亡するまで長く続き、ビザンチウムを都としたのでビザンチウム帝国(ビザンティン帝国)ともいわれる

・ギリシア系統の学術は、ビザンティン帝国(ビザンティン文明圏)に引き継がれ、ギリシアの学術の良質の部分はローマには入らなかった


2 シリア・ヘレニズム(5世紀~7世紀)
 ビザンティン文明圏からシリア語訳されてシリア文明圏へ

・ビザンティン帝国のギリシア正教会を追われたネストリウス派のキリスト教徒の手によってギリシア科学書のシリア語訳がつくられた


○661年にウマイヤ朝が始まる
○750年にアッバース朝が始まる


3 アラビア・ルネサンスアッバース朝期 8世紀後半~9世紀) 

●シリア・ヘレニズムを前提としてアラビア科学が成立した

 バグダードを中心に翻訳活動(シリア語、ギリシア語からアラビア語へ)が本格化した

 シリア文明圏からアラビア語訳されてアラビア文明圏へ
 さらには、直接、ギリシア語学術文献がアラビア語訳される

 ペルシア、インド、シリア、エジプトから多くの学者がバグダードに集まった

 アッバース朝のカリフたちが学問を奨励し、科学研究が盛んとなる
 アラビア科学が受けついだギリシア科学は、アテナイ期の科学ではなく、それよりいっそう進んだアレクサンドリアの科学(ヘレニズム期の科学)である(エウクレイデス、アルキメデス、アポロニオス、プトレマイオスなどに代表される)


4 全イスラーム期(10世紀~11世紀)

 東のアッバース朝、サーマーン朝(873年~999年)、ガズナ朝(955年/977年~1187年)、西の後ウマイヤ朝(756年~1031年)、中央部のファーティマ朝(909年~1171年)などの王朝下で、バグダード、コルドバ、カイロなどのイスラーム各地域においてアラビア科学の黄金時代をつくりあげた
 中心は、バクダード、イスファハン、コルドバ(アンダルシア王国)、カイロ


5 12世紀ルネサンス(12世紀における古典復興)(12世紀)
  アンダルス・モンゴル期(12世紀~15世紀前半)

 アラビア文明圏からラテン語訳されて西欧文明圏へ

 12世紀にアラビア語訳されたギリシア科学書のラテン語訳が始まる

・西欧ラテン世界は、12世紀にビザンツ帝国やイスラーム世界との接触を通して、古代ギリシア文化や当時先進の学術を開花していたイスラーム文化を吸収し、後の西欧近代科学技術の土台を築いた

 アンダルス、北アフリカ、中央アジアなどのイスラーム世界でも依然発展を続ける
 中心はコルドバ、グラナダ、マラーケシュ、マラーガ、サマルカンド

 この時代は、
 ギリシア学術文献のアラビア語経由ラテン語訳、
 ギリシア語原典からの直接のラテン語訳、
 アラビア学術文献のラテン語訳
という翻訳の時代だった


ルネサンス(イタリア・ルネサンス)
・フランス語で「再生」、文芸復興のこと
 とくに、14-16世紀、イタリアを中心にヨーロッパで起こった文化の革新運動をいう

◎イスラーム 22 アッバース朝

2015-09-06 22:21:23 | 宗教
イスラーム 22 アッバース朝

ウマイヤ朝(661年~750年)
・ウマイヤ朝の時代では、支配地域の住民の過半数がムスリムではなかった
 キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒が多数派であった

アッバース朝(749年~1258年)

 8世紀初めに、イスラームの宗教指導者イマームの位は、ムハンマドの叔父アッバースの血を引くアッバース家の人物に伝えられたと主張するグループ(シーア派のカイサーン派)があらわれた

 アブー・ムスリムは745/6年、ウマイヤ朝の打倒をめざすアッバース家運動の中心人物 イブラーヒーム・イブン・ムハンマドによってホラーサーン地方に送り込まれ、革命教宣員の指導者となった
 747年6月、アブー・ムスリムはホラーサーン東部のマルウ近郊で武装蜂起し、短期間のうちにホラーサーン全域を掌握した
 配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ率いる革命軍をイラク地方に派遣してウマイヤ朝軍を撃破した

 749年9月にクーファに入城して、11月、アッバース家のアブー・アッバース(イブラーヒームの弟)をカリフに選任し、バイア(忠誠の誓い)を行った

 ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、ティグリス川の支流ザーブ川で、アブー・アッバースが率いるアッバース朝軍と会戦した
 ウマイヤ朝軍は敗れ、マルワーンはエジプトへ逃亡した
 750年8月、マルワーンは上エジプトのファイユームまでたどり着いたが、そこの教会に助けを求めたところで殺害された

 アッバース朝が正式に樹立されたことが確認され、アブー・アッバースはアッバース朝の初代カリフとして認定された

アッバース朝第2代カリフ マンスール

・754年、アブー・アッバースが亡くなると、兄のアブー・ジャーファルがカリフ位を継承し、マンスール(「神の加護を受けた者」)と称した

・アブー・ムスリムは、その強大な軍事力と人望に危機感をもたれ、755年2月、イラク中部の都ハーシミーヤで、アッバース朝第2代カリフのマンスールにより暗殺された

○マンスールは中央集権的な体制をつくることをめざした
・駅伝(バリード)の制度
 数十キロごとに駅舎を置き、そのあいだをロバ、ラクダ、あるいは馬で結ぶ
 中央には駅伝を管理する駅伝庁を置いた

「平安の都」バグダードの建設

・アッバース朝の首都は、アブー・アッバースの時代にハーシミーヤからユーフラテス川流域のアンバールに移され、マンスールはアンバールで即位した
 翌年マンスールは新王朝にふさわしい新都の建設を思い立ち、ティグリス川西岸のバグダードを選んだ

 762年に建設がはじまり、766年に完成した
 正式の名を「平安の都(マディーナト・アッサラーム)」というが、一般にはバグダードの名で呼ばれた
 バグダードは現在のイラク共和国の首都である

・新都は3重の城壁に囲まれた円形都城で、直径2.35kmであった
 円城の内部に住むことを許されたのは、アッバース家一族、カリフの腹心、指揮官クラスの高級軍人、官僚などだけだった
 市民の生活空間は城壁外の郊外にあった

・はじめは、円城内の4つの城門と内壁を結ぶアーケードにそって、市場が設けられていたが、防衛上の理由から円城南郊外のカルフ地区に移され、その地は市場経済の中心地として繁栄することになる

○バグダードは国際都市として機能する構想があった
 円城の4つの城門
・北東のホラーサーン門は、ホラーサーン街道をたどれば、絹の道シルクロードをへて、唐の都長安に達する
・南東のバスラ門をでて、ティグリス川を船で下ればペルシア湾からインド洋、東南アジアへつながる
・南西のクーファ門から西へたどればアラビア半島を縦断し、マッカに至る
・西北のシリア門を出てユーフラテス川をさかのぼれば、シリアさらにはビザンツ帝国のコンスタンティノープルに達する

○バグダードへ運ばれた商品
 中国の絹織物、陶磁器
 東南アジアやインドの香辛料、木材
 中央アジアの毛織物、奴隷
 アフリカの金、奴隷

○8~9世紀のバグダードを代表する商品
 綿織物、絹織物、貴金属、ガラス製品、紙

○9世紀のバグダードは「3万のモスクと1万の公衆浴場が建ち並ぶ」巨大都市に成長したという

 

◎イスラーム 21 シーア派とスンナ派

2015-08-16 16:06:50 | 宗教
イスラーム 21 シーア派とスンナ派

ウマイヤ朝(661年~750年)

 ムアーウィアは、アリーがまだ存命中の660年に、エルサレムで自らカリフたることを宣言した

 661年、アリーが暗殺されると、ムアーウィアはダマスカスでムスリムから忠誠の誓いをうけ、第5代カリフとして認められた

 661年7月、ムアーウィアはカリフ職の世襲制を宣言し、シリアのダマスカスを首都とするウマイヤ朝(661~750年)を打ち立てた
 ウマイヤ家の出身者が世襲的にカリフ位を独占したため、ウマイヤ朝と呼ばれる

・ムアーウィアはムスリムの指導者としてではなく、イスラーム史上最初の君主としてふるまった
 ムアーウィアはイスラーム史上はじめて見張り、警察、門番をおいた

○征服戦争を再開
・669年 シチリア遠征
・674年 クレタ島征服
・679年 コンスタンティノープル攻撃

カルバラーの悲劇

 680年、ムアーウィアが没し、息子のヤズィードがウマイヤ朝第2代カリフとなった

 アリーの一党はアリーの遺児フサイン(ムハンマドの孫)を擁して兵をあげようとした

 イラクの都市クーファはアリーの一党の本拠地だった
 クーファの不穏な動きを察知したカリフ ヤズィードは軍を派遣し、ウマイヤ朝軍はクーファ西北部のカルバラーに布陣して、フサインの到着を待ちかまえた
 680年10月10日(ヒジュラ暦61年ムハッラム月(第1月)10日)、70余名のフサイン軍と4000名のウマイヤ朝軍が戦った
 フサインとその従者は、女・子供を残して全員殺された

 フサインの遺体は首実検がすんでからカルバラーにもどされ葬られた
 やがて、そこにはモスクが建ち、シーア派の聖なる墓所として伝えられている

アーシュラーの行事

 アーシュラーはヒジュラ暦ムハッラム月10日のことをさす
 ヒジュラ暦61年のこの日、フサインが殺害されたことから、シーア派の信徒はフサインの殉教を哀悼する行事を行う
 フサインの痛みや苦しみを追体験するために、自らの身を棒で叩いたり鎖やナイフで傷つけたりする



シーア派とスンナ派

シーア派

 アリーへの忠誠を守りぬいた人びとをシーア・アリー(アリーの党派)という
「シーア」は「党派」を意味する

 アリーとムアーウィアが戦っている頃は、それぞれ「アリーの党派」「ムアーウィアの党派」であった

 しかし、アリーの死後、ウマイヤ朝の成立によってムアーウィア派は体制派となった
 体制派となったムアーウィア派はもはや派ではなく、反体制派として残ったアリー派がたんにシーア派と呼ばれるようになった

 ムハンマドの家系を重視し、イスラーム共同体の指導者(イマーム)の地位はムハンマドの男性の子孫(アリーの子孫)に引継がれるべきだと主張する人びとがシーア派を形成した

 現在、シーア派が多いのはイランであり、国民の90%近くがシーア派であるという

○シーア派の礼拝
 1日5回の礼拝のうち、2回目と3回目、4回目と5回目をくっつけて行うので、見た目には1日3回しか礼拝しないように見える

シーア派はイスラームの異端ではない
 スンナ派はシーア派がムスリムであることは認めている

シーア派は過激派ではない


スンナ派

 「スンナ」とはムハンマドの言行、あるいは規範のことである

 スンナ派は多数派を構成しているが、ムハンマドによって示された規範に忠実に生きようとする人びとのことであり、もともと「正統派」とか「多数派」の意味は含まれていない

 シーア・アリーが結成されたとき、彼らと一線を画したグループがスンナ派である

 スンナ派は、指導者の地位は、世襲ではなく、もっとも適格な人物が受け継ぐべきだと考えた

 ウマイヤ朝、アッバース朝のカリフたちをイマームとして認めるのがスンナ派である

 現在、スンナ派がとくに多いのはサウジアラビアで、国民の90%がスンナ派であるという

●ウマイヤ朝第5代カリフ アブド・アルマリク(646~705年)

アラブ式貨幣の発行

・アブド・アルマリクは695年、アラブ式貨幣を鋳造、発行した
 このとき、アラビア文字だけの刻銘をもつ、イスラーム独自の金貨(ディーナール)と銀貨(ディルハム)に統一した

 表にはクルアーンの「告げよ、「これぞ、アッラー、唯一なる神、」(第112章1節)を刻み、裏にはアブド・アルマリク自身の名を刻んだ
 これによって、現代と同じように官僚や軍隊への俸給が現金で支払われるようになった

行政用語のアラビア語化

 中央と地方の行政を円滑に行うために、地方ごとに、部署ごとに異なる行政用語、文書用語をアラビア語に統一した
 697年にイラクの租税文書がペルシア語からアラビア語へ書き改められた
 700年にはシリアの行政用語がギリシア語からアラビア語に改められた
 705年にはエジプトの行政用語がコプト語からアラビア語に改められた
 742年にはイランの行政用語がペルシア語からアラビア語に改められた

 改革後、官庁で働く書記もアラブ人の官吏が重用されるようになった

●ジュンディーシャープール

ササン朝ペルシアのシャープール1世がイラン南西部に建設した都市
 ホスロー1世アヌーシーラワーンはここにアレクサンドリアの研究所ムーセイオンに似せた研究所をつくり、付属病院や天文台を設置して、医学、天文学、数学などの研究が行われた

 ギリシアの学術書(ガレノスの医学書、アリストテレスの論理学など)がネストリウス派キリスト教徒たちなどによって、シリア語に翻訳された

ウマイヤ朝時代には、シリア語訳書をアラビア語に翻訳する作業が開始された