ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎ガリレオ・ガリレイ (2)

2016-03-23 23:27:34 | 物理
ガリレオ・ガリレイ (2)

パドヴァ大学教授

・1592年12月、ガリレオ(28歳)はパドヴァ大学の数学教授となった

 1610年9月にトスカナ大公コジモ2世に招かれ、トスカナ大公付きの哲学者兼首席数学者となるまで18年間、パドヴァ大学に勤めた
 パドヴァ大学はヴェネツィア共和国に所属している
 パリ大学は神学、ボローニャ大学は法学を中心としていたのに対し、パドヴァ大学は医学を中心としていた

・ガリレオの友人
○ジョヴァンフランチェスコ・サグレド(ヴェネツィア人の貴族)

 サグレドはガリレオの「天文対話」(1632年2月刊)に登場する人物のひとり
 「天文対話」はサグレド氏(良識的な人物を代表する)、サルヴィアチ氏(コペルニクス説とガリレオ自身とを代表する)、シムプリチオ氏(アリストテレス、プトレマイオス説を代表する)の3人がサグレド氏の邸宅に集まるところからはじまる

・哲学者チェザーレ・クレモニーニ
 大学の同僚のひとりでアリストテレス主義者

○マリナ・ガンバ(ヴェネツィア人女性)
 1599年ごろ知り合った
 正式に結婚しなかったが、3人の子どもができた
 ヴィルジニア(1600年生れ)、リヴィア(1601年生れ)、ヴィンチェンツィオ(1606年生れ)である


○パドヴァ大学では、エウクレイデスの幾何学(第1巻と第5巻に限られていた)と天文学を教えた
 天文学ではヨハネス・サクスボスコの「天球」(アリストテレスの宇宙論の紹介)とゲオルグ・ポイエルバッハの「惑星の理論」を教えた

○ガリレオの年収は180フローリン(ピサ大学での年収の3倍)だった
 1606年には520フローリンになったが、妹リヴィアが結婚した(1601年)ため彼女の持参金を支払うことになり、財政的に重荷になった
 ガリレオは収入を補うために、大きな家を借りて15人から20人の学生を下宿させて、個人教授をした
 要塞構築術、関数尺の使用法、宇宙誌、「ユークリッド」、算術、光学、機械学といった私的課程があった

○ガリレオは30歳ころから死ぬまで、季節の変り目ごとに全身が烈しく痛んで苦しんだ

 

◎ガリレオ・ガリレイ (1)

2016-03-15 22:05:36 | 物理
ガリレオ・ガリレイ (1)

★~ピサ大学教授時代

・ガリレオ・ガリレイは、1564年2月15日、トスカナ大公領内のピサで生まれた
 シェイクスピアが生まれたのと同じ年である

○16世紀のイタリア半島

・16世紀、イタリア半島の北西部分はトスカナで、フィレンツェ、シエナ、ピサを含む
 トスカナの東と南は教皇が支配する教皇領で、ローマ、ボローニャを含む
 教皇領の南はナポリ王国で、スペインに支配されていた
 トスカナの北と西はミラノ大公が支配していた
 ミラノの東は、ヴェネツィア共和国


・ガリレオの父ヴィンチェンツィオ・ガリレイはフィレンツェの市民階級の出身で、ピサに住んでいた1562年(42歳)に、ジュリア・アマナティ(24歳)と結婚した
 彼らの最初の子どもがガリレオである

・ガリレオが8歳のとき、叔父と叔母に預けられて、両親はフィレンツェに戻った
 1574年、10歳のときに、フィレンツェに帰って両親の元にもどった

・ガリレオはフィレンツェで基本的な教育を受けたあと、フィレンツェ郊外のヴァロンブローサの聖マリア修道院でラテン語の古典を学んだ
・15歳のとき、ガリレオは修道院から連れ出され、2年後の1581年9月にガリレオはピサに戻った
・1581年9月5日、ガリレオはピサ大学の医学部に入るため、教養課程にあたる「技芸課程」に登録した
 当時のすべての学生は、アリストテレスの著作を読まなければならなかったという
 アリストテレスの考えを、検証することもなく、そのまま講義されていたのである
 ガリレオはアリストテレスの考えをそのまま受け入れることを拒否した

・父ヴィンチェンツィオの知り合いにトスカナ宮廷付き数学者、オスティリオ・リッチがいた
 リッチはまた、フィレンツェの高等工芸学校ともいうべき、アカデミア・デル・ディセニォーの数学の教授でもあった
 ガリレオはリッチを訪ね、エウクレイデスの幾何学と出会い、その論理に感銘を受けた
 ガリレオは数学の勉強を続け、また、リッチからアルキメデスの著作を紹介された
・1585年、ガリレオは最終試験を受けることなく、学位をとらずに大学をあとにした

ピサ大学の数学教授

・1589年、ガリレオはピサ大学の数学教授となった
 年俸は60フローリンで、45名の同僚の平均が200フローリンだった
 ガリレオが教えるのは、旧式の、エウクレイデスの幾何学プトレマイオスの天文学(「アルマゲスト」の原理の注釈)だった
 当時はコペルニクスの地動説に関心をもっていたことを示すものはない

○ガリレオは地上における運動の問題天上における運動の問題を生涯かけて解こうとした

・ガリレオにいたるまで、地上における運動と天上における運動は同一の法則に従っているとは考えられていなかった
 月より下の世界が地上の世界で、月より上の世界が天上の世界で、まったく別個の質的に違ったものと考えられていた
 地上界の物質は、土、水、空気、火の4元素でできていて、天上界の元素は第5元素エーテルであると考えられていた
 天上界の運動について、大学でスコラ学者はアリストテレスのいうことをそのまま講義していたのである
 天上界は、月が地球に近い一番下で、その上に水星、金星、太陽、火星、木星、土星、多くの恒星が層をなしていて、惑星、恒星、天球はエーテルでできていた


地上における運動の問題

アリストテレスは重い物体のほうが軽い物体よりも速く落ちると論じた

 ガリレオはこれに疑問を抱き、物体が落ちる速度に違いがあることは認めたが、これは空気抵抗によるものだと考えた

 ガリレオは、密度の低い物体は密度の高い物体よりもゆっくりと空気中を落ちると述べた
 さらに、もし空気がなければ、すべての物体は同じ速さで落ちると主張した

 このことは、月面に着陸したアポロ15号のデイヴィッド・R・スコット船長が、1971年8月2日に行った実験によって証明された
 スコット船長はハンマー(1.32kg)と羽を両手に持ち、同時に手を離すと、ゆっくり落ちていって同時に月面に落下した(その様子はテレビで生中継された)




 

◎現実世界では重い物は軽い物より早く落ちる

2016-01-08 00:07:43 | 物理
現実世界では重い物は軽い物より早く落ちる

★「重い物は軽い物より早く落ちるか?」(おもに「世界科学史話」中村邦光、創風社 より)

★落下運動

ガリレオの「落体の法則」
 重力が作用するところで自由落下する物体は質量にかかわらず「加速度運動する」というもので、重い物と軽い物は同時に落ちるという
 高校で習うんやけど

○ところがアリストテレスによると「落下速度は物体の重さに比例する」
 すなわち、重い物は軽い物より早く落ちるという


●どちらの言い分が正しいのだろうか?

○ガリレオの「落体の法則」には条件がある

 「空気抵抗がない場合」すなわち「真空」での説であり、地球の大気中では成り立たない

 ガリレオの時代では「真空」を作りだすことはできなかった
 また、「ピサの斜塔の頂上から重さの違う2つの物体を同時に落として、同時に落ちることを確認した」という話があるが、実際はガリレオはこのような「ピサの斜塔の落下実験」は行っていない


地球上の大気中ではアリストテレスのほうが正しい

 実際に大気中で観察するとアリストテレスの言う通りになる

 大気には空気抵抗があり、空気抵抗を考えると、初めの数秒間は加速度運動するが、それにつれて空気抵抗が大きくなり加速度が小さくなる。十分時間がたつと等速度運動をし、「落下速度は物体の重さに比例する
・観測的事実に基づくと「アリストテレスの運動法則」のようになる

 地球上の現実世界では、大気があり空気抵抗があるから、ガリレオの「落体の法則」は成り立たず、アリストテレスのほうが正しく「重い物は軽い物より早く落ちる


★また物体を斜め方向に投げる場合、もっとも遠くまで届くようにするには何度の角度で投げればいいか?
1 45度の角度で投げる これは真空中ではその通りである
2 しかし現実世界では、空気抵抗があるから45度ではなく、45度より小さい角度で最大投射距離になる