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◎ガリレオ・ガリレイ (6)太陽黒点論

2016-05-28 19:23:13 | 天文学
ガリレオ・ガリレイ (6)太陽黒点論

★ガリレオは、1613年春に「太陽黒点とその諸属性に関する話と証明」(「太陽黒点論」)と題する書を出版した
 これはイタリア語で書かれ、「太陽黒点についての手紙」と呼ばれている
 その契機となったのは、イエズス会士クリストフ・シャイナーの「太陽黒点に関する三書簡」を銀行家マルクス・ヴェルザーから受け取ったことである


○1612年1月初め
 イエズス会士クリストフ・シャイナーが「太陽黒点に関する三書簡」を刊行する
・黒点は眼の錯覚でもレンズの傷によるものでもなく、大気中にあるものでもない
・シャイナーは黒点は、太陽表面上にはなく、太陽の周りをまわる天体であり、太陽と水星および金星の間にあるだろうと推測する

○1月、ガリレオは「太陽黒点に関する三書簡」を銀行家マルクス・ヴェルザーから受け取る
・ヴェルザーへの返答として、ガリレオは3通の手紙を書いた

○2月中頃、ガリレオは黒点観測を始める
 ガリレオは黒点の形が日々、変化していることに気づいた
 また、ガリレオは太陽が自転していることに気づいた

○5月初め、カステッリから投影法(接眼レンズの近くに置いた白い紙にあらかじめ描かれた円の上に太陽の像を投影する)という新しい黒点観測の方法を知る
 これにより太陽を直接眼で見る危険をおかす必要がなくなった

○6月初め、ガリレオは第1の手紙を書く
 黒点は実在物であり、眼や眼鏡にうつる幻想でもないというシャイナーの見解に賛同する
 しかし、シャイナーが黒点が太陽と水星および金星の間にある天体の影であるとするのは誤りであると主張する

○7月、シャイナー「より精緻な探求」を刊行してガリレオの主張を批判

○8月中頃、ガリレオは第2の手紙を書く(シャイナーの「より精緻な探求」は知らない)
 黒点が太陽表面上あるいはすぐ近くにあること
 黒点の運動は太陽本体の自転によるものであること
 太陽表面が変化しているように天上界は不変ではないことを主張

 アリストテレスも、太陽黒点の観測結果を知ったならば、太陽の可変性を認めるだろうと述べる

○12月初め、ガリレオは第3の手紙を完成する
 黒点が太陽表面かその近くにある雲のようなものであること

○1613年3月末頃、3通の手紙は「太陽黒点とその諸属性に関する話と証明」としてローマで刊行された

太陽黒点は、アリストテレスの宇宙論に対する反証となるものだった

◎ガリレオ・ガリレイ (5)金星の満ち欠け

2016-04-26 23:15:24 | 天文学
ガリレオ・ガリレイ (5)金星の満ち欠け

金星の満ち欠け

・1610年12月にガリレオの弟子で友人のベネデット・カステリ神父が、もしコペルニクス説(太陽中心説)が真実であるならば月の満ち欠けと同じように金星の満ち欠けが観測できるはずだとガリレオに書き送った

・12月11日、ガリレオは新しい発見に関するアナグラム(アルファベットの文字を入れ替えた一種の暗号で、発見の先取権を確保するために用いられた)をケプラーに伝えるよう、プラハに書き送った
 ケプラーはそれを解読できなかった
 ガリレオは1611年の1月1日にプラハ駐在のトスカナ大使に、このアナグラムの解答を送った
 「愛の母(金星)はキュンティア(月)の姿をまねる」であった

 最初、観測した金星は小さな丸であった。形は丸いまま日ごとに大きくなっていったが、角度が太陽から遠く離れたときから、太陽の反対側である東から欠け始め、数日後には半球になった。さらに欠け続け三日月形になった。欠けていくにつれて大きくなっていった

ガリレオは、金星の満ち欠けは、コペルニクス説(太陽中心説)を支持する明確な証拠だとみなした

 トスカナ大使に「それ(金星)は太陽のまわりをまわっているにちがいありません。水星や他の惑星すべてもそうです」と説明した

●しかし、金星の満ち欠けから、金星が太陽のまわりを回転していることは言えるが、地球が太陽のまわりを回転しているか否かについては何も言えない


○ローマ訪問

・ガリレオはローマを訪問し、望遠鏡による観測を実演し、観測結果の正しさを実証しようとした

 トスカナ大公は馬車を提供してくれて、ガリレオは1611年3月23日にフィレンツェを立ち、毎夜木星の衛星の観測を行いながら3月29日にローマに到着した

 ガリレオが到着する以前に、イエズス会のローマ学院の教授 クリストファ・クラヴィウスは性能のよい望遠鏡を手に入れ、ほかのイエズス会士とともにガリレオの観測を確認していた
 しかし、クラヴィウスはアリストテレスの説をまだ信じていたので、月面に凹凸があり平坦でないことは受け入れられなかった
 イエズス会のほかの数学者は月面に凹凸があることを認めた

 ガリレオはローマではトスカナ大使館に滞在し、6月3日にフィレンツェに戻った
 ローマ滞在中に、晩餐会などの機会に望遠鏡をのぞかせた

リンチェイ学士院

・貴族フェデリコ・チェシは、1603年に3人の友人とともに、科学アカデミー、リンチェイ学士院を設立した
 「リンチェイ」とは視力がいいことで知られるオオヤマネコのことである

テレスコピウム

・当時リンチェイ会員全員がローマにいたから、1611年4月14日、チェシは客を招いてガリレオのために晩餐会を開いた
 この会合において、ガリレオの装置に「テレスコピウム」(望遠鏡)という言葉が初めて用いられた

 望遠鏡は英語では「テレスコープ」(telescope)、イタリア語で「テレスコーピオ」(telescopio)と呼ぶが、その語源はラテン語の「テレスコピウム」(telescopium)である
 「テレスコピウム」は「遠くを見るもの」を意味する
 「テレスコピウム」はギリシ語の「テレ(遠く)」と「スコペイン(見る)」に語源がある

 晩餐会の場で、ギリシア人学者ヨアネス・デメシアノスが望遠鏡にふさわしい名前として「テレスコピウム」というラテン語を発案した
 チェシが、以後その言葉を用いることを提案し、ガリレオもそれを用いるようになった
 それまで、一般に「望遠鏡」に定まった表現はなかった

○ガリレオはローマ滞在中にリンチェイ学士院の会員となった
 しばしば署名の肩書に「リンチェイ学士院会員ガリレオ・ガリレイ」と書いていた

○チェシは1630年に亡くなるが、それまでガリレオの友人、後援者として次の2冊の本「太陽黒点論(太陽黒点とその諸現象の沿革および証明)」(1613年3月)と「偽金鑑識官」(1623年)の刊行の費用を負担した

●1611年春の時点では、大体の天文学者はガリレオの主張を認めていたが、哲学者たちはガリレオの主張を認めることはできなかった
 当時の自然学体系は地球が静止していることを前提にしていたため、地球の運動を認めると基礎から自然学を築き直す必要にせまられることになる

 ガリレオはさらには、太陽中心説は聖書の記述に反すると指摘され神学論争にまきこまれていくことになる

◎ガリレオ・ガリレイ (4)

2016-04-19 22:48:29 | 天文学
ガリレオ・ガリレイ (4)

「星界の報告」(1610年3月12日 ヴェネツィアで出版)

月面の観測

・ガリレオが倍率約20倍の望遠鏡を完成したのは、1609年11月末ごろとされる
 ガリレオは、この望遠鏡によって1609年12月1日から月の観測を始め、12月に月面のスケッチを描き1610年1月初めのころにそれをまとめた

○月面は滑らかで完全な球体ではなく、地球の表面のように凹凸があることを観測した
「くりかえし調べた結果、つぎの確信に達した。月の表面は、多くの哲学者たちが月や他の天体について主張しているような、滑らかで一様な、完全な球体なのではない。逆に、起伏にとんでいて粗く、いたるところにくぼみや隆起がある。山脈や深い谷によって刻まれた地面となんの変りもない」(「星界の報告」ガリレオ・ガリレイ著、山田慶児、谷 泰訳、岩波文庫)

天の川、星の雲

「3番目に観測したのは、天の河の本質、すなわち、実体である。わたしたちは、筒眼鏡によってそれを詳細に調べることができた。こうして、この眼で確かめることによって、数世紀のあいだ哲学者たちを悩ませてきたすべての論争に、終止符をうった。わたしたちは、果てしのない議論から解放された。銀河は、実際は、重なりあって分布した無数の星の集合にほかならない」(同上)

「これまで天文学者から星雲とよばれてきた星もまた、異常な仕方でまき散らされた小さな星の集団である」(同上)

木星の衛星の発見

・「星界の報告」で最も重要なことがらは、木星の衛星の発見である

 このことによって、アリストテレスの説が崩れた
 アリストテレスの説では、惑星はすべて地球のまわりを回っていて、ほかにはまわりを回るものはないとされる
 木星のまわりを衛星が回っていることから、これは崩れる
 また、木星のまわりを衛星が回っているから、木星は天球に付着して運ばれているのではない
 惑星が天球に付着して運ばれているということも崩れる

・ガリレオの木星の衛星の観測記録は1610年1月7日から始まり、3月2日までである
「1月7日の翌夜の1時に、筒眼鏡で天体観測中、わたしはたまたま木星をとらえた。わたしはたいへんすぐれた筒眼鏡を用意していたから、木星が従えている、小さいけれどもきわめて明るい3つの小さな星をみつけた(それまでは、ほかの劣った筒眼鏡を使っていたので、発見できなかったのである)。」(同上)
1月13日に、4つの星を見つけた
以後、3月2日まで、4つの星の観測記録が続いている
ガリレオは4つの星が、木星のまわりを回っていることを確信した

○ガリレオは発見した木星の4つの衛星をメディチ星と名づけ、この「星界の報告」をトスカナ大公コジモ2世にささげた

木星の衛星

 木星は太陽系の惑星の中で最も多くの衛星を持っていて、現在67個知られている
 さらに発見されるだろう

○ガリレオが発見した木星の4つの衛星は、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストと呼ばれている
 エウロパの表面には氷があり、氷の下には水が存在すると考えられている
 エウロパには生命が存在するかも知れない


○ガリレオはトスカナ大公の第1書記のヴィンタと手紙のやりとりをしており、1610年5月7日付の手紙で、「4メディチ惑星と他の観測について、3回公開講演を行ないました」と述べている
「わたくしが完成すべき主な著作は『宇宙の体系あるいは構成について』2巻、これは哲学、天文学、そして幾何学に満ちた膨大な構想です。『位置運動について』3巻、わたしが自然的運動にも強制的運動にも存在することを証明する非常に多くの驚くべき属性のいずれも、古代および現代の他のだれによっても発見されたことのないまったく新しい科学です。」
「機械学についての3巻、そのうち2巻は原理と基礎に属し、1巻はその諸問題についてです」
「『音と声について』『視覚と色彩について』『海の満干について』『連続の構成について』『動物の運動について』その他の自然学的主題についてのさまざまな小著作をもっています」
「わたしはどうしても研究を遅らせる仕事、とくにわたしの代りにだれかがなしうることからは免れたいのです」
「最後に、肩書とわたしの義務の範囲についてですが、数学者という名称のほかに、哲学者という名称を殿下がお加えくださるよう希望します

○6月5日、ヴィンタはガリレオに「ピサ大学首席数学者、大公付き哲学者」の肩書が与えられたことを知らせた
 1610年7月10日、コジモ2世によりガリレオは「ピサ大学首席数学者」とともに「トスカナ大公付き首席数学者兼哲学者」に任命された
 ピサ大学で講義したり滞在する義務が免除されていて、フィレンツェに留まっていてよかった

○ガリレオの発見への反論、異議

・最初に、保守的な天文学者や哲学者が異議を唱え、一部の哲学者は、望遠鏡で見ようともしなかった
 また、ガリレオのものと同じ性能の良い望遠鏡を持っていなかったため、検証することができなかったこともある

ケプラーの擁護

 ケプラーは適当な望遠鏡がなかったため、自分で観測することができなかったが、ガリレオの主張を認め、1610年5月3日、「星界の報告者との対話」を出版した
 ガリレオが試作した100以上の望遠鏡のうち、10台しか衛星を見るのに役立たなかった
 この10台のうちの1台がケルンの選帝侯に贈られた
 ケプラーが木星の衛星を確認したのは9月で、ガリレオがケルンの選帝侯に贈ったこの望遠鏡を使う機会が与えられたからである
 ケプラーはガリレオの発見を全面的に認め「木星をめぐる4衛星の観測記」を公刊した


土星の観測

・7月下旬、土星が3つの星(大きい円盤があり、それが両側で小さい円盤に接している)から成るように見えることを発見した
 望遠鏡の倍率が十分でなかったために、輪がはっきりと見えなかった

◎ガリレオ・ガリレイ (3)

2016-03-27 08:54:54 | 天文学
ガリレオ・ガリレイ (3)

ピサ大学教授時代

「運動について」は1591年から1592年に完成されたらしい
 ガリレオは伝記作家ヴィヴィアーニの伝える「ピサの斜塔」からの落体の公開実験はしていないらしい

パドヴァ大学教授時代の科学上の業績

○1593年~1599年までに
「簡単な軍事技術入門」「天球論あるいは宇宙誌」「築城論」「機械学」を書く
 これらは私的教授のために書かれた

●「幾何学および軍事用コンパス」を製作

 すでにあったものを改良した一種の計算尺で1597年ころ完成した
 2本の板をちょうつがいで結合したもので、板の表面にはさまざまなルールにしたがって線が刻まれていて、大砲の仰角の測定、大砲の口径と金属の弾丸の材質が与えられたとき相当する火薬量を決定、などの用途があった
 また、与えられた長さの線上に正多角形を作図するためのスケール、正多角形あるいは円と正方形の面積を等しくするためのスケールも加えられていた
 1605年の夏、ガリレオはコジモ・デ・メディチの専任教師としてフィレンツェで過ごし、彼にこの計算尺を贈った
 ガリレオは1606年に、この「幾何学および軍事用コンパス」の使用法を説明した手引書を出版し、コジモ・デ・メディチに献呈した


新星の出現 1604年10月
・1604年10月10日、パドヴァで、バルデッサー・カプラ、シモン・マイル、彼らの友人たちが「新星」を初めて見た(今日では、これは、へびつかい座にあらわれた超新星として知られている)

 アリストテレスの教えによれば、天界(月より上の世界)は完全で不変だったから、いかなる変化も生じるはずがなかった
 天界に新しい星が出現することは、天界が変化することであり、アリストテレス学徒の宇宙観をゆるがす脅威であった

 観測の報告を受け取ったガリレオは、新しい星は月よりはるかに遠いことを知った
 新しい星の視差は月よりもはるかに小さい(視差が見出せない)ことから、新しい星は月よりもずっと遠くにあることを示していた
 視差とは、ある天体を2地点から見たときの方向の差で、地球上の2点A、Bから天体Pを見たとき、∠APBが視差となる


望遠鏡の製作(1609年)

「およそ10カ月ほどまえ、あるオランダ人が一種の眼鏡を製作した、という噂を耳にした。それを使えば、対象が観測者の眼からずっと離れているのに近くにあるようにはっきりみえる、ということだった。実際に眼でみてその驚くべき効果を確かめた、というひともあった。信ずるひともあれば、否定するひともあった。数日たって、わたしはフランスの貴族ジャック・バドゥヴェールがパリからよこした手紙を受取り、その噂が事実であるのを確かめた。そこで、ついに自分でも思いたって、同種の器械を発明できるように、原理をみつけだし手段を工夫することに没頭した。それからほどなく、屈折理論にもとづいてそれを発見したのである。まず鉛の筒を用意し、その両端に2枚のレンズを取りつけた。レンズの片面は2枚とも平らで、他の面は1枚は凸、1枚は凹である。そこで凹面に眼を近づけると、対象はずいぶん大きく近くにあるように感ぜられた。肉眼でみるより3倍も近くに、9倍も大きくみえたのである。その後、わたしは対象が60倍以上の大きさにみえる、いっそう正確な筒眼鏡をつくった。」(「星界の報告」ガリレオ・ガリレイ著、山田慶児、谷 泰訳、岩波文庫)

・ガリレオが望遠鏡について初めて聞いたのは1609年7月にヴェネツィアを訪問していたときだった
 オランダの眼鏡製作者ハンス・リッペルスハイが望遠鏡の特許を申請したが、特許は認められなかった

○光学望遠鏡
 光学望遠鏡は屈折望遠鏡(レンズを用いる)と反射望遠鏡(凹面鏡を用いる)の2種類に大別できる
 屈折望遠鏡には、ガリレイ式望遠鏡とケプラー式望遠鏡がある

・ガリレイ式望遠鏡
 対物レンズが凸レンズ、接眼レンズが凹レンズで、正立像がえられる
 軍事用として地上の物体を見るのには、正立像のほうが都合がいい
・ケプラー式望遠鏡
 対物レンズが凸レンズ、接眼レンズが凸レンズで、倒立像がえられる

 ケプラー式のほうが視野も広く、倍率も大きくすることができるので、現在小型の天体望遠鏡として一般に用いられているのは、ケプラー式である
 大型の天体望遠鏡はほとんどが反射望遠鏡である


○ガリレオが最初に作った望遠鏡の倍率は3倍ほどだったが、8月中ごろには約9倍の望遠鏡を作った
 さらに11月末ごろには約20倍の望遠鏡を作ることに成功した
 「星界の報告」の天体観測には、約20倍の望遠鏡を使用したようである


ちょっと脱線して

望遠鏡の日本への渡来について
 1613年5月5日、イギリス東インド会社の艦隊が肥前(長崎)の平戸に上陸した
 イギリス軍艦クローブ号艦長ジョン・セリスはウィリアム・アダムズに伴われて駿府(静岡)の徳川家康に謁見した(8月4日)
 セリスはイギリス王ジェームズ1世の国書を提出して日本との通商を求めた
 その際の献上品のなかに「長一間之靉靆(あいたい)」があった(「通航一覧」第252巻)
 靉靆(あいたい)とはめがねを意味する言葉で、長さ1間(1.8m)で6里(約24km)離れたところまで見えたとあった
 この金銀で装飾されていたという豪華な望遠鏡は現存していない
 以後はオランダ商館を通したりして輸入された

 徳川吉宗は長崎の御用眼鏡師、森仁左衛門正勝(1673-1754)に天体観測用の望遠鏡を作らせた

大坂の岩崎善兵衛(1756-1811)は「窮天鏡(きてんきょう)」と名づけた屈折望遠鏡を製作した(1793年)
 岩崎善兵衛は1793年7月20日、京都の医師、橘南谿(なんけい)宅で天体観望会を開いた
 月面や木星、土星、天の川を岩崎善兵衛製作の望遠鏡でのぞいたという

 長浜の国友村の鉄砲鍛冶で発明家の国友一貫斎藤兵衛は天保年間(1830-44)に高度な反射望遠鏡(倍率は約50倍)を製作し、13か月間158日におよぶ太陽黒点の観測を行なった


 望遠鏡は「遠眼鏡(とおめがね)」、「星眼鏡」とも呼ばれた
 私は望遠鏡より、星眼鏡(ほしめがね)と言ったほうがロマンチックなひびきがあっていいと思います