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おっちゃんの世界史の栞 29 (5)朝鮮の歴史 古代朝鮮 3 百済

2011-06-12 11:51:53 | HKT48 AKB48
(5)朝鮮の歴史 古代朝鮮 3 百済

★百済(ぺクチェ)の誕生

◎百済の始祖 温祚(オンジョ)の建国神話(「三国史記」)

・朱蒙(チュモン)は、北扶余から卒本扶余にいたり、その王女と結婚し高句麗王となって、やがて沸流(プルリュ)と温祚の二児をもうけた
・ところが、朱蒙が北扶余の地に残してきた子がやってきて太子になったので、沸流と温祚の兄弟は南下して、漢山に着くと、温祚は河南の慰礼(ウィレ)城に都を定めて国号を十済(シプチェ)とした(紀元前18年)
・やがて沸流の臣民たちも慰礼城に収めると国号を百済と改めた

・朱蒙を沸流と温祚の義父とし、沸流を百済の始祖とする説もある(「三国史記」)
・百済の始祖を都慕王(朱蒙)とする説もある

・いずれも百済の始祖の出自が扶余であると主張されている

★近肖古(クンチョゴ)王
・4世紀の中ごろの第13代の王 近肖古王(在位346~375)の代には、高句麗と帯方郡の故地を巡って戦った
・371年、高句麗の平壌城にまで進撃し、高句麗の故国原王を戦死させた

・372年、百済の王子 近仇首(クングス)王が、倭国に「七支刀」を贈った

★聖王(ソンワン)

・第26代の王 聖王(在位523~554)は538年に泗泚(サビ)に遷都した
・551年、新羅と連合して高句麗を攻撃し、漢山城の故地を回復した
・しかし552年、新羅にその地を奪われる
・554年、聖王は新羅の管山城へ侵攻するが、百済は敗れ、聖王は戦死した

★百済の文化

・近肖古王の代に、高興(コフン)が国家の史書「書記」をつくる
・4~5世紀ごろ、王仁(ワンイン)は「論語」「千字文」を倭に伝えたとされる
・513年、五経博士を倭に送る
・以後、百済は定期的に倭に学者を送り、学者も易学・暦学・医学・薬学・礼学など諸分野におよぶようになり、日本の文化に大きく貢献する

◎日本へ仏教伝来

・538年、聖王が釈迦仏の金銅像と経典を欽明天皇に献じたとされる

・聖王は生前は「明穠」、没後は「聖王」という。
・日本ではそれらが入りまじり、「聖明王」の名で知られている

・538年説 「上宮聖徳法王帝説」など
・552年説 「日本書紀」

・6世紀初め日本では、物部氏と蘇我氏が対立し、物部氏は仏教受容に反対し、蘇我氏は仏教受容に賛成の立場をとった
・蘇我氏は新しい製鉄技術を持った渡来人を優遇するために、仏教擁護に力を入れた

・594年には厩戸皇子によって仏法興隆の詔が出され、諸寺の建立が進んだ
・607年、聖徳太子が法隆寺を建立した
・近在の人々は「斑鳩の寺」と呼んでいるが、聖徳太子は仏法興隆の願いを込めて法隆寺と名づけることになる