ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

おっちゃんの世界史の栞 13

2010-06-27 11:06:06 | HKT48 AKB48
(2)古代ギリシア世界 3 ポリスの時代 2

〔4〕アテネ
〈1〉ソロンの改革(前594)
・自分の農地の収穫物の6分の1を毎年納める農民たちは、ヘクテモロイ(6分の1)と呼ばれた。
・身体を抵当に入れて借財し返済できない者は、奴隷に転落した。
・ソロンは債務の帳消しを実施し、奴隷となっていたアテナイ人を救済した。
・以後、身体を抵当とする借財を禁止した。
・市民は財産額によって、500メディムノイ級、騎士級、農民級、労務者級の4等級に分けられ、政治に参加する度合いが出自ではなく財産によって決まることになった。(財産政治)
・第3等級までに参政権や官職を割り当て、第4等級には民会への参加と裁判にあずかる権利のみを与えた。
・ソロンは民衆法廷の充実をはかり、不法行為を第三者が訴追できる手続きを定めた。

〈2〉ペイシストラトスの僭主政
・ソロンの改革後、「海岸の人々」「平野の人々」「山地の人々」の3つの党派の対立が表面化してきた。
・前561年、「山地の人々」を率いていたペイシストラトスが僭主の座についた。

★僭主
・僭主とは、非合法的に独裁者の地位についた者のことで、本来は否定的な意味合いはなかった。
・僭主は必ずしも暴力的な政治をしたわけではない。

・ペイシストラトスは農事奨励と貧農援助を政策の中心とした。
・5%あるいは10%の地租を課してアテネの財政力を高めた。
・パンアテナイア祭を国が主催する祭儀に高め、この祭りに運動、音楽、吟唱の競技会を加えてギリシア各地から参加者がやってくるようにはかった。
・ペイシストラトスは「イリアス」「オデュッセイア」の詩編を編集させたともいう。
・ペイシストラトスの死後、2人の息子ヒッピアスとヒッパルコスの代になると暴政が始まった。
・スパルタが軍隊を派遣して介入し、アテネの民衆が呼応して僭主政は崩壊した。

〈3〉クレイステネスの改革(前508)
・前508年、クレイステネスはアルコン(執政官)となった。
・クレイステネスの改革によってアテネの民主制の基礎が築かれた。
・従来の4部族制を改めて、地域別による10部族制を導入した。
・各部族の下部組織であるデーモス(村落)がポリスの最小行政単位となった。
・市民は改革時に居住していたデーモスに戸籍を持つ。
・市民の男子は18歳時に父と同じデーモスでの資格審査を受け、市民登録を受ける。
・各デーモスはデーモス員総会を持つ自治体である。
・各市民は、公式には名前の後に所属区名を添えて呼ばれた。
・改革以後、住所を変えても所属デーモスは代々変わることはなかった。

・500人からなる評議会を新設して、主要な行政を担当した。(500人評議会)
★500人評議会
・評議会員の任期は1年で重任は禁じられ、再任も一生に1度だけ可能だった。

★陶片追放
・僭主出現防止のため行われた秘密投票
・僭主となるおそれのある人物の名前を市民が陶器のかけらに書いて投票し、1人で6000票以上を得たなかで最多数票の者(全投票数6000以上のなかで最多数票の者という説もある)が10年間国外追放される。
・財産や市民権は保持されるので裁判や刑罰の類ではない。
・現実に適用された例は、前488年から前416年までの10例ほどで、それ以降は制度のみ存続した。



おっちゃんの世界史の栞 12 ポリスの時代 1

2010-06-20 16:29:15 | HKT48 AKB48
(2)古代ギリシア世界 2 ポリスの時代 1

〔1〕ポリスの誕生

・前8世紀前半ごろからポリスが出現しはじめるが、ミケーネ時代とは異質のポリスがどのようにして成立したのか、その経緯は同時代の文字による記録がないため、謎である。
・ポリスはアクロポリスと呼ばれる丘の上に守護神を祀る神殿を建て、丘の麓にこの守護神への信仰をともにする人々が寄り集まって形成された共同体国家であり、絶対的権力を行使する支配者は存在していなかった。
・アクロポリス周辺には共同体成員たち(市民)が集落を作り、その一画には、諸事を決定する集会の場所(アゴラ)があった。
・市民は政治と軍事を共同で担う。
・市民は男性に限られ、貴族からしだいに平民たちにも政治への参加の道が開かれていった。
・古代ギリシア人は多数のポリスにそれぞれ属し、統一国家を形成することはなかった。
・前8世紀なかばごろ、フェニキア文字を借用してギリシア文字が考案された。
・初期のポリスは貴族が政治の実権を掌握する貴族政だった。

〔2〕植民活動 ギリシア世界の拡大

・前8世紀なかばごろから、ギリシア人は地中海各地に進出し、あらたなポリスを建設する、植民活動をはじめた。前750年ごろから前550年ごろまでのほぼ200年間は大植民地時代と呼ばれている。
・ビザンティオン、シチリア島のシュラクサイ、ネアポリス(現ナポリ)、マッサリア(現マルセイユ)などの植民市が知られる。
・植民活動は人口増加による土地や食糧の不足が主要因であったので、多くは農地を求めて移住した。金属資源を求めたものもあった。
・植民市は、経済的にも政治的にも本国(母市)から独立した共同体として出発した。

★オリュンピア競技会
・ポリスはそれぞれ固有の守護神を祀り、ギリシア人は守護神のほかにも多数の神々を信仰の対象としていたが、ゼウス、ヘラ、アテナなどの全ギリシア的な神々への信仰を共有していた。オリュンピア、デルフォイ、ネメアなど全ギリシア的な神域では各地から人々が集まり祭典が催された。
・前776年オリュンピア(ゼウスを祀る)で競技をともなう祭典が開催された。(旅行家パウサニアスの伝えるところによると、オリュンピアで競技が催されたのは前776年よりもはるか昔のことだという)
・オリュンピア祭では競技会のほか、音楽演奏や詩、文学作品の朗読、哲学者の会議、演説なども行われたという。
・競技会の起源についての説としては、「せめて4年に一度くらいは武器を捨て平和の象徴となる祭典を開こう」という、戦争の一時停止提案がある。
・前776年がオリンピックの起源とされる。
・前776年に第1回オリュンピア祭の競技会が始められて以来、ローマ時代の4世紀後半にいたるまで(オリュンピアで最後に行われたのは389年か393年)4年に1回オリュンピアで競技会が開催された。
・はじめは近隣の有力者たちが参加するだけだったが、しだいに広がり、前7世紀には全ギリシア的な祭典になった。
・競技会が行われる年は、その数か月前から、ギリシア世界にオリンピア休戦が宣言された(どの程度守られたかは不明)。しかし、ポリス同士の争いは絶えることはなかった。
・競技に先立って、選手たちは審判員の前に集まり、正々堂々と戦うことを誓った。
・競技会は主にスタディオンと呼ばれる4万人も観客を収容できるという巨大な競技場で行われた。
・はじめは徒競争のみの1日間の競技会だったが、やがて長距離走、レスリング(全身にオリーブ油を塗ったという)、ボクシング(手に革ひもを巻きつけて行われた危険なもので死者まで出ることもあったという)、パンクラティオン(かむこと、眼に手を入れることなど以外なんでもありの格闘技)、5種競技(幅跳び(フルートの伴奏つきで行われた)、円盤投げ(円盤は石で後に金属製となった)、槍投げ、徒競争、レスリングの5種目)、戦車競走、競馬などが加えられ7日間となった。
・参加できる選手はギリシア人の男子のみ(奴隷と女性は除外された)で、戦車競走や競馬の御者以外、選手はすべて全裸だった。非ギリシア人は見物は許されたが参加することはできなかった。
・オリュンピア競技会の勝者は大きな名声と富を得た。
・オリュンピア競技会はもともとプロの競技会だった。
 ある勝者は500ドラクマ(当時の兵士の2年分の給料に相当する)を支給された。
・優勝者は各地に呼ばれ、それぞれの大会で出場して技を披露してそのつど謝礼金を得ていた。(ある勝者は、年間3万ドラクマもの賞金を得ていたという)
・賞金ほしさに多くの青年たちがオリュンピア競技会出場を目指したのである。

〔3〕スパルタ
・前750年ごろに成立した。
・ドーリス人がラコニア地方に4つの集落をなして定住し、近隣のアカイア人を支配下におさめ、さらにアカイア人の最大拠点アミュクライを攻略し、第5の集落として併合し、5つの集落をもってスパルタが成立した。
・スパルタの正式な国名はラケダイモニオイという。
・スパルタは、スパルタ市民、ペリオイコイ(周辺住民)、ヘイロタイの3身分からなる。
・市民は生産労働には携わらず、政治と軍事に専念する。
・ペリオイコイは自由身分であるが、参政権はなく、しかし従軍義務を負う。
・ヘイロタイは隷属民としてスパルタ市民一人一人に与えられた土地(クレーロス)において農業に従事し、収穫物の一部を市民に貢納していた。
・貧富の差の拡大を防ぐ必要から経済を停滞させるため、金銀の貨幣を廃止し鉄の貨幣のみを使用した。また鎖国政策をとり、市民間の政治的権力をできるだけ平等なものにしようとした。

・共同食事に参加できる者がスパルタ市民だった。
市民は毎日の夕食を、各自食糧をもちよって共同でとった。
・共同食事参加は市民の義務であり、食糧を用意できない場合は市民の資格を失う。

・国の最高決定機関は民会だったが、別に長老会があって、民会の議案を前もって審議するだけではなく、民会の決定を拒否する権限ももっていた。
・長老会は2名の王と28名の長老の30名で構成されていた。
・この2名の王は戦争の指揮権と国の祭司を司る権限をもっているのみで、スパルタが王国であったことを意味してはいない。

★スパルタ教育
・男児は生後、レスケーと呼ばれる集会所で部族の長老たちによる審査を受け、健康と体力に恵まれず不適格と判定された赤ん坊は、山中の穴の中に捨てられた。
・男子は7歳になると親元から離され、29歳まで集団生活に入る。
・裸足で歩き、12歳になれば1年中下着なしで1枚の上着だけですごす。
・盗みや殺人も訓練に入っていた。
・食事はみすぼらしく、腹を満たすためにはどこかから盗んでくるしかない。盗みに失敗した者は、不注意、不手際ということで鞭で打ちすえられた。うまく盗むには狡猾に用心深くやらなければならない。盗みを通じて、眠っている者や油断している者をうまく攻撃することを学ぶ。そう仕向けるためにあえて食事の量を抑えられていた。
・殺人のほうは、誰を殺してもいいわけではなく、対象はヘイロタイに限られていた。
短剣と食糧だけを持たされて送りだされると、昼間は人目につかないように身をかくし、夜になるとヘイロタイを捕えて殺した。この殺人の罪を免除するためか、監督官はまずヘイロタイに宣戦布告するならわしだったという。
・20歳になると兵士として軍隊に編入されたが、集団生活は30歳になるまで続いた。
・20歳をすぎて結婚しても集団生活を続けなければならないため、30歳になるまでは別居生活だった。

・女子の場合は、おそらく結婚するまでは親元にとどまっただろうが、健康な子どもを産むために、競走、格闘、円盤投げ、槍投げの訓練を受けた。
・スパルタにおいては、男は兵士として、女は兵士を産む役割を求められたのである。

・スパルタは徹底した軍事教育のため、なんの文化も発展することはなかった。

・スパルタ教育はあまりにもむごく、当時のギリシアにあっても異常な制度と受け止められ、他にまねをするポリスは1つもなかった。


おっちゃんの世界史の栞 11

2010-06-20 16:24:00 | HKT48 AKB48
(2)古代ギリシア世界 1 地中海文明

〔1〕クレタ文明(ミノア文明) 前2000年頃~前1400年頃

・エーゲ海のクレタ島で栄えた青銅器文明
・伝説上の王ミノスにちなんでミノア文明、ミノス文明とも呼ばれる。
・クノッソス宮殿などの宮殿建設と海洋生物を写実的に描いたフレスコ画が特色
・すべての宮殿で城壁が見つかっていない。
・宮殿の中心部分が「支配者」の場ではなく、中央広場という開かれた空間になっている。
・宮殿は地震で被災したときはすみやかに再建されている。
・宮殿は、農産物を貯蔵するための大きなスペースが割かれており、農産物や工芸品を保管し、必要に応じて各地へ分配する施設でもあった。

・物資の出入りを管理・記録するための記号が必要となり、線文字A(いまだ未解読)と呼ばれる文字体系ができた。

・ギリシア神話によればクレタ島はゼウスの生まれ故郷である。

〔2〕ミケーネ文明 前1600年頃~前1200年頃

・ギリシア本土のミケーネを中心に栄えた青銅器文明
・名称はシュリーマンのミケーネ遺跡発掘によって発見されたことにちなむ。
・武器などの戦争にかかわる遺物や遺構の比重が高い

・宮殿を中心とする物資の出入りを記録するため、ギリシア語を表記するために線文字Aを改良して創られたのが線文字Bである。
・線文字B文書には、歴史や文学、神話などは記録されていない。

・前1200年頃から各地の宮殿が焼け崩壊し、線文字Bも忘れ去られ、文字のない時代となる。
・前1200年頃のミケーネ文明の終焉からポリスが誕生してくる前750年頃までの時代は「暗黒時代」と呼ばれていたが、現在では「初期鉄器時代」という名が使われる傾向にある。

〔3〕前8世紀のルネサンス

・前750年頃、ホメロスの作とされる2つの叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」が誕生する。
・「イリアス」と「オデュッセイア」はもともとは、口誦叙事詩であって、アルファベットの発明とともに文字化された。
・アルファベットは、線文字Bのような書記だけにしか使えない文字ではなく、誰もが自由に使える簡易な文字として普及していく。
・支配者のための宮殿は、神々のための神殿にとってかわられる。

★「イリアス」と「オデュッセイア」
・トロイア戦争をめぐる物語がテーマとなっている。
・「イリアス」はアキレウスの活躍などトロイア戦争10年目の数十日間のできごとが描かれている。
・「オデュッセイア」はオデュッセウスがトロイア戦争後、戦地から故郷のギリシアに戻るさいの冒険譚や息子テレマコスの成長譚などが語られる。

★トロイア戦争
・前1200年頃にギリシア連合軍がトロイに対して行ったとされる遠征であるが、その史実性はなおも議論されている。
・伝承によると、発端は、スパルタの王メネラオスの王妃ヘレネをトロイアの王子パリスが誘拐したことにある。ヘレネを奪還するために、メネラオスの兄、ミケーネ王アガメムノンを総大将として、ギリシア各地から、アキレウス、オデュッセウスなどの英雄たちが集まり、トロイア遠征に向かう。トロイアの城はなかなか陥落しなかったが、10年目、ギリシア軍は巨大な木馬(トロイの木馬)を作り、その内部に兵士を忍びこませ、残りの兵士たちは陣を焼き払い、船で海上へ退却した。翌朝、トロイ軍はギリシア軍の陣地が空になっていることを発見し、ギリシア軍が撤退したと判断し、残されていた巨大な木馬を戦利品として城内に引き入れた。城内では勝利の祝宴にトロイ軍の兵士たちはつぎつぎと酔いつぶれていった。やがて木馬の内部からギリシア軍の兵士が現れ、海上で待機する仲間に合図を送り、城の内外から攻撃しトロイ城は陥落した。


おっちゃんの世界史の栞 10

2010-06-13 10:19:53 | HKT48 AKB48
(1)古代オリエント世界 4

4 オリエント世界の統一

〈アッシリアの統一〉
・アッシリア人は前2500~2000頃にティグリス川中流の北メソポタミアに建国した。
・アッシリアの名は、最初の首都アッシュルまたは天神アッシュルに由来する。
・前15世紀ごろミタンニに服属するが、前14世紀中ごろミタンニから独立を回復。
・前9世紀前半、全アッシリア王の中で最も残忍な王アッシュルナツィパル2世が首都をニネヴェからカルフに移し、人々を強制移住させた。
・センナケリブ王のとき首都をニネヴェに移し、その子エサルハドンは前671年、エジプト(第25王朝)の首都メンフィスを落とした。
・アッシュルバニパル王のとき、アッシリアの最大版図となった。
・アッシュルバニパル王は、ニネヴェに大図書館を建設し、古代メソポタミアに関する記録や文学作品の粘土板のコレクションを大量に収集していた。
・ニネヴェの大図書館には22000枚以上の粘土板文書、文学、歴史、哲学、医学、天文学に関する文献と商業文書が収蔵されていた。
・アッシリアは、各地の支配者を一掃し、代わりにアッシリア人の「総督」を派遣した。
・各地の住民たちも追い払われ、別の場所に強制移住させられた。
・前612年、メディアと新バビロニア(カルデア)の連合軍によって首都ニネヴェが落とされ、アッシリアは滅亡した。

〈4王国分立時代〉
・こうして、アケメネス朝ペルシアがオリエントを再統一するまで、エジプト(第26王朝)・リディア・新バビロニア・メディアの4王国が分立した。

★リディア
・世界最古の金属貨幣をつくった。鋳造ではなく、溶かした金属に刻印を押してつくったもの。

★新バビロニア(前625~538年)
・カルデア人のナボポラッサルによって創設された。首都はバビロン。
・ネブカドネザル2世の時代が最盛期。

★ネブカドネザル2世
・ユダ王国を滅ぼし、「バビロン捕囚」を行った。
・ジッグラト(バベルの塔)の造営。
・バベルはヘブライ語でバビロンのこと。
・イシュタル門

・「空中庭園」付き宮殿
・「空中庭園」は古代世界の7不思議の1つにあげられるが、「空中庭園」がバビロンに実在していたかどうかについては疑問がある。
・新バビロニアは前538年、アケメネス朝のキュロス2世に滅ぼされ、ペルシアの属州となった。

〈アケメネス朝ペルシアのオリエント再統一〉
・オリエントのほぼ全域を支配した史上初の世界帝国(前550~330年)。
・前7世紀ペルシア人はイラン高原南西部パールサ地方(現ファールス)に定着した。
・最初はメディアに服属していたが、前550年、アカイメネス家キュロス2世の指導のもとにメディアを倒して独立。
・前546年にはリディアを、前538年には新バビロニアを滅ぼした。
・キュロス2世の子、カンピュセス2世は前525年エジプト(第26王朝)を征服し、エジプト第27王朝の初代ファラオとして即位した。
・第3代ダレイオス1世のときに、東はインダス川流域から西はエーゲ海北岸にいたる大帝国に発展した。
・ペルシア戦争に敗北した。
・ダレイオス3世がアレクサンドロス大王の東征を受け、イッソスの戦いやアルベラの戦いに敗れ、前330年バクトリアの総督に殺されて、アケメネス朝ペルシアは滅亡した。

〈ダレイオス1世の諸改革〉
◎サトラップ制を帝国全土に適用し制度化した。
◎「王の道」
◎エジプトにおいてナイル川と紅海を結ぶ運河を完成させた。
◎早馬を利用した騎馬急使の制度
◎帝国の公用語としてアラム語を採用した
◎帝国共通の金貨・銀貨を発行した
◎ペルセポリスの建設

★サトラップ制
・ダレイオス1世は、免税特権を認められた1行政区と納税義務を課せられた20行政区に帝国を分割し、各行政区に総督(サトラップ)を任命し、銀あるいは金による年間納税額を帝国指定の重量単位に基づいて決定した。
・サトラップには王族やペルシア人貴族が選ばれ、「王の代理人」として派遣されたペルシア人サトラップを介して、中央集権体制が確立する。
・サトラップのもとには、その行動・職務を監視するための「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官が派遣された。
・ダレイオス1世は、被征服地の人々が納税・軍役の義務を守る限り、原則として被征服地内部の問題に介入することはさけ、彼らに固有の言語・宗教・法、伝統・慣習を容認した。
・また被征服地の旧支配層も、王に対する忠誠を表明しサトラップの地方行政に協力するかぎり、現地における支配的な地位を保証された。

★「王の道」
・ペルシア帝国時代のもっとも有名な、帝都スーサから小アジアのサルディスにいたる約2400kmの幹線道路である。
・20~30km間隔に111の宿駅(宿泊施設をもつ)が設置され、要所には関門や衛兵所が設けられ、街道の治安はよく保たれていた。
・ペルセポリスとスーサのあいだにも同様の「王の道」が整備されていた。
・宿駅には「旅行者」に食糧と馬糧を供給する穀物庫が併設され、駅馬が準備されていた。
・王や高官の発行する「押印文書」を持つ王族や公務旅行者などに対しては、宿駅における食糧と馬糧の無料受給が保証されていた。
・特別の保護や案内を必要とする「旅行者」に対しては、道中の安全・便宜をはかるために「押印文書」を与えられた「王室所属のガイド」が同行した。
・幹線道路の一部には、すでに路面に切石や砂利・砕石が敷き詰められていたという。
・「王の道」を利用して各地から王、中央政府のもとに情報がもたらされた。

★早馬を利用した騎馬急使の制度
・通過する宿駅で、馬を交替するとか使者を交替するとかして、リレー方式で書状を届ける。

★帝国の公用語としてアラム語を採用
・アラム語は外交用語・商業用語として広くオリエントに普及していた。
・王のことばは、書記によってアラム語に訳され地方に送付され、地方からの情報もアラム語で作成され、書記によって王の前で読まれた。

★帝国共通の金貨・銀貨を発行
・金貨の鋳造権は王が独占したが、銀貨の鋳造権はサトラップにも認められた。
・金貨は純度98%、銀貨は純度90%以上というきわめて良質の貨幣だった。
・しかし、その純度の高さから他の貴金属とともに使用されずにしまいこまれて、ごく一部の地域を除いて流通することはなかった。

★ペルセポリスの建設
・ダレイオス1世は新年祭ノー・ルーズを祝うための聖都としてペルセポリスの建設に着手した。
・新年祭ノー・ルーズは、宇宙創造神話を象徴的に繰り返すことによって世界を更新しようとするもの。
・ペルセポリスは政治上の首都ではない。



おっちゃんの世界史の栞 9 古代エジプト文明

2010-06-06 17:27:42 | HKT48 AKB48
おっちゃんの世界史の栞 9 古代エジプト文明

(1)古代オリエント世界 3

3 古代エジプト文明

〈エジプト〉
★「エジプトはナイルの賜」
・ギリシアの歴史家ヘロドトスの「歴史」の第2巻第5節に
「エジプトの国土に関する彼らの話はもっともであると私にも思われた。というのは、いやしくも物の解る者ならば、たとえ予備知識を持たずとも一見すれば明らかなことであるが、今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物ともいうべきもので、エジプトにとっては新しく獲得した土地なのである。…」(岩波文庫より)とある。
・この言葉は、エジプトのデルタ地帯はナイル川の沖積作用によって新しく獲得された土地であると、エジプトの国土について述べたものである。
・「エジプトはナイルの賜」という表現は「古代エジプト文明はナイル川の所産である」という意味に文明論的に拡大解釈されたものである。
・この言葉は、ヘロドトスの先輩ヘカタイオスがすでにそのエジプト史に使用した言葉であるという。
・ナイル川の定期的な増水が運び堆積する泥土が肥沃でありこれを利用して農耕文明が発達した、とよく説明されるが、実際にはこの泥土には肥料成分は少なく、水中の沈殿物の含有量も最大1トン当たり約4キロで、コロラド川やインダス川の約2分の1である。
・アメリカの塩度基準では、ナイル川の水質は灌漑用水として決してすぐれたものではないとされる。
・現実にナイル川の増水は豊かな収穫をもたらしてきたが、その原因はナイル川が運ぶ泥土や水ではなく、増水によって耕地が回復し、豊かな太陽があり、住民の絶え間ない労働作業があったたまものである。


〈古代エジプトの時代区分〉
・前3世紀のエジプト人の神官マネトーによる分類が基本的に今も使われている。
・マネトーは「エジプト史」において、30の王朝に時代区分した。
・現在では、大きくは古王国時代、中王国時代、新王国時代と区分する。

〈エジプト史の流れ〉
〔1〕初期王朝時代(第1~第2王朝)
〔2〕古王国時代(第3~第6王朝)
〔3〕第1中間期(第7~第10王朝)
〔4〕中王国時代(第11~第13王朝)
〔5〕第2中間期(第13~第17王朝)
〔6〕新王国時代(第18~第20王朝)
〔7〕第3中間期(第21~第25王朝)
〔8〕末期王朝時代(第26~第30王朝、第2次ペルシア支配時代)
〔9〕マケドニア支配時代
〔10〕プトレマイオス朝時代
〔11〕ローマ帝国領時代
〔12〕ビザンツ帝国領時代
〔13〕イスラーム時代
〔14〕オスマン朝支配時代
〔15〕ムハンマドアリー朝時代
〔16〕イギリス領時代
〔17〕エジプト王国
〔18〕エジプト共和国
〔19〕アラブ連合共和国
〔20〕エジプト・アラブ共和国

〔1〕初期王朝時代(第1~第2王朝) 前3150~2686年
 〈第1王朝〉 前3150~2890年
 ナルメル 前3150~3050年
ホル・アハ
 ・メンフィスを建設。
ジェル → ジェト → デン → アネジブ → セメルケト
カア

〈第2王朝〉 前2890~2686年
ヘテプセケムイ
ラネブ → ニネチェル → セト・ペルイブセン
カセケムイ

〔2〕古王国時代(第3~第6王朝)前2686~2181年
・エジプト文明の基礎ができた。
・ピラミッドの建造

〈第3王朝〉 前2686~2613年
サナクト
ジェセル
・ジェセル王はアスワン付近まで版図を拡大し、後にここがエジプトの南境界になる。
・メンフィス近郊のサッカラに「階段ピラミッド」を築いた。
・この階段ピラミッドおよびその周辺の葬祭複合体を建設したのは、ジェセル王の宰相であった建築家のイムヘテプである。
・この階段ピラミッド複合体は世界最古のすべて石造りの建築物である。
・ジェセル王の葬祭複合体はピラミッドを中心として、全体で霊魂と死後の領域を作ろうというもの
・階段ピラミッドは、まず通常のマスタバ墳として建設されたが、その後増改築されて、マスタバの上にマスタバを重ねていくうちに、6段からなる高さ62mのピラミッドができあがった。

★イムヘテプ
・書記、医者、神官、天文学者などとして尊敬され、後に神格化された。
・プトレマイオス朝からローマ支配の時代にかけて、建築と医学の神として崇拝された。

セケムケト → カーバー
フニ
・フニ王のメイドウムの「崩れピラミッド」は、幾何学的に真正なピラミッドを造ろうとした最初のもの。
・メイドウムの「崩れピラミッド」は、ピラミッド複合体の設計の模範になった。

〈第4王朝〉 前2613~2498年
スネフェル
クフ
・「ギザの大ピラミッド」を建築した。
・創建時の高さは146.6mで、頂部9m分を失い、現在は137.5mである。
・クフ王の大ピラミッドは19世紀まで世界で最も高い人工建築物であった。

★クフ王の大ピラミッド
・傾斜角 51°52′
・4面はそれぞれ東西南北に向かっている
・建設事業の中心となったのはクフ王の従兄弟ヘムオンであった。
・建造方法は謎である。

★ピラミッド
・ピラミッド内部からファラオの遺体は発見されていない。
・ピラミッド建設は農閑期の公共事業だった。
・ピラミッド建設の労働者たちは、喜んでこの労働に従事した。
・労働者には衣食住すべてが支給され、専用の住宅に住み、ビールを飲み、ニンニクも支給された。

ジェドエフラー
カフラー
・カフラー王は、ギザの第2ピラミッドとスフィンクスを建設した。
メンカウラー
・メンカウラー王は、ギザの第3ピラミッドを建設した。
シェプセスカフ

〈第5王朝〉 前2498~2345年
ウセルカフ
サフラー → ネフェルイルカラー → シェプセスカラー → ネフェルエフラー → ニウセルラー → メンカウホル → ジェドカラー
ウナス

〈第6王朝〉 前2345~2181年
テティ
ペピ1世 → メルエンラー → ペピ2世
・ペピ2世の時代に第6王朝の権力がメンフィスから失われ、古王国時代は終焉を迎える。

〔3〕第1中間期(第7~第10王朝) 前2181~2040年
・中央集権は瓦解し、地方勢力が乱立抗争し、社会混乱が続く。

〈第7、8王朝〉 前2181~2060年
ウアジカラー → カカラー
〈第9、10王朝〉 前2160~2040年
メリイブラー → メリカラー → カネフェルラー → ネブカウラー

〔4〕中王国時代(第11~第13王朝)前2040~1782年
・テーベの土侯が統一王朝を再興する。

〈第11王朝〉 前2134~1991年
アンテフ1世 → アンテフ2世 → アンテフ3世
メンチュヘテプ2世 → メンチュヘテプ3世 → メンチュヘテプ4世

・中王国時代は第11王朝4代目の王メンチュヘテプ2世治世下で、エジプトの再統一がなったとき始まった。
・アンテフ1世から3世は、実際には州侯以上の存在ではなかった。

〈第12王朝〉 前1991~1782年
アメンエムハト1世
・この時代以降、テーベの主神であるアメン神が優勢になる。
・アメン信仰が頂点に達するのは第21王朝のころ。
・アメンエムハト1世は新しい中心地を築き、イチタウイと命名したがその場所はわかっていない。
・アメンエムハト1世は、共同統治のシステムを導入した。

センウセレト1世 → アメンエムハト2世 → センウセレト2世
センウセレト3世
・センウセレト3世は交易ルートやヌビアの鉱物資源への道を確保するための一連の戦いをヌビアにしかけた。
・ヌビア遠征で得た富の多くは、神殿の建設や改修にあてられた。

アメンエムハト3世 → アメンエムハト4世 → セベクネフェル女王

〈第13王朝〉 前1782~1650年
ウガエフ → アメニ・アンテフ4世 → ホル → セベクヘテプ2世 → ケンジェル → セベクヘテプ3世 → ネフェルヘテプ1世 → セベクヘテプ4世 → アイ → ネフェルヘテプ2世

〔5〕第2中間期(第13~第17王朝)
〈第14王朝〉 ネヘシ
〈第15王朝〉ヒクソス王朝 前1663~1555年
・ヒクソスは第15王朝を建てた。
・ヒクソスとは「砂漠の王子」を意味するヘカ・カスウトに由来する
シェシ → ヤコブヘル → キアン → アペピ1世 → アペピ2世
〈第16王朝〉ヒクソス王朝 前1663~1555年
アナテル → ヤコブアアム

〈第17王朝〉 前1663~1570年
・ヒクソスの王たちがエジプト北部を制する一方で、新しくエジプト人による第17王朝がテーベに興った。
・第17王朝初期の王たちはヒクソスの権力にはっきり挑戦することはさけたので、両国の間は微妙な休戦状態にあった。
セベクエムサフ2世 → アンテフ7世 → タア1世 → タア2世 → カーメス

〔6〕新王国時代(第18~第20王朝)前1570~1070年
・ヒクソスがエジプトから放逐され、イアフメス1世が第18王朝を創始し、新王国時代の幕が開いた。
・この500年の時代のファラオは神のごとき存在であった。
・新王国時代の主だったファラオのミイラが19世紀に発見された。
・ミイラはテーベのデイル・アル ハバリのカシェ(隠し場所)と、王家の谷のアメンヘテプ2世王墓のカシェに保存されていた。

〈第18王朝〉 前1570~1293年
イアフメス1世
・イアフメス1世はヒクソスを放逐した。
アメンヘテプ1世
トトメス1世 → トトメス2世 → ハトシェプスト女王 → トトメス3世

・ハトシェプスト女王は勝気な女性で、幼王トトメス3世との共同統治の2年目にはトトメス3世を廃する方針をとり始める。
・ハトシェプスト女王はデイル・アル ハバリの絶壁を背にした窪地に自らの華麗な葬祭殿を建設する。
・ハトシェプスト葬祭殿は女王の執事の建築家センエンムトの監督で築かれた。

トトメス3世
・ハトシェプスト女王が没し、王権をにぎったトトメス3世は継母ハトシェプスト女王の記憶を記念建造物から消し去ることにとりかかった。ハトシェプスト葬祭殿で、レリーフを破壊し、多数の銅像を壊して神殿の前の石切り場に投げ込んだ。
・トトメス3世は古代エジプトのナポレオンと呼ばれた。
・トトメス3世は西アジアへ17回の遠征を行った。

アメンヘテプ2世 → トトメス4世 → アメンヘテプ3世
アメンヘテプ4世(アクエンアテン) → スメンクカラー

★アクエンアテン王
・アメンヘテプ4世は治世初期にアクエンアテン(アテン神のしもべ)という名前に改名した。
・アケト・アテン(現在のテル・アル アマルナ)への遷都
・アメン・ラー神にかえてアテン神を至高の神とする
・アマルナ芸術の開花

★アテン神の崇拝
・アクエンアテンは、太陽の円盤として表わされるアテン神を唯一神として礼拝しようとした。アテン神それ自体は新しい神ではない。
・太陽の円盤から放射される光の先端に信者を護る手があり、アンク(生命のシンボル)を表わすヒエログリフ文字をつかむ
・この新教義を信奉したのは、社会の上層部、高級官僚だけであったようである。この新都にあっても一般の人々は旧来の宗教をまもっていた。

ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)
・トゥトアンクアメンとはアメン神の生きる似姿の意味。
 トゥトアンクアテンからトゥトアンクアメンと改名した
・ツタンカーメン王は、1922年11月王家の谷で墓が発見されて脚光をあびるまで、第18王朝末期の影の薄い存在であった。
・ツタンカーメン王はミイラを分析したところ、17歳ぐらいで死亡したことが判明した。
・ツタンカーメン王の死因はわからない。
・ハワード・カーターがツタンカーメン王墓を発見したとき、全くの手つかずではなかった。墓泥棒に荒されていなかったのは玄室だけだった。
・墓は二度荒されており、その後すぐに封印された。
・初回の盗掘では、大部分の黄金と宝石が持ち去られた。
・2回目の盗掘では、香油や軟膏が盗まれた。

アイ → ホルエムヘブ

〈第19王朝〉 前1293~1185年
ラメセス1世
セティ1世
・セティ1世は新しい正統の時代を開始したとの意味で「誕生の再現者」という称号を受けた。
・セティ1世の13年間の統治の間に、エジプトの美術と文化は高度の成熟度と洗練度に達した。

★セティ1世の主要建築
・カルナク神域のアメン大神殿の大列柱室(102m×53mの広間に134本の巨大な柱が立つ)
・オシリス信仰の中心地アビドスには、セティ1世葬祭殿、オシレイオン、父ラメセス1世に捧げたラメセス1世の小神殿
・テーベの王家の谷の王墓(王家の谷の墳墓のうち最も壮麗で長く深く掘られたもの)
・セティ1世のミイラは現存する王のミイラの中で最も保存がよい

ラメセス2世(ラメセス大王)
・ラメセス2世ほど多くの神殿を建造し、多くの巨像やオベリスクを建てたファラオはいない。
・ラメセス2世は2人の正妃ネフェルトイリとイシスネフェルトほか多くの妃を持ち、100人以上の子を持った。

★ヒッタイトとの戦い
・前1286年カデシュの戦い
・ヒッタイトの王ハットウシリ3世は、毎年のようにエジプトと小競り合いをする無意味を悟って、和平協定を提案した。その結果、前1259年に相互不可侵と援助を内容とする協定が成立した。
・両王家の間で親書や贈り物のやりとりがあり、親密な関係を結び、前1246年、ハットウシリ3世は娘をラメセス2世と結婚させる。

★建設者ラメセス2世
・ラメセス2世の最大の建設事業はヌビアのアブ・シンベル大神殿(天然砂岩をくりぬいて作られた)である。
・4体のラメセス2世の大座像(高さ18m)が2対で正面入口の両脇に並ぶ。

メルエンプタハ → アメンセメス → セティ2世 → サプタハ → タウセルト女王

〈第20王朝〉 前1185~1070年
セトナクト → ラメセス3世
・ラメセス3世はリビア人や「海の民」の侵入を撃退した。

★海の民
・「海の民」はいくつかの民族の集まりで、ペリシテ人、チェケル(トロイ人?)、シェケレシュ(シチリア人?)ダルダノ人などが含まれる。

ラメセス4世 → ラメセス5世 → ラメセス6世 → ラメセス7世 → ラメセス8世 → ラメセス9世 → ラメセス10世 → ラメセス11世

〔7〕第3中間期(第21~第25王朝)前1069~525年
・古王国、中王国、新王国の最盛期を経て、エジプト文明は衰退の道をたどり始める。
・前1000年頃、エジプトはほとんど破産状態になった。

〈大司祭国家(テーベ)〉 前1080~945年
ヘリホル → ピアンキ → パネジェム1世 → マサハルタ → メンケペルラー → スメンデス2世 → パネジェム2世 → プスセンネス3世
〈第21王朝(タニス)〉 前1069~945年
スメンデス1世 → アメンエムニスウ → プスセンネス1世 → アメンエムオペト → 大オソルコン → サアメン → プスセンネス2世

・ヘリホルはラメセス11世に対して優位に立ち、上エジプトのテーベにアメン大司祭が支配する国を作った。
・ラメセス11世の死後、スメンデス1世が王を名乗り下エジプトのデルタから統治した。
 デルタの首都はスメンデス1世の統治中に、ペル・ラメセスからタニスに移転した。

〈第22王朝(ブバスティス朝/リビア人の王朝)〉 前945~715年
シェションク1世 → オソルコン1世 → シェションク2世 → タケロト1世 → オソルコン2世 → タケロト2世 → シェションク3世 → パミ → シェションク5世 → オソルコン4世
((テーベ))ハルスィエセ

・シェションク1世はその後200年間エジプトを統治したリビア人の最初のファラオ
・シェションク1世は前925年にユダ王国とイスラエル王国を破る

〈第23王朝(レオントポリス/リビア人の王朝)〉 前818~715年
ペディバステト → シェションク4世 → オソルコン3世 → タケロト3世 → ルドアメン → イウプト
((ヘラクレオポリス))ペフチャウアバステト
((ヘルモポリス))ニムロト

〈第24王朝(サイス)〉 前727~715年
テフナクト → バクエンレネフ

〈第25王朝(ヌビア/クシュ王朝)〉 前747~656年
ピアンキ → シャバカ → シャバタカ → タハルカ → タヌトアメン

〔8〕末期王朝時代(第26~第30王朝、第2次ペルシア支配時代)前525~332年
・アッシリアによる断続的なエジプト占領のために、第25王朝(ヌビア朝)の終わりと第26王朝(サイス朝)の始まりは重なっている。

〈第26王朝(サイス朝)〉 前664~525年
プサムテク1世 → ネカウ(ネコ)2世 → プサムテク2世 → ウアフイブラー → イアフメス2世 → プサムテク3世

★復活したエジプトの繁栄
・プサムテク1世の治世中に政治は安定し伝統的な宗教が復興した。美術様式も古王国や中王国時代への回帰傾向がみられた。
・エジプトは地中海の経済圏に組み込まれることによって貿易も持ち直し、国家としての威信も回復した。

・ネカウ(ネコ)2世はイオニア系ギリシア人を雇ってエジプト海軍を作った。
 エジプト人は基本的に海を好んでいなかったので、これは画期的なことだった。
・ネカウ(ネコ)2世はスエズ運河を2500年先取りして、ナイル川のペルシウム支流と紅海の間に航行可能な運河を掘らせた。
・ヘロドトスは前450年頃、第26王朝後半の混乱から1世紀後にエジプトに赴いた。

〈第27王朝(第1次ペルシア支配)〉 前525~404年
カンビュセス2世 → ダレイオス1世 → クセルクセス → アルタクセルクセス1世 → ダレイオス2世 → アルタクセルクセス2世

・前525年、アケメネス朝ペルシアはエジプトを占領した。
・カンビュセス2世もペルシアの他の王も、エジプトには総督をおき、遠い首都スーサから統治した。
・ダレイオス1世はネカウ2世が工事を始めたペルシウムから紅海への運河を完成させた。
・ダレイオス1世の治世は基本的にはエジプトにとって繁栄の時代だった。
・前490年、ペルシアはマラトンの戦いでギリシアに敗れた。
・前480年にはサラミスの海戦でペルシアはギリシアに敗れた。
・ペルシアの最後の2人の王(ダレイオス2世とアルタクセルクセス2世)の治世期には、エジプトはアケメネス朝の内紛を利用して、独立に近い体制を得る。

〈第28王朝〉 前404~399年
アミルタイオス
〈第29王朝〉 前399~380年
ネフアアルド1世 → ハコル
・第29王朝では首都はサイスからメンデスに移された。

〈第30王朝〉 前380~343年
ナクトネブエフ(ネクタネボ1世) → ジェドホル → ナクトホルエブ(ネクタネボ2世)

〈第2次ペルシア支配時代〉 前343~332年
アルタクセルクセス3世 → アルセス → ダレイオス3世
・前343年、エジプトがペルシアに降伏したとき、最後のエジプト人ファラオ、ネクタネボ2世の治世は終わった。

・こののち、エジプト人がエジプトを統治するのは、実に2300年後のこととなる。
・1952年7月23日、ナーセルら自由将校団が、軍司令部、放送局、空港などを占拠。午前7時、ラジオはクーデターの成功を告げた。(エジプト革命)

〔9〕マケドニア支配時代 前332~305年
アレキサンダー大王(アレキサンダー3世) → フィリッポス・アリダイオス → アレキサンダー4世

・アレキサンダー大王は前333年、イッソスの戦いでダレイオス3世に勝利した後、前332年にエジプトに入った。シーワ・オアシスまでアメン神の神託を受けに赴き、神の子、ファラオとして喝采を浴びた。エジプト人は彼を救世主とみなした。
・アレキサンダー大王はナイルの河口にアレキサンドリアを建てた。

〔10〕プトレマイオス朝時代 前305~30年
プトレマイオス1世 → プトレマイオス2世 → プトレマイオス3世 → プトレマイオス4世 → プトレマイオス5世 → プトレマイオス6世

・アレキサンダー大王が前323年に没したときプトレマイオスはエジプト総督を務めることになった。
・プトレマイオスはアレキサンダー大王の遺体を手中にして政治的、宗教的に優位に立った。
・前305年、プトレマイオスはエジプトの王であることを宣言した。
・プトレマイオス家は外来の王家であるが、エジプトにおいてはファラオとしてふるまった。
・プトレマイオス1世の治世下で神殿や町の建設が続々と始まった。
・プトレマイオス1世はアレキサンドリアにムセイオン(王立研究所)やアレキサンドリア図書館を建設した。
・古代世界の7不思議の1つファロス(灯台)はプトレマイオス2世の時代に完成した。

プトレマイオス7世 → プトレマイオス8世 → プトレマイオス9世 → プトレマイオス10世 → プトレマイオス11世 → プトレマイオス12世 → ベレニケ4世女王 → クレオパトラ7世(女王クレオパトラ) → プトレマイオス15世(カエサリオン)

・エジプトは17歳のクレオパトラ7世(プトレマイオス12世の娘)に、彼女の弟のプトレマイオス13世と結婚するという条件つきで譲られた。
・アレキサンドリアでカエサルはクレオパトラとプトレマイオス13世の2人に会見し、カエサルはクレオパトラを気に入った。
・クレオパトラは弟のプトレマイオス14世と結婚し、同時にカエサルの愛人となった。
・クレオパトラはカエサルの子、プトレマイオス15世(カエサリオン)を生んだ。
・前30年クレオパトラは自殺し、カエサリオンも処刑されプトレマイオス朝は滅んだ。

★クレオパトラ(7世)
・クレオパトラが絶世の美女であったことを証拠だてるものは何もない。
・クレオパトラに関する史料は何も残っていない。ミイラもパピルスも画像もない。
・クレオパトラとして一般的に用いられているコインの肖像は、クレオパトラではなくアントニウスの妻オウタヴィアの横顔である。

★「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の様子は変わっていただろう」について
・これには二重の誤解がある。
・第1に、フランスの哲学者パスカルの「パンセ」には「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら…」などとは書かれていない。
・パスカルは鼻が「短い(court)」と書いているので、「クレオパトラの鼻がもう少し短かったら…」というのが正確な表現である。
・鼻が低いという表現は日本独特のもので、欧米では鼻の高さが高いことは美人の条件ではない。

・さらに第2に、「パンセ」に書かれているクレオパトラは、有名なクレオパトラ7世のことではない。
・パスカルの文章の問題の部分は「人間の空虚であることを充分に知ろうと思うならば、恋愛の原因と結果を考えてみさえすればいい。その原因は「何だか私には分からないもの」(コルネイユ)であり、またその結果は恐るべきものである。「この何だか私には分からないもの」、ほとんどが認められないようなこの些細なものが、全地を、王侯を、軍隊を、全世界を動かすのである。クレオパトラの鼻、それがもう少し短かったら、大地の全表面は変わっていたであろう」とある。
・ここにあるコルネイユは、劇作家のコルネイユによる悲劇「ロドギュス」のことをいっており、その主人公の名はクレオパトラだった。その主人公はシリアの女王クレオパトラ・テアのことであり、カエサルを誘惑したクレオパトラとは別人である


〔11〕ローマ帝国領時代 前30~紀元395
・ローマはエジプトを征服したが、エジプトを通常の属州にはしなかった。
・オクタヴィアヌス(前27年にアウグストゥスとなりローマの初代皇帝となった)はエジプトを自分個人の領地とし、皇帝直属の長官が統治した。
・エジプトはパンとなる穀物をローマにもたらした。
・ローマ領時代のエジプトは繁栄を極めた。
・ファイユーム地方に多くの新しい都市が建設され、古代ローマ風の浴場、公会堂(バシリカ)などが建設された。