ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎マリー・アントワネットとルイ16世 3

2014-10-30 22:16:58 | マリー・アントワネット
マリー・アントワネットとルイ16世 3

マリー・アントワネットのフランス入り

・1770年4月21日朝、アントワーヌはフランスへの旅に出発した

・最初の宿泊地はメルクのベネディクト派修道院で、兄のヨーゼフ2世に迎えられて、女子修道院の生徒たちはオペラを上演した

・旅の途中の町では熱烈な歓迎を受けた
晴れ着を着た娘たちが、生花のブーケ、詩の朗読などによって祝福した

・4月26日、ミュンヘンに到着した
 そのあと、アウクスブルク、ギュンツブルク、ウルム、そして5月4日フライベルクに到着し2日間滞在した

・5月6日、シュテルン修道院に到着し、ドイツ領土で過ごす最後の夜になった
この夜、マリー・アントワネットは初めて、公式にフランス宮廷の高官たちと顔を合わせた
 筆頭はルイ15世の特命大使、ノアイユ伯爵である
 ノアイユ伯爵夫人は王太子妃付女官長として、マリー・アントワネットの身の回りのすべてを監督することになっていた

花嫁の「引き渡し」

・オーストリアとフランス両国の公平さを保つことが重要視されたので、花嫁の「引き渡し」はケール近郊のライン川の両岸から等距離にある無人島で行われることが決められていた
 この島にオーストリア側とフランス側の2つの控えの間をもつ豪華な館が建てられた

・5月7日、この館で引き渡しの儀式が行われた

オーストリア側の部屋とフランス側の部屋は同じような造りであった
 中央に儀式用の大広間があり、マリー・アントワネットはオーストリア皇女としてオーストリア側の部屋に入り、大広間でフランス王太子妃として生まれ変わり、フランス側の部屋に入る

・マリー・アントワネットはフランス王太子妃になった瞬間から、フランス製品のみを身につけなければならない決まりであった
 王太子妃はオーストリア側の控えの間で、オーストリアで用意された靴、ストッキング、肌着、豪華な花嫁衣装をすべて脱ぎ捨てて、フランス製の衣装に着替えた

 マリー・アントワネットは付き添い役のシュタムヘムベルク公爵に付き添われて中央の部屋に入った
そこにはフランスの随員たちが待ち受けていた
 広間中央におかれたテーブルが国境の象徴で、手前がオーストリアで向こうがフランス
まずオーストリア側のシュタムヘムベルク公爵がマリー・アントワネットの手をはなし、フランス側の付き添い役がその手をとり、マリー・アントワネットをみちびいてテーブルの縁をまわる
 新しい付き人となるノアイユ伯爵夫人が挨拶したとき、マリー・アントワネットはひしと伯爵夫人に抱きついた
 伯爵夫人はすばやく身を引き、儀式的な抱擁の権利を夫に返上した
 そのあとで、王太子妃付の侍従たちが紹介され、伯爵夫人が女官たちを紹介した
 そのなかのマイイ伯爵夫人はマリー・アントワネットのお気に入りになった

こうして、マリー・アントワネットは正式にフランス人となった

◎ストラスブールへ

・マリー・アントワネットはアルザスの首都ストラスブールへむかった
 羊飼いの仮装をした子どもたちがマリー・アントワネットをとりかこみ、花籠を差し出す
 娘たちがアルザス地方の民族衣装を着て、王太子妃の進む道に花びらを撒き散らした

 夜になると、町の家々に明かりがともされた
 司教館では、司教の甥の補佐司祭が演説をした
 王室法務官のダンティニー氏がドイツ語で挨拶をはじめたが、王太子妃はそれをさえぎり、「もうドイツ語は話さないでください。今日から私はフランス語以外の言語を解しません」と言った

 王太子妃はさらにパリへの旅を続けた
 王太子ルイ・オーギュストは5月13日、ヴェルサイユを出発し、5月14日、マリー・アントワネットはパリの北方数十キロのコンビエーニュで初めてルイ・オーギュストに対面することになった

二人の出会い

・マリー・アントワネットとルイ・オーギュストの出会いは、5月14日午後3時、コンビエーニュ近郊の森のなかのベルヌの橋で実現した

 王太子の一行は馬車で到着し、花嫁の一行を待機していた
 王太子妃がやってきたことを、双方の随員がファンファーレで伝え合う
 王太子妃が馬車から降り、地面に敷かれていた絨毯の上に立つ
 シュタムヘムベルク公の紹介でショワズール公爵に向き合うと最初の挨拶をかわす
 それから、ルイ15世とその家族が馬車から降りた
 侍従長のクロイ公爵に「王太子妃殿下です」と紹介されると、マリー・アントワネットは優雅にひざまずき、国王を「パパ(お父さま)」と呼び挨拶した
 王が立つように許可したので、マリー・アントワネットは立ち上がった
 王の横には王太子が立っていた
 王が王太子を紹介すると、王太子はぎこちない様子で花嫁の頬に慎み深くキスをした
 やせて背の高い青年と、背は低いがほっそりとした体つきで、輝くような白い肌の愛らしい少女の出会いだった

・国王と花嫁花婿は一台の馬車に乗り、コンピエーニュ城に向かった
 国王と夫のあいだにはさまれて、マリー・アントワネットが座る
 国王は興奮してしゃべり続けたが、夫は黙りこくっていた
その夜、コンピエーニュ城でマリー・アントワネットは王の親族を紹介された

・翌日(1770年5月15日)の夕方、マリー・アントワネットはラ・ミュエット城におもむいた
 ラ・ミュエット城での夕食会にルイ15世は公式寵姫のデュ・バリー夫人を招待していた

 何も知らないマリー・アントワネットはひときわ美貌のデュ・バリー夫人に目をとめて、ノアイユ伯爵夫人に、あの女性の役目は何かと尋ねた
 ノアイユ夫人は「国王の愛人です」と答えるわけにもいかず、「国王陛下を楽しませることでございます」と答えた
 マリー・アントワネットは「それならば、私は彼女のライバルになりますわ」と言った
(「マリー・アントワネット」アントニア・フレイザー 「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク 「ルイ16世」ベルナール・ヴァンサン 「ルイ十六世」ジャン=クリスチャン・プティフィス)


○マリー・アントワネットからマリア・テレジアへの書簡(1770年7月9日)のなかで、デュ・バリー夫人についてふれている
デュ・バリというのは考えられるかぎりもっとも愚かで無礼なふしだら女です。マルリー(宮殿)では毎晩私たちといっしょにカード遊びをしましたが、2度も私のとなりにすわりながら、私とは口をきかないのです。私も必ずしもあのひととお話しをしようとはしませんでした。でもどうしても必要なときは、少し言葉を交わしました」(「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」)

◎部活がんばってや 10.26

2014-10-26 06:06:30 | HKT48 AKB48
部活がんばってや 10.26

・勤勉な人に、つねに幸運の女神は味方する

・それぞれの分野で最も優れた人たちは、勤勉に努力し学習したことによって輝かしい功績を得られた
 生まれつき飛び抜けた才能を持っていた人は非常に少ない

・芝居で踊りを踊る人でも、数年間の稽古を積んだ後でなければ舞台に立つことはできない

・収穫したいと思えば、最初に種をまき、しんぼう強く待ち続けなければいけません
 たとえ厳しい冬にうもれていたとしても、種をまいたという功績は、春を迎える前にすでに達成されている
 成果があまりにも大きい場合は、生前に見ることができないかも知れない

・もし希望を失ってしまったら、これを埋め合わせるものはない

・真実の大海は果てしなく広く深いものである

・ささいなことが全体を形作る
 非常に小さなものが、ものすごく大きな結果を生み出す
 ささいなことが、最終段階になって本当は役に立つということがわかることがある
 きっかけはささいなことが多い

・はじめにやるべきか否かを検討し、やるべきではないと思ったことは、絶対に手を出さない
(「西国立志編」サミュエル・スマイルズ PHP新書)


◎さくちゃんの好きなもの、新発見
 もっと知りたいなー

 私はさくちゃんの握手券、落選することが多くてがっかり

 さくらちゃんは一番人気やから、プラチナチケットになりつつあるね

◎部活がんばって 10.25

2014-10-25 20:31:09 | HKT48 AKB48
部活がんばって 10.25

・自分自身の努力や苦労によって得られる学問や見識は、自らの血肉となり、自分自身のものとなっていく
 自分自身で学んだ人は、ある問題について解決すれば、それを応用して別の問題も解決することができる

・あなたにすばらしい才能があれば、努力を積み重ねることによってその才能を開花させるべきです

・1度に1つの仕事を上手に行う者は、多くのことを成すことができる

・成功するときは、自分自身の力を信じたときである
 自分自身の実力を認めることは、本当の意味での謙遜と共存する

・常に願望を実現させようという気持ちを失ってはいけません

・強い意志の力を持った人間は、途中で挫折することがないので、最終的には成功者の地位を獲得していきます

あなたが進み続けて諦めなければ、必ず自信と実力を手に入れることだろう

志を立てると人生は劇的に変化する
(「西国立志編」サミュエル・スマイルズ PHP新書)

◎さくちゃん、部活ちゃうけど

 がんばってね

◎さくらちゃん 2頭身?

2014-10-22 23:16:17 | HKT48 AKB48
さくらちゃん 2頭身?

10.20の岡山のチームA公演 ニコニコ生放送で見ましたけえ

・「初恋ダッシュ」
・「メロンジュース」
・「Beginner」
・「Show fight!」
さくちゃんがキレキレダンス踊っているところはかっこいいのう

48の「4」のカードをもってたね

・さくちゃん今めっっちゃ忙しいね

週に1回か2回はコンサート(HKT48の全国ツアー、AKB48の全国ツアー、)や劇場公演、握手会、グラビアの撮影、TV番組の収録など

・今日10.22はチームA公演
 10.25 HKT48 個別握手会 福岡
 10.26 HKT48 個別握手会 幕張メッセ
 10.27 HKT48のK4公演
 10.30 チームA公演
 10.31 HKT48のK4公演
 11.1 全国ツアー 茨城
 11.8 HKT48 個別握手会 大阪
 11.16 全国ツアー 神奈川
 11.18 全国ツアー 福岡
 11.24 HKT48参観日 名古屋
 12.23 全国ツアー 広島
など

 日本だけではなく12.7は台湾公演
 来年1.17は香港公演

楽しいやろね
体力的にはしんどいやろうけど、乗り切ってくださいね

○週刊プレーボーイは毎週読んでいます
 さくちゃんのコラム「毎日にっちょく!」を読みたいから

・10.20の号にはA1のビッグなポスターが付いてましたけん

さくちゃん、2頭身?かと思った

 そうそう11.26はHKT48劇場公演 3周年じゃ



◎マリー・アントワネットとルイ16世 2

2014-10-19 18:04:49 | マリー・アントワネット
◎マリー・アントワネットとルイ16世 2

政略結婚

・ルイ15世のところの大臣ショワズールとハプスブルク家のマリア・テレジアのところの政治顧問のカウニッツが、フランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の同盟を血縁で結びつけて強めようと提案した
 それは、フランスの王太子とマリア・テレジアの娘のひとりを結婚させる考えである

 結婚の話は、1764年にショワズールとオーストリア大使のシュタクベルヘルク公爵とのあいだではじまり、1766年にルイ15世が口頭で同意した

 1766年5月24日の時点で、オーストリア大使が「陛下は今この時より、フランス王太子とマリア・アントーニア皇女との結婚は決定され、確実なものになったとお考えになることができる」とマリア・テレジアに書簡で報告している

・1769年6月、ルイ15世は最終的の結婚の許可を与え、ルイ15世の書簡がマリア・テレジアにとどき、「自分の孫である未来のルイ16世のために、若いプリンセスをいただきたい」との結婚の申し込みがあった

結婚式は翌1770年の5月と決められた

・4月16日、大臣のデュルフォールは主人の国王の名において、正式にアントワーヌにベリー公との結婚を申し込み、ベリー公の肖像画が入ったロケットをアントワーヌに渡した

・4月17日、婚姻契約において、アントワーヌはオーストリアの皇位継承権、およびハプスブルク家の財産相続権を放棄すること、20万フロリンの持参金と同額の宝石類を持ち込むこと、寡婦になったときの給与財産として、2万エキュの金貨と10万エキュの宝石類を年金として受け取ることが取り決められた
 その夜、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿で晩餐会が開かれた

・4月18日の夜はウィーン郊外のリヒテンシュタイン宮殿で晩餐会が開かれた
花火が上がり、トルコ音楽が奏でられた

・4月19日、ウィーンのアウグスティヌス教会で代理人を立てて代理結婚式が挙げられた
 アントワーヌの代理花婿は3番目の兄のフェルディナント大公だった

アントワーヌの出発は4月21日の朝9時と決められていた
輿入れの行列には、侍女、秘書官、美容師、衣装係、医者、従僕、女官、近衛兵、料理人、パン焼き職人、蹄鉄工など少なくとも132人にのぼり、57台の馬車と376頭の馬が必要になった
 376頭の馬は4時間ごとに交代する必要があり、のべ2万頭の馬をルートに沿って配置しておかなければならなかった

・14歳のアントワーヌは人目も気にせず泣きじゃくり、馬車の窓から何度も首を出して故国を最後に見ようとしていたという(「マリー・アントワネット」アントニア・フレイザー、早川書房 「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク、角川文庫 「ルイ16世」ベルナール・ヴァンサン、祥伝社 「ルイ十六世」ジャン=クリスチャン・プティフィス、中央公論新社)


マリー・アントワネットとマリア・テレジアとの往復書簡

1770年からマリア・テレジアが亡くなる(1780年11月29日)少し前まで11年間にわたる、マリー・アントワネットとマリア・テレジアとの秘密の往復書簡(直筆のものと写し)が残っている

 母は娘が嫁いでからも、手紙によって警告や助言を与え、指示を出し、さとしたり娘を正しい道へ導こうとした

 母は娘の出発にあたって、書簡を与え、今後定期的に手紙で連絡を取り合うように、しかもそれを秘密にするように言い含めた

 書簡のやりとり自体を秘密にするということではなく、定期的に書簡を通して意思を通じ合っていることを秘密にするという意味である
 手紙を読んだあとはすぐに破棄されることになっていた
 娘はこれを守ったようだが、母のほうは娘からの手紙を書き写させて保管させた
 こうして、母と娘の書簡の写しと、破棄されなかった直筆の書簡が後世に残ったのである

 母と娘の秘密の文通は月1度ぐらいの頻度で続けられた
 現在なら、携帯電話もありネットもあり毎日連絡をとれて便利だけれど、手紙というのは貴重な資料である

1770年4月21日 マリア・テレジアから娘へ(書簡1) より一部

「毎月読むこと

 毎朝、目を覚ましたらすぐさまベッドを離れ、跪いて朝のお祈りを唱えて、神の教えを説く書物を読みなさい…すべては1日の良き始まりに関わること、1日の始まりにあたっての心構えに関わることであり、これさえ間違いなく行なえば、取るに足りぬ事柄ですら功徳のあるよう立派に行なうことができます。…しかしこれにより、この世であなたが魂の平安を得られるか否かが決まるのです。また、1日の終わりにあたってあなたが行なう夕べの祈りと反省についても、同じことが言えます…ところで、あなたが読んでいる本のことを、そのつど私に知らせてください。毎日できるかぎり時間を見つけて、自省と黙祷に励み、特に聖なるミサのあいだは一心不乱にそれを行なうように…あなたがフランスのしきたりに反することを導入したり試みたりすることは、いささかも願ってはなりません…あなたは無条件に、フランスの宮廷でいつも行なわれているとおりにしなければいけません…すべての目があなたに注がれています。ですから、悪評が立つようなきっかけをあたえてはなりません

特に注意すべきこと
誰それを推薦してくださいと頼まれても引き受けてはなりません…好奇心を抱いてはいけません…どのようなこともノワイエ夫妻に尋ねなさい…何をするべきかについても、おふたりに教えを乞いなさい…何ごとであれ、あなたの一存で行なってはいけません…これからは毎月の初めに、ウィーンからパリに使いの者を送ることにします。その者が着くまでに手紙を書いておき、到着後ただちに手渡して出立させなさい…私の手紙は、読んだら破り捨てなさい…」(「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」パウル・クリストフ編 岩波書店)