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欅坂46 歴史 などいろいろ

おっちゃんの世界史の栞 19 共和政ローマ/2

2010-08-21 09:47:41 | HKT48 AKB48
(3)古代ローマ世界 3 共和政ローマ/2

〈ポエニ戦争〉
・3回におよぶポエニ戦争のはてに、ローマはカルタゴを焼き破壊しつくした。


★第1回ポエニ戦争 前264~241年


・前264年、シチリア島のギリシア人植民市メッサナを占領していたマメルティニと呼ばれるカンパニア出身の傭兵隊がシラクサ王ヒエロン2世に攻囲されて、マメルティニがカルタゴとローマの双方に援軍を要請したことにはじまった。
・当時カルタゴは新型の5段橈船を持っていたが、ローマは時代おくれの3段橈船しか持っていなかった。
・ローマはカルタゴ艦隊に対抗するために新装備の大型艦隊を建造した。
・このころの海戦は、まず船と船をぶつけ合い敵艦を撃破し、敵艦に歩兵が乗り移り戦うというものであった。
・新装備とは、船首にマストから綱でつった跳ね橋で、敵艦に近づいたとき綱をゆるめて敵甲板に跳ね橋を降ろし、その先端につけた鉄鉤で敵艦とつないでしまう。そして跳ね橋から歩兵を敵艦に送りこむ。
・前241年、ローマもカルタゴもそれ以上の戦いをこのまず、和平が成立した。
・カルタゴはローマに賠償金を支払い、ローマはシチリア島を獲得し「属州」とした。
・ローマはさらに、サルデーニャ島、コルシカ島をも得る。

★第2回ポエニ戦争 前218~201年

・前219年、ハンニバル軍がローマの同盟都市サグントュムを攻略した。
・ローマの大使がハンニバルの引き渡しを求めてカルタゴに到着したが、カルタゴは拒否した。
・前218年、ハンニバル軍はローマをめざし、ローマとカルタゴの軍事境界線のエブロ川を渡った。
・ピレネー山脈を越え、ローヌ川に到着。このとき、歩兵3万8000、騎兵8000、象37頭だったという。
・ハンニバル軍はアルプスを越える。このとき、歩兵2万、騎兵6000、象20頭しか残らなかったという。

◎カンネーの戦い 前216年8月
・ローマの兵力は7万6000、そのうち重装歩兵5万5000、軽装兵1万5000、騎兵6000
・カルタゴの兵力は5万、そのうち歩兵3万、軽装兵1万、騎兵1万。
・ローマ軍は全力を中央部に集中させていた。
・ハンニバルは中央部に歩兵軍団をおき、凸型半月形に突出させ、両翼に騎兵隊を配備した。
・ローマ軍の重装歩兵軍団はハンニバル軍の中央部を攻撃し、ハンニバル軍は後退し、中央部がへこむ凹型半月形になった。
・ローマ軍は中央がふくらみ、正面突破する勢いだったが、ハンニバルはこの時を待っていた。
・ローマ軍の側面を重装歩兵が攻撃するとともに、両翼に配備した騎兵隊がカルタゴ軍の背後にまわり込み、ローマ軍を包囲した形になった。
・ローマ軍は壊滅した。死者は5万人以上という。

◎ザマの戦い 前202年
・プブリウス・スキピオ(大スキピオ)率いるローマ軍がハンニバル軍を破る。
・カンネーでのハンニバルの戦術が、そっくりそのままスキピオの戦術となり、カルタゴ軍は包囲され、ローマ軍の勝利となった。

★第3回ポエニ戦争 前149~146年

・前149年、ローマはカルタゴに宣戦布告。前146年、スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ、大スキピオの長男の養子)率いるローマ軍は3年にわたる包囲戦のすえカルタゴを陥落した。
・6日間に及ぶ市街戦のあと、カルタゴ市民軍は降伏した。
・総人口50万人のうち、生き残った5万5000人の男女は奴隷として売られ、建物はことごとく破壊された。町は焼き尽くされ、廃墟は地ならしされ、不毛の地たるべく塩がまかれ、カルタゴは地上から姿を消した。
・元老院はカルタゴだけでなくカルタゴの全領土の徹底破壊を命じた。

〈グラックス兄弟の改革〉
・前133年、ティベリウス・グラックスが護民官に選出された。
・ティベリウスは自作農再建をめざし、500ユゲラ(約125ヘクタール)を超える公有地を占有する者は、その超える分を国に返し、その土地を無産市民に分配するという土地改革案を提出した。
・それに、息子が2人までなら、それぞれ250ユゲラ、総計1000ユゲラまでは占有してもいいとしていた。
・大土地所有者の貴族や富裕者の抵抗は猛烈だった。
・反対派はもうひとりの護民官のオクタウィウスに拒否権を発動させたが、ティベリウスはオクタウィウスの罷免を提案し過半数を獲得しオクタウィウスを排斥、土地改革法案は成立した。大土地所有者の集う元老院が黙っているはずはない。
・ティベリウスは護民官への再選を企てたが、元老院の過激派は民会の議場を襲い、ティベリウスとその一派100人以上が撲殺され、遺体はテヴェレ川に投げ捨てられたという。
・前123年、ティベリウスの弟のガイウスが護民官に当選し、兄の改革を引き継いで土地分配を実行に移す。
・ガイウスの改革案は兄を超えるもので、住民に安価な穀物を供給すること、同盟市の住民にもローマ市民権を与えることなども含んでいた。
・前121年、ガイウスは改革反対派に追いつめられ、自殺をとげた。

〈スパルタクスの反乱〉前73年
・前73年、剣闘士奴隷スパルタクスは70人あまりの仲間とともにカプアの剣闘士養成所を脱走して反乱をおこす。
・逃亡奴隷や貧民が参加してその勢力は一時12万に達した。
・スパルタクスはクラッススの討伐軍と戦って戦死し、残党もポンペイウスに討伐された。
・ローマはこの制圧に2年を要し、のちにスパルタクスは英雄として伝説化された。
・捕えられた6000人の奴隷たちは、カプアからローマにいたるアッピア街道にそって十字架にかけられたという。

〈第1回三頭政治〉ポンペイウス、クラッスス、カエサル
・前60年、武勲者ポンペイウスと大富豪クラッススとカエサルの間で密約が結ばれた。
・前59年、カエサルはポンペイウスとクラッススの助力で統領に当選した。
・カエサルはポンペイウスとの絆を強めるため、娘のユリアをポンペイウスと結婚させた。
・前58年、カエサルはガリアでの軍事指揮権を獲得し、アルプス北方のガリアへの遠征を開始した。
・ガリアと呼ばれるのは、北イタリア、フランス、ベルギーにわたる広大な地域であり、ローマ領に属していたのは、北イタリアと地中海沿岸部で、一部にすぎなかった。
・カエサルはガリア全土の征服にのりだしたのである。
・ガリアの地に住むのはケルト人であったが、ケルト文化はローマ文化圏の拡大によって追いやられていった。

★ガリア戦記
・ガリア遠征の記録で全8巻。第7巻までカエサルの直筆。第8巻は部下のヒルティウスの加筆。
・「ガリア戦記」は軍の総司令官自らがつづった価値あるものであり、ラテン語の名文として名高い。

・前54年ユリアが死亡すると、カエサルとポンペイウスの絆は切れてしまった。
・前53年グラッススはパルティア遠征に出陣し、カルラエで戦死した。
・元老院保守派はポンペイウスをかつぎだし、反カエサル派の中心人物にまつりあげる。

★ルビコン川を渡る
・前51年、ガリアを平定したカエサルは、帰国し、凱旋式をあげ、統領に立候補したかった。
・凱旋式をあげるには、軍隊を手放せず、軍隊を解散しなければローマ市内に入れず、統領にも立候補できない。
・武装解除せず軍隊を率いたままルビコン川を越えれば国法に違反することになる。
・前49年1月10日、カエサルは「賽は投げられた」と言って、兵を率いてルビコン川を渡り、ポンペイウス軍に向かって進撃を開始した。
・前48年、ギリシア北方のファルサロスの戦いで、カエサルに敗れたポンペイウスはエジプトに逃れるが、9月28日暗殺された。
・カエサルはポンペイウス暗殺の数日後、アレクサンドリアに到着し、女王クレオパトラと出会う。
・前46年、カエサルは太陽暦(ユリウス暦)を導入して、前45年1月1日から実施した。
・前44年2月以降、カエサルは終身の独裁官となる。

〈カエサル暗殺〉
・前44年3月15日、カエサルはカッシウスなど元老院議員により暗殺された。
・14日の夜、カエサルの妻カルプルニアは夫が血に染まっている夢を見て、翌朝元老院へ出ないでくれと嘆願した。
・ある占い師が3月15日が彼にとって運命の日となるだろうと予言したことを思い出させた。
・カエサルが元老院議場に入った。
・プルタルコスの「英雄伝」(105~115年頃成立)によれば、最初にカスカがカエサルの背後からカエサルの首に短剣で切りつけた。その後、20数人が短剣を取りだして八方からカエサルに襲いかかった。このとき、ブルートゥスが後ろから肩に斬りつけた。
 カエサルは23か所の傷を受けて絶命した。

★カエサルは「ブルートゥス、お前もか」などとは言っていない

・プルタルコスの「英雄伝」には「ブルートゥス、お前もか」という言葉は出てこない。
・カエサルはブルートゥスに背後から襲われたのだから、「ブルートゥス、お前もか」などと叫べただろうか
・事件後200年もたった、カッシウス・ディオ(155?~235年)の「ローマ史」には、突然「わが子よ、お前もか」と出てくる。
・のちに、シェークスピアが戯曲「ジュリアス・シーザー」を書き、その中の台詞で Et tu Brute(そしてお前もか、ブルートゥス)とした。
・「ブルートゥス、お前もか」というのはシェークスピアの劇の台詞にすぎない。

・3月18日、カエサルの葬儀が市をあげて催され、アントニウスが追悼演説を述べた。
・カエサルの遺言状には、1億セステルティウスに上る私財の大半が市民各個人に遺贈され、庭園は国に寄付されていた。
・遺言状で後継者に指名されたのは、アントニウスではなくカエサルの甥、ガイウス・オクタヴィアヌス(のちのローマ帝国初代皇帝アウグストゥス)だった。

〈第2回三頭政治〉アントニウス、オクタヴィアヌス、レピドゥス
・前43年、カエサルの養子となったオクタヴィアヌスとカエサルの部下のアントニウス、そしてレピドゥスがコンスル級の権限を有する5年任期の「国家再建のための3人委員」に任命され、第2回三頭政治を始めた。
・前42年、マケドニアのフィリッピにおける二度にわたる戦いで、アントニウスとオクタヴィアヌスはカエサルを暗殺したブルートゥスとカッシウス率いる共和政擁護派の軍を破り、ブルートゥスは自殺した。
・前40年、アントニウスはオクタヴィアヌスの姉オクタウィアと結婚した。
・アントニウスはクレオパトラをキリキアのタルソスに呼び寄せる。
 アントニウスもクレオパトラの魅力にとりつかれ、アレクサンドリアに同行する。
・前36年、オクタヴィアヌスはアフリカを支配していたレピドゥスを失脚させた。
・前32年、アントニウスはオクタウィアと離縁し、クレオパトラと結婚する。
・前31年、アクティウムの海戦で、オクタヴィアヌスはアントニウスとクレオパトラの連合艦隊を破った。
・クレオパトラ率いるエジプト艦隊は早々に逃亡し、アントニウスは部下を見捨てて、クレオパトラのあとを追った。
・前30年、オクタヴィアヌスはアレクサンドリアを陥落させ、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、エジプトはローマの属州となる。
・アントニウスは自殺した。
・クレオパトラは39歳で自殺した。毒蛇に胸を噛ませたという伝説が生まれた。



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おっちゃんの世界史の栞 18 共和政ローマ/1

2010-08-08 17:40:10 | HKT48 AKB48
(3)古代ローマ世界 2 共和政ローマ/1

〈S・P・Q・R〉
・ローマ人はみずからの国家をS・P・Q・Rとしるす。
・これは、Senatus Populusque Romanus の略号で「ローマの元老院と民衆」の意味である。
・共和政時代の制度のうえでは、市民が最高の権限をもち、全市民が参加する複数の集会(民会)によって、さまざまな決定が行われてきたが、国家の方針を定めるなどの実質的な権力を握っていたのは、貴族たちを主体とする元老院階級だった。
・元老院議員の資格は30歳以上で、基本的には終身制だった。

・王政が廃止されたあと、王に代わる国政と軍事の最高責任者として、執政官(コンスル)が選ばれた。
・執政官の任期は1年で、同時に2名選出され、元老院の助言を受けながら国政をつかさどる。

・最古のローマでは、人民は全人民を意味するのではなく、貴族(パトリキ)と騎士(エクイテス)の2階級だけが人民で、他は平民(プレブス)だった。

★共和政ローマの歩み
・前494年 聖山事件→護民官設置
・平民会設置
・前450年 十二表法 制定
・前367年 リキニウス・セクスティウス法 制定
・前287年 ホルテンシウス法 制定
・前264~241年 第1回ポエニ戦争
・前218~201年 第2回ポエニ戦争
・前216年 カンネーの戦い
・前202年 ザマの戦い
・前149~146年 第3回ポエニ戦争
・前133年 グラックス兄弟の改革
・前91~88年 同盟市戦争
・前88年 マリウスとスラの抗争
・前73年 スパルタクスの反乱
・前60年 第1回三頭政治始まる(ポンペイウス、クラッスス、カエサル)
・前58~51年 カエサルのガリア遠征
・前46~44年 カエサルの独裁
・前44年 カエサル暗殺
・前43年 第2回三頭政治始まる(アントニウス、オクタヴィアヌス、レピドゥス)
・前31年 アクティウムの海戦
・前30年 プトレマイオス朝滅亡

〈聖山事件〉
・前494年、平民はローマ近郊の聖山に立てこもり、労働も軍務も拒否すると宣言した。
・債務奴隷を解放し、その借金を棒引きにせよ、平民を守るための司政官の選出を認めよ、さもなければ我々は山から降りない。と
・元老院はついに折れて、借金は棒引き、債務奴隷は解放、そして毎年平民から2人の護民官(元老院の議決やコンスルの職務行為などに対し拒否権を行使できた)と3人の造営官を選出することが認められた。
・前449年以降、護民官の定員は10名。

〈十二表法〉
・成文法の十二表法が制定されるまで、法律は貴族層からなる神官に独占され、裁判の基準は秘密であった。
・法の公開を求める平民の声が高まっていた。
・伝承によれば、先進のギリシアの立法者ソロンの法を学ぶべく、ローマ人3人がギリシアのアテネに派遣されたという。
・帰国後、成文法制定のための十人委員会が設置され、前450年ローマで最初の成文法が公示された。
・12枚の銅板に刻まれたので、十二表法と呼ばれた。
・ローマ人は子供のころから、「十二表法」を暗記させられたという。
・第4表第2項「父は息子に対する生殺与奪の権があたえられる」
 とあり、家父長権は絶大であった。
・ポエニ戦争が終わるころまでは、子供の教師は父であった。(学校制度も、奴隷を家庭教師に使う習慣もまだなかった)

〈リキニウス・セクスティウス法〉
・前367年、護民官のリキニウスとセクスティウスの提案で、コンスル2名のうち1名を平民から選出することが決議された。
・しかし、毎年コンスルの1人に平民出身の者が選出されるのは、前341年以後である。

・前4世紀末ごろ、コンスルの下した体刑や死刑に不服な場合には、民会に控訴する権利が認められた。

〈ホルテンシウス法〉
・前287年、平民出身の独裁官クィントゥス・ホルテンシウスが成立させた
・平民会決議は元老院の承認を得ずとも国法となる。
・平民会決議はローマ市民全体を拘束するものとなる。
・貴族もそこに出席するようになり、区(トリプス)ごとに投票していたのでトリプス民会と呼ばれるようになり、名実ともに正規の市民総会となる。



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おっちゃんの世界史の栞 17  ローマの建国

2010-08-01 15:34:29 | HKT48 AKB48
(3)古代ローマ世界 1 ローマの建国

・広義には、古代ローマは建国神話による前753年のローマ建国から1453年の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)滅亡までの2206年となる。
・一般的にはローマ建国から476年の西ローマ帝国滅亡までを古代ローマと考える。
・通常はこの期間を、王政、共和政、帝政の3つの時代に分ける。

・神話によれば、ロムルスが前753年にテヴェレ河畔のパラティヌスの丘にローマを建国した。
・王政、共和政をへてイタリア全土を制圧する。
・前27年、オクタヴィアヌスがプリンケプス(元首)に就任して以後が帝政時代。
・初期には5賢帝による「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」の時代があり、トラヤヌス帝は帝国の最大版図を実現した。
・3世紀の軍人皇帝時代には政治が混乱したが、ディオクレティアヌス帝が帝国を再建し、専制君主政が成立した。
・コンスタンティヌス帝は313年、キリスト教を公認し、330年新首都コンスタンティノープルに遷都。
・テオドシウス帝の死後、395年に帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国は476年に滅びた。

〈ローマ建国神話〉
・前753年という年代は前1世紀の学者が占星術をもとに割り出した数字であって、前8世紀のパラティヌスの丘には貧弱な集落しかなかった。
・考古学的には、都市ローマの出現は前6世紀前半と推測されている。

〈エトルリア人
・ローマ人はエトルリア人の技術を吸収したのち、彼らを滅ぼし、エトルリア文明を抹殺しようとした。
・ローマという名称も、エトルリア語で川を意味する「ルーモン」から転じたと考えられる。
・ロムルスその人がエトルリア人だったという説もある。
・エトルリア人は、ラテン族、サビーニ族より前に、テヴェレ河の岸に小さな町を作っていた。
・エトルリア人がローマを建国した。(そこをローマと呼んだかどうかはわからない)
・エトルリアの最後の王タルクイニウスが倒れると、ローマ人が優位に立ち、ローマ人はエトルリアのすべてを抹殺しようとし、歴史も改変した。
・今日エトルリア文明の痕跡は絶無に近い。


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