ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

欅坂46 歴史 などいろいろ

◎宝塚歌劇 11 歴史 9

2014-10-04 21:57:03 | 宝塚
宝塚歌劇 11 歴史 9

「ベルサイユのばら」

◎1974年(昭和49年)8月29日 宝塚歌劇創立60周年記念として「ベルサイユのばら」が初演

○原作は池田理代子の漫画「ベルサイユのばら」(少女週刊誌「週刊マーガレット」に連載され、単行本になっていた)で、歌劇団の植田紳爾が脚色し、俳優の長谷川一夫が演出した

・漫画「ベルサイユのばら」はフランス革命を背景にした物語で、フランス王妃マリー・アントワネット、スウェーデンの貴族フェルゼン、男装の麗人オスカル、アンドレ(オスカルの従卒)などが登場する

◎「ベルサイユのばら」誕生まで

・昭和48年当時、東京に、観劇後に舞台の感想を語り合う「植田紳爾を囲む会」があった
 そのなかで、ある少女が「この漫画を宝塚で上演して下さい」と原作が連載されていた少女漫画雑誌「週刊マーガレット」を見せてくれたのが始まりである(「宝塚百年の夢」)


・オスカルやアンドレは架空の人物である

オスカルは男役でありながら、登場人物としては男性ではなく女性を演じる

○主題歌は「愛あればこそ」

○以後、再演が重ねられ、そのたびに台本は違う

★作品の大きな流れ

1 フェルゼンとマリー・アントワネット編
2 オスカルとアンドレ編
の2つの大きな流れがあり、

さらに
・オスカルとマリー・アントワネット編
・オスカル編
・フェルゼン編
のバージョンがある

★これまでの上演の概略

・「昭和のベルばら」1974年(昭和49年)~1976年(昭和51年)

・「平成のベルばら」1989年(平成元年)~1991年(平成3年)
 宝塚歌劇75周年、フランス革命200年を記念して

・「ベルサイユのばら2001」2001年

・2005年「日韓友情年2005宝塚歌劇韓国公演」
 日韓国交正常化40周年記念

・2006年 マリー・アントワネット生誕250年を記念して

・2013~2014年 宝塚歌劇100周年を記念して


宝塚歌劇100周年 大運動会
 10.7 17時 大阪城ホールで開催される

◎宝塚歌劇100周年 フィナーレイベント
・宝塚大劇場 12.20~12.22
・東京宝塚劇場(ライブ中継) 12.22   
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◎ヴェルサイユ宮殿とプチ・トリアノン

2014-09-30 23:56:25 | 宝塚
ヴェルサイユ宮殿とプチ・トリアノン

★ヴェルサイユ宮殿はフランス王ルイ14世(太陽王 1638年~1715年)の宮殿

・ヴェルサイユ宮殿はパリの中心部から西方約18kmほど離れたイヴリーヌ県にある
・1979年、世界遺産(文化遺産)に登録された

○ルイ14世は父ルイ13世の狩猟館を宮殿に改築させた

・ヴェルサイユで宮殿建設の工事が始まったのは1661年で建築家ル・ヴォーによって着手された
・ル・ヴォーがなくなったあと、あとを託されたジュール・アルドュアン=マンサールが大幅な拡張を行った
・宮殿がほぼ完成したのは1682年で、ルイ14世は宮廷と政府機関をパリのルーヴル宮からヴェルサイユに移した
・約700室で当時は5000人近い人間が宮殿内で暮らしていたという
・その後も増改築が続けられ、ルイ15世の時代には商工街区、貴族や官僚の居住区などがつくられた
・工事がすべて完了したのは19世紀に入ってからである

鏡の間

・1678年に着工された全長73mの部屋で、マンサールの設計による
 天井画は画家のル・ブランによる
 宮殿の建物2階の西側、庭園に面してつくられた部屋の1つである
 外国の特使との接見、式典や舞踏会の会場として使われた

・1919年6月28日、第1次世界大戦の講和条約の調印式がこの「鏡の間」で行われた
 それで、この講和条約は通称ヴェルサイユ条約と呼ばれる

 1月18日以来、敗戦国のドイツ代表を除外して、フランス外務省で講和会議が開かれてきた
 6月28日、ドイツ全権ヘルマン・ミュラー外相が講和条約文書に調印した

 「鏡の間」は1871年1月18日、プロイセン国王ヴィルヘルムⅠ世がドイツ第2帝国の皇帝となった即位式が行われた場所でもあった

◎庭園

左右対称の幾何学的な庭園で、設計は造園家アンドレ・ル・ノートルによる

プチ・トリアノン(小トリアノン)

ヴェルサイユで宮殿から少し離れたところにある離宮の1つで、1775年にルイ16世がマリー・アントワネットにプレゼントした城館である
 マリー・アントワネットの私的な空間、お気に入りの場所となり、何日も宮廷に帰らないこともあった

 プチ・トリアノンには自然な庭園をつくった

●マリー・アントワネットは1755年11月2日、オーストリアのハプスブルク家の姫としてウイーンで生まれた

 1770年5月16日、マリー・アントワネット(14歳)はヴェルサイユ宮殿内のチャペルでフランス王太子ルイ・オーギュスト(15歳)と結婚式をあげた

 ルイ16世は裁判にかけられ、死刑と決まり、1793年1月21日、ルイ16世は革命広場(現在のコンコルド広場)で死刑執行された

 マリー・アントワネット(37歳)は8月2日、タンブル塔からコンシエルジュリ(革命裁判所付属の監獄)に移送された

 マリー・アントワネットは10月14日、15日と裁判にかけられ、死刑と決まった(16日午前4時になっていた)
 即日、刑が執行される決まりだったので残された時間はわずかであった

 このとき、マリー・アントワネットは白と黒の粗末な服を2着しか持っていなかったという

 10月16日、マリー・アントワネットは革命広場で処刑された
 37歳11か月だった


アモー(小村落)

 1783年から4年がかりでアモーという擬似農村をつくった
 池のまわりに農家風の家を建てた
 外見は質素な造りであったが、内部は壁、床とも大理石張りだった

 牛、羊、鷄などの動物も飼われていて、アモーでつくられた牛乳、チーズなどをマリー・アントワネットも連れといっしょに食べていた

 マリー・アントワネットはプチ・トリアノンで花をつんだり、池で釣りをしたり、農家の娘のような服を着て、麦藁帽子をかぶって散歩することもあった

◎マリー・アントワネット(24歳)は1780年6月、プチ・トリアノンにパリのオペラ座を小型にしたような劇場をつくった

 パリには行きたくなかったのである
 パリから劇団を招き、親しい友人だけで観劇し、やがて自分たちで劇を演じるようにもなった

 マリー・アントワネット自身も女優として舞台に立った

 作曲もし、歌もうたった

 プチ・トリアノンはマリー・アントワネットにとって夢のような理想の世界だった

 しかしいつまでも夢の世界にはひたっていられなかった(「マリー・アントワネット」安達正勝、中公新書)
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◎マリー・アントワネット

2014-09-28 21:22:47 | 宝塚
マリー・アントワネット

★マリー・アントワネット(1755.11.2~1793.10.16)はフランス革命時、フランス王ルイ16世の王妃

マリー・アントワネットは「パンがないならケーキを食べればいいのに」とは言っていない

・1789年7月14日朝、民衆はまず廃兵院へ押しかけ、約3万丁の小銃と24門の大砲をうばった

 さらに武器弾薬を調達するために、バスチーユ要塞におしかけた
 かつては政治犯を収容する監獄になっていたが、革命当時は政治犯を収容する監獄ではなくなっていて、中にいた囚人は7人で、うち政治犯は1人もいなかった

 10月には、パリの主婦を中心とするひとたちが、ルイ16世にパンを要求するために、ヴェルサイユ宮殿まで行進した

 騒ぎを聞きつけたマリー・アントワネットが、お付きの者に「何で騒々しいのか」とたずね、お付きの者が「パリの市民たちが食べるパンがないと騒いでいるのです」と答えた
 そこで、マリー・アントワネットが「パンがないならケーキ(ブリオッシュ(最上級の菓子パン))を食べればいいのに」とつぶやいたという話である

○この言葉は、ジャン・ジャック・ルソーの「告白」第6巻のなかに出てくる

「…ルソーはパンがないとワインが飲めないたちだったから、パンを探したのだが、あいにくなかった
 そのとき、ルソーは、ふっとさる高貴な妃が、「農民にはパンがありません」との報告を聞いて、それなら「ブリオッシュを食べればいいじゃないの」と答えたことを思い出し、ブリオッシュでワインを飲んだ」

「さる高貴な妃」はマリー・アントワネットのことではない

 ルソーの「告白」は1766年に成っているが、このときマリー・アントワネットは10歳

 マリー・アントワネットがルイ16世と結婚式をあげたのは1770年5月16日で、このときマリー・アントワネットは14歳だったから、「告白」が書かれたときには、まだ王妃にはなっていない

 「さる高貴な妃」が誰であるかは不明であるようだが、少なくともマリー・アントワネットとは別人である(「なんかヘンだぞ!世界史」、後藤寿一、雄鷄社 など)


○ルイ16世は、ただ1人の愛人も持たなかった

 当時は国王は何人も愛人を持つのが当然であった
 フランスでは、神の前において正式に結ばれた女性、すなわち王妃の子どもにしか王位継承権が認められていなかったから、日本の大奥のようなものはなかった

 そのかわり、「公式寵姫」という、公式の愛人を一時に1人だけ持っていいという制度があった
 公式寵姫は、美貌と才覚をそなえた、ときには王妃をもしのぐ勢いをもつような公式の存在である

 公式寵姫は、王妃をスキャンダルなどから守る防波堤の役割をはたしていた
 ところが、ルイ16世は愛人どころか、公式寵姫ももたなかったから、王妃にすべて波がかぶってきて、何かにつけてマリー・アントワネットが槍玉にあげられることになる(「物語フランス革命」安達正勝、中公新書)

○ルイ16世は、妻がフェルセンに心を寄せていたことを知っていたが、やさしい夫であった

 夫を軽んじ続けてきたマリー・アントワネットが夫の包容力ややさしさに気づき、ルイ16世を愛するようになるのは、結婚して20年以上たった、何もかも失って1792年8月10日、家族とともにタンブル塔に幽閉された後のことである(「物語フランス革命」)
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◎宝塚歌劇 10 歴史 8 戦後の宝塚

2014-09-26 22:30:15 | 宝塚
宝塚歌劇 10 歴史 8 戦後の宝塚

アーニー・パイル劇場

・昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争が終結し、宝塚大劇場と東京宝塚劇場は進駐軍によって接収された

○昭和20年12月24日、東京宝塚劇場は進駐軍のための劇場としてアーニー・パイル劇場と改称された

 アーニー・パイルは太平洋戦争に参加したアメリカの新聞記者の名前である
 アーニー・パイルは戦死したが、彼は、兵士の行動、生活、信念などあらゆる角度から書いて、彼の記事はアメリカで好評を博した

・接収が解除されて、東宝の手に戻ったのは昭和30年1月27日である

★劇場が再開

○宝塚大劇場が再開されたのは、昭和21年4月22日である

 生徒たちは進駐軍慰問公演へ出かけたり、署名をもって進駐軍の司令部に陳情もして、昭和21年2月3日に接収解除の通知が届いた
 再開が4月になったのは、兵庫県下に発疹チフスが流行し、進駐軍の命令で3週間延期させられたからである(「宝塚歌劇今昔物語」)

・再開の公演は雪組公演で「カルメン」とレビュー「春のをどり〈愛の夢〉」

・「春のをどり」の公演の映像は、アメリカの戦略爆撃調査団撮影班の手によって、カラーフィルムにおさめられている(昭和21年5月6日、7日に数シーンが撮影された)
 戦略爆撃調査団の任務は、爆撃地の状況の調査記録、なかでも広島・長崎の原爆の効果についての調査であった(「宝塚というユートピア」)

○「スターのみならず、歌手も踊り手も、端役にいたるまでのすべてが、彼等の仕事に対して純真な熱と、楽しみを持ってゐることです。出演者の中に漂ふあの「喜び」は、合衆国にも見られないものであります。彼等が舞台に見出す歓喜そのものが、観客に伝はって来るのです。」(キャロライン・ライター「宝塚の印象」「歌劇」1948年9月号)(「宝塚というユートピア」)


手塚治虫は、少年時代から宝塚歌劇に親しみ、初恋の女性は宝塚の生徒だったという

漫画「リボンの騎士」は宝塚歌劇の影響を受けた作品という


○東京公演は昭和22年4月1日、有楽町の日本劇場で再開した

○昭和23年8月1日、昭和13年10月に廃止された「星組」が復活した

○昭和25年から昭和29年まで、東京公演は帝国劇場で行われる

○昭和29年4月1日、宝塚歌劇40周年記念式典(宝塚大劇場)


○昭和30年3月25日、第1回ハワイ公演に出発
・戦後の海外公演はハワイ公演に始まる

○昭和31年3月22日、第2回ハワイ公演に出発

○昭和31年11月16日、梅田コマ・スタジアムが完成

 コマはこま(独楽)を指し、回転・上下する円形舞台の劇場の創設を小林一三が欧米視察(昭和27年10月16日出発、映画界などの視察を行い、12月25日帰国)中に考えたという(「宝塚歌劇華麗なる100年」)
 円形劇場のアイデアは、サンフランシスコで訪れた円形のレストランであった
 真ん中に調理場があり、その周りをテーブルと椅子がとり囲み、客が調理を見ながら食事ができる
 円形の舞台を中心にして、それを回しながら観客に見てもらうという発想である(「小林一三」)

・同心円になった大、中、小の円型舞台がそれぞれこまのように回転しながら7mの高さにまでせり上り、壁、天井、床板の下にまで仕組まれた32個のスピーカーを立体音がかけめぐるという仕掛け

・12月28日には新宿コマ・スタジアムの竣工式が行われた
 12月29日、東宝劇場地下食堂で「東宝年忘れパーティー」が開かれ、小林一三がスピーチしたが、これが最後のスピーチとなった


●昭和31年12月28日、ニューヨークでの国連総会で日本の国連加盟が承認された


★昭和32年1月25日午後11時45分、小林一三が池田市の自邸「雅俗山荘」において急性心臓性喘息のため逝去(84歳)

 1月25日、翌日の茶会のため午前中は自ら道具を用意していた
 午後9時ころ、用便のあと心臓性喘息の発作が出た
 主治医の池田回生病院の村上院長らがかけつけてカンフル注射を打ってくれた
 11時45分、一三は静かにこの世を去った(「小林一三」)

・1月31日、宝塚大劇場で宝塚音楽学校葬として葬儀がいとなまれた

 祭壇は白の菊、白いカーネーション、白のチューリップ、白ユリなど一三が好きだった白い花いっぱいで飾られた
 葬儀はレビューの1場面のように進められたという
 生徒全員が黒紋付きに緑の袴姿で大合唱してお送りした

・生前、一三が大劇場で観劇するさいの指定席は1階の「ろの23番」で、この座席を思い出の席として、公演初日だけはここを空席にし、小林一三の写真をおく


○昭和32年7月26日、戦後初のカナダ・アメリカ公演に出発


●昭和33年2月8日、東京有楽町の日劇ホールでウエスタンカーニバルが開かれた

 山下敬二郎、平尾昌晃、ミッキーカーチスの「ロカビリー3人男」が登場
 ロカビリーは、ロックンロールとヒルビリー(「田舎者」を意味する。カントリー&ウエスタンと同義語)を結びつけた音楽

 この時期は、ロックンロール、カントリー&ウエスタン、リズム&ブルースが未分化のまま入り、ロカビリーと総称されていた

・ロカビリーが下火になると、外国のヒット曲を日本語に翻訳して歌う「翻訳ポップス」がポピュラー音楽の主流となる
 平尾昌晃の「恋の片道切符(ニール・セダカ)」、中尾ミエの「可愛いベイビー(コニー・フランシス)」など
 やがて、和製オリジナルポップスが主流となっていく(「音楽の本」三枝成彰 監修、三笠書房)

◎戦後の流行歌の出発点は、進駐軍とともに持ち込まれた「ジャズ」にあった

 当時はポピュラーソングも含めて欧米の音楽全般がジャズと呼ばれた

 しかし、日本にジャズがもたらされたのは戦後が最初ではなく、大正に入ったころで社交ダンスのダンス音楽として輸入された

 1930年代になると、ダンス・ホールがお目見えし、バンド演奏も行われるなど第1次ジャズブームが起こった
 戦時体制の進展とともに、1940年前後にはダンス・ホールは閉鎖され、「敵性音楽」としてジャズは聞くことも演奏することも禁止されるようになった

 戦後に起こったジャズブームは2回目で、進駐軍の兵士の娯楽として、NHKがアメリカのポピュラー音楽を放送したことをきっかけとする
 やがて日本人の心もとらえ、日本の流行歌にも大きな影響を及ぼす(「音楽の本」)


●昭和33年5月、NHKのTV受信契約数が100万を突破(翌34年には300万に達した)

●昭和33年12月23日、東京港区芝公園内に東京タワーが完成

○昭和39年5月9日、宝塚歌劇50周年記念式典(宝塚大劇場)

 宝塚団、生徒約450人の「宝塚讃歌」の大合唱で式を閉じた
 正装で舞台に整列しての「宝塚讃歌」の大斉唱はこのときに始まった

●昭和39年10月1日、東海道新幹線が開業
 東京―大阪間を「ひかり」で4時間で結ぶ

●昭和39年10月10日、東京オリンピック(第18回オリンピック東京大会)開幕

 昭和15年(1940年)第12回大会が東京で開催されることが決定されていたが、日中戦争の影響で中止となった(日本政府が開催権を返上した)


○昭和40年9月12日、第2回ヨーロッパ公演に出発

・パリのアルハンブラ劇場で2か月にわたり33回の公演を行った
・洋物のショー(レビュー「世界への招待」)を海外で初めて行った
 これ以後、海外公演は洋物のショーと日本物のショーの2本立てになった(「宝塚100年の夢」)
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◎宝塚歌劇 9 歴史 7 戦時下の宝塚と初の海外公演

2014-09-20 22:20:34 | 宝塚
宝塚歌劇 9 歴史 7 戦時下の宝塚と初の海外公演

戦時下の宝塚と初の海外公演 その3

★昭和14年(1939年)9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻を開始し、第2次世界大戦が始まる

・8月31日、ヒトラーのポーランド攻撃の正式命令が「戦争遂行指令第1号」と題して出された

 攻撃日 1939年9月1日
 攻撃時 午前4時45分

 「戦争遂行指令第1号」にもとづき、国防軍総司令部は、8月31日午後4時、陸海空三軍にたいする攻撃命令を発し、午後4時20分、陸軍総司令官ブラウヒッチ大将は陸軍部隊にたいする命令を発令した
 9月1日午前1時、ドイツ軍約150万人はポーランド国境の攻撃発起点に配置を終えていた
 航空機1929機も、それぞれの基地で発進態勢をととのえていた(「ヒトラーの戦い2」児島襄、文春文庫)

 午前4時45分、バルト海の要港ダンツィヒ沖に寄港していたドイツの巡洋艦シュレスウィヒ・ホルシュタイン号が、ポーランド守備隊のよるヴェステルプラッテ要塞めがけて砲撃を加えた
 同じころ、ドイツ、ポーランド国境地帯では、ドイツ軍の機甲師団がポーランド領内に侵攻した

・ドイツ空軍の爆撃機がポーランドの首都ワルシャワを攻撃、鉄道、道路、橋などを爆破し、ワルシャワはなかば瓦礫の山となった

○9月3日、イギリスさらにフランスがドイツに宣戦布告

 午前11時15分、イギリス首相チェンバレンがBBC放送を通じて「英国はドイツと戦争状態に入った」ことを告げた
 午後5時には、フランスのダラディエ首相もドイツに宣戦布告した
 しかし現実には、イギリスもフランスも積極的な軍事行動はとらず、陸上では7か月間にわたって「奇妙な戦争」と呼ばれる膠着状態が続いた



○昭和14年(1939年)12月25日、学校と劇団を分離、宝塚音楽舞踊学校と改称

・昭和15年(1940年)7月、生徒たちは「大日本国防婦人会 宝塚少女歌劇団分会」に組み入れられた

・昭和15年(1940年)9月27日、音楽奉仕隊結成、10月、唱舞奉仕隊と改称

・昭和15年10月号で「歌劇」誌は強制的に廃刊にされた

・昭和15年(1940年)10月1日、宝塚少女歌劇団から「少女」を抜いて、宝塚歌劇団と改称

昭和15年(1940年)10月、レビューの上演が禁止され、アメリカやイギリスの音楽は排除された


昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍の攻撃隊がハワイのオアフ島真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊と地上の軍事施設をめがけて爆撃を行い、太平洋戦争が始まった


○昭和17年(1942年)9月26日、第1回満州公演に出発(10月31日帰国)

 満州公演では「すみれの花咲く頃」などは歌わなかった

○昭和18年(1943年)5月28日、第2回満州公演に出発(7月8日帰国)

◎昭和19年(1944年)3月1日、「第1次決戦非常措置令」によって3月5日を限りに宝塚大劇場と東京宝塚劇場は閉鎖されることに決まった

 北野劇場、梅田映画劇場、東宝劇場、日劇、有楽座、帝劇の各劇場も閉鎖と決まった

○昭和19年(1944年)3月4日、宝塚大劇場の公演が打ち切りとなった

 演目は「翼の決戦」、主演は春日野八千代で、軍服姿で最後の舞台挨拶に立った

・生徒たちは、「宝塚歌劇団移動隊」として全国各地で少人数の公演を続けた

 国内の軍需工場、軍関係の病院の慰問公演も行われた

 女子挺身隊として勤労動員されたり、勤労報国隊として飛行服縫製にたずさわった

○多くの本には昭和19年(1944年)5月31日、「宝塚大劇場は海軍に接収された」と書かれているが、「宝塚歌劇今昔物語」によると「大劇場は海軍が5月末から使用したが、海軍が直接接収したわけではない

 海軍士官が出てきて「公演をやめろ」というようなことを言ったことは作り話である

「海軍はタカラジェンヌたちの心の故郷をお預かりしているという気持ちで大切に管理しました」との海軍士官の話が書かれている

・東京宝塚劇場は陸軍に接収されて、風船爆弾製造工場となった


○昭和19年(1944年)9月26日、第3回満州公演に出発(12月7日帰国)

昭和20年(1945年)5月5日、宝塚映画劇場で公演開始(12月7日中止)


・昭和20年7月24日、B29、B77などによる空襲で、川西航空機宝塚製作所が爆撃された

 「宝塚のお嬢さん、ご安心なさい、あなたがたの夢の花園、宝塚には爆弾は落としません」というビラが空からまかれたという(「小林一三」)

 宝塚大劇場には爆弾は落ちなかったが
「大劇場はじめ南側の建物の南向き窓ガラスがほとんどなくなっていた」と何らかの被害はあったようである

 宝塚製作所では、宝塚歌劇の生徒も学徒動員した


●昭和20年(1945年)8月14日、日本政府がポツダム宣言を受諾

 8月14日午後11時過ぎから宮城内で、天皇がみずから終戦の詔書を朗読し、レコード盤に録音された

 8月15日正午、天皇による終戦詔書がラジオで放送された(録音盤を再生)(玉音放送)

 太平洋戦争が終結した
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