ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎マリー・アントワネットとルイ16世 5

2014-11-09 18:37:02 | マリー・アントワネット
マリー・アントワネットとルイ16世 5

マリー・アントワネットの宮廷生活

○ヴェルサイユの宮廷での王室の一日は、儀式だらけだった
 朝の起床の儀にはじまり、夜の就寝の儀におわる
 この宮廷儀礼はルイ14世の時代に確立されたものだった

・朝の起床の儀のさいのマリー・アントワネットの着付けにも厳格な作法があった
 マリー・アントワネットは何1つとして、自分でやってはいけなかった

 着付けは女官と化粧係が、侍女頭とふたりの侍女の手を借りながら行ったが、女官と化粧係の仕事は区別されていた
 化粧係はペチコートを渡し、ドレスを差しだす
 女官はマリー・アントワネットが手を洗うための水を注ぎ、肌着を渡す
 王家の貴婦人が居あわせた場合は、女官は肌着を渡すを役目をその貴婦人にゆずることになっていた
 そのときは、直接その貴婦人にゆずるのではなく、女官は肌着を侍女頭に渡し、侍女頭がそれを貴婦人に渡すことになっていた
 より高位の貴婦人があらわれれば、さらに手順が増える
 寒いときでも、その間ずっと、マリー・アントワネットは待っていなければならない
 ばかばかしい習慣で、あるときマリー・アントワネットは「ばかみたい! こんなの無意味だわ!」とも「不愉快だわ! なんてわずらわしいんでしょう!」ともつぶやいたという

私生活を公開することが当たり前になっていた

 夕食をとるのも、公衆の面前で行われるしきたりだった

 身元確認はなく、きちんとした身なりをしている者なら、誰でも宮殿内に入ることをとがめられなかった
 宮殿にはほとんど安全対策がなされていなかった

 男性は剣を帯びていなければいけないという決まりがあった

 王族のかたがたの公開の食事風景の様子をながめることは、人びとの楽しみだった
 マリー・アントワネットは人前ではほとんど料理に手をつけなかったという
エチケットはうるさいのに、食事のサービスはいい加減で、あるとき、アルトワ伯からディナー用にマリー・アントワネットの好物の魚が届けられたが、途中で盗まれ、スコットランドの庭師の朝食になってしまった
 王家の子どもたちが食べるパン粥のなかにガラスの破片が混入されていたこともあった
(「マリー・アントワネット」アントニア・フレイザー 「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク 「王妃マリー・アントワネット」エヴリーヌ・ルヴェ 創元社)

マリー・アントワネットの1日(マリー・アントワネットからマリア・テレジアへ(1770年7月12日)「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」より)

「毎日どのように過ごしているかとお尋ねですので、お知らせいたします。起きるのは10時か9時か9時半で、着替えて朝のお祈りを唱えます。それから朝食をすませ、叔母様がたのところへ参ります。普段ですとそこで陛下にお目にかかります。そこには10時半までいます。11時にお化粧と身支度が始まります。昼になると宮内官を呼ばれ、このときからは貴族であれば誰でも私たちのところまで入ってこられます。私は紅をさしみんなの見ている前で手を洗います。それを合図に殿方はすべて退出し、ご婦人たちだけになって、その方たちの前で私は衣服を身につけます。また、昼にはミサがあります。…ミサのあと、みんなの見ているなかで、殿下とごいっしょに午餐をとります。2人とも食べるのがとても速いので1時半には終わります。そのあと私は殿下のところへ参ります。殿下にご用がおありのときは、自分のアパルトマンに戻り、読書や書きもの、あるいは手仕事をいたします。じつは今、国王陛下のために上着を作っているのですが、なかなかはかどりません。…3時になると、叔母様がたのところに参ります。4時にはヴェルモン神父様が私のところへ来られます。毎日5時から、チェンバロもしくは歌を先生について練習いたします。6時半になると、ほとんど毎日叔母様がたのところへ行きますが、散歩をすることもあります。…7時から9時まではカード遊びです。でも、天気がよければ私は散歩に出掛けます。…9時に晩餐です。国王陛下がご不在のときは、叔母様がたが私のところへいらっしゃって晩餐をとります。しかし陛下がいらっしゃるときは、晩餐のあと私たちが毎日叔母様がたのところへ行き、陛下をお待ちします。陛下は普通10時45分に来られます。陛下のおいでになるまで、私は大きなソファーに横になって眠ります。陛下がヴェルサイユにいらっしゃらないときは、11時に床に就きます。これが私の1日です。日曜日と祝日をどんなふうに過ごすかは、つぎの機会にお知らせします」

・頬紅はほのかに赤いという程度ではなく、真っ赤な頬紅を大きく、まん丸に描くしきたりだった
 頬紅はとても高価で(貧しい人びとは赤ワインで頬を赤く染めた)、ひどい化粧だったけれど、マリー・アントワネットは慣習に従って頬紅をつけた(「マリー・アントワネット」アントニア・フレイザー)

・マリア・テレジアは1771年1月6日のマリー・アントワネットへの書簡の中で
「良い書物を読んで頭に入れるように努力しなさい…ロバや馬に乗るのに忙しくて読書のための時間がなくなってしまっているのではないでしょうか。しかし今は冬です。この季節こそ大いに読書に励んでください。」と繰り返し読書の大切さを訴えている

◎マリア・テレジアは娘を守りたかったが、15歳のマリー・アントワネットは自由気ままを求めていた

 先生だの監督官だのという格式ばっていかめしい指導者ではなく、打ち解けたい相手、気のおけない友だち、遊び相手がほしかった(「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク)