大河麒麟が来る本圀寺の場面から明智の本能寺の変の遠因を考察する。
一般様
大河ドラマ麒麟が来るに本圀寺が登場
して大変驚きました。
長谷川
大河に本圀寺のが登場して当然の事で
す。第一級文献資料『信長公記』太田
牛一著の池田本には明智十兵衛尉とし
て当時の室町幕府に従属する武将とし
て明智光秀の奮戦を描写記録してます。
明智没後百年経過して作成された二次
資料『明智軍記』でも光秀の鉄砲での
奮戦を演劇的に文学を表現しています。
この書物は、いわいる二次資料なので
文献史学の論文を作成する場合は引用
はされません。文献史学は文献資料を
引用して論述されるもの軍記物『明智
軍記』は文学の分野として庶民に楽し
く鑑賞されています。
一般様
私大河を見ていて思ったんですが?本圀寺
建設の奉行堀秀政が若干17歳の時に織田
信長家臣として本圀寺の設計を信長から
任命されたと言う事に、大変驚いており
ます。現代感覚で言えば大手企業の社長
が若干17歳足らずの無名設計技師を採用
して重要建物を建設するでしょうか?堀
の才能も名人としても、17歳の堀秀政を
起用するには信長と言う株式会社織田の
社長として堀秀政の才能を看破する洞察
力または人材登用採用能力が存在した事
になります。現代で言えば社長が17歳の
少年を設計技師に採用する事は先ず考え
られない事だと思います。
長谷川
信長の突飛な人材登用は、藤吉郎秀吉に
代表される様に身分や履歴や家系に一切
関係なくその人物の才能を現実採用する
事にありますが、もう少し堀秀政の才能
を冷静客観的に考えてみる必要がありま
す。堀秀政臣に非常に優れた戦国三陪臣
と、後に呼ばれる切れ者、奥田直政こと
堀監物が存在します。信長は堀秀政1人
に着眼した訳ではありません。秀政を
支える秀政のブーレンや組織編制の非凡
な事に着目して若干17歳の堀秀政に本圀寺
の普請奉行を命じたのだと私は推定します。
藤吉朗秀吉にしても竹中半兵衛など優秀な
頭脳的ブレーン蜂須賀小六などの実践的な
ブレーン、藤吉郎を補佐する中庸を備えた
小一郎秀長らの藤吉郎プロジエクトに信長
は着目しているのです。人1人がだけ才人
1人だけで全ての事業が円滑に進行する事
は現実には有り得ない。信長は技能的人間
集団として堀秀政プロジエクトに着目採用
したと考えられます。
反論者
ふんそんもん堀秀政がなんぼのもんじや!
堀秀政がなんで名人久太郎なのかい?ふん
その証拠や現実を俺に見せてくれいや!
余呉城郭研究会東野山見学参加者様
そんなの東野山城の、あの生々しい
シヤープな土塁の立ち上がり!現地の
遺構のまるで夢でも見ているのかと
錯覚する卓抜した高度な技巧の縄張
りを見れば、遺跡を見る人は愕然と
しますわよ!東野山城/堀秀政すげえ
と感嘆の声もあげられない見学者も
おられましたよ!とにかく凄い遺跡!
参加者
東野山城見学会成功の立役者は長谷川先生だと
確信致します。見事な現地遺構を鮮やかに解説
されました。昔、淀川長治さんと言う個性的な
映画解説者がおられました。淀川さんの解説を
事前の聞いて名画を鑑賞すると淀川先生の解説
は映画のキモを我々に解説されていたのですよ。
映画を見る前の映画の含蓄を80パーセントほど
解説される事により映画鑑賞のスパイスを鑑賞
者に提供されて私は映画全編を鑑賞して、淀川
先生の事前解説の妙と映画鑑賞を楽しめた時代
が昭和の過去に存在いたしました。長谷川先生
の解説あってこその東野山城見学で立役者です。
長谷川
過分のお褒めの言葉を賜り御礼を申上げますが
令和2年10月17日地元余呉の中嶋さん達の東野
山城草刈り作業がありました。余呉城郭研究会
は草刈り終了した現地城郭遺跡を生々しく見学
する事が出来ました。さて信長は藤吉郎だけを
堀秀政だれの個人才能を信奉して信頼して彼等
を評価しているでしょうか?彼らを支える優秀
な人材やプロジエクト全体を看破して藤吉郎を
堀秀政を採用しているのです。2020年10月17
日の東野山城見学プロジエクトは長谷川1人が
采配を振るい活躍した訳では全くありません!
大坂城を作ったのは太閤秀吉ではなく大工さん
と言う小学生のギヤグがありますが、この本質
天正大坂城築城の本質を、ズバ述べたものです。
令和2年10月17日東野山城見学が何故成功した
のか?これは地元の中嶋さん達有志の草刈作業
の賜物なのです。私は余呉人とし次々軽トラで
草狩りされて林道を降ってくられる有志諸氏様
に深々御礼のオジキを心より致しました。本日
見学会の成功は草刈りする方々、城址見学会に
御遠方から参加される様々な方々の総合的創意
つまり信長が着目しているのは本当は個人才覚
よりも全体のプロジエクトを総合プロデユース
する能力する人を評価すると私は思っています。
対談者
しかし東野山城の縄張りが優れて柴田勝家の
近江南進を防いだ実績は存在するのですが?
長谷川
堀秀政は賎ヶ岳合戦本戦をも含めて現実には
2度も猛将柴田勝家の大軍の襲来を東野山城
城郭群の巧みで緻密な配置であの柴田勝家の
南進を退けた実績があります。
一般者
足利義昭の滞在した京都本圀寺合戦は明智光秀
ら足利幕府将兵の奮戦により、三好勢の急襲を
危うくも寸前に防いだ事になり織田信長は此の
事件に鑑み反省して京都に足利義昭の旧二条城
を建設を開始する場面が先週の麒麟が来るでは
大河ドラマとして描かれていましたが?
長谷川
実は本圀寺救援や防衛や旧二条城築城を体験し
た明智光秀は天正10年6月の本能寺の変の時の
明智光秀の丹波から京都本能寺への謀反の進軍
に大きく影響を与えている事でしよう。本圀寺
は明智自身が足利義昭護った合戦だった天正10
時期に明智の上司つまり上様となった織田信長
が洛中の本能寺に守兵少なく援軍少なく宿泊し
ている状況や現実を見れば厳しい下剋上の嵐を
体験してきた、明智自身が本能寺の信長を打倒
する行為自体、戦国武将乱世の習いと言えます。
明智は信長を打った後は室町幕府時代の上司で
幕閣だった細川幽斎「藤孝」の息子の細川忠興
を取りたてたいと書状を持って、本能寺以後の
明智に味方になってくれる事を嘆願しています。
細川家は足利家の分流であり自分の娘婿の細川
忠興が幕府執権になれる血統であると見込んで
の細川氏誘降策戦のひとつだと考えられます。
従って本能寺の変のプレ本能寺の変とも言う
本圀寺の変は明智光秀を本能寺の変へと誘う
歴史的実体験インピレーションや大きなヒント
となった事でしょう。勿論天正10年の本能寺
の戦いで明智光秀は本能寺の織田信長と後継
者織田信忠を二条城で打ち果たしております。
人間の行動や衝動とは過去の体験や経験から
人間の行動の遠因を作り出す事があるのです。
一般者
柴田勝家は?本当に猛将です?何で賤ケ岳合戦
で堀秀政如き25歳の若輩の守る東野山城を二
度攻めして落城できないのか?勝家って大軍
を持っても全軍を優秀に指揮できる技量には
本当は欠けていたのではないのでしょうか?
賤ケ岳の合戦では柳ケ瀬山の柴田勝家本陣
の玄蕃尾城は壮大堅固無比の城郭なんだけ
ど何だか?柴田勝家の傭兵も戦略も賤ヶ岳
の合戦では冴えない消極的に感じますわ、
勿論敗軍の将ですから真実の歴史を語って
いるのが現実の賤ケ岳合戦の城塞群の配置
の現実なのでしようが?
長谷川
柴田勝家の印象をテレビ劇、大河ドラマ、
漫画だけで評価するのはさけるべきです。
『信長公記』弘治2年稲生の戦いで信長軍
700人対して敵の柴田勝家軍は1000人も兵
で敗退しています是が柴田勝家の本質です。
長谷川
足利義昭の本圀寺を明智光秀らが防いだ事
は『信長公記』で記されていますが現実と
して本圀寺の構造が三好軍の攻撃を防いだ
その原因が堀秀政の本圀寺城郭化縄張り
にあるのか?今となっては全く不明です。
天正11年賤ケ岳合戦では柴田勝家は堀秀政
の東野山城を2度も攻めても落城させる事が
出来ず甥の佐久間盛政は賤ケ岳に敗退して
柴田勝家等の織田軍北陸方面軍団が敗北し
た現実は歴史的な事実と考えられます。
長谷川
明智光秀が永禄の変を実体験した文献資料
は確認されておりませんが、永禄の変
(えいろくのへん)とは、永禄8年5月19日
(1565年6月17日)、室町幕府13代将軍足利
義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢によっ
て京都二条御所に襲撃され、殺害された事件
です。足利義輝が麒麟の花押を自らの書簡に
用いた事は良く知られております。この四国
勢力による京洛中の将軍殺害事件は天正10年
の明智光秀が起こした本能寺の変と共通点が
あります。それは明智光秀の家臣斉藤利三と
縁戚関係を持っていたのが天正10年期に四国
で覇権を握っていた長宗我部氏で明智光秀は
四国長宗我部氏との織田軍団として窓口交渉
役の位置にあった人物で永禄の変も四国勢に
関する事変、天正10年本能寺の変も長宗我部、
斉藤、明智の勢力範囲が引き起こした室町末
の流を汲む事変と考える事も可能です。起こ
るべき事変が発した。信長が死に臨んで最期
に発した文言「是非に非ず」とは意味深です。
大田牛一著『信長公記』解釈と分析
NHK名古屋文化センター
平成24年8月30日(木)の講義の記録掲載
講師 滋賀民俗学会理事 長谷川博美
凡例 文書は町田本原文部分引用。
■は段目。文字は長谷川注釈。◆は
分析。①は項中番号。★は注目点。
巻二
太田和泉守これを綴る
■一段 六条合戦の事本圀寺の変
(ほんこくじのへん)とも言う
永禄十二1569年己巳つちのとみ
正月四日三好三人衆三好長逸
ながやす・三好政康・岩成友通幷に
前美濃国守護職斎藤右兵衛大輔龍興
、長井隼人前美濃関城主。通称は
隼人佐等、南方の諸牢人を相催し、
先懸の大将、薬師寺九郎左衛門貞春?、
公方様足利義昭六条本圀寺に御座侯
を取詰め包囲し、門前を焼き払ひ、
既に寺中へ乗り入るべきの行てだて
なり。爾処、しかりしところ六条に
楯籠る御人数、細川典厩藤賢、尾張の
織田左近入道謙亭ケンテイ、山城の
野村越中。「永禄六年諸役人付」の
将軍の「足軽衆」、美濃の赤座七郎
右衛門、美濃の赤座助六、尾張の津田
左馬丞、美濃の坂井与右衛門直勝、
美濃の明替十兵衛光秀、美濃の森弥五八、
尾張の内藤備中、山県源内、宇野弥七。
若狭衆、山県源内、宇野弥七両人は
隠れなき勇士なり。御敵薬師寺九郎
左衛門、幢本はたもとへ切つてかゝり、
切り崩し、散々に相戦ひ、余多あまた
に手を負はせ、鑓下にて山県源内、
宇野弥七両人討死侯なり。襲ひ懸れば
追ひ立て、火花をちらし相戦ひ、矢庭
に三十騎計り射倒す。手負・死人算を
乱すに異ならず。乗り入るべき事、思ひ
懸けも寄らざるところに思いがけず、
織田方の三好左京大夫義継、細川兵部
大輔藤孝、池田筑後守勝正、各後巻後援
部隊にこれあるの由、承る。薬師寺九郎
左衛門小口虎口や門を甘ゲくつろげ侯。
包囲を緩めた是れは後巻かつら川表の事、
細川兵部大輔、三好左京大夫、池田筑後、
池田せいひん摂津の伊丹、荒木、茨木へ
懸け向かひ、京都市西部を流れる川。
保津川の下流部。鴨川を合わせ、淀川に
注ぐかつら川辺にて御敵に取合ひ遭遇し、
則ち一戦に及び、推しつおされつ、黒煙を
立てて相戦ひ鑓下にて討取る頸くびの注文
記録報告、三好方の打死高安権頭
ごんのかみ、吉成勘介、同弟岩成弥介、
林源太郎、市田鹿目介、是れ等を始め
として、歴々の討取り、右の趣、おもむき
信長へ御注進。御後巻信長、御入洛の事
正月六日濃州岐阜に至つて飛脚参着。
其の節、以外もってほかの大雪なり。
時日を移さず御入洛あるべきの旨むね、
相触れ、一騎懸に大雪の中を凌しのぎ打ち
立ち、早御馬にめし侯らひつるが、馬借
馬を使う運送業の者も、御物ぎょぶつを馬
に負候とて、からかいを仕り候。御馬より
下りさせられ、何れも荷物一々引見御覧じ
て荷物を見て調べて、同じおもさなり、
急ぎ候へと仰せ付けられ侯。是れは奉行
の者に依怙贔屓えこひいきもあるかと、
おぼしめしての御事なり。以ての外の
大雪にて、下々夫以下の者寒死こごえしに
も数人これある事なり。三日路の所二日に
京都へ、信長 馬上十騎ならでは御伴なく
、京都六条へ懸け入り給ふ。本圀寺堅固の
様子御覧じ、御満足斜ならず。池田せいひ
ん池田清貧斎(せいとんさいと思われる)今度
の手柄の様体ようてい聞こしめし及ばれ、
御褒美是非に及ばず勿論褒美を下賜は言う
までもない。天下の面目、此の節ミギリなり
天下に面目を示せた。さて、此の以後、御構
へこれ無く侯ては如何いかがの由に侯て将軍
を護る、城郭が無いとは如何なことか、尾濃
江勢三、五畿内、若狭、丹後、丹波、播磨
十四ケ国之衆在洛候て、二条の古き御構へ堀
をひろげさせられ、
★発見された旧二条城の堀跡。内堀の西端と
みられる(2012年6月28日午前11時10分、
京都市上京区下立売通室町西入ル)
旧二条城は、信長が1569(永禄12)年に
室町幕府の15代将軍・足利義昭のために造り
、不仲になった義昭を追放した後、76
(天正4)年に破壊した。1970年代の地下
鉄烏丸線工事に伴う発掘で、外堀と内堀の二重
構造であることが判明し、それぞれ南北の境界
も分かっている。
▼株式会社ロハス長浜の前川常務
▼現地下見に行かれる
余呉城郭研究会 田畑名誉理事
▼余呉城郭研究会のみなさん
▼奮闘される生月余呉城郭会長
『信長公記』注目点 | ①本圀寺堅固と表現している足利義昭の籠城していた本圀寺が無事であった事を表現しているが城郭として堅固であったの深意も含まれる、本圀寺の普請は余呉町東野山城の堀秀政である事も重要。②戦国期の本圀寺の城郭としての縄張りは不明ながら滋賀県長浜市余呉町に存在する東野山城の城郭遺跡としての平面構造(縄張)は驚くほど歴史の真実現実を今日に伝えてかつ非常に高度である。是を顕彰する人も、見学する人も、草刈りする人も、全てが揃って初めて見学会が可能になる。つまり1人の力量ではなく総合プロジエクト作業。また安易に車で登山出来ると断言しづらい。何故なら林道は時節により土砂崩れや舗装されておず極端な轍「わだち」が発生して普通の乗用車の腹をこすり破損する場合もあり安易に行ける城と決して軽率にブログで書く事には躊躇する事もある。やはり安全が人間社会では第一です。 |