城郭 長谷川博美 基本記録

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備前宇喜多氏 亀山城縄張考察

2023-09-14 16:48:06 | 山陽山陰の城 ビイスタ工法

◆対談者

昔長谷川先生に関ケ原宇喜多秀家

の陣の案内を賜った者です。本当

に宇喜多陣の遺構には驚きました。

 

◆長谷川

そうでしたか御参加を賜りまし

た事を改めて感謝を致します。

◆ウイキペデイア岡山城より

元亀元年(1570年)、宇喜多直家

金光宗高を謀殺しこの地を支配

した。直家は備前守護代浦上氏

一族浦上宗景の被官であったが、

備前西部を中心に勢力を急速に伸張

していた。天正元年(1573年)、

直家はそれまでの居城である亀山城

沼城)から石山城に入城し、城の改築

と城下町の形成を行った。

 

◆対談者

さて肥前岡山城には様々な種類

の縄張に関するビイスタがある。

 

◆長谷川

宇喜多家の縄張には城の中心に

測量起点おく様式中央ビイスタ

がありましたね本丸の中心から

放射状に縄張する技巧ですよね。

◆対談者

宇喜多秀家の父、宇喜多直家の備前

亀山城に中央ビイスタ様式あります?

 

 

◆長谷川

備前亀山城にも中央ビイスタの様式

が読み取れると私は考えております

備前亀山城現地案内板にビスタ加筆

◆長谷川

もっとも天正年間に入り備前直家

と羽柴秀吉は提携協調体制を築い

宇喜多家は秀吉軍団の一翼を担う

集団となり秀吉の天正大坂城本丸

自体中央ビイスタ型が読み取れす

ね。▼秀吉天正大坂城本丸図

◆対談者

似てますね!備前亀岡城と秀吉天正

大坂城まるで姉妹とか従弟の様です

 

 

◆見学者

去る令和5年8月19日の虎御前山城の

見学会で木下藤吉郎の城郭を見学し

て秀吉の築城のフィーリングが少し

解ったような気がします。9月16日

東野山菖蒲谷城は更にグレードUP

した城址と言う事でワクワク楽しみ!

 

衝撃100% 音楽のカノン進行 城郭のビイスタ工法 - 城郭 長谷川博美 基本記録

◆対談者

1582年本能寺の変の時に羽柴秀吉は

この備前亀山城の宇喜多家で休憩を

した城と伝わり秀吉とは縁が深い。

 

◆質問者

秀吉の天正大坂城には重複型の

ビイスタがあると長谷川先生は

解説されていますが宇喜多直家

の備前亀山城にに読み取れます?

 

 

 

◆長谷川

この備前亀山城にも各所にビイスタが

読み取れますが細かく縄張を専門的に

チェツクして行くと亀山城にも重複型

のビイスタは読み取れます。

 

◆質問者

豊臣大名宇喜多中納言秀家の

備前岡山城に重複ビイスタは

存在致しますか?

 

◆長谷川

見事な重複ビイスタが存在

致します。

 

◆長谷川

天正 秀吉大坂城側面ビイスタ

◆長谷川

天正 宇喜多直家亀山城側面ビイスタ

 

ウイキペデイア亀山城より引用

現在の岡山市東区沼の浮田小学校の東隣に位置し

天文年間浦上宗景配下の中山勝政が築城した。

永禄2年(1559年)、宗景の命により宇喜多直家

義父の信正を謀殺して城主となり、岡山城に移るまで

の約15年間は当城を拠点とし、領土を増やした[2]

1582年、本能寺の変後の中国大返しで、羽柴秀吉

備中高松城からこの城まで移動、しばしの休息後、

姫路城を目指したと伝わる[3]慶長6年(1602年)、

岡山に移封された小早川秀秋によって廃されている。

 

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