渤海国クラスキノ土城のビイスタ工法考察
◆せら いちぞう様コメント
今回の投稿を読むにつけ
長谷川先生の歴史城郭知識と
城郭幾何学設計理論「城郭ビ
イスタ論」が如何に有益なる
理論なのか如実に理解できま
す。
◆長谷川
せら いちぞう様の声援コメ
に感謝致します。今日渤海国
の国名は耳にする事は稀です
が滋賀県大津市石山寺所蔵の
『仏頂尊勝陀羅尼記』に渤海使
李居正が唐から日本にもたらし
た仏具が奥書に書かれています。
▼過去写真
◆質問者
米原学び合いステーション
長谷川先生が連続講座講師
をされていると言う話題が
巷間で鳴り響いています!
◆長谷川
私如きが講師に推薦される
可能性はゼロであると思っ
ていました有り得ない事!
◆学術家
米原在住研究家長谷川氏を
見落としてはならないと言う
向学の米原町民様住の熱意は
無視できません何よりも学者
として広範な知識「学識」を
持ち合わせているその「知」
や「学」を冷静に評価する
町民の声が続々と上がって
おります埋もれるべき人で
はなく「学」をなす仁です。
資質ある人材を掘り起こす
事こそ町の学術振興ですよ
◆奈良県人
纏向宮殿遺跡をこの様式で
設計されたと解説される学
者はおそらく日本国におい
長谷川先生だけと思います。
▼纏向宮殿遺跡
平城京の宮殿部の構成解説も
南志賀廃寺遺跡解説も
◆長谷川
2022/11/22
渤海国研究家の私と田畑
喜久弘氏と大津市穴太で
出土した渤海国製とされ
る金銅製花文腰帯具を見
に行った残念な事に展示
期限は過ぎていたのだが
特別に肉眼で観察を許さ
れた常識として現物写真
は文化財保護の観点から
私は現物写真撮影しては
いない 忍冬にんどう 唐草
文は精緻な技巧で鍍金の跡
も微かに確認され思わず息
を飲む遺物であった。今回
の写真登場とは、レプリカ
模造品の写真を今回の投稿
で使用さて高穴穂宮(たか
志賀高穴穂宮と記される。
が宮の実態は解明されては
いない。大津市 埋蔵文化財
調査センターには宮家墨書
文字のある須恵器が展示さ
れていて非常に興味深かい。
◆長谷川 『渤海文化』
私有の書籍に「渤海」のオンドル
遺跡「地下暖房も紹介されてます。
◆長谷川
勿論大津穴太遺跡からも
オンドルと言う大陸式の
床暖房遺跡が発掘されて
います。大津は万葉集で
楽浪と書き、ささざなみ
と読ませている背景があ
り近江志賀郡穴太が大変
大陸文化を強く受けた地
である事が納得できます。
▼穴太遺跡のオンドル
▼私は既に昭和54年頃渤海国
の書物を既読しており興味深
く金銅製花文腰帯具を見学した。
◆質問者
長谷川先生の城郭ビイスタ論
は非常に汎用性の高い優れた
理論と言われています。渤海
国家ですがこの国の城郭には
ビイスタの法則は適応出来ます
か?▼『渤海文化』より引用
◆長谷川
龍泉府五大宮▲
八連城中区城址
にビイスタ工法を
使っております。
◆長谷川
ウイッキペデイアを引用すると
クラスキノ土城(クラスキノどじ
塩州城に比定されています。
◆質問者
この渤海国の土城にもビイスタ
工法は存在するのでしょうか?
◆長谷川
中央ビイスタを私は読み取ます。
▼中央ビイスタ
▼長谷川作成 各種ビイスタ工法 一覧
◆長谷川
中央ビイスタ工法が読取れ
ます。三カ所の甕城も読み
れまた遠隔クサビ型の要素
のビイスタも読み取れます。
◆みんな
長谷川先生の城郭幾何学論
ビイスタ論はスゴイ理論!
◆秋田城とクラスキノ城の
形状比較
秋田城は
天平宝字(てんぴょうほうじ)
4年(760年)ごろに秋田城と
呼ばれるように大陸の渤海国
(ぼっかいこく)(中国東北部)
対北方交易・交流の拠点として
重要な役割を果たしていたと考
えられる。
◆長谷川
渤海国のクラスキノ土城
日本国の秋田城ともにビイスタ
工法により設計されている事は
当時の国際情勢を研究する上で
非常に重要と思われる。
▼秋田城のビイスタ「長谷川解説」
◆長谷川
日本国と渤海国は
都城の制度
城塞の制度
においても姉妹的
な国際交流を持っ
ていた事が解ります。
▼日本の平城京 710年 建設
以下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラスキノ土城(クラスキノどじょう、ロシア語:
Краскинское городище)はロシア連邦沿海地方
クラスキノにある渤海の遺跡[1]。塩州城に比定さ
れる[2]。
ポシェト湾奥の低湿地に造営された港湾遺跡であり、
南北380m、東西300mで略四辺形の北を向いた蹄鉄状
の城壁に囲まれる。三方に城門があったと考えられて
おり、グーグルアースでも形状を確認することが出来る。
7~10世紀、ここから日本や新羅との間の使節(渤海使・
遣渤海使)が行き来した海陸交通の中心城郭とみられている。
渤海の中心都市上京龍泉府からクラスキノ土城まで日本との
交易ルートの『日本道』が整備されていた。
現在、北西側から発掘が進んでおり、仏教寺院やオンドルの
跡などが発見されている。
日本の青山学院大学の田村晃一(同大名誉教授)らが城門・
城壁を発掘し、城門が甕城の形態であることや、城壁に馬面(
マーミェン)を持つことを報告した[3]。
エ・ヴェ・シャフクノフ(極東連邦大学、英語: E. V. Shavkunov、
ロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)は、クラスキノ土城
から出土した渤海瓦には顕著な高句麗瓦の特徴や影響は見られない
と指摘している[4]。
参考文献[編集]