WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ビル・エヴァンスのクインテッセンス

2006年07月17日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 8●

BILL EVANS       QUINTESSENCE

Scan10004_1  今日の二枚目である。ビル・エヴァンスである。ビル・エヴァンスはすごく好きだった。もちろん、今でも好きである。だからLP・CDもけっこうもっている。でもこれはもっていなかった。不覚だった。責任を転嫁するわけではないが、この作品は評論家のみなさんの評価がすごく低いのである。中には、駄作呼ばわりする方もいらっしゃる。というわけで、購入の優先順位が低かったのである。言い訳をするわけではないが、限られた予算の中で、LPやCDを購入するためには優先順位というものが必要なのだ。

 昨年のお盆のことだ。たまたま立ち寄った宮城佐沼の俗物ジャズ喫茶「エルヴィン」でたまたまかけてあったのだ。けっこういい作品だなと思い、ジャケットを確認すると、何とビル・エヴァンスだ。知らなかった。いい作品ではないか。バックはエヴァンスの作品にしては、ダイナミック。エヴァンスらしからぬ作品ではあるが、またそれはそれでジャズとして面白いではないか。評論家の皆さんは、エヴァンスの到達点を基準に、そこまでの発展の過程を評価する。いわば、単線的段階発展論だ。けれども、人間は目的合理的に生きているわけではない。紆余曲折があるのだ。結果から遡及する見方では、この作品ははずれるのかも知れないが、ジャズとしては十分いい作品だ。実際、④チャイルド・イズ・ボーンなどは感動ものだ。

 夜、仕事をしながら、わたしは時々このアルバムを再生装置のトレイにのせる。ジャケットもなかなかいいではないか。


板橋文夫の一月三舟

2006年07月17日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 7●

板橋文夫   一月三舟

Scan10002_3  この三連休はずっと仕事だったが、比較的時間の余裕があったので、いつもよりはかなり音楽に接することができた。いい3日間だった。昨日はアルバート・アイラーを真剣に聞いたので、ちょっと、叙情的なものを聴きたいと思い、いくつか聴いたうちの一つである。

 板橋文夫といえば、5~6年前に隣町のホールであったコンサートを聴いたのが最初だ。この作品もそのとき購入したものだ。そのときは、金子友紀という民謡歌手と一緒だった。はっきりいってホールはガラガラだったが、板橋の演奏は十分に感動的だった。民謡歌手の歌う「渡良瀬」がこれほどジャズを聞きに来た聴衆の胸を揺さぶるとは想像もしなかった。わたしは今でも思っている、もう一度聴きたいと。板橋のプレイは本当に熱いものだった。マッコイ・タイナーをきちんと消化している日本人は板橋だけだと、どこかの文章で読んだことがあるが、それもうなづける演奏だった。。そして何より、ピアニカ(鍵盤ハーモニカ)だ。板橋はコンサートの中でしばしばピアニカを使ったが、ピアニカという楽器がこれほどエキサイティングで、繊細で、感動的な音をだす楽器だとは、考えもつかなかった。はっきりいってすごい。本当にすごかった。

 『一月三舟』は、全篇板橋のピアノソロによる作品である。ときに繊細に、そしてときに暴力的に、板橋は日本的な旋律を奏でる。「日本人」というアイデンティティーを確かめるかのようにだ。もしかしたら、これをJAZZとは呼べないのかもしれない。けれどもそこにはまぎれもなく日本人の音楽家のひとつの世界がある。

 この作品にも収録されている「グッバイ」が好きだ。名曲である。この曲は、今は亡き中上健次原作の映画『十九歳の地図』(監督・柳町光男)の中で繰り返し使われた曲だ。のちの中上作品から見れば、この作品は世界に対する陳腐で青臭い違和感を描いたものでしかないが、対象を卑しめなければ確認できない自我、そうしなければ「消えてしまいそうな」薄い存在感。差別の心の構造。そして対象のない怒り。それらをみごとに描き出した作品でもある。この映画の中で名曲「グッバイ」を用いた柳町監督は、鋭いというほかないであろう。「グッパイ」の流れるシーンは、特異な一つの世界を形作っているのだから。

 『一月三舟』は日本のジャズ・ジャーナリズムでは、大きく取り上げられることはなかったように思うが、まぎれもなく日本JAZZの、あるいは日本音楽の名作である。

 ところで、この作品の帯には次のようにある。

 「初めてで、終わり。そして、刹那で、永遠。板橋文夫が静かに奏でるうつくしき18曲」

 ダサい。気持ちはわかるが、まったくダサい。自己陶酔型の素人のことばだ。このようないい作品が、このような陳腐なコピーで売り出されることの悲しさ。はっきりいおう。板橋文夫がかわいそうである。