ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

蛇と貨幣/小林稔詩集「砂の襞」より

2016年09月07日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

小林稔第七詩集『砂の襞』2008年 思潮社刊より


蛇と貨幣
小林稔



闇から浮上する他者のまなざしは
解析され 微分されようと触手を展げる
死者と生者がなだれこむロータリー
砂粒のように渦巻き やがて一直線に川辺に急ぐ
その川の泥水でなら覚醒するだろうと信じている彼ら
昨日 老人が一頭の牛を操り 荷車を曳き
今日 牛の曳く荷車が老人の死体を運んでいく
円環する「時」に八百万の神々を統べる太陽神
自らの尾を呑みこむ蛇 われらの命の再生がある
万年雪の岩盤から溶解する それぞれの一滴が整合し
傾斜を落ち 湾に辿り出て海洋に注ぐだろう

貧者は神々にとり巻かれ 片足を引きずり
血の色をした花びらの舞う四つ辻を通る
スコールのやんだ舗道
焼けついた土の肌で
富者に 貨幣の循環を授かるべく
鋼鉄のような腕を差し出す
手のひらの金貨を眉間につける
貧者のまなざしは 天の
青い紙のような空に向けられた

草木も育たぬ対岸の地
行き場をなくした霊たちが浮遊している
朝霧に隠された地平と 空の境から太陽が昇りつめる
群集が泥水に鼻までつかり 礼拝する此岸
焔に包まれた遺体の薪からはみ出した足が 引きつった
親族の嗚咽が煙とともに舞いあがり
川のおもてを滑っていく死者の霊がある
そびえる石の寺院の壁に にじみ出る読経
僧侶の声の数珠が 輪廻から弾かれることを願う
骨は水底に掃き出され 魚たちは灰を食む

(あの石段に棄てられた男の子の
なくなった両手両足を なんとかしてくれないか
切断されるまえの指を返してくれないか)

窓のない部屋の 両開きの扉を開けると
猿が屋根伝いに跳びこんで侵入し 屑篭を狙う
昨夜から大麻の幻覚に
意識の臨界を見えなくした友は
自己をそがれたような痛みに耐え
私を見ては目じりに涙を溜める
どこに還るというのか 旅の道で
抜け穴の見つからぬ悪夢に酔いしれるだけだ
天井の羽目板に吸いついた大ヤモリが
新来者の友と私を威嚇する
耳朶で海鳴りのように繰り返す読経
死体はこの街で焼かれ 川を下り神々に抱かれるという
ならば 生者こそが悲惨なる存在
まなざしの他者が住まう魂の住処であろうか
友と私は暗闇を歩いて渡し場に着いた

 舟には人だかりがあり
 艪の灯火で 眼球が舟底に散りばめられた
 水をゆっくり分けて対岸へ向かった


copyright2018以心社


演奏会/小林稔詩集「白蛇」より

2016年09月06日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

演奏会
小林稔


 会場は静まり返った。ときおり 咳をする声があちらこち

らで響いた。彼は鍵盤に落とした視線を上げ 背筋を伸ばし

た。真っ暗闇の中で、観客は息を呑んだ。

 左手の五指が 小指から鍵盤の上を這っていく。六連符が

波のように 満ちては曳いていった。ショパンのノクターン

害七番嬰ハ短調、作品二十七の一。左手の序奏が少しずつ波

のように高まり、波に浮上して 右手の人差し指、中指が 

もの憂い旋律を打ち始めた。

 主題が見え隠れするが、泡のように低音部の闇の中に消え

ていく。左手が低い三連符の音を 小さく刻み 繰り返す。

同時に 右手の重音が ゆっくりと大きな波と共に 悲壮な

高まりを見せて 激しさを増していく。

 右手の波のリズムが 変化をもたらしながらも、孤独な想

いを抱えこんで 嵐のように荒れ狂った。

 空が引き裂かれる。暗雲が裁ち切られ 青空が覗く、次の

劇的展開を予測していたとき、鍵盤を走り回る十指が あま

りにも突然停止した。

 沈黙の瞬間が訪れた。永遠にも似た一瞬であった。すぐに

弾き出せばいいのだ。かなしいかな 彼の腕から力が消えて

いた。許されるなら 鍵盤の上に 半身をうなだれてしまい

たかった。彼の体重で ハンマーで叩いたような不協和音を

会場いっぱいに響かせただろう。

 楽譜は頭上から消え失せ、指は彼に従うかのように 配列

を忘れていた。

 彼は このまま何時間でも、ピアノの前に座っていたかっ

た。だが、彼を裏切った指は 鍵盤を左から右へと走り抜け

た。青空が絶望の淵に かいま見えた。待望の勝利の歌が鳴

り響いたと想うつかの間、半音階の階段を 左手が最強音で

転げ落ちていく。再び 夜の静かな波が 鏡に映されたよう

に、寄せては曳いていく。三度の和音が 失意を優しく包み

込んで、終盤に水を注いでいった。

 演奏会は終わった。会場は深い闇の中で息をつめた。彼の

踵を波が寄せ来るようであった。


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夏を惜しむ/小林稔詩集「白蛇」より

2016年09月05日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行

夏を惜しむ
小林稔

    かんかん照りの道を 学校から帰ると、一つの死が 私を

        待ち構えていた。
    
           十二歳の私は 悲しみを覚えることなく、一年数ヶ月の生

   命の結末に 口ごもる家族と離れ、ひんやりとした廊下で 

   仰向けに寝転んで、流れる雲の行方を 追っていた。
 
    別れるときの死顔が 作りもののように思えた。商店の裏

   道を抜けて 伯父と小さな棺を担いで お寺まで急いだ。
   
    えんえんと続くお経を縫うように、鈍い木魚の音が 規則

   的に響いていた。うだるような暑さの中で私は気を遠くして

   いた。

 
    突然に 一本の電話が鳴る。姉の二度目の男の子の死を知

   らされた。あれから十五年目の夏、弟のもとに去った 十八

   歳の死を想った。立つことかなわず、言葉一つ発せずに終わ

   った未熟児。うなり声は家中とどろき、睡眠を奪ったが、死

   の前日は さらに激しかった。朝起き 体に触れると動かな

   かった、と聞く。
    
    東京にいた私は 父のもとに帰った。姉と義兄が 私を待

   ち受けていた。

   
    棺の蓋を取りのぞくと 蒼白の顔面があった。目はきつく

   閉ざされ 引きつっていた。唇の割れ目から前歯が 覗いて

   いた。そこから朱が一筋、顎の辺りまで引かれ 干からびて

   いた。花びらを亡骸(なきがら)に散らせ 釘を刺した。
 
    コンクリート壁の部屋で 猫背の男が炉の鉄の扉を開け、

   骨を 無造作に取り出した。
 
    火葬された骨は 舞うようであったが、差し出す箸(はし)

   にすがったのは 軽さのためか。
 
    私は骨壷を 肩からかけた白い布にくるみ、炎天下の道を

   のろのろとお寺へと歩いていった。

 
    毎年、夏になると どこからか笛と太鼓の音が聞こえてく

   る。祭りの前日には 朝早く御神体を抱えた男たちが かけ

   声とともに 走り回る。
 
    今年もその日が来た。人がどっとおし寄せ、男たちは酔っ

   たように 神輿(みこし)を担いでいた。

  

                 copyright1998 Ishinnsha