ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

タペストリー1、2小林稔個人誌「ヒーメロス」より

2016年09月07日 | お知らせ

小林稔

タペストリー 1

 

 

通り過ぎていった時のきれぎれが死の淵へと向かう闇の途上、射しこんだ薄明

に照らし出され、もう一つの時の途が霞んだ空に伸びる、ゆるやかな水の流れ

のように。――そのとき、残され佇んだ私に、見えない縄梯子が降りてきて、

魂を呼び寄せる声がどこからか聴こえはじめ、私の耳底に宿った。

 

夏の庭を裸足で足跡をつけていった少年を追い駆けなければならない。

廃屋の裏手に忍び込み、不在の友人たちと遊んだ秘密の場所で見失われる。

 

ひそひそ話をする声がいくつも交叉する。軒下に吊った鳥籠に忘れられたメジ

ロが枝から枝へ跳ねる。時の縦糸を縫い合わせる脚本は回収されてしまう。

 

 防火用水で泳いでいたサンショウウオが樋(とい)から注ぐ雨水で流された。

植えこみの日陰で何十年も経った今でも息をしているのかもしれない。

 

骨抜きにされた午後に、行き場をなくし湿度を含んだ風が、終止符を打たない

ピアノの音を運んでいる。通りを走る車のエンジン音や歩く人の足音に消され

るが、再び訪れた静寂の在りかを探るように微かに絃を打つハンマー音は届く。

 

生まれ出たところから曳いてきた繭の糸を紡いで、どんなタペストリーを織れ

るだろうか。最後のひと吹きで夕陽が沈む時刻には還らなければならない、何

処へと問われるなら、追憶の消滅する場所と答えようか。

 

言葉を一枚一枚結んでいく。死者がこの世への憧憬に導かれ懐かしむように、

かつての私がぬぎ捨てた記憶の衣服を拾い畳んでいる。

 

 

タペストリー 2

 

 

神経の枝を伸ばした樹木が横倒れて車窓の額縁から飛び散り、野原は遠方に聳

える尖塔を中心に手前に大きく弧を描いて樹木の跡を追い駆けている。傾きは

じめた太陽が尖塔の縁に架かると一瞬ダイアモンドの光を放射した。

 

人の数だけ世界の終末はある。生まれる命の数だけ世界のはじまりはある。

 

国境をいくつも越え、貨幣をいくつも変え、終着駅のにぎわいを断ち切るよう

に街路に踏み出すと、聞きなれない言葉と群集の足音が耳に飛び込んでくる。

人ごみの向こうから、しきりに手をふっている少年がいた。そこだけ明るい光

が注がれ、いくつもの方向に視線を放つ人々の鉄条網にさえぎられ雑踏に消え

た。画集を広げるが描かれた天使像には行きつかない。私に手をふったのかさ

え定かではなく、たとえそうであろうと、ほんとうの邂逅に出逢うには、自己

 の闇に沈潜し、〈私〉という柵の向こうに降り立たなければならないとは。

 すでに訪れ終え背を向けたいくつもの街々が、一枚のキャンバスに重ね合わさ

れ土地の名が交じり合う。ネーデルランドの夕暮れ、石飾りのファサードの足

許を流れる運河に、地中海の朝焼けに染まる雲の階層のした、水の上、遠くに

近くに自らの影像を水に落とす建物群が重なり、運河を蛇行した黒い水は想い

をラグーナに投げ海に注いでいく。若いころの旅の時間が、老体にひたすら向

かう旅人の身体の襞から剥がされ、やがて存在もろとも煙と消えるだろう。

 岩が砕け砂になり打ちあげられ浜辺に白い輪郭線を引く。洞窟に逃げ込んだ砂

は海底に沈み、太陽の光を内側の岩肌に反射させ、いちめんに青の粒子を撒き

散らす。私があなたと生涯に一度、心を重ねることがあるとすればここを置い

てほかになく、泳ぐドルフィンのような身体を青く染めていく。

 


蛇と貨幣/小林稔詩集「砂の襞」より

2016年09月07日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

小林稔第七詩集『砂の襞』2008年 思潮社刊より


蛇と貨幣
小林稔



闇から浮上する他者のまなざしは
解析され 微分されようと触手を展げる
死者と生者がなだれこむロータリー
砂粒のように渦巻き やがて一直線に川辺に急ぐ
その川の泥水でなら覚醒するだろうと信じている彼ら
昨日 老人が一頭の牛を操り 荷車を曳き
今日 牛の曳く荷車が老人の死体を運んでいく
円環する「時」に八百万の神々を統べる太陽神
自らの尾を呑みこむ蛇 われらの命の再生がある
万年雪の岩盤から溶解する それぞれの一滴が整合し
傾斜を落ち 湾に辿り出て海洋に注ぐだろう

貧者は神々にとり巻かれ 片足を引きずり
血の色をした花びらの舞う四つ辻を通る
スコールのやんだ舗道
焼けついた土の肌で
富者に 貨幣の循環を授かるべく
鋼鉄のような腕を差し出す
手のひらの金貨を眉間につける
貧者のまなざしは 天の
青い紙のような空に向けられた

草木も育たぬ対岸の地
行き場をなくした霊たちが浮遊している
朝霧に隠された地平と 空の境から太陽が昇りつめる
群集が泥水に鼻までつかり 礼拝する此岸
焔に包まれた遺体の薪からはみ出した足が 引きつった
親族の嗚咽が煙とともに舞いあがり
川のおもてを滑っていく死者の霊がある
そびえる石の寺院の壁に にじみ出る読経
僧侶の声の数珠が 輪廻から弾かれることを願う
骨は水底に掃き出され 魚たちは灰を食む

(あの石段に棄てられた男の子の
なくなった両手両足を なんとかしてくれないか
切断されるまえの指を返してくれないか)

窓のない部屋の 両開きの扉を開けると
猿が屋根伝いに跳びこんで侵入し 屑篭を狙う
昨夜から大麻の幻覚に
意識の臨界を見えなくした友は
自己をそがれたような痛みに耐え
私を見ては目じりに涙を溜める
どこに還るというのか 旅の道で
抜け穴の見つからぬ悪夢に酔いしれるだけだ
天井の羽目板に吸いついた大ヤモリが
新来者の友と私を威嚇する
耳朶で海鳴りのように繰り返す読経
死体はこの街で焼かれ 川を下り神々に抱かれるという
ならば 生者こそが悲惨なる存在
まなざしの他者が住まう魂の住処であろうか
友と私は暗闇を歩いて渡し場に着いた

 舟には人だかりがあり
 艪の灯火で 眼球が舟底に散りばめられた
 水をゆっくり分けて対岸へ向かった


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